『幸福論』アラン — 幸福は、待つのではなく、こしらえるもの
アランの『幸福論』は、九十三篇の短い断章でできている。物語もなければ、体系だった理論もない。二ページほどの文章が、角度を変えて九十三回、幸福について考えつづける。その最初の一篇の題が「ブケファロス」——アレクサンドロス大王が乗りこなした荒馬の名だ。哲学者が幸福を語る本の冒頭に、なぜ馬の名が置かれているのか。そこに、この本の幸福の見方が畳み込まれている。
アランがこの本でくり返すのは、幸福の居場所を付け替えることだ。それは遠くからやってくるものでも、心の底に埋まっているものでもない。もっと近い、体のすぐそばにあって、しかも、待っていては手に入らないもの——そういうものとして幸福を描き直していく。
1. ブケファロス——泣きやまない子と、一本のピン
アランは、フランスで哲学を教えていた人だ。本名をエミール=オーギュスト・シャルティエといい、アランは書き手としての名前になる。彼はプロポと呼ばれる短い文章を数多く残した。ひとつが二ページほどの、決まった長さの断章だ。『幸福論』は、そのプロポのなかから幸福にかかわるものを選んで束ねた本で、決定版には九十三篇が入っている。だから、この本にあらすじはない。物語が進んでいくのではなく、短い考えが、九十三回、角度を変えて並んでいる。読み方も自由で、どの一篇から開いてもいい。
アランの書き方そのものが、この本の教えを先に実演している。哲学者でありながら、彼はむずかしい術語をほとんど使わない。赤ん坊、馬、おむつのピン、あくび、微笑み。出てくるのは、誰の暮らしにもある、具体的なものばかりだ。抽象的な定義で幸福を語るのではなく、場面を一つ差し出して、そこから考えさせる。二ページで終わる短さも、同じ理由からきているのだろう。理屈を長くこねれば、それこそ気分のほうが坂を下ってしまう。
その最初の一篇が、「ブケファロス」という、少し不思議な題を持っている。
書き出しはこうだ。赤ん坊が泣いている。火がついたように泣いて、どうしても泣きやまない。まわりの大人は考えはじめる。この子は気難しい性質なのだろう。気位が高いのかもしれない。将来はきっと……と、人は泣き声ひとつから、その子の魂の話を始めてしまう。ところが、と、アランは書く。乳母がふと気づく。おむつに、安全ピンが一本、刺さっていたのだ。
ピンを抜けば、赤ん坊は泣きやむ。性格の問題でも、魂の問題でもなかった。ただ、ピンが刺さっていた。それだけのことだった。アランはここから、この本の調子を決める一言を引き出す。泣いている赤ん坊がいたら、まず、ピンを探しなさい、と。
題になっているブケファロスは、アレクサンドロス大王の愛馬の名だ。もとは、誰の手にも負えない荒馬だった。屈強な調教師たちが代わるがわる手綱を取っては、跳ねられ、振り落とされる。もう無理だ、と大人たちが匙を投げかけたとき、まだ少年だったアレクサンドロスが進み出た。じっと見ていた彼は、馬が暴れるたびに、いつも同じ方を怖がっているのに気づく。地面で揺れる、自分の黒い影だった。影におびえて跳ねていたのだ。少年は馬の鼻先を、そっと太陽のほうへ向けてやる。まぶしい光の側を向かせれば、足もとの影はもう目に入らない。影が消えたとたん、あれほど荒れていた馬は、うそのようにすっと静まった。
赤ん坊のピンと、馬の影。二つは同じことを言っている。荒れているものの原因を、気質や魂といった見えない奥にではなく、体のすぐそばの、手の届く一点に探すこと。ピンは抜ける。鼻の向きは変えられる。心の奥は動かせなくても、体のそばにある原因なら、なんとかできる。
大人になった私たちも、赤ん坊とそう変わらない。朝からわけもなく苛立つ日、その理由を、自分の性格や、誰かへの不満や、人生そのものの手ごたえのなさにまで広げてしまう。けれど、ただ眠りが足りていなかっただけ、ということが、案外多い。空腹だっただけ、寒かっただけ、少し歩けば済んだだけ、ということも。原因を大げさな場所に探しに行く癖は、大人のほうが、むしろ根深いのかもしれない。わけもなく心がざわつくとき、まず疑うべきなのは、自分の暗い性質ではなく、どこかに刺さったままの、一本のピンのほうだ。
2. 気分と意志——沈むのは自然、晴れるのは意志
アランの言葉で、いちばんよく知られているのはこれだろう。悲観主義は気分によるもの、楽観主義は意志によるものだ。
気分というものは、放っておくと、下向きに転がっていく。体が疲れれば沈み、天気が悪ければ曇り、姿勢が縮こまれば気持ちも一緒に縮む。何もしなければ、私たちは自然に、少しずつ暗いほうへ流れていく。アランは、それを弱さとも怠けとも責めない。ただ、そういうものだ、と見ている。坂道に置かれたボールが、手を離せば下へ転がるのと同じことだ。
だとすれば、明るさのほうは、自然には来ない。放っておいて晴れやかになることはない。晴れやかさは気分の側からではなく、意志の側から、こちらが取りに行かなければならないものだ。この非対称が、本全体の背骨になっている。悲観は、坂を転がるボールのように勝手に進む。楽観は、そのボールを反対向きに押し上げる力だ。押すのをやめれば、また転がり落ちる。だから幸福は、一度つかんで安心できる持ち物ではなく、毎日押し続ける仕事に近い。
眠る前に、布団のなかで昼間のやりとりを何度も再生してしまうことがある。あの言い方はまずかった、こう返せばよかった。そうやって考えれば考えるほど、気分は晴れるどころか、どんどん重くなっていく。アランの見方でいえば、これは、意志が休んでいるあいだに、気分がひとりでに坂を下っている時間だ。反省しているつもりで、ただ転がり落ちている。悲しみや不安は、こちらが理屈でこねればこねるほど、栄養をもらって太っていくものらしい。だから、ある時点で考えるのをやめて、体のほうへ切り替える必要がある。その切り替えこそが、意志の仕事になる。
意志、というと、歯を食いしばって耐える力のようなものを思い浮かべるかもしれない。けれどアランのいう意志は、もっと軽い。気分に飲まれかけたとき、いったんそこから目を離して、別のことに手をつける。その、向きを変えるくらいの小さな動きが、彼のいう意志に近い。重い岩を持ち上げる力ではなく、うつむきかけた顔を、少しだけ上げる。悲観に理由を与えないこと、悲しみをこねくり回す手を止めること。それだけでも、沈んでいく速さは変わる。意志は、大げさな決意ではなく、日々の細かな切り替えの積み重ねなのだ。
「前向きに考えよう」という励ましが、ときに人を苦しめるのは、それが気分に直接命令してくるからだと思う。沈んでいる胸に向かって「明るくなれ」と言っても、気分はその命令を聞かない。アランの言い方は、少し違っている。彼は、気分をねじ伏せろとは言わない。気分は放っておけば下がるものだと、まず認める。認めたうえで、下がったところから意志で少しずつ引き上げる、その捉え方を教えてくれる。そしてアランの示すやり方は、驚くほど体に寄っている。
3. まず体から——感情より先に、動くもの
気持ちを変えたければ、まず体を変えろ。アランの処方は、意外なほど即物的だ。
不機嫌なとき、私たちは眉を寄せ、肩を落とし、呼吸を浅くしている。アランは、その見方を、まるごと逆さにしてみせる。心が縮んだから体が縮むのではなく、体が縮んでいるから心も縮んでいるのではないか、と。もしそうなら、先に体のほうをほどいてやればいい。あくびをする。伸びをする。肩をぐるりと回す。深く息を吸って、ゆっくり吐く。子どもがむずかったとき、言葉で言い聞かせるより、抱き上げて姿勢を変えてやるほうが早いのと、同じことだ。
歩くこと、をアランはよく持ち出す。行き詰まったら、とにかく外へ出て歩く。足を動かしているうちに、頭のなかで固まっていたものが、少しずつほどけていく。机の前で腕を組んで考え込むより、そのほうが早いことを、体のほうが先に知っている。悲しみや苛立ちを頭のなかでこねまわしているあいだは、たいてい何も変わらない。それより、窓を開けて息を吸い、少し歩いて戻ってくるほうが、ずっと近道なのだ。
朝、目が覚めた瞬間に、もう気が重いことがある。何が起きたわけでもないのに、その日一日ぶんの憂鬱が、先に枕もとで待っている。そういう朝、布団のなかで昨日の続きを考えはじめると、気分はさらに沈む。アランなら、そこで考えるのをやめて、まず起き上がれと言うだろう。顔を洗い、湯を沸かし、窓を開ける。その一連の動きのなかで、さっきまであれほど重かったものが、いつのまにか少し軽くなっている。気分が晴れてから動くのではなく、動いているうちに、気分のほうがあとからついてくる。ここでも、まず体を動かすことが先だった。
微笑みについても、彼は書いている。楽しいから微笑むのではなく、微笑むから、あとで楽しくなってくる、というのだ。これは、無理に笑えという話ではない。ただ、口もとを少しゆるめ、肩の力を抜くという体の動きが、遅れて気分の側に効いてくる。感情のほうから体を動かそうとするより、体のほうから感情に働きかけるほうが、手がかりがつかみやすい。心は直接つかめないが、肩や、呼吸や、足なら、いつでもつかめるからだ。
だから、アランにとって幸福は、感じるものである前に、まず、することだった。学ばなければ身につかない、一つの技術だと彼は考えていた。泳ぎや自転車と同じで、頭で理解しただけでは乗れない。体で覚え、毎日くり返して、ようやく自分のものになる。幸福を学ぶ、という言い方は、はじめ奇妙に聞こえる。幸福は感じるものであって、勉強するものではない気がするからだ。けれどアランは、本気でそう考えていた。沈んだときに何から手をつけるか、その勘どころを早くから覚えた人と、そうでない人がいる。前者を、私たちはなんとなく「あの人は幸福な性質だ」と呼んでしまう。でも実際には、生まれつきの性質ではなく、早くに覚えたコツなのかもしれない。
4. 上機嫌という礼儀——不機嫌を、まき散らさないこと
ここまでは、自分の機嫌を自分でどう整えるか、という話だった。アランはもう一歩、外へ進める。上機嫌は、自分のためだけのものではない。それは、まわりの人への礼儀でもある。
不機嫌は、伝染する。誰か一人が黙って眉を寄せていると、部屋の空気が重くなる。理由を言わない不機嫌ほど、まわりを落ち着かなくさせるものはない。何かしただろうか、と、まわりが自分を探りはじめる。逆に、機嫌のいい人がひとりいると、その場の張りつめたものが、ふっとゆるむ。だからアランは、機嫌よくしていることを、ほとんど義務のように扱う。自分の暗さを、そばにいる人にまき散らさないこと。
逆に、機嫌のよさもまた伝わっていく。誰かが軽い調子で笑うと、それを見た人の肩も、少しゆるむ。上機嫌は、その場にいる人へ、静かに配られていくものらしい。しかもこれは、押しつけがましくない贈り物だ。相手に何かを要求するわけでも、感謝を求めるわけでもない。ただ、機嫌よくそこにいるだけで、まわりの空気がいくらか軽くなる。アランが上機嫌を大事にしたのは、それが自分を助けると同時に、まわりの人をも、そっと助けるからだった。
彼は、ぐちをこぼすことにも、あまりいい顔をしない。ぐちは、言えば言うほど、その不満を自分のなかで大きくしてしまうからだ。口に出した瞬間、まだ小さかった不機嫌が、はっきりした形を持ってしまう。そして、それを聞かされた相手の一日にも、うっすら影を落とす。上機嫌が贈り物なら、まき散らされる不機嫌は、頼んでもいない預かりものだ。
もちろん、これは我慢や作り笑いとは違う。§3で見たように、機嫌は体のほうから整えることができる。整えられるのなら、整えてから人に会うのが礼儀だ、というわけだ。少し厳しい考え方でもある。気分は自然に下がるものだと認めておきながら、それでも、下がったまま人の前に出るな、と言っているのだから。
けれど、その厳しさの底には、一つの信頼がある。機嫌は変えられる、という信頼だ。変えられないものを、義務にはできない。アランが上機嫌を礼儀とまで呼べたのは、彼が幸福を、一部の人にだけ配られる才能や運ではなく、誰でも学べば近づける技術だと信じていたからだ。機嫌を整えるという私的な作業は、そのまま、隣にいる人へのささやかな親切につながっている。自分を上向きにすることと、人にやさしくすることが、ここでは同じ一つの動きになる。
おわりに
アランは、幸福を「欲する」ことについても書いている。幸福は、ぼんやり待っている人のところには来ない。欲しいと思い、そのために体を動かし、意志で選び取り、自分の分をいくらか差し出す人のところに、少しずつ集まってくる。まず、待つのをやめること。それが、最初の一歩になる。
理由もなく気分が沈むとき、アランなら、心の奥を掘れとは言わない。彼が指さすのは、もっと手前だ。今日、窓を開けて息を吸ったか。体をちゃんと動かしたか。眠れているか。そのどこかに、抜き忘れたピンが一本、刺さったままになっていないか。原因は、魂の底ではなく、案外そのあたりに、ころがっているのかもしれない。
幸福は、向こうからやってくる感情ではなかった。今日の一本のピンを探して、それを抜くところから、自分の意志で少しずつこしらえていくものだった。九十三篇のプロポが最後に残していくのは、立派な結論ではない。おむつに刺さった、一本のピンだ。泣きやまない何かを抱えているとき、心の奥をのぞき込む前に、まずそのピンを探してみる。アランがくり返し教えているのは、沈んだ気持ちを立て直す手がかりは、魂の底ではなく、一本のピンほど具体的で、手の届くところにある、ということだった。
