G-0C41NE8DJB 『野生の思考』レヴィ=ストロース|考察・解説 — 未開の思考は遠い話ではない
亀吉の書評

『野生の思考』レヴィ=ストロース — 野生の思考は、遠い島の話ではない

『野生の思考』レヴィ=ストロース — 野生の思考は、遠い島の話ではない
yoshiomi
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はじめに

原題は La Pensée sauvage。この pensée という一語に、レヴィ=ストロースは二つの意味を重ねている。ひとつは「思考」。もうひとつは、野に咲く三色スミレ——パンジーのことだ。原書の表紙には、そのスミレが一輪描かれている。sauvage という語も同じように揺れている。私たちはこれを「未開」と訳しがちだが、もとの意味は「栽培されていない」「飼いならされていない」に近い。畑で育てられた花ではなく、野で勝手に咲く花の側を指している。

レヴィ=ストロースは、二十世紀フランスを代表する人類学者だ。若い日にブラジルの奥地へ渡り、先住民の社会で長いフィールドワークを重ねた。その経験から『悲しき熱帯』や『親族の基本構造』といった仕事が生まれ、やがて彼は、構造主義と呼ばれる知の流れの出発点に立つことになる。一九六二年に世に問われたこの『野生の思考』は、そのなかでも、人間の思考そのものの見方を組み替えた一冊として読み継がれてきた。

つまり『野生の思考』という題名は、最初から二重の意味を抱えている。「野生」を「未開で劣ったもの」と受け取った瞬間に、この本の芯はすべり落ちてしまう。レヴィ=ストロースが「野生」と呼んだのは、遅れた人々の頭の中身ではない。栽培されず、飼いならされず、人類のだれの中にも野生のまま残っている思考のことだ。

この本でレヴィ=ストロースがしたことは、新しい概念をひとつ発明したというより、もっと目立たない、根の深い仕事だった。野生と科学、未開と文明を上下に並べる——その上下の見方そのものを疑い、優劣なく捉え直したのだ。

1. ブリコラージュ——ありあわせで間に合わせる知性

レヴィ=ストロースが持ち出すのは、フランス語の「ブリコラージュ」という言葉だ。日曜大工や、ありあわせの繕いごとを指す。それをする人を「ブリコルール」、器用人と呼ぶ。

器用人の特徴は、手元にあるものでなんとかする、という一点にある。新しい部品を買いに行くのではない。引き出しや物置に溜め込んだ、古いネジ、端切れ、壊れた道具の部品——使い道の決まっていない断片の集まりが、その人の全財産だ。何かを作る必要が出てきたとき、器用人はその有限の手持ちを見渡し、これとこれを組み合わせれば間に合う、と考える。材料の世界は閉じている。だから器用人は、材料に合わせて目的のほうを少し変えてでも、いま在るもので仕上げる。

レヴィ=ストロースはこれを、エンジニア——技師の仕事と並べてみせる。技師は逆だ。まず設計図があり、目的がある。その目的のために、必要な材料と道具を新しく調達する。足りなければ、世界そのものに問いを発して、新しい資源を取りに行く。手持ちには縛られない。

神話をつくる思考は、器用人の側にある、とレヴィ=ストロースは言う。神話や儀礼は、その文化がたまたま手にしている断片——動物、植物、星、季節、色、かたち——を組み替えて、世界の意味を編み上げる。新しい材料を発明するのではなく、すでに在るものの関係を組み替えることで、新しい意味が生まれる。一方、科学的な思考のほうは、技師の仕事に近い。目的に合わせて、概念という道具を新しく鍛えていく。

たとえば、ある神話がなぜ熊と蜂蜜を結びつけ、別の神話がなぜ星々を兄と妹の物語に変えるのか。そこで使われているのは、その土地でたまたま手に入る動物や植物や天体だ。器用人が引き出しの中身で間に合わせるように、神話をつくる思考も、身のまわりにある具体的なものを記号として拾い上げ、つなぎ合わせて、世界の成り立ちを語っていく。素材は決して無限ではない。だからこそ、限られたものをどう関係づけるかに、その文化の知恵が宿る。

ここで取り違えやすいのは、ブリコラージュを「行き当たりばったりの素人仕事」と受け取ってしまうことだ。間に合わせ、と聞くと、いいかげんな思いつきのように響く。だがレヴィ=ストロースが見ていたのは逆だった。限られた手持ちのなかで、何と何をどう組み合わせれば成立するかを読む——それは厳密で、論理的で、知的な作業だ。乏しいから雑なのではない。乏しいからこそ、関係を読む目が細かくなる。

そしてレヴィ=ストロースは、もうひとつの言葉を用意している。「具体の科学」。野生の思考は、抽象的な概念で世界を整理するのではない。動植物の色やかたち、匂い、鳴き声、季節の移り変わりといった、目や手でつかめる具体的な性質を記号として使い、世界を細かく分類していく。ある民族が数百種の植物を見分け、名づけ、用途と意味の体系に組み込んでいる——そうした分類は、近代人が想像するよりはるかに精密で、隙がない。「未開」と呼ばれてきた社会の頭のなかには、緻密な秩序が動いている。

大切なのは、この分類が、科学になりそこねた手前の段階ではない、ということだ。それは別の出発点を持つ、もうひとつの秩序の作り方だ。抽象的な概念から世界を切り分けていくやり方と、目に見え手に触れる性質から世界を編んでいくやり方。レヴィ=ストロースは、その二つを、未熟と成熟としてではなく、向きの違う二つの完成したやり方として見ていた。

2. 「未開」ではなく「飼いならされていない」

だからレヴィ=ストロースにとって、「野生の思考」は決して「未開人の思考」ではなかった。それは、栽培されず飼いならされないまま、すべての人間のなかに残っている思考の様式だ。アマゾンの奥地に暮らす人にも、パリの研究室に座る学者にも、同じように働いている。

科学的な思考と野生の思考は、確かにアプローチが違う。けれども、その違いは上下の違いではない。野生の思考の側にも、たとえ本人が意識していなくても、れっきとした知的な構造がある。レヴィ=ストロースの見立てでは、どの文化の思考も、根っこの構造そのものは変わらない。変わるのは、その構造がどう現れるか、どんな材料を使って組み立てられるか、という現れ方のほうだけだ。

これは、当時の常識への正面からの異議だった。人類の歴史を、未開から文明へと一本道で登っていくはしごのように見る——そういう進歩史観が、長いあいだ前提として共有されていた。未開社会は、文明社会がとうに通り過ぎた下のほうの段にいる、というわけだ。レヴィ=ストロースは、このはしご自体を疑った。文化は下から上へ並ぶのではない。どれも、それぞれのやり方で成り立っている。

この上下の見方は、ただの分類法ではなかった。下の段にいるとされた人々は、いずれ上の段——つまり西洋——へ近づくべき途中の存在として扱われ、その文化は、遅れて取り残された残りものと見なされてきた。レヴィ=ストロースが崩そうとしたのは、この一本道の前提そのものだ。植物の分類に数百の語を持つ社会と、原子の構造を数式で書く社会は、同じ一本の道の手前と先にいるのではない。それぞれが、それぞれの素材で、それぞれの秩序を作り上げている。

ただ、レヴィ=ストロースは反対の極に振れたわけではない。彼は「未開社会のほうがほんとうは優れている」と言ったのではない。素朴な知恵を持ち上げて、文明を貶めたわけでもない。優劣をつけない——ただ上下を立てない、という一点にとどまっている。理想化もしなければ、見下しもしない。ただ、上か下かで測ること自体をやめる。それがどれほど抑制のいる態度かは、私たちが何かを評価しようとするとき、つい上か下かに並べたくなる癖を思えばわかる。

3. 言葉が私を通して語る——構造主義という土台

この、上下をつけないという見方を、レヴィ=ストロースは言語学から受け取っていた。

言語学者ソシュールは、言葉の意味がどこから来るのかを問い直した人だ。ひとつの単語は、それ自体で意味を持っているのではない。「赤」という語は、「青」や「緑」や「黄」との違いのなかで、はじめて「赤」になる。意味は、要素そのものにではなく、要素と要素の関係、その差異の網の目から生まれてくる。ヤコブソンの音韻論も、似た見方を音の側で示していた。

レヴィ=ストロースは、この考え方を文化全体に広げた。神話のひとつひとつの要素も、親族のひとつの関係も、それ単体では意味を持たない。他の要素との関係、対立や差異の体系のなかで、はじめて意味を帯びる。文化を、要素の寄せ集めとしてではなく、関係の体系として読む——これが、のちに構造主義と呼ばれる見方の土台になった。

親族の呼び名を思い浮かべるとわかりやすい。「叔父」という語が指す関係は、その社会が父方と母方をどう区別し、どんな婚姻の決まりを持つかという、関係の全体のなかで、はじめて意味が定まる。「叔父」だけを取り出しても、それが何を指すのかは決まらない。神話も同じで、一人の登場人物や一匹の動物は、物語全体の対立と対応のなかで役割を受け取る。レヴィ=ストロースは、こうした関係の網を、文化の違いを越えて読み解こうとした。

この見方には、ひとつの重い含みがあった。主体の、脱中心化だ。ふつう私たちは、「私が考え、私が言葉を話している」と感じている。意味の出どころは、この自分だと。だが、意味が関係の体系から生まれるのなら、話は逆になる。私が言葉を話しているというより、私より先にある言葉の体系のほうが、私を通して語っている。考える主体である「私」は、意味の出発点ではなく、もっと大きな構造の結び目のひとつにすぎなくなる。

ここを、人間性の否定と受け取ってしまう読み方が、当時もいまも根強くある。人間を、構造に操られるだけの空っぽな器にしてしまうのではないか、と。けれどもレヴィ=ストロースがしていたのは、人間を消すことではなく、人間を世界の中心の座から降ろすことだった。世界は人間の意識を中心に回っている——その人間中心の見方を、一段ゆるめる。それは同時に、西洋という特定の文明を、人類の中心に据える見方をゆるめることでもあった。

4. 歴史という神話——サルトルとの論争

この姿勢が、本のいちばん最後で、はっきりとした論争の形をとる。最終章で、レヴィ=ストロースは哲学者サルトルに向き合う。

当時のサルトルは、『弁証法的理性批判』で、人間の歴史と意識に特別な場所を与えていた。人間は自由な意識をもって、歴史をみずから作っていく存在だ——その実存主義の立場から、歴史を引き受けることに人間の尊厳を見ていた。

レヴィ=ストロースは、そこに静かに、しかし鋭く切り込む。サルトルが特権的なものとして掲げる「歴史」——それ自体が、ひとつの壮大な神話なのではないか、と。歴史を意識し、進歩として引き受ける。それは西洋という文明がたまたま採用した、ひとつの物語の形にすぎない。ところが西洋は、その物語を人類普遍の理性そのものだと思い込み、それを持たない社会を「歴史のない、停滞した人々」として下に見てきた。

この身ぶりは、さきほどのはしごと同じものだ。歴史を持つ者だけが本物の理性を持つ、という構え。それは、西洋人が他の文明を野蛮と見下してきた傲慢と、根のところで同じだとレヴィ=ストロースは見抜いた。だから彼は、サルトルの歴史を、人類の頂点からひきはがして、数ある神話のひとつに戻す。野生の思考にしたのと、まったく同じことを、西洋の歴史意識にもしてみせたわけだ。

レヴィ=ストロースには、「冷たい社会」と「熱い社会」という有名な対比もある。冷たい社会は、変化をできるだけ小さく保とうとする。出来事を、最初の出来事の繰り返しとして受けとめ、神話によって均衡を保ち、歴史の積み上がりを拒む。熱い社会は逆に、歴史と進歩を、自分を動かす原動力にする。近代社会は、この熱い側にいる。ただし、この対比を「だから冷たい社会のほうが正しい」と読むなら、また別の上下を作ってしまう。レヴィ=ストロースが繰り返したのは、どちらが上でも下でもない、という一点だった。

なぜ、これほど抽象的に見える論争が、人々を動かしたのか。当時のフランスでは、サルトルの実存主義が思想の中心にあり、人間の自由と決断こそが歴史を作るのだという信念が、広く共有されていた。レヴィ=ストロースは、その信念に向かって、それもまた一つの神話だと言ってのけた。中心にあったものを、ほかと同じ平面に引き下ろす——そのやり方が、当時の知識人に新鮮な衝撃を与えた。

この最終章での身ぶりが、当時の知の風景を大きく動かした。意識と自由を軸にする実存主義に代わって、関係と構造を軸にする構造主義が、ここから一気に前へ出ていくことになる。

おわりに

こうして辿ってみると、レヴィ=ストロースが一冊をかけて問い直していたのは、たったひとつの癖だったことがわかる。野生と科学、未開と文明、他者と自分を、上下に並べてしまう癖。彼はそれを否定するのでも、ひっくり返すのでもなく、ただ、上下という物差しそのものを外してみせた。

そして「野生の思考」は、遠い島やジャングルのなかにだけあるものではない。

夕方、冷蔵庫を開けて、半端に残った野菜と、昨日の煮物と、卵を見渡す。買い足しには行かない。いま在るものだけで、今夜の一品を組み立てる。あるいは、ネジや端切れや空き瓶を溜めた引き出しを前にして、これで何が作れるだろう、と考える。あのやり方は、レヴィ=ストロースが器用人と呼んだ思考そのものだ。限られた持ち物を見渡し、関係を組み替えて、間に合わせの意味を作る。

私たちは毎日、それをしている。設計図から始める技師の思考と、ありあわせから始める器用人の思考は、どちらかが上ということではなく、両方が私たちのなかで働いている。野生の思考は、人類の幼年期の名残ではない。いまも、台所の隅や、手元の引き出しのなかで、動き続けている。レヴィ=ストロースが光を当てたものは、本のページのなかだけでなく、私たちの日々の暮らしのなかにも、地続きで延びている。

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