『獄中からの手紙』ガンディー — 奪われないものだけが、自由にする
牢から届いた手紙
1930年、マハトマ・ガンディーは牢の中にいた。ヤラヴダー中央刑務所。市民的不服従の運動が高まり、塩の行進のあと、彼は捕えられて、鉄格子の内側に閉じ込められていた。手足の自由は奪われている。外の世界で何が起きているのか、牢の中の彼には十分に届かない。
その牢の中から、ガンディーは毎週一通ずつ、手紙を書いた。宛先は、彼がインド西部につくった修道場、サーバルマティー・アーシュラムだった。そこで寝食をともにし、彼の教えを日々の暮らしのなかで実践しようとしている弟子たちである。原文はグジャラート語で書かれ、のちに一冊にまとめられた。岩波文庫では、森本達雄の訳で十六通を読むことができる。
手紙に書かれていたのは、少し意外なものだった。独立を勝ち取るための檄でも、投獄した権力への抗議でもない。一週ごとに一つ、生き方の掟が説かれていく。真理。アヒンサー。持たないこと。盗まないこと。おそれないこと。味覚を抑えること。額に汗して働くこと。どれも政治の大きな言葉ではなく、日々の暮らしの、ごく具体的な作法だった。
牢に入れられた男が、何を食べ、どう働き、何を持たずに生きるかを、穏やかに弟子へ書き送る。その手紙を読み進めていくと、あることに気づく。ここに並んだ掟は、ばらばらのようでいて、どれも同じ方向を向いている。奪われうるものを、はじめから手放しておくこと。どの掟も、その一点へまっすぐ向かっているのだ。
真理とアヒンサー
十六通のうち、最初に来るのは真理の手紙だ。サンスクリットでサティヤ。ガンディーにとって、真理は数ある徳目の一つではなく、すべての中心にある。嘘をつかないという狭い意味を越えて、彼は真理そのものを神と呼ぶところまで踏み込む。人が一生をかけて近づいていく、いちばん高いもの。それが真理だった。真理は、誰かに与えてもらうものでも、力ずくで手に入れるものでもない。自分の暮らしを正すことを通して、少しずつそこへ近づいていくほかない。だからこそ、真理を求める営みは、日々どう生きるかという具体の問いになる。牢の中のガンディーが、まず真理から書きはじめたのは、そういう理由だったのだろう。
その真理へたどり着くための道として説かれるのが、二番目のアヒンサーだ。ふつうは非暴力と訳される。だが手紙を読むと、この言葉がもっと広く、もっと熱いものだと分かってくる。アヒンサーとは、人を傷つけないという消極的な戒めにとどまらない。ガンディーはこれを、はっきりと「愛」と言い換える。憎むこと、嘘をつくこと、性急であること、誰かの不幸を願うこと。そうした心の動きのすべてが、アヒンサーを損なう。手を上げないだけでは足りない。心の底から誰も憎まないところまで行って、はじめてアヒンサーは満たされる。
真理とアヒンサーは、分かちがたく結ばれている。ガンディーはそう書く。アヒンサーは手段であり、真理は目的だ。愛をもって生きることでしか、人は真理にたどり着けない。だから彼にとっての非暴力は、独立を勝ち取るための便利な戦術ではなかった。それは、真理へ向かって生きようとする者が、日々選び取っていく心のかたちだった。相手を打ち負かして奪うのではなく、相手のなかにも真理があると信じて、憎しみを手放す。この一点が、あとに続くすべての掟の根になっている。
持たないという掟
ガンディーの誓戒には、持つことをめぐる二つの戒めがある。不盗と、無所有だ。
不盗は、盗まないこと。これは、他人のものを奪わないという当たり前の話にとどまらない。自分に必要のないものを持つこと自体が、すでに一種の盗みなのだ、とガンディーは考える。世界のどこかに、それを本当に必要としている人がいる。自分が使いもしないものを抱え込むことは、その誰かから奪っているのに等しい。持つことと盗むことは、彼のなかで地続きになっている。
無所有は、持たないこと。サンスクリットでアパリグラハという。明日のための蓄えを抱え込まず、いま要るものだけで暮らす。この二つの戒めは、そろって同じところを指している。持てば持つほど、失うことがこわくなる。蓄えれば蓄えるほど、それを奪われまいと身構えるようになる。たくさん持つ者は、それだけたくさん奪われうる。逆に、はじめから持たない者からは、奪えるものが何もない。
ガンディーが牢の中で無所有を説いたことには、妙な凄みがある。持ち物のほとんどない男を、牢はどう罰することができるだろう。財産を差し押さえようにも、差し押さえるものがない。彼の無所有は、清貧という美しい言葉で片づけられるものではなかった。それは、奪われて困るものを、生きているうちに一つずつ減らしていく作法だった。少なく持つほど、奪われる隙は小さくなる。手放すことは、貧しさに耐えることではない。むしろ、何を奪われても揺るがない身になっていくことだった。牢の外にどれほどの財があっても、それを守るために心を削られる者より、何も持たずに壁の内側で糸を紡ぐ者のほうが、ずっと動じずにいられる。持たないことは、弱さではなく、いちばん堅い守りなのだ。奪われるものがそもそもなければ、はじめから怯える理由もなくなっていく。
味覚と労働
暮らしの掟のなかには、身体にじかに触れるものがある。嗜欲の抑制と、パンのための労働だ。
嗜欲の抑制。ガンディーは、味覚を抑えることを重んじた。食べることは生きるために欠かせないが、舌を喜ばせるために食べはじめると、際限がなくなる。うまいものを求める心は、より多くを、より贅沢にと膨らんでいく。欲を治める浄行、すなわちブラフマチャリヤの入口として、彼はまず舌を抑えよ、と説く。食は、身体を保つための最小限でいい。舌の欲に引きずられないことは、それだけで、多くを持たない暮らしを支える土台になる。
パンのための労働。ブレッド・レイバーと呼ばれる誓戒だ。誰もが、自分の食べる分は、自分の身体を使って稼ぐべきだ、とガンディーは言う。額に汗して、手を動かして働く。頭を使う仕事だけで暮らし、身体を動かす労働を下に見る態度を、彼は退ける。畑を耕し、糸を紡ぐ。その手の労働こそが、人を地に足のついた自由へつなぎとめる。自分の食べる分を自分の手で得ている者は、それを誰かに握られることがない。働くことは、独立の別の名だった。
誓いという形
見落としてはならないのは、ガンディーがこれらの戒めを、ただの心がけや目標としてではなく、誓戒として説いていることだ。神の前で立てる、誓い。手紙のなかには、誓願の重要性そのものについての一通がある。中途半端に「なるべくそうしよう」と思うのと、はっきり誓いを立ててしまうのとでは、暮らしの張りがまるで違う、とガンディーは言う。誓いは、迷ったときに立ち返る杭のようなものだ。それがあるからこそ、人は日々の弱さに流されずにいられる。掟を守れるかどうかは、意志の強さより先に、誓いを立てたかどうかで決まる。
そして、その誓いの底には、犠牲という考えがある。サンスクリットでヤジュニャ。自分の欲や都合を、より大きなもののために明け渡すこと。持たない暮らしも、額に汗して働くことも、突き詰めれば、自分のためだけに生きるのをやめて、他者へ、世界へと自分を差し出していく営みだった。だから彼の誓戒は、個人が快適に生きるための工夫ではない。手放すことは、得るためではなく、明け渡すためにある。この解釈を誤ると、この本の真の姿は見えなくなる。少なく持つ暮らしを、幸福になるための賢いやり方として読んでしまうと、いちばん芯にある献身が抜け落ちる。
おそれないこと
誓戒のなかで、牢の中のガンディーにいちばん近いのは、無畏だ。おそれないこと。
彼は、あらゆるおそれから自由になることを求めた。財産を失うおそれ。地位を失うおそれ。傷つけられるおそれ。死ぬおそれ。人はこうしたおそれに縛られて、本当に正しいと信じることを口にできなくなる。権力が人を支配できるのは、その人が何かを失うことをおそれているからだ。だから、失うものを持たず、失うことをおそれない者の前では、権力はその力を失っていく。
牢は、人からおそれを引き出す場所だ。自由を奪い、罰をちらつかせ、屈服させようとする。だがガンディーは、その牢の中から、おそれないことを説いた。奪われて困るものを、彼はもう手放している。真理とともにあり、誰も憎まず、持ち物も少なく、自分の手で働く。そういう生き方をしている者から、牢は何を奪えるだろう。壁は彼の身体を囲えても、彼の生き方の根までは届かない。無畏とは、勇ましさのことではなかった。奪われて困るものを先に手放しておいた者にだけ、あとから身の軽さが訪れる。それが無畏だった。
奪えない自由
ここまで読んでくると、ばらばらに並んでいた掟が、一本の線でつながってくる。真理。アヒンサー。不盗。無所有。無畏。嗜欲の抑制。パンのための労働。どれも、奪われうるものを、はじめから手放しておくための作法だった。
最初の五つの誓戒、真理、アヒンサー、浄行、不盗、無所有は、古くからインドに伝わるジャイナ教の五大誓戒に連なるものだ、と訳者の森本達雄は解説している。ガンディーはそこへ、パンのための労働や、不可触民制の撤廃や、すべての宗教への寛容といった、彼自身の時代に必要な徳目を加えていった。古い戒めと、新しい徳目が、一人の生き方のなかで結び合わされている。
加えられた掟のいくつかは、彼が生きたインドの現実に深く根ざしている。不可触民制の撤廃は、生まれによって人を上下に分け、ある人々から人間としての尊厳を奪う仕組みそのものへの拒絶だった。奪われてはならないものの筆頭に、彼は人の尊厳を置いている。身近なものを用いるスワデシーの教えも、遠い誰かに暮らしを握られず、自分たちの手で日々を立てる、という同じ願いから出ている。すべての宗教への寛容もまた、どれか一つが他を裁いて信仰を奪うことへの、控えめな抵抗だ。どの掟をたどっても、行き着く先は変わらない。奪われてはならないものを守るために、奪われうるものを先に手放す。
貫いているのは、自由についての一つの考え方だ。自由とは、何でも思いどおりにできる力のことではない。奪える相手がいるかぎり、そういう自由はいつも危うい。ガンディーの掟は、奪える手の届かないところへ、生の土台をそっくり移してしまう。持たない者は奪われない。おそれない者は脅されない。自分の手で働く者は、食べる分を断たれない。愛のうちに生きる者から、憎しみは奪えない。そこまで土台を移したとき、牢の壁は、その人を閉じ込める力を少しずつ失っていく。
これが、身体を牢に閉じ込められた男が、いちばん自由な生き方の掟を書けた理由だった。壁の内側にいたからこそ、奪われないものだけが人を自由にする、というこの逆説が、彼の手のなかで確かな重さを持ったのだと思う。
手紙の宛先
忘れてはいけないのは、これらの掟が、大衆に向けた宣言ではなかったことだ。ガンディーが手紙を書き送った相手は、修道場でともに暮らす、数えるほどの弟子たちだった。だから文章は、演説の調子ではない。今週はこの誓戒について考えてみよう、と語りかける、穏やかな私信の調子で書かれている。難しい理屈より先に、明日の食事の話や、糸の紡ぎ方の話が出てくる。掟は、生活の細部から立ち上がっている。抽象的な思想としてではなく、今日の一皿、今日の一仕事のなかで、どう生きるかとして手渡されている。
ここに、この本を読むときの一つの鍵がある。『獄中からの手紙』は、インド独立運動の資料として読むこともできる。だが、それだけにしてしまうと、いちばん大事なものを見落としてしまう。ガンディーがここで説いているのは、特定の国の、特定の時代の政治ではない。どう食べ、どう働き、何を持ち、何をおそれずに生きるか。時代や国を越えて、誰の暮らしにも届く問いだ。
そして、これを書いたガンディーは、遠くにそびえる聖人ではない。「マハトマ」、偉大なる魂、という敬称で呼ばれ、いまも聖人のように語られることが多い。だが手紙のなかの彼は、弟子たちの日々の食事を気にかけ、糸の紡ぎ方に頭を悩ませ、味覚を抑えることの難しさを自分でも知っている、一人の生活者だ。本名をモーハンダース・カラムチャンド・ガンディー。その人が、牢の中から、暮らしの細部を一つずつ書きつけている。掟を説く声の柔和さが、この本に静かな熱を生んでいるのだ。
おわりに
ガンディーは、この手紙を書いたあとも、幾度となく牢に入れられた。1869年に生まれ、1948年に凶弾に倒れるまで、彼の生涯は、投獄と釈放の繰り返しだった。権力は、彼の身体を何度でも壁の内側に閉じ込めることができた。
だが、閉じ込めるたびに、奇妙なことが起きていたはずだ。真理とともに生き、誰も憎まず、ほとんど何も持たず、自分の手で働き、何もおそれない男。その男から、牢は奪えるものを見つけられない。壁はなくならない。鉄格子も、見張りも、罰も、そのまま残っている。それなのに、掟に生きる者にとって、壁の内と外の差は、少しずつ小さくなっていく。
奪われないものだけが、人を自由にする。牢の中から弟子たちへ書き送られた十六通の手紙は、いまも同じことを、こちらへ差し出している。何を得れば安心できるのかと問う前に、まず、奪われて困るものを一つずつ手放してみること。自由とは、勝ち取るより先に、そうやって暮らしのなかで少しずつ育てていくものなのだ。
