『人間・この劇的なるもの』福田恆存 — 演じることは、嘘ではない
「自分らしく生きよう」「個性を大切に」「もっと自由に」。こうした言葉は、いまではほとんど疑いようのない前提になっている。正しさが空気のように行きわたり、わざわざ問い直そうという気も起きない。その空気を正面から裏返した評論が、七十年近く読み継がれている。福田恆存『人間・この劇的なるもの』。一九五六年、福田が四十四歳のときに新潮社から出た本である。
福田恆存は評論家であり、翻訳家であり、劇作家であり、そして演出家でもあった。シェイクスピアの戯曲を自ら訳し、舞台にかけた人物である。その福田が、演劇という一点から人間そのものを論じている。だからこの本の底に流れているのは、机の上でこねられた抽象ではない。実際に舞台を作ってきた者が、肌で掴んだ実感だ。
演じる、という言葉には、どこか後ろめたい響きがある。本音を隠している、自分を偽っている——そんな感じがつきまとう。福田はその感じを、根元からひっくり返す。演じることは嘘ではない。むしろ、人が人であるための、いちばん深い様式なのだ。この一冊は、そう言い切るために書かれている。
生きるだけでは足りない
本はこんな一節から始まる。「人間はただ生きることを欲しているのではない。現実の生活とはべつの次元に、意識の生活があるのだ」。生きてさえいればいい、というわけにはいかない、と福田は言う。人は生きながら、その生きている自分をどこかで眺めている。食べ、働き、眠る。その営みと並んで、いま自分が食べている、働いている、生きているという感覚を味わう、もう一つの生活が走っている。
犬や猫は、ただ生きているのだろう。腹が減れば食べ、眠くなれば眠る。そこに引き裂けはない。人間だけが、生きることと、その生を味わうことを、同時にやってのける。舞台の上で役を生きる俳優が、まさにそれを演じている自分をどこかで意識しているように。福田にとって、この二重性こそが人間の劇性であり、ここから彼のすべての議論が枝分かれしていく。
問題は、この二重性がしばしば人を苦しめることだ。生きるだけで精一杯なのに、その生を味わう目が、いつも自分を採点している。うまく生きられているか。これでいいのか。眺める自分と生きる自分が食い違うとき、人は自分が空回りしているように感じる。福田はその苦しさから逃げない。逃げないどころか、そこにこそ人間の値打ちがあると考える。
福田は、その空回りを、ただの病として片づけない。眺める目があるからこそ、人は自分の生を一つの物語として感じ取れる。ただ時間が流れていくのではない。始まりがあり、山場があり、終わりへ向かうものとして、人は自分の一生を筋のあるものとして生きる。動物には、この筋がない。腹が満ちれば安らぎ、危険が去れば忘れる。人間だけが、昨日の悔いを今日へ持ち越し、まだ来ない明日を怖れ、遠い死を思う。その重さと引き換えに、人は自分の生を意味あるものとして味わう力を手にした。福田は、この眺める力を捨てるべき重荷とは見ない。むしろ、それこそが人を人にしているのだと考える。生きるだけでは足りないというのは、欠けているという嘆きではなく、人はもともと二重に生きるようにできている、という発見なのだ。
自由ではなく必然を
この本でいちばん知られた一節は、私たちの常識を裏返す。「私たちが真に求めているものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起るべくして起っているということだ……生きがいとは、必然性のうちに生きているという実感から生じる」。
自由がほしい、と人は言う。選択肢は多いほうがいい、縛られたくない、と信じている。ところが、何を選んでもいい場所に立たされたとき、かえって足元が抜けたように感じることがある。どの道を選んでも同じに思え、選んだ手応えが薄い。福田が突いているのは、この空白だ。人が本当に飢えているのは、自由という選択肢の多さではなく、この道しかないという納得のほうなのではないか。
福田の言う「必然」は、外から押しつけられる鎖ではない。事が起こるべくして起こっている、という深い頷き。いま自分がここに居て、これをしていることに、揺るがない理由があるという実感である。舞台の俳優は、決められた動きと台詞に縛られている。次に何を言うかは、あらかじめ決まっている。それでも——いや、だからこそ、役はその必然の中で生き生きと立ち上がる。決められていることは、俳優を殺さない。決められた線の上を全身で走ることが、演技の生命になる。生きがいもまた、そこに似ている。
もちろん、これは不自由を讃える議論ではない。福田は、人を型にはめて黙らせよと言っているのではない。見ているのは、自由そのものが目的になったときに生じる空虚のほうだ。何のための自由か、という問いが抜け落ちると、選べること自体が宙に浮いてしまう。選択肢を数えるだけの毎日は、豊かに見えて、どこか痩せていく。決められた線が一本も引かれていない場所では、人はどこへも踏み出せない。必然とは、その痩せを埋めるものだ。自分の選択に芯を通す、内側からの理由づけである。この仕事を、この人を選んだのには、揺らがない理由がある——そう頷けたとき、はじめて選択は手応えを持つ。人は、縛られたいのではない。ただ、意味のある場所で縛られたいのだ。福田の逆説は、そこを射抜いている。
だれもが役を演じている
「程度の差こそあれ、だれでもが、何かの役割を演じたがっている。また演じてもいる」。福田はそう書く。親としての顔、仕事の顔、友の前での顔。私たちは一日のうちに、いくつもの役を替えながら生きている。それを疲れることだと感じ、素顔に戻りたいと願う。
けれど、と福田は言う。その「素顔」とは、いったい何なのか。役を全部はがした先に、混じりけのない本当の自分が待っているという保証は、どこにもない。役を脱いだ後に残るのは、もう一つの役か、あるいはただの生理現象だ。演技を偽りと呼ぶ人は、演技の向こうに嘘のない本体があると信じている。福田はその信仰を手放す。
演じることは、生きることを二重にする様式である。役を引き受けるからこそ、人はその役を通して他人とつながり、全体の中に自分の場所を持てる。医者は医者を演じることで患者に届き、親は親を演じることで子の前に立てる。演じるとは、必然を引き受けることの別名なのだ。だから福田にとって、役に徹する人は嘘つきではない。むしろ、自分に与えられた場所を最後まで生きようとする、誠実な人間の姿に近い。
役を演じることと、心を偽ることは違う、と福田は考えている。舞台の俳優は、役の中で泣くとき、機械のように涙を絞り出しているのではない。役に深く入り込み、役の悲しみを自分の悲しみとして生きている。その涙は本物だ。ただし、それが劇の中の涙であることも、俳優はどこかで知っている。生きることと、それを演じていると知っていること。この二つが同時に成り立つ状態を、福田は不誠実とは呼ばない。むしろ、自分の役を引き受けた人間の、いちばん張りつめた誠実だと見る。日々の私たちの顔も、それに近いのではないか。役だと知りながら、その役を本気で生きる。子の前で親であろうとし、患者の前で医者であろうとする。その懸命さのどこに、嘘があるだろう。福田は、演技を偽りと決めつける常識のほうを、しずかに退ける。
個性を信じるな
そして、この本で最も強い一句が来る。「個性などというものを信じてはいけない。もしそんなものがあるとすれば、それは自分が演じたい役割ということにすぎぬ」。
はじめて読むと、突き放されたように感じるかもしれない。個性を伸ばせと教えられ、自分らしさを探せと言われて育った身には、まるで冷水だ。だが福田は、読む者を叱っているのではない。むしろ、多くの人が抱えている息苦しさの、その正体を言い当てている。本当の自分を探せば探すほど、なぜか苦しくなる。自分らしさを問い詰めるほど、自分が薄くなっていく。その理由を、福田は個性という思想そのものの中に見る。
個性を、他人より優れた中身のように考えるのは、近代がこしらえた錯覚だと福田は言う。個性とは、その人が演じたいと望んでいる役割の名にすぎない。だとすれば、探すべきは内側に隠れた宝物ではない。自分がどんな役を生きたいのか、その一点だ。個性を守れという命令は、しばしば人を内へ内へと閉じ込める。福田はその扉を逆へ開ける。外へ出て、役を生きろ、というのだ。個性は、生きられた役割の後から、影のようについてくる。
この一句を、個性の全否定として読むと、福田の真意を取り逃がす。福田が奪おうとしているのは、内に隠された特別な何かという幻であって、その人らしさそのものではないからだ。むしろ逆だ。一つの役を最後まで生きた人には、その生き方の癖が、抑えようもなくにじみ出る。同じ親という役を演じても、演じ方は一人ひとり違う。同じ言葉を口にしても、間の取り方も声の張りも違う。その違いこそが、後から個性と呼ばれるものの正体だと福田は言う。だから、探すのをやめて、生きればいい。個性は初めから内に用意された目標ではなく、役を生きた後に残る跡なのだ。守るために内へこもるほど、それは細っていく。差し出すために外へ出るほど、それは濃くなる。自分らしさに苦しむ人へ、福田の一句は、遠回りに見えていちばん近い出口を指している。
部分でありながら全体に
劇場に座るとき、観客は不思議な場所にいる。物語の外にいながら、同時にその中へ深く入り込んでいる。舞台で人が死ねば胸が痛み、恋が成就すれば安堵する。自分は客席を動かないのに、劇の全体に参加している。福田は、この感覚を人間の劇性の核と見る。部分でありながら全体に触れている、というこの一体感を、人はどこかで求め続けている。
祭りは、かつてその一体感を人々に配っていた。決められた日に、決められた所作で、同じ火を囲む。一人ひとりは小さな部分にすぎないのに、その所作を通して、村という全体、季節という全体に連なった。自分の役は、大きな型の一部として意味を持っていた。だれが何を演じるかは、あらかじめ決まっていた。そこには、あの「必然」があった。
近代は、その型を解いた。役は自由に選べるものになり、祭りは薄れた。ところが、と福田は指摘する。社会があまりに複雑になったために、人はかえって自分の役を選べなくなった。何にでもなれると言われながら、何になっても全体につながる実感が得られない。行為は必然を欠いたまま、断片へと散っていく。自由の広さと引き換えに、私たちは全体に触れる感覚を失ったのではないか。福田の問いは、その喪失の手前で立ち止まる。
福田は、昔へ帰れと言っているわけではない。祭りの型をもう一度かぶり直せ、という懐古ではない。彼が惜しんでいるのは、型そのものよりも、型が人々に配っていたあの一体感のほうだ。部分でありながら全体につながっているという実感を、近代に生きる人はどこで取り戻せるのか。福田は、答えを急がない。ただ、自由を広げれば広げるほど、こぼれ落ちていく何かがあることを、目をそらさずに見つめる。便利さや選択肢の多さでは埋まらない渇きが、人の奥にはある。何にでもなれるという明るい約束の裏で、何になっても全体に触れられないという寂しさが濃くなる。その寂しさは、能力の不足でも努力の足りなさでもない。役を選べるようになった代わりに、役が全体とつながる回路のほうが細くなった。福田は、その渇きの名を、必然と呼び続ける。
死と祭りのほうへ
議論は、思いがけず深いところまで潜っていく。福田は最後に、死を持ち出す。人は自分の死を選べない。いつ、どこで終わるかは、個人の意志の外にある。近代人は、その決められなさを恐れ、なんとか自分の手で管理しようとする。だが福田は逆の方へ歩く。個の限界で与えられる死を、素直に信頼してみよ、というのだ。
死を信頼するとは、生と死の全体をかたちづくる自然を信頼することだ、と福田は言う。個人は、その大きな自然の一部として生まれ、役を生き、そして返っていく。儀式や祭りは、その自然の運びを小さく写しとった型だった。型に連なるとき、人は自分が部分でありながら全体に属していることを、頭ではなく体で知る。演じることも、必然の中に生きることも、この一点でつながっている。役を引き受けるとは、自分を超えた全体の運びに、自分を預けることだった。
この論の運びは、はじめの演技論から遠く離れたように見えて、実は一本の糸でつながっている。役を引き受けることも、必然の中に生きることも、死を信頼することも、すべては同じ一つの態度の、別の顔にすぎない。自分を、自分より大きな運びの一部として差し出すこと。俳優が戯曲に身を預けるように、人は生と死の全体に身を預ける。そこで初めて、部分にすぎない一人が、全体に触れる。ばらばらに散っていた日々の行為が、大きな型の中で意味を取り戻す。近代が解いてしまった結び目を、福田は思想の力で結び直そうとしている。祭りの火は消えても、部分が全体に連なりたいという願いは消えていない。その願いに、どんな型を与えられるのか。福田はここで問いを開いたまま、答えを読む者へゆだねる。
ここには、慰めはない。福田は、死を克服する方法も、不安を消す呪文も差し出さない。ただ、恐れて縮こまるのとは別の身の置き方があると告げるだけだ。与えられたものを、与えられたものとして生きる。その静かな肯定が、この評論の奥に据えられている。
おわりに
自由になれ、個性を持て、自分らしく。私たちが浴び続けてきた言葉を、福田恆存は反対側から照らした。人が本当に求めているのは自由ではなく必然であり、個性とは演じたい役割の名にすぎず、演じることは嘘ではなく、生を二重にする人間の様式なのだ。福田はそう説き続けた。
明日もまた、多くの人が、親の役や仕事の役を生きる。誰かの前で顔をつくり、決められた台詞のような挨拶を口にする。それを仮面と呼んで嫌うことも、できる。けれど頁を措いたあとでは、同じ一日が少し違って見えるかもしれない。今日の自分の役割を、隠すべき偽りとしてではなく、引き受けるべき必然として、もう一度こちらから摑み直してみること。うまく演じられなくてもいい。外れた分だけ、その役は自分のものになっていく。演じることは、嘘ではない。福田恆存が一冊をかけて守り抜こうとしたのは、この一言だった。
