G-0C41NE8DJB 『老年について』キケロ — 恐れていたのは、老いではなかった|亀吉の呟き
亀吉の書評

『老年について』キケロ — 恐れていたのは、老いではなかった

『老年について』キケロ — 恐れていたのは、老いではなかった
yoshiomi

老いを恐れる、というとき、私たちが恐れているのは、たいてい「まだ来ていないもの」だ。体が思うように動かなくなること。楽しみが一つずつ減っていくこと。誰かの役に立たなくなること。そして、その先にある終わり。いま目の前にある老いというより、これから起こるはずの何かを、前もって恐れている。だから老いへの不安は、実際の老いよりも、たいてい少し大げさになる。

二千年前のローマに、その不安をきちんと数え上げた人物がいた。マルクス・トゥッリウス・キケロ。弁論家として、政治家として頂点まで登り、やがて失脚し、晩年に多くの書物を書き残した人物である。前四四年、六十歳を過ぎたキケロは、『老年について』という薄い本を書いている。独裁者カエサルが倒され、共和政が音を立てて崩れていく年のことだった。キケロ自身、政治の表舞台から押し出され、老いと死をすぐそばに感じていた時期でもある。

この本を、キケロは同じ世代の親友アッティクスに贈っている。若い師が若者に説く教訓ではなく、歳を重ねた者どうしが、たがいの肩の荷を少しでも軽くするために交わす言葉として書かれた。老いを外から解説するのではなく、老いの入り口に立った本人が、同じ場所にいる友へ差し出す。そういう本だ。

その中身は対話の形をとっている。語り手は大カトー。八十四歳の老人で、かつて実在したローマの政治家だ。そのもとを、ラエリウスと小スキピオという二人の若者が訪ねてくる。歳を重ねても少しも参っていないように見えるのはなぜか、その秘訣は何なのか、と二人は問う。キケロは、自分の考えを、この老いた賢人の口を借りて語らせていく。

そして大カトーは、老いが不幸に見える理由を、四つに整理してみせる。老いは、公の活動から人を退ける。老いは、肉体を弱らせる。老いは、楽しみを奪う。老いは、死のすぐ手前にある。世間が老いを疎むのは、だいたいこの四つのせいだ。

大カトーは、この四つを頭ごなしには否定しない。恐れるな、気の持ちようだ、とは言わない。一つずつ手に取って、その恐れが本当は何を見ているのかを確かめていく。そのうえで、老いが奪うものを数えるのではなく、歳を重ねてこそ深まるもの——見識や、友情や、心の落ち着き——のほうへ、目を向け直させる。大切なものが、もともとどこにあったのか。それに気づかせていくのだ。

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1. 活動から退けられる——力ではなく見識でなされる仕事

最初の不安はこうである。歳を取ると、大きな仕事の現場から外される。体力も気力も衰えて、世の中を動かす場所にはいられなくなる。だから老いは惨めなのだ。

大カトーはこう答える。大きな事業は、体の力で成し遂げられるわけではない。それを支えているのは、思慮と、判断と、長い経験からくる見識だ。そしてそれらは、歳を取るほど衰えるどころか、むしろ深まっていく。若い漕ぎ手が甲板を走り回っているあいだ、老いた船長は舵のそばに腰を下ろし、船全体の行き先を決めている。走り回らないから役に立たないのではない。走り回らずにすむ場所に、その人がいるからだ。

老いてなお務まる仕事は、むしろたくさんある。人に助言すること。若い者に何かを伝えること。全体を見渡して、進む向きを決めること。どれも、腕っぷしではなく、積み重ねた年月がものを言う仕事だ。現場を走る役目を若い世代に譲ったからといって、その人が舞台から消えるわけではない。役どころが、前に出て戦う者から、後ろで支え導く者へと移るだけだ。

ローマで国政を担った元老院という組織は、その名からして「老いた者たちの評議会」を意味していた。大事な決定は、勢いのある若さではなく、経験を重ねた者たちの慎重さに委ねられてきた。無鉄砲が国を大きくするのではない。踏みとどまり、考え、時に若さを諫めることが、国を保ってきたのだ。大カトーはそう言って、老いてはじめて担える役目があることを示す。退場ではなく、持ち場が変わるだけなのだ。

記憶が抜けていく、という心配にも、大カトーはこう応じる。使い続けているかぎり、記憶はそう簡単には失われない。自分が本気で関心を寄せていることなら、老人でも忘れはしない。学ぶことをやめなければ、頭は働き続ける。事実、大カトーは歳を取ってからギリシアの言葉を学びはじめた人物として知られていた。老いは、新しく何かを始める扉を、閉じてしまうわけではないらしい。衰えたのは走る速さであって、考える力ではない。その二つを、キケロはていねいに分けて見せる。

2. 肉体が弱る——求める力を年齢に合わせていく

二つ目の不安は、否定しにくい。老いれば、体は確かに弱る。大カトーも、そこは正直に認める。若い頃の力はもう戻らない。ここで逃げないところが、この本の誠実なところだ。衰えを、気のせいだとは言わない。老いの現実を、現実として受け取る。

そのうえで、彼は問いをずらす。そもそも、求めるべき力とは何か、と。老人に、若者と同じ体力を出せと迫る者はいない。それぞれの年齢には、それにふさわしい力がある。子どもには子どもの、若者には若者の、老人には老人の力が。ないものを嘆くのではなく、いまある力を、いまなすべきことに使えばいい。求める基準のほうを年齢に合わせれば、不足はずいぶん小さくなる。

節制と鍛錬を続ければ、老いてもある程度は保てる、とも大カトーは言う。若い頃に暴飲や放埒で自分を痛めつけた者は、老いを呪う前に、若さの使い方を悔いたほうがいい。体の衰えの何割かは、老いそのものではなく、それまでの生き方が連れてきたものだ。この見方は、本全体を貫いていく。老いは、それまでの生き方の帳尻が、まとめて表に出てくる時期でもある。

体だけではない。頭も同じで、使わなければ鈍り、使い続ければ働く。日々学び、考え、人と交わっている老人は、歳のわりに驚くほど若々しい。逆に、もう歳だからと何もかも手放してしまえば、体より先に、気持ちのほうが老け込んでいく。老いは、来るから衰えるのではない。何かをやめてしまうから、そこから衰えが始まるのかもしれない。

大カトーは、歳を取ってなお仕事や学びから手を引かなかった人々を、いくつも引き合いに出す。畑を耕し続けた者、書き物を続けた者、老いてから新しい技を身につけた者。歳を理由に何かを手放すのは、老いそのものがそうさせるというより、その人がそこで手を止めることを選んだからだ。老いを言い訳にはできない、と大カトーは見ている。衰えを口実にするのはたやすいが、続けている老人が現にいる以上、老いのせいだけにはできない。

そして、体が担えなくなった分は、別のものが引き受ける。積み重ねた経験と、それに人が自然に払う敬意だ。声を張り上げて人を動かせなくなっても、その一言が重みを持つようになる。腕力でねじ伏せる代わりに、言葉で導く。老いの弱さは、そのまま無力を意味するわけではない。むしろ、力に頼れなくなってから、その人の中身が試されるのかもしれない。

3. 快楽が去る——奪われるのではなく自由になる

三つ目に、大カトーはむしろ嬉しそうに応じる。老いは、感覚的な快楽を奪う。飲み食いの快楽や、体の欲望。若い頃に人を振り回したものが、歳とともに力を失っていく。世間はそれを喪失と呼ぶ。だが彼に言わせれば、それこそ老いが与えてくれる、いちばんの贈り物だ。

欲望は、落ち着いて考えることの、最大の邪魔になる。快楽に引きずられているあいだ、人はまともに物を見られない。その引っ張る力がゆるむということは、長く仕えてきた暴君のもとから、ようやく解き放たれるということだ。快楽を奪われたのではない。そこから降りることを、許されたのだ。

では、そのあとに何が残るのか。落ち着いた会話がある。長く連れ添った友との時間がある。学び続ける楽しみがある。若い頃には見えなかった、深く落ち着いた喜びだ。感覚の快楽と違って、これらは人と奪い合う必要がない。分け合っても目減りせず、味わうほどに深くなる。飲み食いや欲望が人を消耗させ、あとに空しさを残すのに対して、こちらは味わったぶんだけ、こちらを満たしていく。若さの快楽が去った跡は、空っぽになるのではない。より落ち着いたものが、そこに現れてくる。

なかでもキケロが筆を惜しまないのは、土を耕す暮らしの話だ。大カトーは、田園の営みほど老いにふさわしいものはない、と言う。種を蒔き、水をやり、実りを待つ。土は、預けられたものを裏切らない。世話をした分だけ、ときにそれ以上のものを返してくる。ぶどうの蔓が伸び、実がふくらみ、季節がめぐって畑が形を変えていくのを、老いた農夫は毎年見ている。その繰り返しのなかに、若い快楽とは別の、静かで確かな満足がある。

それに、田舎の暮らしには、人を招く楽しみもある。丹精した作物を並べ、友を迎え、長い時間をかけて語らう。急ぐ用事のない者どうしの、ゆっくりした食卓だ。若い日の宴のような、燃えるような興奮はない。だが、そのぶん醒めることもない。

とりわけ心に残るのは、木を植える老人の姿だ。自分の代では大きくならない木を、それでも老人は植える。誰のために植えるのかと問われれば、次の世代のためであり、自分に命を与えてくれたものに返すためだ、と彼は答える。実りを自分では見られないと知りながら、なお種を蒔く。失ったものばかりを数えるのをやめると、いま与えられているものと、これから誰かに渡せるものが見えてくる。老いは、快楽の量を減らすかわりに、その質を入れ替えていくのだ。

4. 死が近づく——眠りか希望か

最後の不安は、死だ。老いは、死のすぐ手前にある。これだけは、どう置き換えるというのか。

大カトーの答えは、意外なほど落ち着いている。死は、二つのうちどちらかだ、と彼は言う。もし魂がそこで消えてしまうのなら、あとにはもう何も感じるものが残らない。感じないものを、恐れる必要はない。もし魂が消えずにどこかへ続いていくのなら、そこには安らぎが待っている。どちらであっても、死そのものを怖がる理由は見つからない。

それに、死は老人だけのものではない、とも言う。若い者も死ぬ。むしろ老人は、若者が望んでも得られなかった長い時間を、すでに生きてきた。短く終わるより、長く生きて終わりへ近づくことが、そんなに嘆かわしいことだろうか。じゅうぶんに生きた者は、宴の席を満ち足りて立つ客のように、静かに席を離れることができる。まだ足りない、まだ足りないと思っているうちは、いくつになっても終わりが惜しい。満ちたかどうかは、歳の数ではなく、生きた中身が決めるのだろう。長く生きること自体が目的なのではない。よく生きた時間が、じゅうぶんな厚みになったとき、人はようやく終わりと折り合える。

木の実が、熟せばひとりでに枝を離れるように、生き切った命が終わりへ向かうのは、むしろ自然なことなのかもしれない。無理にもぎ取られるのと、熟して落ちてゆくのとは、同じ死でも、その訪れ方がまるで違う。大カトーはそう見ている。

キケロ自身は、魂は消えないほうに希望を置いている。人の心の働き、記憶や思考の速さそのものが、この体だけには収まりきらない何かを思わせるらしい。ただし彼は、それを証明として振りかざしはしない。先に逝った友や、敬い慕った人たちに、また会える——そう信じて死んでいけるのなら、たとえそれが思い違いだったとしても、その思い違いを自分から取り上げてくれるな、と書く。断定ではなく、願いとして書かれた言葉だ。老いた人が死を前にして持ちうる、いちばん静かな強さが、ここにある。

おわりに

四つの不安に、キケロは同じやり方で応じていた。活動から退けられるなら、力ではなく見識の出番を示す。体が弱るなら、求める力のほうを年齢に合わせて置き換える。快楽を失うなら、それを自由と呼び直す。死が近いなら、眠りか、希望に変える。どれも、「老いは何も奪わない」という強がりではない。奪われるものは、確かにある。それを認めたうえで、大切なものはどこにあるのかを、あらためて問い直している。

もう一つ、本全体を貫いている考えがある。老いが重荷になるかどうかは、老いてから決まるのではない、ということだ。大カトーが穏やかでいられるのは、老いという季節が特別に優しいからではない。若い頃から、体だけに頼らない何かを、学びや、人との信頼や、自分を律する習慣を、少しずつ積んできたからだ。その備えのない人には、老いはやはり厳しい。同じ老いが、それまで生きてきた中身によって、まるで違う顔を見せる。徳や教養は、老いに差しかかってから身につけられるものではない。若い日々のあいだに少しずつ蓄えておくからこそ、力が去ったあとも、その人のもとに残って支えになる。

だとすれば、老いを恐れる心が本当に見ているのは、老いそのものではないのかもしれない。そこに映し出される、これまでの生き方のほうだ。恐れの宛先が、少しずれている。老いを軽くする支度は、老いてからでは間に合わない。それはおそらく、まだ若いと思っているあいだにしか、始められない。

『老年について』を書いた翌年、キケロは政争のなかで殺される。穏やかな老後を、彼自身は生きられなかった。それでも、老いた賢人の口を借りて彼が書き残したのは、老いにおびえて立ちすくむ前に、いま何を積んでおくのかを問う言葉だった。次の世代のために木を植える老人の話を、キケロは楽しそうに書いていた。実りを自分では見られないと知りながら、それでも種を蒔く。老いをどう生きるかという問いに、二千年前のローマ人が差し出した答えは、まだ古びていない。

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こんにちは。亀吉です。 仕事の合間にブログを書いています。 このブログは、どこまでも個人的で恣意的な思想の表明です。思うままに・・・ 映画と本が好きです。その他音楽や登山など。
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