G-0C41NE8DJB 『燃えよ剣』 — 武士でなかった男が、 武士のように死んだ|亀吉の呟き
亀吉の書評

『燃えよ剣』 — 武士でなかった男が、 武士のように死んだ

『燃えよ剣』 — 武士でなかった男が、 武士のように死んだ
yoshiomi

武州多摩の百姓の家に、 土方歳三という男が生まれた。 触ると棘で怪我をする茨のように乱暴で、 周囲に「バラガキ」 と呼ばれた少年だった。

原田眞人監督・脚本『燃えよ剣』 (2021) は、 司馬遼太郎が 1964 年に書いた長編小説を 148 分に圧縮して、 この男の生涯を追っている。 土方歳三を岡田准一が、 近藤勇を鈴木亮平が、 沖田総司を山田涼介が、 芹沢鴨を伊藤英明が、 お雪を柴咲コウが演じる。 第 45 回日本アカデミー賞最優秀美術賞、 新人俳優賞 (尾上右近・松平容保役) を獲り、 興行収入は 11.8 億円、 公開週末興行 1 位。

ただ、 数字や受賞より、 この映画について書くときに最初に確認したいことが一つある。 土方歳三は、 武士ではなかった。 ということである。 ここから始めなければ、 この映画を紐解くことはできない。

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1. バラガキの遠さ — 「武士」 という言葉が遠かった頃

土方の家は、 武州多摩郡石田村の豪農である。 田畑があり、 家屋があり、 ある程度の暮らしの余裕はあった。 ただし武士ではない。 江戸時代の身分制度において、 百姓と武士の間には、 制度的に超えられない壁があった。 土方はその壁のこちら側にいて、 壁の向こうにある「武士」 という言葉を、 遠くから眺めていた。

少年時代の土方は「バラガキ」 と呼ばれていた。 茨のように、 触れば怪我をする乱暴な子供、 という意味である。 喧嘩っぱやく、 行儀が悪く、 周囲の大人を困らせた。 映画はこの「バラガキ」 の遠さを、 序盤の試衛館の場面で繰り返し見せる。 土方は天然理心流の道場に通うが、 そこで学んでいる「剣」 は、 武士の剣ではなく、 田舎の百姓が習う実用の剣である。 上洛前に「百姓臭い歩き方」 を直す稽古をする場面がある。 歩き方を直さなければ、 武士のふりすらできない。 そういう距離が、 序盤の土方には張りついている。

近藤勇と沖田総司も同じ場所にいる。 三人は「武士になる」 という言葉を共有している。 ただし三人にとってその言葉が何を意味するかは、 おそらく少しずつ違う。 近藤は天然理心流の正式後継として「家を成す」 という方向に向かっている。 沖田は天才剣士としての才能だけで、 身分の壁を飛び越えようとしているように見える。 土方は — その二人より、 壁を意識している。 越えられない壁があるという感覚を、 一番強く抱いている。

そして 1860 年、 桜田門外で井伊直弼が暗殺される。 幕府の威信が揺らぎ、 時代が動き出す。 京都守護職・松平容保が浪士組を募集する。 武士の正規ルートで身分を上げることは難しいが、 動乱の時代に手柄を立てれば、 武士に成れる可能性が出てきた。 土方たちはそこに飛び乗る。 「武士になる」 という夢を、 抽象的な憧れから、 具体的な計画に変える瞬間が、 この映画の出発点になっている。

ただ、 この出発点で、 土方は武士ではない。 武士になりたい男である。 その差を、 映画は曖昧にしない。 序盤の土方は、 まだバラガキの距離を引きずったまま、 京都に向かって歩いていく。

2. 副長の苛烈 — 武士であろうとする動作が、 武士ではない動作になる

新選組の前身、 壬生浪士組が発足する。 浪士組を発案した清河八郎 (髙嶋政宏) が倒幕の本心を露わにすると、 近藤・土方らはそこから離脱し、 京都守護職の松平容保の下で会津藩の管轄下に入る。 土方は副長になる。

副長というポジションは、 局長・近藤勇の右腕として隊規律を作り、 内部の統制を担う場所だ。 土方はここで、 自分が思い描く「武士の組織」 を作ろうとする。 隊則を作る。 違反者を切腹させる。 そして、 内部に芽が出た「武士でない動き」 を順に潰していく。

最初に潰されるのは芹沢鴨 (伊藤英明) である。 壬生浪士組の頭格として並んでいた芹沢は、 京都での横暴 — 商家への襲撃、 火付け、 暴力 — を重ねていく。 松平容保から呼び出された土方は、 沖田総司、 井上源三郎 (たかお鷹)、 斎藤一 (松下洸平) を連れて、 芹沢が芸妓と同衾している家に押し入る。 そして殺す。 これは「武士の組織」 を作るために、 武士のように振る舞えない者を内部から消す動作である。

次に山南敬助 (安井順平) が、 隊則違反として切腹に追い込まれる。 そして伊東甲子太郎 (吉原光夫) の離脱があり、 油小路で土方は伊東と藤堂平助 (金田哲) を含む御陵衛士を暗殺する。 三度、 内部の血が流れる。 三度、 「武士でなかった者」 が「武士の組織」 を整えるために、 武士でない動作を選ぶ。

ここに、 この映画が観察している非対称がある。 武士であろうとするほど、 武士ではない動作 (内部粛清、 暗殺、 切腹強要) が必要になる。 隊規律を整えれば整えるほど、 整えるために流す血が増えていく。 土方は「真の武士の組織」 を作ろうとしているが、 その「真の武士」 という理想は、 内部からの血を絶えず要求してくる。

岡田准一の演じる土方は、 この動作を淡々と行う。 苦悩を大きく見せたりしない。 殺意を演じることもしない。 ただ手順を踏むように、 内部の血を流していく。 副長として「武士になる」 ためには、 こうするしかない、 という顔をしている。 ただし「こうするしかない」 という判断そのものが、 武士の判断ではない。 武士は、 武士であろうとして自分を作り変える必要がない。 武士でなかった者だけが、 武士になるための動作を必要とする。

土方の副長としての苛烈さは、 だから、 武士の苛烈さではない。 武士になりたかった男が、 武士になる前に、 武士のように振る舞うための苛烈さである。 その差を、 映画は説明しない。 ただ行為を淡々と見せ続けることで、 我々はその差を自分で感じ取ることになる。

3. お雪という存在 — 隊規律の外側に立つ顔

お雪 (柴咲コウ) は、 司馬遼太郎が原作で書いた創作の人物だ。 実在しない。 美濃国大垣藩の侍の妻だったが、 夫を亡くしたあと、 京都で一人住まいをしている、 という設定で物語に登場する。 映画版では、 この創作キャラに原作以上の重みが与えられている。 池田屋事件の情報を土方に伝える役割を担い、 物語の各所で土方と再会し、 最後は函館まで土方を追ってくる。

お雪が物語に置かれている意味は、 「土方の内側」 を映すための存在として、 である。 隊規律の中の土方は、 副長として隊士に対し顔を整えている。 内部粛清を実行する顔である。 苛烈で、 表情を消し、 手順を踏む。 ところがお雪の前では、 その顔が少しずつ崩れる。 笑う場面がある。 弱音に近い言葉を漏らす場面がある。 「武士になる」 という言葉を、 隊士の前では「決意」 として語る土方が、 お雪の前では別のものとして語っている。

ここで観察できるのは、 「武士になる」 という選択が、 何を消したかという問いである。 土方が副長として整えた顔は、 もともと土方が持っていた顔ではない。 バラガキだった少年の顔でもなければ、 多摩の百姓の顔でもない。 「武士の組織」 を作るために、 土方が自分の上に塗り重ねた顔である。 お雪の前でだけ、 土方は別の顔を見せる。

お雪との場面で映画は、 二人の恋愛そのものを大きく描こうとはしていない。 抱擁の場面はあり、 言葉の交換はある。 ただ、 ロマンスとして観客の感情を煽る作りにはなっていない。 むしろ、 お雪はそこに静かに立っていて、 土方が副長としての顔を一瞬下ろす場所として、 機能している。

お雪が原作よりも濃厚な役柄になったことの意味は、 おそらくここにある。 映画は土方の「武士になる」 という選択の重さを、 「武士になる」 ことが何を消したかを通して見せようとしている。 消されたものは、 言葉では取り戻せない。 ただお雪の前にいる土方の表情の中に、 一瞬だけ立ち上がる。 その一瞬の積み重ねが、 映画の中で我々が拾っていく「土方の内側」 の全部である。

4. 退路を選ばなかった — 土方を押さえつけた理想

鳥羽伏見の戦いで新選組は敗ける。 慶喜が大坂城から江戸へ撤退する。 戊辰戦争の流れの中で、 旧幕府軍は連戦連敗する。 土方たちにも、 退路の選択肢はあった。

近藤勇 (鈴木亮平) は流山で投降する。 投降した近藤は、 板橋で斬首される。 「武士になる」 という夢を共に抱いて多摩から出てきた相棒が、 武士の死に方ではなく罪人の死に方で消される。 近藤は最後まで「大久保大和」 という別名を名乗り、 自分が新選組局長であることを隠そうとする。 武士として処断されることを免れようとした、 とも、 ただの生存戦略だった、 とも読める。 ただし結果として近藤は、 武士の死に方を選べなかった。

土方は、 違う道を選ぶ。 江戸に戻った後、 大鳥圭介 (柄本明) や榎本武揚 (市村正親) と合流し、 北上する。 仙台、 そして蝦夷へ。 蝦夷地で旧幕府軍は「蝦夷共和国」 を立ち上げ、 五稜郭を拠点に新政府軍との戦いを続ける。 鳥羽伏見の敗北から五稜郭の最期まで、 約一年半。 その間ずっと土方は戦い続ける。

これを英雄主義として読むことはできる。 ただし、 この映画はそういう読み方を促していない。 土方は退かないが、 退かないことを誇示するわけでもない。 ただ前に進む動作だけが続いている。 そこにあるのは、 一度握った理想が土方を押さえつけている、 という構造だ。 武士であろうとした男には、 武士でない人生に戻る選択肢は残っていない。

近藤の死は、 この構造を別の角度から照らしている。 近藤は最後に「武士の死に方」 を選べなかった。 土方はそれを見ている。 そして自分は、 近藤の死に方ではない死に方を選ばなければならない、 と意識した可能性がある。 映画はそれを台詞で説明しない。 ただ近藤の死後の土方の動作が、 ますます単線的になっていく。 蝦夷へ行く。 五稜郭で戦う。 戦い続ける。 別の選択肢がそこにあるかのようには、 もう動かない。

蝦夷地での土方の身分は、 旧幕府軍の幹部である。 大鳥や榎本の側で陣中の指揮を執り、 五稜郭という具体的な建物の中で、 具体的な作戦を立てる。 ここで初めて、 土方は「副長」 ではなく「武士の組織の幹部」 として動いている。 京都の壬生浪士組の副長から、 蝦夷の旧幕府軍幹部へ。 立ち位置は変わったが、 「武士であろうとし続ける」 という選択は変わっていない。 むしろ、 変えることができなくなっている。

5. 単騎の突撃 — 武士としての死に様

1869 年 5 月 11 日、 新政府軍が五稜郭への総攻撃を始める。 蝦夷共和国は最終局面に入る。 土方は単騎、 馬に乗って、 新政府軍の陣地へ向かう。 自分の名を名乗る。 抜刀する。 そして、 無数の銃弾を浴びる。

この場面が、 映画の到達点である。 そして、 この映画が観察し続けてきた非対称の完成でもある。

単騎で敵陣に向かうことは、 武士の死に方の一つの形式である。 名前を名乗ること。 抜刀すること。 撃たれること。 これらの動作を、 土方は一つずつ踏んでいる。 武士が武士として死ぬ作法を、 武士でなかった男が、 ここで完璧に踏んでいる。

映画はこの動作を、 ゆっくりと見せる。 土方の顔は、 苦悩でも恍惚でもない。 ただ、 やるべきことを順に果たしている顔をしている。 副長として隊規律を整えたときの顔、 内部粛清を実行したときの顔、 そしてお雪の前で一瞬下ろした顔。 そのどれとも違う、 もう一つの顔が、 ここで現れている。 それは、 武士の死に方を選んでいる顔だ。

ただし、 この達成は答えにならない。 土方は「武士になる」 ことを夢として抱いてきた。 そして武士の死に方をここで達成した。 達成した、 ということだけが、 その場に残る。 しかし「武士になる」 とは結局何だったのか、 という問いは、 残ったままになっている。 死に方の作法を踏んだことと、 武士になったことは、 同じことだろうか。 その解釈は、 我々に委ねられている。

土方が銃弾を浴びて落馬する。 五稜郭の救命所では、 お雪が傷病兵の手当てをしている。 土方の死体は、 そのお雪のもとに運ばれてくる。 ここで二つの線が交差する。 「武士になる」 ために塗り重ねた顔と、 お雪の前で時々下ろしていた顔。 その二つを抱えた土方の体が、 一つの場所に運ばれる。 お雪は、 そのどちらの土方を見送ったのだろうか。 これも映画は語らない。

おわりに. 武士になるとは何だったのか

土方歳三は武士になったのか、 ならなかったのか。

事実として、 土方は武士の身分制度の中で武士に登録されたわけではない。 旧幕府軍幹部としての立場はあったが、 江戸時代の意味での武士ではない。 ただし武士の死に方は完璧に果たした。 名乗りを上げて、 抜刀して、 単騎で敵陣に向かって、 撃たれた。 これより武士的な死に方は、 制度上の武士であっても、 そう簡単には選べない。

この非対称を、 映画は答えに変えない。 「土方は武士になった」 とも「ならなかった」 とも判定しない。 ただ、 武士でなかった男が、 武士になる以上に武士であろうとして、 武士のように死んだ。 それだけが映画から残るもののすべてである。

「武士になる」 という言葉を、 土方は若い頃から繰り返し口にしていた。 多摩の試衛館で、 京都への上洛の道中で、 副長として隊規律を整える中で、 そしてお雪の前で。 場所と相手によって、 その言葉の中身は少しずつ違っていた。 一つの言葉の周りに、 違う意味の層が積み重なっていった。 そして最後の単騎の突撃で、 その全部が一つの動作に収束した。 どの層が本当の武士だったのか、 土方自身にも我々にもわからない。

岡田准一が演じる土方の表情は、 最後まで強い感情を表出しない。 苦悩を見せない、 達成感も見せない。 ただ、 やるべきことを順に踏んでいる顔をしている。 その淡々さの中に、 「武士になる」 という言葉の重さの全部がたたみ込まれている。 重さは表に出てこないが、 確かにそこにある。

司馬遼太郎が 1964 年に書いた小説を、 原田眞人が 2021 年に映画にした。 半世紀以上の時間を経て改めて取り出された土方歳三という男の生涯が、 「武士になる」 という言葉と「武士のように死ぬ」 という動作の間にある距離を、 もう一度測り直している。 その距離は、 答えにならないままで残る。 観終えた我々は、 それぞれその距離を抱えることになる。

武士でなかった男が、 武士になる以上に武士であろうとして、 武士のように死んだ。 その動作の連なりが残る。

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