G-0C41NE8DJB 『告白』アウグスティヌス — 貞潔を、ただし今すぐにではなく|亀吉の呟き
亀吉の書評

『告白』アウグスティヌス — 貞潔を、ただし今すぐにではなく

『告白』アウグスティヌス — 貞潔を、ただし今すぐにではなく
yoshiomi

「告白」という言葉も、自分の内側を書くという自伝の形も、いまではありふれている。日記、エッセイ、SNSだってそうだろう。誰もが自分について語る。その形の一番遠いところに、一冊の本がある。四世紀の終わり、北アフリカのヒッポという港町で、一人の司教が書いた『告白』だ。著者はアウグスティヌス。三九七年から三九八年ごろ、四十代のはじめに書かれたとされる。

聖人が信仰を語った本、という前置きは、立派な回心の物語を予感させる。迷える若者が光に打たれ、罪を捨てて聖人になる——そういう感動的な筋書きだ。けれど実際に開くと、出てくるのは他人の庭から梨を盗んだ少年であり、九年ものあいだ別の教えに傾いていた青年であり、正式な結婚をしないまま子をもうけた男であり、そして「変わりたい、でもまだ今ではない」と、決心をずるずると引き延ばし続けた一人の人間だ。

一番知られた一句が、それをよく表している。「貞潔を与えたまえ、ただし今すぐにではなく」。ラテン語では Da mihi castitatem… sed noli modo と伝わる、第八巻の祈りだ。訳は版によって少しずつ違うが、意味は動かない。清らかになりたい、けれど、今はまだ。この矛盾したままの祈りから、この書籍を紐解いていこう。

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1. 梨を盗んだ手——必要でも空腹でもなく

第二巻に、繰り返し読まれてきた場面がある。少年のアウグスティヌスが、仲間たちと近所の梨の木から実を盗む。腹が減っていたわけではない。家にはもっとよい梨があった。盗んだ実を食べたかったからでもなく、いくつか口にしただけで、あとは豚に投げ与えてしまう。欲しかったのは梨ではなかった。ただ、盗むという行いそのもの、禁じられたことをするというその一点に引かれたのだ。

年老いてからこの出来事を書き返しながら、アウグスティヌスは何度も問い直す。得るものが何もないのに、なぜ悪いことをしたくなったのか。空腹でも貧しさでもなく、ただ悪をなすことそのものに惹かれる心とは何なのか。彼はさらに一歩進んで、こうも考える。もし一人きりだったら、自分はあの梨を盗んだだろうか、と。答えは、たぶん盗まなかった。あの晩の盗みをおもしろくしていたのは、梨ではなく、仲間と一緒に禁を犯すという、あの笑いのようなものだった。悪の甘さの半分は、誰かと分け合う共犯のなかにあった——そこまで彼は掘り下げる。

一つかみの盗んだ梨が、これほど長く問われる。普通の自伝なら一行で済ませるような、子どものいたずらだ。それを何ページもかけて見つめ直すところに、この本の書き方が出ている。彼が探しているのは、自分を許してくれる理由ではない。むしろ逆で、言い訳のできない小さな悪を選び取って、そこに人間の弱さの根を見ようとしている。立派な罪ではなく、くだらない罪。空腹という理由さえない盗み。誰にでも覚えのある、あの意味のない悪さ。それを正直に差し出すところから、この告白は始まっている。大きな悪事を悔いてみせるより、こんな取るに足りない盗みを手放さずに見つめるほうが、よほど正直な始まり方だ。

2. 九年の回り道——マニ教とキケロ

十六歳でカルタゴに遊学したアウグスティヌスは、情欲にも、劇場の芝居にも夢中になる。学問より前に、まず若さがあった。そんな時期に手に取った一冊が、彼を変える。キケロの『ホルテンシウス』という、いまは失われてしまった本だ。知恵そのものを愛せと説くその書物に打たれて、彼は初めて、快楽ではないものへ心を向けたくなる。ある一冊が、それまでの生き方をひと揺らしする。この本のなかには、そういう「本による転回」がいくつも出てくる。梨を盗んだ手が、やがて別の一冊で自分の向きを変えていく。

けれど向かった先は、まっすぐな道ではなかった。彼はマニ教という教えに入る。世界を善と悪の二つの原理で説明する、当時流行していた考え方だ。なぜこれに惹かれたのか。若いアウグスティヌスを一番苦しめていたのは、悪はどこから来るのか、という問いだった。もし神が善であり、すべてを造ったのなら、この世の悪も神が造ったことになってしまう。マニ教は、そこに分かりやすい答えをくれた。悪は神とは別の、もう一つの独立した力なのだ、と。善と悪が最初から二つに分かれているなら、神を悪の作者にせずに済む。アウグスティヌスはおよそ九年、この教えのなかにとどまる。長い回り道だった。

その途中には、若さの痛みも刻まれている。第四巻には、故郷で得た親しい友の死が書かれている。同じ本を読み、同じ冗談で笑い合った相手を、病で急に失う。悲しみのあまり、故郷の風景すべてが友の不在に見えて、彼はカルタゴへ逃げ出す。見慣れた街角も、二人で歩いた道も、いまはただ相手がいないことを指し示すばかりだ。喪失がこれほど人をぐらつかせるのはなぜか——若い彼はまだ答えを持たない。ただ、その痛みだけは正直に書き残す。のちに時間や記憶を問う彼の下地は、こうした若い日の傷のなかで、すでに耕され始めていた。

やがて疑いが募り、彼はマニ教と別れる。修辞学の教師として身を立て、ローマを経て、ミラノの公職に就く。そこで二つのものに出会った。一つは新プラトン主義の書物で、これが「悪とは何か」という問いに別の光を与えた。悪は独立した力ではなく、善が欠けた状態にすぎない——実体ではなく、あるべきものの不在なのだ、と。この見方に立てば、もう善と悪の二つの神を立てる必要はない。もう一つは、ミラノの司教アンブロシウスの説教だった。アンブロシウスは、文字どおりに読めば粗く見える旧約の記述を、比喩として奥行きごと読み解いてみせた。字面につまずいて聖書を遠ざけていた彼の引っかかりが、ここでほどけていく。新プラトン主義が頭の問いに答えを与え、アンブロシウスが聖書への道を開く。二元論という杖を手放した彼を、この二つが両側から受けとめた。

3. 今すぐにではなく——引き延ばされた決心

頭では、進むべき方向が見えていた。それでも足が動かない。第八巻は、この動けなさの記録だ。理屈の上では変わりたい。けれど体は、これまでの暮らしを手放したがらない。彼は自分のなかに、二つの意志が同時にあるのを見つける。変わりたいと願う意志と、変わりたくないと引き止める意志。どちらも自分だ。片方が自分でもう片方が他人なら話は簡単だが、そうではない。二つとも、まぎれもなく自分の意志なのだ。この引き裂かれを、彼はごまかさずに書く。

有名な祈りが漏れるのは、ちょうどこの頃だ。「貞潔を与えたまえ、ただし今すぐにではなく」。清くなりたいと本気で願いながら、その願いが早く聞き届けられてしまうことを、心のどこかで恐れている。まだ手放したくない。もう少しだけ、今のままでいたい。祈りの言葉と、その祈りが叶うのを恐れる気持ちとが、一つの文のなかに同居している。

この時期、母モニカの願いもあって、彼は長く連れ添った内縁の女性と別れさせられる。良家との正式な結婚のためだった。相手の女性の名は、この本のなかで明かされない。別れたあとも欲は消えず、彼はなお引き延ばす。変わりたいと願うことと、変われないことが、同じ一人の胸のなかで並んでいた。

転機は、ミラノの庭で訪れる。決心がつかず、泣きながら地面に伏していた彼の耳に、隣の家から子どもの声が届く。「取りて読め、取りて読め」。ラテン語で tolle lege。遊びの歌なのか、何かのまじないなのか、彼には分からない。ただ促されるように、傍らにあったパウロの手紙を開き、目に入った一節を読む。三八六年のことだった。長く引き延ばしてきた決心が、このとき、ようやく彼のなかで折り合う。天から差す劇的な光ではなく、子どもの声と、たまたま開いた一ページ。回心は、そういう地味な形をしていた。長い先延ばしの果てにやってきた「今」は、拍子抜けするほど静かだったのだ。

この一節を境に、長らく二つに裂けていた意志が、ようやく一つになる。彼は修辞学の教師の職を退き、重ねてきた結婚の算段も手放した。「今すぐにではなく」と先延ばしにしてきた貞潔が、このとき「今」になったのだ。

4. 母モニカと、オスティアの対話

翌三八七年の復活祭に、アウグスティヌスはアンブロシウスから洗礼を受ける。三十三歳だった。息子のアデオダトゥスも、同じときに洗礼を受けている。「神から与えられた」という意味の名を持つ、あの内縁の女性とのあいだの子だ。父の長い迷いのそばで育った子が、父と同じ日に水をくぐる。

第九巻には、母モニカとの場面がある。息子の改宗を生涯願い続けた母は、その願いがかなったあと、北アフリカへ帰る途上、オスティアという港町で息子と静かに語り合う。窓辺に寄り添い、永遠のいのちについて言葉を交わすうちに、二人の話はだんだんと世界の外へ、時間の外へと昇っていく。母と子が、口論でも説教でもなく、同じ一つのものを見上げるようにして語り合う、めずらしく穏やかな時間だ。それからほどなく、モニカは病を得て、この港町で世を去る。息子が信仰に入るのを見届けて、もう思い残すことはない、と言い残して。生涯の願いを果たした人の、静かな退場だった。

自伝としての『告白』は、ここまでで終わる。誕生から、盗みから、迷いから、回心から、母の死まで。普通ならこれで一冊を閉じてもいい。多くの自伝は、主人公が「なる」べきものになった地点で幕を下ろす。けれどアウグスティヌスは、そこで筆を止めなかった。むしろ、一番奇妙な部分がここから始まる。

5. 過去から時間へ——自伝が哲学に開く

第十巻から、本の性格が変わる。過去を語ることをやめて、彼はいまの自分に向き直る。手がかりにするのは、記憶だ。ラテン語でメモリア。神をどこで見出すのかと問いながら、彼は自分の記憶という広い宮のなかを歩いていく。数えきれない過去の像がしまわれ、呼べば出てくるその場所は、いったい何なのか。会ったことのある人の顔、昔かいだ匂い、覚えた言葉、そしてまだ見ぬ神への予感まで、すべてがそこに畳まれている。自分のなかにありながら、自分でも底が見えないほど広い。人間が自分自身を覗き込むと、これほどの奥行きが開ける——彼はそのことに驚いている。

第十一巻で、問いはさらに深いところへ進む。時間とは何か、という問いだ。彼は率直に書く。誰にも問われなければ、自分は時間が何かを知っている。けれど、問われて説明しようとすると、とたんに分からなくなる、と。この一文の正直さが、いまも読む者を打つ。過去はもう存在せず、未来はまだ存在しない。存在するのは現在だけだ。しかも現在は、つかもうとした瞬間に過去へ滑り落ちていく。幅を持たない。では、もう無い過去や、まだ無い未来を、私たちはどうやって語り、どうやって測っているのか。

彼の答えは、時間を心の側に引き寄せる。過去も未来も、それ自体としてどこかに転がっているわけではない。あるのはいつも現在であり、ただしその現在が三つの顔を持つ、と彼は考える。過去とは「過去についての現在」、つまり記憶であり、未来とは「未来についての現在」、つまり期待であり、現在とは「現在についての現在」、つまり今まさに見ているということだ。時間は外の世界にぶら下がっているのではなく、心が過去を覚え、いまを見つめ、未来を待つ、その心の伸びのなかにある。ラテン語でディステンティオ・アニミ、心の引き延ばし、とも呼ばれる考え方だ。歌を口ずさむときを思えばいい。歌い終えた分は記憶へ移り、これから歌う分は期待として待たれ、その真ん中を、今という一点が貫いていく。歌の長さは、紙の上ではなく、歌う心のなかで測られている。時間とはそれだ、と彼は言う。

最後の第十二巻と第十三巻では、『創世記』の冒頭、「初めに神は天と地を創造した」という一行の解釈へと入っていく。無からの創造をめぐる思索で、この長い本は閉じる。自伝から始まった書物が、記憶を通り、時間を通り、世界の始まりへとたどりつく。過去を語り終えた人が、そのまま時間そのものを問う側へ移っていく。梨を盗んだ少年の話から始まった一冊が、最後には宇宙のはじまりを見上げている。こんな形の本は、そう多くない。

おわりに

『告白』という題は、二つの意味を同時に抱えている。ラテン語のコンフェッシオは、罪を打ち明けることでもあり、神を讃えることでもある。だからこの本は、悔恨録であると同時に、祈りの書でもある。過ちを並べながら、その並べること自体が讃美になっている。暗い懺悔の本、というだけでは足りない。自分の恥を数え上げる声と、それでも生かされてきたことへの感謝の声とが、同じ一つの文体のなかで重なっている。しかも全篇が、読者に向けた説明ではなく、神に向けた二人称の語りかけとして書かれている。誰かに読ませるための告白ではなく、聞かれていることを信じて差し出された告白だ。その宛先の違いが、この本の優しさと厳しさの両方をつくっている。

思い返せば、彼は長いあいだ「今すぐにではなく」と言い続けた人物だった。清くなりたい、けれど今ではない。変わりたい、けれど今ではない。決心を、いつも少し先へ先へと送り続けた。その彼が、本の後半で行き着いたのが、過去も未来も実在せず、あるのは現在だけだ、という時間の見方だったことは、あとから振り返ると不思議に響く。あれほど遠ざけようとした「今」が、最後には、時間の唯一の在りかとして彼の前に立っていた。逃げ続けた相手が、実は唯一実在する場所だった。

変われないまま迷い続けた記録が、いつのまにか、時間とは何かという問いに変わっている。盗んだ梨を見つめる目と、時間の底をのぞく目は、同じ一人のものだ。聖人になった人の完成された手記として読むのではなく、まだ「今ではない」と言いあぐねている自分のほうから、この千六百年前の一冊を開いてみたくなる。あれほど遠ざけようとした「今」だけが実在する、という一点に、彼は最後にたどり着いた。梨を盗んだ夜も、それを悔いる晩年も、差し出される先はただ一つ、「今」だけである。

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こんにちは。亀吉です。 仕事の合間にブログを書いています。 このブログは、どこまでも個人的で恣意的な思想の表明です。思うままに・・・ 映画と本が好きです。その他音楽や登山など。
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