G-0C41NE8DJB 『これからの「正義」の話をしよう』マイケル・サンデル — 正しさは、一人では決められない|亀吉の呟き
亀吉の書評

『これからの「正義」の話をしよう』マイケル・サンデル — 正しさは、一人では決められない

『これからの「正義」の話をしよう』マイケル・サンデル — 正しさは、一人では決められない
yoshiomi

一台の路面電車が、ブレーキの利かないまま坂を下っていく。線路の先では、五人の作業員が作業している。このままでは五人がはねられる。だが手元には分岐器があり、レバーを引けば電車は別の待避線へそれる。ただ、その待避線の先にも、一人の作業員が立っている。引けば五人は助かり、代わりにその一人が命を落とす。引くべきか、引かざるべきか。倫理学で「トロッコ問題」として知られる、有名な思考実験だ。この問いには、引く、という答えが多数を占める。五人より一人。数の上では、答えははっきりしているように見える。

では、場面を少し変えてみよう。今度は分岐器はない。歩道橋の上から線路を見下ろしていて、隣にはひどく体の大きな男が立っている。その男を突き落とせば、その体が電車を止めて、五人は助かる。落とすのは、やはり一人。助かるのも、やはり五人。数はさっきと同じだ。それでも、突き落とすと答える人は、ほとんどいなくなる。

同じ計算のはずなのに、どこかで私たちの直感が引き返す。この引き返す場所に、正しさの正体が隠れている。本書は、そこから話を始める。

『これからの「正義」の話をしよう』は、正しい答えを配ってくれる本ではない。むしろ逆で、私たちが「これは正しい」と感じたとき、その感覚がどんな考え方の上に立っているのかを、一つずつ引き剥がして見せてくる。差し出されるのは、磨きあげた正解ではなく、その正解を下から支えている理由のほうだ。

考えてみれば、私たちは毎日、大小の「正しさ」を選びながら暮らしている。行列に割り込む人にいらだつのも、困っている見知らぬ人につい手を貸すのも、その根には何かしらの正しさの感覚がある。ふだんは立ち止まって確かめたりしない、その感覚の中身を、本書はゆっくりと開いてみせる。

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正しさをめぐる三つの道

サンデルは、正義をめぐる考え方を大きく三つに分けてみせる。

一つ目は、幸福の総量を最大にしようとする道。より多くの人が、より多く幸せになる選び方こそ正しい、とする考え方だ。さっきのトロッコで、五人を助けるために一人を犠牲にしてよいと即答したとき、私たちはこの道を歩いている。この考え方を最初にはっきり言葉にしたのは、ベンサムという思想家だった。最大多数の最大幸福。人々の幸せの合計が増えるなら、それが善い。分かりやすく、数え方によっては民主的にも見える。けれど、幸福を一つの目盛りで足していくと、少数の誰かの痛みが、多数の満足のなかに呑み込まれて消えてしまう。あとを継いだミルは、快楽には量だけでなく質があると言い足した。腹いっぱいの満足よりも、悩みながら考える生のほうが値打ちが高い。そうミルは考えた。尺度をより人間らしくしようとしたわけだが、そこで「質」を持ち込んだ時点で、幸福の合計の外にある何かの価値を、こっそり呼び込んでしまっている。快楽の足し算だけでは、私たちが大事にしているものを測りきれない。功利の道は、一番身近でいて、一番取りこぼしの多い道でもある。

二つ目は、一人ひとりの自由と権利を何より重んじる道。たとえ全体の幸福が増えるとしても、誰か一人を勝手に手段として使うことは許されない、とする考え方だ。歩道橋の男を突き落とせなかったのは、この道の直感が働いたからだ。この道を最も厳しく突き詰めたのが、カントだった。どんなに良い結果のためでも、一人の人間を道具のように扱った瞬間に、その行いは正しさを失う。カントにとって自由とは、欲望に引きずられるまま動くのでなく、自分で自分に課した法則に自ら従うことだった。もう一人、この道の現代の代表がロールズだ。彼は、公正なルールをどう選ぶかを、一つの思考実験で描いてみせた。自分が豊かに生まれるか貧しく生まれるか、才能に恵まれるかどうか、何一つ知らされない「無知のヴェール」の向こうで選ぶとしたら、人はどんな社会を選ぶだろう。自分の得だけを当て込めなくなったとき、はじめて公正な取り決めにたどり着ける、と彼は考えた。

三つ目は、人がどう生きるべきか、どんな美徳を育てるべきかを正面から問う道。何が善い生き方かを抜きにして、正しさは決められない、とする考え方だ。古代ギリシャのアリストテレスまでさかのぼる、一番古い道でもある。

サンデルの立ち位置は、はっきりしている。彼は三つ目の道に重心を置く。正義を、善き生から切り離して、価値中立のまま決めることはできない。それが本書を貫く背骨だ。

この三つは、教科書のなかで暗記する分類ではない。私たちが日々、何かを「正しい」「ずるい」「ゆるせない」と感じるとき、そのつど知らぬまに選び取っている、三通りの物の見方だ。ニュースに眉をひそめるときも、家族と言い争うときも、私たちはたいてい、このどれかの道に立っている。自分がいまどの道から世界を見ているのかに気づくこと——サンデルの案内は、まずそこを目指している。

値札をつけられないもの

抽象論にはしない。サンデルはいつも、身近な出来事から入る。

大きな嵐が去ったあとの町で、氷や発電機や屋根の修理が、ふだんの何倍もの値段で売られる。困っている人の足元を見た値付けは、あくどいのか。それとも、品不足のときに値が上がるのは市場の当たり前で、非難するほうが筋違いなのか。

金を払って、他人に代わりに戦争へ行ってもらう。金を払って、他人の女性に子どもを産んでもらう。合意のうえの取引なら、何を売り買いしてもかまわないのか。それとも、いくら本人が納得していても、値札をつけてはいけないものがあるのか。

兵役をめぐる話は、その問いをいっそう鋭くする。かつて南北戦争のころのアメリカでは、金を払えば、自分の代わりに別の誰かを戦場へ送ることができた。徴兵は万人に等しいくじのはずが、裕福な者は身代わりの代金を払って逃れ、貧しい者が代わりに前線へ立たされる。これを、双方の合意による自由な取引と呼んでよいのか。命を危険にさらす役目まで、市場で売り買いしてよいのか。サンデルは答えを押しつけない。ただ、自由な合意という言葉だけでは、私たちの引っかかりが説明しきれないことを、じわじわと明るみに出していく。

市場の言葉は、いつのまにか正しさの言葉に化ける。売り手と買い手が納得して値がつけば、それでもう公正は果たされた——そう考えれば、話はすっきり片づく。けれど、値札のつけ方そのものが、あるものの意味を作り変えてしまうことがある。兵役に値段をつければ、国を守る務めは、みなで担う責任から、金で肩代わりできる労役へと姿を変える。子を産む力に値段をつければ、身ごもり産むという営みは、契約で受け渡せる仕事の一つに数えられていく。売り買いが自由かどうかだけを見ていると、その裏で何かの意味がすり減っていくことに、気づけなくなる。サンデルが値札の話にこだわるのは、市場が広がること自体を責めたいからではない。値をつけてよいものと、つけたとたんに何かが損なわれるものとの境目を、私たちに考えさせたいからだ。

こうした問いの前で、私たちの答えはぐらつく。自由な合意だから正しい、と言い切れそうで言い切れない。損得の計算だから正しい、とも割り切れない。ぐらつくのは、頭が足りないからではなく、一つの物差しだけでは測りきれないものに触れているからだ。

トロッコ問題は頭の体操ではない

本書がこれほど読まれると、トロッコ問題は一人歩きを始めた。ちょっとした心理テストのように、「自分なら引くか」と互いに当て合うゲームになった。

けれど、サンデルがあの問いを持ち出したのは、正解を競わせるためではない。引くと答えた自分と、突き落とせなかった自分。その二つの直感の食い違いに立ち止まらせ、「では、なぜそう感じたのか」を掘らせるためだ。問いは、正解を当てるクイズではなく、自分がどんな物差しで世界を測っているのかを、自分の目の前に引きずり出す道具になっている。

引くと即答した自分は、数の勘定を正しさの土台にしている。突き落とせなかった自分は、たとえ数の上で得だとしても、人を目的のための道具にしてはいけない、と感じている。同じ一人の胸の内で、二つの物差しがぶつかり合う。どちらが本物の自分か、すぐには決められない。サンデルが立ち止まらせたいのは、この決めきれなさのほうだ。決めきれないという居心地の悪さこそ、私たちが一つならぬ価値を抱えて生きている証しなのだから。

だから、この本を頭の体操として消費すると、重要な観点を見落とす。問われているのは電車の行き先ではなく、それを選ぶ私たち自身の心のうちである。

難しい人のための難しい本ではない

『これからの「正義」の話をしよう』は、もともとハーバードで三十年以上つづいてきた講義から生まれた。マイケル・サンデルは、その大学で政治哲学を教えてきた人だ。人がどう共に生きるべきかを問う学問の流れに立ち、とりわけ、正義は善について中立であるべきだと説いたロールズの考え方に、粘り強く異を唱えてきた。

その講義は、大学の講堂の中だけにとどまらなかった。映像が公開され、海を越えて、日本でも「白熱教室」として茶の間に届いた。学生たちが席から立ち上がり、賛成と反対にわかれて言葉を交わす。教授は答えを与えず、次の問いを返していく。本書は、その熱を紙の上へ写しとったものだ。訳されて日本でも広く読まれ、哲学の棚をふだんは素通りする人の手にも渡っていった。

サンデルがロールズに投げかけた問いも、出どころは同じだ。ロールズは、各人が「何を善い生き方とするか」にはあえて踏み込まず、誰にとっても公正な枠組みだけを先に決めようとした。正義を善よりも先に立てる、という組み立てだ。サンデルは、その立て方に待ったをかける。私たちは、何が善い生かという見方をいったん脇へ置いたまま、正しさだけを宙で決めることはできない——負担の分かち合いも、権利の線引きも、突き詰めれば「何を大切に生きるか」に絡めとられている、と見るからだ。講義で学生に問いを返しつづけるのも、この考えの裏返しだろう。答えを配れば、そこで思考は止まる。問いを返せば、聞き手は自分の考えを持ち出さざるをえない。

だからこれは、専門用語で身を固めた、難しい人のための難しい本ではない。かたい装丁の奥にあるのは、市民が自分の言葉で、身近なジレンマから正しさを語り直すための、開かれた入り口のほうだ。サンデルの分厚い思想へ足を踏み入れるとき、最初の一冊にちょうどいい。

「どれも一長一短」で終わらせない

三つの道——幸福の最大化、自由と権利、善き生。これを並べられると、こう受け取りたくなる。どの立場にも良いところと悪いところがあって、正解などない。だったら人それぞれ、好きな道を選べばいい。そんな声が聞こえてきそうだ。

サンデルが言いたいのは、その真逆である。彼は、どっちもどっちの相対主義に着地させない。中立の顔をして正しさを決めようとするやり方そのものを退け、私たちに、共通善のほうへ一歩踏み込むよう促す。

ここでアリストテレスが登場する。彼は、正義とは何かを問うには、まずそのものの目的を問え、と考えた。最上のフルートは、誰に配られるべきか。一番金持ちの人でも、一番見目の良い人でもなく、一番上手に吹ける人に配られるべきだ。フルートという道具は、美しく奏でられるために在るからだ。正義とは、量を勘定することではなく、それぞれのものを、それが一番活きる相手へ手渡し、そうやって何を尊ぶべきかを共に決めていく営みでもある。

アリストテレスの考えでは、人は共同体のなかで、他者とともに善を分かち合ってはじめて、まっとうに生きられる。この発想は、本書の後半で形を変えて戻ってくる。私たちは、まっさらな個人として世界に放り出されているわけではない。家族や、生まれ育った土地や、受け継いだ歴史を、あらかじめ背負って生きている。友への義理、故郷への負い目、前の世代の過ちを引き受ける責任。そうした結びつきを、ただのしがらみとして切り捨ててしまえば、身は軽くなるかもしれない。だがそのとき、私たちは、自分が何者であるかを語る物語ごと、手放してしまう。正しさを、この結びつきから引きはがして宙に浮かせることはできない。サンデルが共通善という言葉で指すのは、この、人と人のあいだにあらかじめ張られた糸のことだ。

好きな道を選べばいい、で話を閉じるのは、この「何を尊ぶか」という問いから降りてしまうことだ。サンデルは、そこから降りない。降りずに、意見のちがう隣人と、とことん論じ合うことを求める。

おわりに——食卓と街へ

最後のページまで進んでも、正しさが一つに定まるわけではない。トロッコの分岐器を引くべきかどうか、嵐のあとの高値づけが許されるかどうか、本書は最後まで裁定を下さない。

けれど、手ぶらで放り出されるわけでもない。読む前と読んだあとでは、誰かと正しさをめぐってぶつかったときの、その向き合い方が変わっている。相手が間違っていると決めつける前に、相手はどの道を歩いているのか。自分は、なぜその道を正しいと感じているのか。問いの向け方を、少しだけ深くすることができるかもしれない。

意見のちがう相手を、遅れた人や間違った人として切り捨てるのは、たやすいかもしれない。けれど本書をくぐったあとでは、その手つきが少しためらいがちになる。相手もまた、どこかの道の上に立って、自分なりの正しさを握りしめている。そう思えたとき、言い争いは、相手を言い負かす勝負から、たがいの物差しを見せ合う対話へと、色合いを変えはじめる。

サンデルが本当に手渡そうとしたのは、答えではなく、その先の会話のほうだったのだろう。正しさは、机の前で一人きり、腕を組んで決めきれるものではない。食卓で、職場で、街の片隅で、意見のちがう誰かと向かい合い、問い直しつづけるところにしか宿らない。

本書が最後に残すのは、おだやかな納得ではない。隣にいる誰かともう一度、正しさについて話してみたくなる——その落ち着かなさである。

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こんにちは。亀吉です。 仕事の合間にブログを書いています。 このブログは、どこまでも個人的で恣意的な思想の表明です。思うままに・・・ 映画と本が好きです。その他音楽や登山など。
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