G-0C41NE8DJB 『政治学』アリストテレス — 一人では善く生きられない|亀吉の呟き
亀吉の書評

『政治学』アリストテレス — 一人では善く生きられない

『政治学』アリストテレス — 一人では善く生きられない
yoshiomi
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はじめに

「政治」という言葉は、身構えられる言葉である。派閥の駆け引き、選挙の当落、椅子をめぐる腹の探り合い——そんな場面と結びついて使われてきたからだ。けれど、はるか昔のギリシャで「政治」について書かれた一冊は、まるで別のところから話を始める。人はどうすれば善く生きられるのか。その問いを、ひとりの胸の内ではなく、人と人が寄り集まった共同体のかたちのなかで考えていく。それがアリストテレスの『政治学』だ。

権力を奪う技術でも、敵を出し抜く知恵でもない。善く生きられる場所を、どう作り、どう保つか。二千年以上前に書かれたその設計図は、いまの暮らしや職場、国家のことを考える際にも、まだ芯の通った補助線を引いてくれる。

万学の祖と呼ばれた人

アリストテレスは、古代ギリシャの北方、マケドニアの勢力圏にあったスタゲイラという町に生まれた。父ニコマコスはマケドニア王の侍医で、医術という具体の学問が身近にある家だった。十代の半ばでアテナイに出て、プラトンの学園アカデメイアに入り、二十年ほどそこで学んでいる。師プラトンが世を去ると、アテナイを離れた。

やがてマケドニア王フィリッポスに招かれ、まだ少年だった王子——のちのアレクサンドロス大王——の家庭教師をつとめる。その後再びアテナイに戻り、自分の学園リュケイオンを開いた。歩廊を行き来しながら講じたので、その一門は逍遙学派と呼ばれる。論理学から自然の研究、倫理、政治まで、およそ人の知りうるものすべてに手を伸ばし、体系づけた。後世に「万学の祖」と呼ばれるゆえんだ。

アレクサンドロス大王がにわかに世を去ると、アテナイではマケドニアへの反感が一気に高まった。かつて大王の師であったアリストテレスにも、危うい風が向く。彼は身の安全を求めてアテナイを退き、母方の縁のあるエウボイア島のカルキスに移り、まもなくそこで生涯を終えた。生まれも、学びも、教えも、死に場所までも、この人物の一生はマケドニアとアテナイという二つの土地のあいだで揺れつづけた。ポリスとは何かを問いつめた男が、自らはどのポリスにも完全には属さないまま生きた。

『政治学』は、そのリュケイオンでの講義や研究の積み重ねを、八つの巻にまとめたものと考えられている。一気に書き下ろされた完成品というより、現実のポリスを見つづけた記録の束に近い。だからこそ、議論が地に足を着いている。

倫理学の続き

『政治学』には、姉妹編がある。『ニコマコス倫理学』だ。倫理学のほうが問うたのは、ひとりの人間がどうすれば善く生きられるか、幸福とは何か、だった。その問いを最後まで押していくと、一人では答えが閉じないところに行き着く。人は仲間とともにでなければ、善さを十分には育てられない。だから話は、個人の善から、それを支える共同体の善へと進んでいく。倫理学の続きとして政治学がある。個人の幸福と、国のかたちが、地続きにつながっている。

ここで、師プラトンの影が差す。プラトンは『国家』で、ただ一つの理想の国を思い描いた。知を極めた哲人が統べる、いわば完璧な設計図だ。プラトンが理想を高く掲げたのに対し、アリストテレスは現実という名の足元を見ていた。様々なポリスに実際に行われている国のかたちを、できるかぎり多く集める。どれが壊れやすく、どれが保つのか。理想から降ろすのではなく、現実から拾い上げて比べる。その帰納の姿勢が、この書を貫いている。

ポリス的動物とは

この本の一番名高い一句がある。人間は本性からしてポリス的動物である、というものだ。ポリス的動物——共同体のなかで生きるようにできている、という意味だ。

なぜそう言えるのか。アリストテレスの説明はこうだ。人には言葉がある。ただ痛い、心地よいと鳴くだけの声とは違って、何が善く何が悪いか、何が正しく何が不正か、何が得で何が損かを、語り合える言葉がある。この言葉を持つからこそ、人は家をつくり、村をつくり、ポリスをつくる。善悪や正不正を分かち合える生きものだけが、共に暮らす枠組みを結べる。逆に、共同体のそとで完全に自足できる者がいるとすれば、それは人ではない。獣か、さもなくば神だ、と言い切っている。

一人で完成できるなら、人は初めから群れない。群れて言葉を交わすのは、一人では善く生きることが成り立たないからだ。「ひとりでは善く生きられない」という一句には、そういう人間観がこもっている。

善く生きるための共同体

ポリスは、どうやって生まれるのか。アリストテレスは、いくつかの段階を踏んで描く。まず、男と女、親と子、主人と従者からなる家がある。家はオイコス、暮らしの最小の単位だ。いくつかの家が寄れば、村になる。いくつかの村が寄れば、ポリスになる。

ここで面白いのは、できる順番でいえば家が最初なのに、本性のうえではポリスのほうが根本だ、とアリストテレスが言うところだ。種よりも、育ちきった木のほうが、その植物の「本当のすがた」を見せる。それと同じで、人が寄り集まって行き着く完成のかたちがポリスであり、家や村はそこへ向かう途中の姿にすぎない。目的が、始まりを照らし返しているのだ。

そしてポリスは、ただ生きのびるために出来たのではない。はじめは生存のために集まったとしても、その行き着く目的は「善く生きること」にある。単なる同盟でも、市場の便利さのための寄り合いでもない。人が善き生を共に実らせるための、一番大きな共同体。それがポリスだ、とアリストテレスは考えた。

暮らしに足るということ

家という単位を論じるなかで、アリストテレスは財産の扱いにも目を向ける。人が暮らしを立てるには、ある程度のものが要る。田畑を耕し、道具をそなえ、家族を養う。そこまでの取得は、善く生きるための土台として理にかなう。問題は、その先だ。もっと、もっとと、際限なく富そのものを積み増していく蓄財——彼はこれに疑いの目を向ける。貨幣を殖やすための貨幣、暮らしの必要を超えて膨らみつづける利殖は、善き生の手段であることをやめ、いつのまにか目的そのものにすり替わる。

手段が目的を乗っ取るとき、人は何のために働いているのか分からなくなる。ポリスが「善く生きること」を目的に持つように、家の営みにも、足るを知る限度がある。どこまでが暮らしのための取得で、どこからが際限のない欲になるのか。その境目を見さだめる目は、いまの時代にもそのまま通じる。

六つの国制とその堕落

では、その共同体をどう治めるのがよいのか。アリストテレスは、実際に行われている国のかたち——国制と呼ぶ——を、二つのものさしで整理する。一つは、支配する者の数。ひとりか、少数か、多数か。もう一つは、その支配が誰のためのものか。みなの利益のためか、支配者自身の得のためか。

この二つを掛け合わせると、六つの国制が並ぶ。みなの利益にかなう正しいかたちが三つ。ひとりが公のために治める王制、すぐれた少数が治める貴族制、多数がみなのために治める国制——この最後のものを、彼はポリティアと呼んだ。そして、それぞれが堕落したかたちが三つ。王制がゆがめば、ひとりが私腹のために振る舞う僭主制になる。貴族制がゆがめば、富める少数だけの寡頭制になる。国制がゆがめば、貧しい多数が自分たちの利得で押し切る民主制になる。

正しい三つと、堕落した三つ。同じ「数」でも、誰のために振るわれる力なのかで、天と地ほど中身が変わる。数の多い少ないではなく、力が公へ向くか私へ向くか。そこを見分けよ、というのがアリストテレスの目のつけどころだった。

最善は極端でなく中間にある

では、この六つのうち、どれが一番よいのか。理屈のうえでは、すぐれた王や、すぐれた少数が治める形が最も気高い。だが現実には、そんな傑出した人物はめったにいない。生身の人間が担い、生身の人間が壊す。その現実を見据えたとき、アリストテレスがもっとも壊れにくい形として推したのは、思いがけないものだった。中間層が担う国制、ポリティアだ。

彼の見立てはこうだ。ずばぬけて富んだ者は、支配することばかり覚えて、従うことを知らない。ずばぬけて貧しい者は、従うことに慣れきって、卑屈になる。この両極がむき出しでぶつかる国は、いずれ荒れることになる。ところが、富みすぎも貧しすぎもしない中間層が厚い国は、荒れにくい。彼らは奪おうとする側にも、奪われて僻む側にも、深くは傾かない。理屈で人を裁くより、身の丈をわきまえて折り合う。

中間層は、多すぎもせず少なすぎもしない財を持つぶん、隣人をむやみに妬まず、また妬まれもしない。上を倒して奪おうという野心にも、下から突き上げる不満にも、深くは巻き込まれない。国が党派に割れて争うとき、どちらにも振り切れないこの層が厚ければ、両極のあいだをつなぐ緩衝になる。数が拮抗して睨み合う社会より、真ん中がふくらんで支える社会のほうが、崩れにくい。アリストテレスがポリティアに賭けたのは、傑出した一人の出現を当てにしない、この地道な安定のためだった。

富める側の理と、貧しい側の理を、ほどよく混ぜる。どちらか一方に振り切らず、なかほどに重心を置く。ここには、姉妹編の倫理学が説いた「中庸」の考えが、そのまま流れ込んでいる。善さは、勇と無謀のあいだ、けちと浪費のあいだ、極端と極端のなかほどにある。国のかたちも、同じだ。最善は、一番高いところではなく、一番厚いなかほどにある。

本書の読み方

こう紹介すると、『政治学』を「上に立つ者のための手引き」——うまく人を治め、国を保つための帝王学——だと思う人がいるかもしれない。だが、それはこの本の最も重要な視点を見落としてしまう。

アリストテレスが問うているのは、どう支配するかの技術ではない。人が善く生きられる場所を、どう共に設計するか、だ。国制の良し悪しを分ける物差しが「みなの利益か、支配者の得か」だったことを思い出したい。治める側の都合で人を動かす形は、すべて堕落のほうに数えられている。統治のうまさではなく、そこで暮らす一人ひとりが善く生きられるかどうか。それが、この本の値ぶみの基準だ。だから『政治学』は、権力を握る者のマニュアルではなく、共に生きる人みんなのための、共同体の設計思想として読める。

プラトンの理想論との関わり

もう一つ、避けたい読み違えがある。師プラトンが『国家』で理想の国を描いたのだから、弟子のこの本もその焼き直しだろう、という早合点だ。

実際は、逆に近い。アリストテレスは、プラトンの理想国をむしろ批判的に検討する側にいる。すべてを共有し、妻も子も共同のものとする——そんなプラトンの構想に、彼は現実の側から疑いを差し向ける。みなのものは、裏を返せば誰のものでもなくなり、かえって粗末に扱われはしないか。理想の設計図を一つ掲げてそこへ現実を近づけるのではなく、様々な現実の国のかたちを集め、比べ、どこが保ちどこが崩れるかを見ていく。哲人王も、イデアも、この本の柱ではない。柱は、生身のポリスを見る目のほうにある。師の理想を受け継いだのではなく、師の理想を踏まえて、そこから現実へ降りていった。それがアリストテレスの選んだ道だった。

民主主義との関わり

三つめ。これが一番取り違えやすい。『政治学』には「民主制」という言葉が出てくる。だから、民主主義をたたえた古い教科書として読めばいい——その捉え方では、大きくこの書籍の意図を読み違えることになる。

思い出してほしい。アリストテレスの分類で、民主制は正しい三つの側にいない。堕落した三つのほうに数えられている。彼のいう民主制とは、貧しい多数者が、自分たちの利得のために押し切る形のことだ。いまわたしたちが「民主主義」と呼んで大切にしているものとは、指しているものがずれている。彼が最善に近いとしたのは、民主主義ではなく、中間層が担う混合の国制、ポリティアのほうだった。

言葉が同じでも、二千年以上の時をへだてれば、中身は移り変わる。この隔たりを踏まえずに、いまの価値観で「アリストテレスも民主主義を説いた」と読むと、本が言おうとしていない色に塗り替えることになる。古い言葉には、古い文脈のなかで耳を澄ます。そのほうが、この本の魅力がずっと引き出される。

おわりに

『政治学』を読んでいると、目の向きが、少しずつ変わっていく。

はじめは、どうしても両極に目がいく。一番強い王、一番賢い少数、あるいは一番虐げられた多数。物語になりやすいのは、いつも端のほうだ。輝く頂点か、どん底か。極端は、民衆の目をひく。

けれどアリストテレスは、その両極に吸い寄せられる目を、なかほどへ引き戻していく。富みすぎもせず貧しすぎもしない、名もない中間の人々。声の大きくない、厚い層。国を壊れにくくしているのは、実はそこだ、と彼は見た。派手ではないなかほどの厚みに、一番確かなものが宿っている、のだと。

これは、国のかたちだけの話ではないのかもしれない。わたしたちも、つい両極に引かれる。勝ちか負けか、正しいか間違いか、あの人かこの人か。端と端で言い合っているうちに、あいだにある広いなかほどを、見落としていく。目盛りの真ん中は、地味で、話題にもならない。それでも、暮らしを日々ささえているのは、その地味ななかほどのほうだ。

両極に吸い寄せられた目を、もう一度、なかほどの厚みへ戻してみる。二千年以上前のギリシャで現実の国々をひたすら見比べた一人の人間が、指さしたのは、その中間だった。一人では善く生きられないわたしたちが、それでもどうにか善く生きていくための、一番壊れにくい足場は、きらびやかな端ではなく、地味ななかほどにある。

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