G-0C41NE8DJB 『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル — 問われているのはこちらのほうだった|亀吉の呟き
亀吉の書評

『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル — 問われているのはこちらのほうだった

『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル — 問われているのはこちらのほうだった
yoshiomi

書店で『夜と霧』を手に取る人の多くは、自己啓発の棚の近くでこの本に出会う。隣には「折れない心」や「逆境を力に変える」といった背表紙が並んでいて、その流れで『夜と霧』も、意味さえ持てれば人はどんな苦境も乗り越えられる、という一冊として要約されていく。

けれど、その要約はおそらく本の芯を少しだけ外している。フランクルが強制収容所のなかで見つけたのは、「意味があれば頑張れる」という励ましではなかった。もっと静かで、もっと向きの違うことだった。問いの方向そのものが、ある日ひっくり返る。私たちが人生に何を期待するか、ではなく——人生が、私たちに何を期待しているか。

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1. 訳されたのは「夜」でも「霧」でもなかった——一冊の素性

まず、邦題の話から入る。『夜と霧』という題には、原書のどこにも「夜」や「霧」という語が出てこない。これは訳者がつけた邦題で、ナチス・ドイツが反体制の人々を闇のなかへ消した「夜と霧」指令から取られている。原題はもっと素っ気ない。初版は1946年、ウィーンの小さな出版社から出て、ただ Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager——「ある心理学者が強制収容所を体験する」とだけ題されていた。1947年からの版で、その前に「……それでも人生にイエスと言う」という一句が冠される。この句は、ブーヘンヴァルトの収容所で囚人たちが歌った歌の一節から来ている。

日本語で読むとき、『夜と霧』には二つの訳がある。ひとつは霜山徳爾訳(みすず書房、1956年)。1947年版を底本にして、原書にはない心理学の解説と、収容所の写真資料が独自に加えられている。もうひとつは池田香代子訳(同じくみすず書房、2002年)。フランクルが1977年に手を入れた改訂版を底本に、写真や解説を外して、フランクルの本文だけに戻したものだ。みすず書房はいまもこの二つを並べて出している。同じ場面でも、訳によって言葉の選び方はずいぶん違う。

この本のなかみは、派手な出来事の羅列ではない。フランクルは収容所での日々を、囚人の心がたどった内側の動きとして書いていく。何が起きたかよりも、その下で心がどう動いたか。医師の目が、極限に置かれた人間の心を淡々と記録していく。だからこの本は、手記でありながら、人間の心についての観察の書でもある。出来事の記録と、その底でフランクルが掴んだ考えとが、同じ文章のなかで混ざり合っている。

2. 精神科医が囚人番号になる——四つの収容所

フランクルは、収容所に入る前から精神科医だった。ウィーンで自殺をしようとする人たちの相談に乗り、神経症の治療にあたっていた医師が、ある日、番号を縫いつけられた囚人になる。この二重性が、本のいちばん奇妙なところであり、いちばん強いところでもある。彼は苦しむ当事者でありながら、その苦しみのただなかにいる人間を、医師の目で見つづけた。

移送の順序はこうだ。1942年、結婚して間もなく、家族とともにテレージエンシュタットへ。1944年にアウシュヴィッツへ送られ、線路のそばの仮収容区画に数日とどまる。それからダッハウの支所カウフェリンクへ、最後はテュルクハイムへ。四つの収容所で、およそ三年。

父ガブリエルはテレージエンシュタットで、衰弱と肺炎のために亡くなった。母と弟ヴァルターはアウシュヴィッツで殺された。妻ティリーはベルゲン=ベルゼンで、チフスにかかって命を落とした。フランクル自身は1945年4月27日、アメリカ軍によってテュルクハイムで解放される。けれど生き延びた先で彼を待っていたのは、ほとんどの家族がもうこの世にいないという知らせだった。

フランクルが書こうとしたのは、名の知られた大きな惨劇ではなく、ごくふつうの囚人が日々さらされた小さな責め苦と、その下で心がどう動いたかだった。彼は囚人の心理を三つの段階に分けて、淡々と記述していく。収容された直後は、ショックのなかで「自分はまだ助かるのではないか」という妄想にすがる。やがて日々の飢えと暴力に心が鈍麻して、何を見ても感情が動かなくなる。運び出されていく遺体を前にしても、もう胸は波立たない。死は朝の点呼と同じくらいありふれた光景になり、心はそこから自分を切り離すことで、かろうじて持ちこたえる。感情の消滅、無感動。それは弱さではなく、極限のなかで心が身を守るための反応だった。医師フランクルは、その鈍麻していく自分の心までを、もう一人の自分の目で見つづけたと書く。

3. 問いの向きが逆になる——コペルニクス的転回

収容所のなかで、囚人たちはよく「こんな目に遭ってまで、生きる意味なんてあるのか」と問うた。フランクルは、その問いの向きを逆にする。

人生に意味があるかどうかを、私たちが人生に向かって問う。その向きを、彼は百八十度ひっくり返した。問うているのは人生のほうで、答えるのは私たちのほうだ、と。いま、この状況が、この一日が、自分に何を求めているのか。それに行動と態度で答えること——生きるとは、絶えずそう問われていることだった。フランクルはこれを、ものの見方のコペルニクス的転回と呼んだ。

その反転が腑に落ちる場面を、フランクルは一つ書きとめている。ある凍てつく朝、まだ暗いうちから作業場まで何キロも歩かされる。足はぬかるみに取られ、よろけるたびに監視兵の罵声と銃床の小突きが飛ぶ。隣の男がふと、自分の妻のことを口にした。その瞬間、フランクルの心は、ウィーンに残してきた妻の面影へ吸い寄せられていく。妻の声が聞こえ、まなざしが見えた——昇りはじめた朝日よりも明るく。そのとき彼を貫いたのは、人がたどり着く最後の場所は愛だ、という思いだった。与えるものを何ひとつ持たない人間でも、愛する者の像を胸に抱くだけで、満たされる一瞬がある。彼はこのとき、妻がもうこの世にいないことを知らなかった。知らないまま、像に向かって心を差し出していた。意味は、外から手渡されるのを待つものではない。こちらから差し出すものだ。そのことを、凍えた行進の列のなかで彼は知った。

ここで彼が繰り返し引くのが、ニーチェの言葉だ。「なぜ生きるかを知っている者は、ほとんどあらゆるどう生きるかに耐える」。収容所で力を保ったのは、屈強な体を持つ者ではなく、自分を待っている何かを——書きかけの仕事や、もう一度会いたい誰かを——持っていた者だった、と彼は観察する。意味は、苦しみに勝つための道具ではなかった。問われていることに、自分のほうから答えていくことだった。

逆の景色も、彼は医師として見ている。収容所の死亡率は、1944年のクリスマスから翌年の年明けにかけて跳ね上がった。労働の量も配給のパンも、変わってはいない。変わったのは、囚人たちが心のなかに置いた期日だった。クリスマスには家に帰れるはずだ——多くの者がそこに望みを賭けていて、その日が何事もなく過ぎたとき、望みのほうが先に折れた。未来を一点に賭けて、その一点が外れると、人は驚くほど速く崩れていく。先を信じられなくなった者から心の張りを失い、体が後を追った。意味とは、遠い未来に約束された褒美のことではない。いま自分が、何に向かって立っていられるか、ということだった。

4. 匿名で出すはずだった一冊——刊行をめぐる逸話

この本には、刊行をめぐる小さな逸話がある。フランクルは最初、『夜と霧』を自分の名前を出さずに、収容所での囚人番号だけを記して世に出すつもりだった。自分の体験を見世物のように差し出すことを、彼は避けたかった。原稿が書き上がったあとも、その考えは変わらなかったという。

実名に変えたのは、友人たちの説得による。匿名では、語られたことの値打ちがかえって下がってしまう——告白する勇気こそが、その洞察の重みを支えるのだ、と彼らは言った。フランクルは、その言い分に抗えなかった。

囚人番号だけで出そうとした、という事実が、この本の読み方をそっと決めている。運命を不屈の意志で打ち負かした英雄が、ここで手柄を語っているのではない。番号にされた一人の人間が、番号にされたなかで何を見たかを書き残している。だからこの本は、読む人を励ますために書かれてはいない。フランクルはのちに、自分の本がベストセラーになったことを、奇妙なことだと振り返っている。匿名で出すつもりだった、自分には何の成功ももたらさないはずだった一冊が、いちばん多くの人に読まれた。

その不思議について、フランクルはのちの版の序文でこう書いている。これは自分の手柄ではなく、むしろこの時代の貧しさのあらわれなのだ、と。何十万、何百万という人が、「人生の意味」を表題に掲げた本に手を伸ばす——その事実こそが、意味への問いが、それほど多くの人の指の先で疼いている証拠なのだ、と。

5. 奪えなかった最後の一つ——態度を選ぶ自由

収容所では、ほとんどすべてが奪われた。名前も、髪も、家族も、明日まで生きていられるかどうかの保証も。それでも一つだけ、最後まで奪えないものがある、とフランクルは書く。与えられた状況に対して、自分がどういう態度をとるか。それを選ぶ自由だ。

その自由は、抽象的な信条のことではない。一日の労働を終えて泥のように疲れた夕方、誰かが小屋に駆け込んできて、外を見ろ、と皆を呼んだことがあった。沈む夕日が雲を燃え立たせ、刻々と色を変えていく。囚人たちはしばらく言葉を失って、そのありさまに見入った。誰かがぽつりと言う——世界は、こんなにも美しくなりうるのに、と。すべてを奪われてなお、目の前の空に心を動かされる。その、心が動くということだけは、誰にも奪えなかった。

凍えた点呼の列で、隣の弱った男に励ましの一言をかけること。配給のわずかなパンを、もっと参っている誰かにそっと分けてやること。そうした小さな選択の一つひとつが、番号にされた人間を、人間のままにとどめた。フランクルが戦後に体系化した心理療法——ロゴセラピー、フロイトの精神分析、アドラーの個人心理学に次いで「ウィーン第三学派」と呼ばれる——の中心にも、この態度の自由が置かれている。

フロイトは人を動かす根を快楽への意志に見て、アドラーは力への意志に見た。フランクルはそのどちらでもなく、人は意味を求めて生きる——意味への意志こそが根なのだ、と考えた。第三学派と呼ばれるのは、問いの置きどころが先の二人とずれていたからだ。収容所で彼が立ち会ったのは、まさにこの意味への意志が、極限でも消えずに残るという事実だった。それが、戦後の治療の土台になった。

ロゴセラピーは、意味がどこに見つかるのかを三つの道で示す。一つは、何かを生み出すこと——仕事や行いをとおして、世界に何かを残していくこと。もう一つは、誰かや何かと出会い、それを深く味わい、愛すること。そして三つ目は、もう変えようのない苦しみを前にして、自分がどんな態度をとるか。最初の二つの道がふさがれても、三つ目だけは最後まで閉じない。すべてを奪われた人間にも残るのは、この道だった。収容所でフランクルが立ち会っていたのは、まさにその三つ目の現場である。

晩年のフランクルは、こんなことも書いている。成功を目標にするな、と。成功は、追いかけるほど逃げていく。それは、自分より大きな何かに身を捧げたときに、あとからついてくる副産物にすぎない。意味も、同じだ。掴みにいって手に入るものではなく、目の前の問いに答えているうちに、いつのまにかついてくる。

解放されたあとも、フランクルはすぐには喜べなかった。長く虐げられた心は、自由を急に渡されても、現実感をつかめない。すべてが夢のなかの出来事のように遠く感じられる。解放の地をあてもなく歩きまわって、ようやく少しずつ、世界が自分に戻ってくる。第三の段階、解放後の心理を、彼はそうやって書き残した。

おわりに

『夜と霧』を「意味さえあれば苦しみに耐えられる」という一行に畳んでしまうと、肝心の向きが消える。フランクルが反転させたのは、まさにその向きだった。人生に何かを期待して、それが裏切られたと嘆くのではなく、人生のほうから問われていると考える。答えるのは、こちらだ。

戦後のフランクルが診察室で出会ったのは、収容所とは正反対の苦しみだった。飢えも暴力もない満たされた暮らしのなかで、人が「何のために生きるのか分からない」と訴えてくる。彼はそれを実存的空虚と呼んだ。退屈、無関心、空っぽさ——苦難が多すぎるからではなく、向かうべき問いを見失ったときに、心はそこへ落ちていく。

解放されて間もない1945年の秋、フランクルはこの本を九日間で書き上げた。名前も伏せて、囚人番号だけで。手柄を語るためではなく、見たことを残すために。その九日間の手の速さに、彼が伝えたかったことが詰まっている。立派に苦しみを乗り越えた、という話ではない。番号にされた人間が、それでも自分の態度だけは手放さなかった、という記録だ。

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