『ペスト』カミュ — 誰も英雄にならないまま、手当ては続いた
コロナ以降、カミュの『ペスト』はよく「予言の書」と呼ばれた。都市が封鎖され、人が隔離され、日常が止まる。二〇二〇年に起きたことの多くが、一九四七年に書かれた小説のなかに、すでに書き込まれていた。だから人々は驚き、この本をもう一度手に取った。
ただ、この本を「よく当たった予言」として受け取ると、もっとも大切なメッセージを見逃すことになる。『ペスト』が本当に書いているのは、災厄そのものではない。災厄のなかで、人が何を選んだか、だ。そしてその選択のなかには、私たちが期待するような英雄が一人もいない。誰も剣を抜かず、誰も演説をせず、誰も救世主にならない。ただ、自分の持ち場の仕事を、淡々と続けた人たちがいる。その静けさを、ここでは追いかけてみたい。
1. オランという街——鼠が死にはじめる
舞台は、フランス領アルジェリアの港町オラン。年は作中で「一九四X年」とだけ書かれ、はっきりとは伏せられている。海に背を向けて建てられた、商売熱心で退屈な街。カミュはこの街を、特別でも美しくもない、どこにでもある平凡な場所として描く。何も起きない街だからこそ、そこに起きたことは、どんな街でも起こりうる。
異変は、鼠から始まる。ある朝、医師のリウーが階段口で一匹の死んだ鼠を踏む。やがて鼠は街のあちこちで血を吐いて死にはじめ、その数は日ごとに増えていく。最初に人間の犠牲者となるのは、リウーの住む建物の管理人ミシェルだった。高熱を出し、首のリンパ節を腫らして苦しみ、死ぬ。
医師たちは病名を口にするのをためらう。ペスト。その言葉には、中世の記憶がまとわりついている。行政は対応を遅らせ、事態を小さく見せようとする。数字が一定の線を超えるまで、誰も「非常事態」という言葉を使いたがらない。それでも死者は増え続け、ついに街は封鎖を宣言され、市の門が閉ざされる。オランは外界から切り離される。
封鎖が決まったちょうどそのとき、リウーは病を得た妻を、街の外の療養所へ送り出したばかりだった。妻を見送るホームで、二人はまた会おうと言い合う。門が閉まったあと、彼はもうその約束の場所へ戻れない。手紙は検閲され、短い電報だけが残る。街の全員が、同じように誰かと引き裂かれ、閉じ込められた。恋人と、家族と、友と。この「引き離されている」という感覚こそ、封鎖された街に暮らす誰もが最初に味わった病だった。カミュはペストを、感染の物語であると同時に、別離と追放の物語として書いている。
2. 誰も英雄にならない——保健隊という選択
封鎖された街で、人々の反応はさまざまに分かれる。神に祈る者、逃げようとする者、金儲けをたくらむ者、ただ立ちすくむ者。そのなかで、リウーは診察を続ける。往診し、腫れを切開し、患者を隔離施設へ送る。治療法のない病を相手に、彼の仕事はほとんど看取りに近い。それでも彼は手を止めない。
やがて、よそ者のタルーがリウーのもとを訪ねてくる。この街にたまたま滞在していた男で、手帳に街の様子を細かく書きつけている。タルーは、市民による自発的な保健隊をつくろうと持ちかける。行政の手が回らないなら、志願者で隊を組み、消毒や患者の搬送を担おう、という提案だった。リウーはこれに加わる。市役所の下級役人グランも、静かに手を挙げる。
グランという男は、目立たないが、この小説では重要な人物だ。安月給の役人で、何年も昇進せず、夜になると一つの小説を書いている。ところが彼は、その小説の冒頭の一文から、何年も先へ進めない。同じ一文を書いては消し、語順を入れ替え、形容詞を足しては削る。完璧な一文が書けたら、その先が開けるはずだと信じている。派手なところの何もないこの男が、ペストのなかでは保健隊の事務を淡々と引き受け、記録と統計をつける。この物語であえて英雄を一人挙げるとすれば、それはグランのような人だ——リウーはそう考えている。華々しい働きではなく、地味な役目を最後まで手放さない人にこそ、リウーは英雄という言葉を当てたがっている。
ここでリウーが語ることは、この小説の芯にあたる。彼は保健隊の仕事を、英雄的な行為だとは考えていない。訳は版によって違うが、彼が言うのはおよそこういうことだ。ペストと闘うのは道徳や英雄性の問題ではなく、誠実さの問題である。そして誠実さとは、自分の職務を果たすことにほかならない。彼にとって医師であることは、目の前の病人を手当てすることと同じ意味だった。だから彼は闘う。信念のためでも、栄光のためでもなく、それが自分の仕事だから。
リウーはもう一つ、大切なことを考えている。ペストと闘うとは、抽象と闘うことでもあるということだ。病が広がると、人は死者を数として見はじめる。今日は何人、昨日より何人多い。その数のなかで、一人ひとりの顔が消えていく。統計は、悲しみを平らにならしてしまう。リウーが往診をやめないのは、その抽象に呑まれないためでもあった。目の前の一人を、数ではなく一人として扱いつづけること。腫れを切開し、脈を取り、名前を呼ぶこと。それが、彼のもう一つの闘いだった。
新聞記者のランベールは、少し違う場所に立っている。彼はパリから取材で来て、封鎖に巻き込まれた。愛する女性がパリで待っている。ランベールは何度も、脱出の手段を探す。密輸の仲介者と交渉し、書類を整え、街を抜け出す算段を進める。この街の病は自分の問題ではない、自分はここの人間ではない、と彼は言う。その言い分には、それなりの筋が通っている。彼は自分の幸福を守ろうとしているだけだ。
だが、出発の直前になって、ランベールは残ることを選ぶ。彼はリウーに、自分一人だけが幸福になるのは恥ずかしい、という趣旨のことを告げる。そして保健隊に加わる。誰かに命じられたからではない。逃げられる立場にいた男が、自分の意志で、逃げないほうを選んだ。ランベールが選んだこの「残る」という一歩に、カミュの描く連帯が表れている。それは、はじめから誰かの胸にある出来合いの感情ではない。逃げられる人が、それでも逃げないと決める——その一つひとつの選択が重なって、後から連帯と呼べるものになっていく。ランベールは正しさに説得されて残ったのではない。ただ、他人の不幸に背を向けて手に入れる幸福を、自分が引き受けられなかっただけだった。
3. 子どもの死とパヌルーの説教——神罰では説明できないもの
街が病に沈むなか、イエズス会士のパヌルー神父が説教をする。第一の説教で彼が語るのは、明快な論理だ。ペストは天罰である。オランの人々は罪を犯し、神から遠ざかった。だからこの災いが下された。悔い改めよ。満員の聖堂で、その言葉は力を持って響く。災厄に意味を与えてくれる説明を、人は求めている。
しかし、その論理は、ある場面で崩れる。予審判事オトンの幼い息子が、ペストに罹る。カステル医師が試作した血清が、この子に投与される。だがそれも効かない。子どもは長い時間、身をよじり、声をあげて苦しみ抜いて死んでいく。リウーとパヌルーは、その死の枕元に立ち会う。何の罪も犯していない子どもが、これほど苦しんで死ぬ。それを神罰の論理はどう説明するのか。立ち会ったあと、リウーはパヌルーに、あの子は少なくとも無実だった、あなたも知っているはずだ、という趣旨の言葉を、抑えきれずに投げる。
この死のあと、パヌルーは第二の説教をする。声の調子が変わっている。彼はもう「あなたがた」とは言わず、「私たち」と言う。彼が突きつけるのは、逃げ場のない問いだ。子どもの苦しみを前にして、人は神を信じるか、それとも神を拒むか。中間はない。すべてを信じるか、すべてを拒むか、そのどちらかしかない、という趣旨のことを彼は語る。第一の説教にあった安全な高みは、もう失われている。彼はもう、災厄を外から裁く側にいない。
パヌルーはやがて自分も病に倒れる。彼の症状はペストとも言い切れない奇妙なもので、医師の手当てを拒み、十字架だけを握って死んでいく。信仰を捨てたわけではない。だが、かつての明快さも、もう彼にはない。神罰の論理で災厄を裁こうとした男が、その論理では受けとめきれないものに触れて、静かに物語から姿を消していく。カミュは、彼を嘲笑しない。答えを持てなくなった信仰者を、そのまま、痛みとともに描く。
4. タルーの告白と死——遅すぎる別れ
疫病が長引くなか、リウーとタルーは短い休息を取る。夜、二人は許可を得て海へ行き、並んで泳ぐ。街の重さから離れて、水のなかで体を動かす、わずかな時間。友情がそこで、言葉なしに確かめられる。この場面は、暗い小説のなかで数少ない、息のできる瞬間になっている。
その前後で、タルーは自分の過去を打ち明ける。彼の父は検事だった。少年のころ、彼は父が法廷で一人の被告に死刑を求刑するのを見た。人が人に死を宣告する。その光景が、彼を家から遠ざけた。以来、タルーはあらゆる死刑に反対し、どんな理由であれ人を死なせる側に立つまいと決めて生きてきた。
タルーの告白には、もう一つ深いところがある。彼は、自分もまた知らぬ間に人を死なせる側に加担してきた、と考えるようになる。正しさや大義の名のもとに、人は平気で人を死なせる。その意味で、誰もがめいめい自分のなかにペストを持っている、と彼は言う。だから、他人にそれを吐きかけないよう、絶えず気をつけていなければならない。彼の望みは、神を信じないまま、それでも聖者でありうるか、という一点にあった。答えの出ない問いを抱えたまま、彼はこの街で保健隊の仕事に打ち込んでいた。
そして、ペストがようやく退きはじめたころ、タルーが病に倒れる。街が快方へ向かう気配のなかで、彼の体だけが病に呑まれていく。リウーは友を看取る。治療法を持たない医師が、いちばん近くにいる友のために、それでも最後まで手を尽くす。タルーは苦しみながら、静かに死ぬ。疫病の終わりが見えたまさにその時に訪れた、遅すぎる別れだった。彼は結局、自分の問いに答えを見つけたのかどうか、わからないまま逝った。
タルーを見送った直後、リウーは一通の電報を受け取る。街の外の療養所にいた妻が、亡くなったという報せ。門が開く前に、彼は妻とも、友とも、引き裂かれたままになった。誠実に仕事を続けた者が、報われるわけではない。カミュはそこに慰めを書かない。ただ、リウーがそれでも崩れず、翌朝もまた仕事に戻っていくことだけを、静かに書きとめる。
5. 門がひらく日——菌は消えない
翌年の二月、ついにペストは去り、市の門が再び開かれる。列車が走り、人々が街に戻り、引き裂かれていた者たちが再会する。ランベールは、パリから来た恋人と抱き合う。街は歓喜に沸き、広場では花火が上がる。長い監禁のあとの、まぎれもない喜びだった。
だが、全員がその喜びのなかにいるわけではない。ここでコタールという男のことにふれておきたい。彼はやましい過去を抱え、ペスト以前は逮捕におびえて一人で暮らしていた。ところが街全体が不安に呑まれると、彼はかえって落ち着きを取り戻す。みなが自分と同じように怯えているからだ。密輸で潤い、混乱のなかにむしろ居場所を見つけていた彼は、街が日常へ戻ることに耐えられない。日常が戻れば、また自分だけが追われる側に戻ってしまう。彼は錯乱し、自分の部屋の窓から通りへ向けて銃を乱射し、取り押さえられて連行される。ペストの終わりが、彼にとっては自分の破滅の始まりだった。一方、あの完璧な一文を書けずにいた役人グランは、ペストに罹って一度は死にかけたが、回復する。死にかけたとき、彼はあの何年も書き直してきた原稿を燃やしてくれとリウーに頼んだ。それでも生き延びた彼は、また同じ一文から、書きはじめる。
歓喜する街を、リウーは少し離れたところから眺めている。物語の終わりで、この記録の書き手がリウー自身だったことが明かされる。三人称で淡々と綴られてきた文章は、彼が自分の名を伏せて書いたものだった。証人として、この街に起きたことを書き残そうとしていたのだ。名を伏せたのは、証言する者が自分を前へ出すべきではないと考えたからだ。英雄を讃えるためではない。ペストのなかで、人間には軽蔑すべきものより讃えるべきもののほうが多い、という趣旨のことを書きとめるために。そして、いつか黙らされ、忘れられていく人々のために、せめて何が起きたかを記録しておくために。
そして、その最後に、リウーはこう書きつける。喜びのなかにいる人々は知らない。ペストの菌は決して死なず、消えもしない。長い年月、家具や下着のあいだで眠り、部屋や地下倉でじっと待ち、いつか再び、人間に不幸と教訓をもたらすために、鼠たちを呼び覚まし、どこかの幸福な街へ送り込むだろう。訳は版によって違うが、この本はおよそそういう言葉で閉じられる。勝利の宣言ではない。歓喜のただ中で、リウーは終わらない警戒を書きつけている。
おわりに
『ペスト』が最後に残すのは、勝ったという感触ではない。ペストはリウーたちに倒されたのではなく、ただ、去っていっただけだ。来たときと同じように、理由もなく退いていった。人間にできたのは、その間、手を止めずに看取りと手当てを続けることだけだった。
そして、その「続けること」に、この小説のいちばん強い場所がある。リウーは一度も、自分を英雄だと思わなかった。タルーは聖者になれたかどうかもわからないまま死んだ。ランベールは逃げられたのに残った。グランは冒頭の一文を書き直し続けた。誰も物語の主役の顔をしていない。それでも彼らは、朝が来れば持ち場に戻り、目の前の病人に手を伸ばした。決意を声高に一度掲げることよりも、それを毎朝、黙って繰り返すことのほうがずっと難しい。そして街を実際に支えていたのは、その繰り返しのほうだった。
菌は消えないと知りながら、それでも手当てをやめない。歓喜に沸く街の隅で、リウーは机に向かい、この記録を書き終えようとしている。窓の外では、花火が上がっている。彼が書きとめたのは、ペストを倒した英雄の物語ではない。朝が来るたびに持ち場へ戻り、目の前の一人に手を伸ばした、平凡な人たちの日々だ。ペストはまた来るだろう。菌は眠っているだけで、消えてはいない。それでも、そのときが来れば、また誰かが、声を張り上げることも名前を残すこともなく、目の前の一人に手を伸ばすはずだ。リウーがそうしたように。
