『幸福論』ヒルティ — 幸福は、手に入れるものではない
カール・ヒルティの『幸福論』は、幸福論という題からは意外なところから始まる。生きる意味でも、心の平安でもない。ヒルティが入り口に選んだのは、朝、机に向かうまでの、あの重たい時間だった。
ヒルティはスイスの人だった。一八三三年に生まれ、法律を学び、ベルン大学で憲法学を教え、国会議員も務めた。哲学者であり、信仰の人でもあった。『幸福論』は原題を Glück といい、一八九一年から数年をかけて三巻が世に出た随想集である。心のあり方を説く本、と聞こえるかもしれない。だが読んでみると、その一番芯にあるのは、意外なほど地味な主題だった。働くこと。そして、その前に立ちすくむ時間のことだ。
幸福論というと、生きる意味とか心の平安とか、大きな言葉の並ぶ本を予想する。ヒルティはそういう高みから入らない。彼が入り口に選んだのは、朝、机に向かえない背中だった。そこから始めて、彼は幸福というものの形を、少しずつ描き変えていく。
1. 始めることが、一番難しいもの
『幸福論』の第一部に、「仕事をするこつ」と訳される一篇がある。仕事術の話、と身構えると、少し違う。ヒルティがここで見つめているのは、仕事そのものよりも、仕事に取りかかる前の、あの重たい時間のほうだ。
彼は書いている。取りかかろうと決心することこそ、仕事の中で一番苦しい部分なのだ、と。作業そのものではない。作業を始める、その決心が重い。私たちは机に向かう前に、身のまわりを片づけたくなり、気が乗るのを待ち、条件が整うのを待つ。整うことは、たいていない。そうして一日が終わる。
ところが、と彼は続ける。一度ペンを手に取り、あるいは鍬を手に取ってしまえば、仕事のほうが人を運んでいく。最初の一画さえ引いてしまえば、次の一画はさっきよりも軽くなる。始める前は動かなかった体が、始めたあとには動いている。着想は、休んでいるあいだにやってくるのではなく、仕事の最中にやってくる。だから、気分が乗るのを待つのは、話が逆なのだ。動きはじめれば、気分はあとからついてくる。
この観察は、経験してみると身にしみる。やりたくない仕事ほど、始めるまでが長い。始めてしまえば、なんだこんなものか、と思うこともある。苦しかったのは作業ではなく、作業を前にして立ちすくんでいた時間のほうだった、と後になって気づく。ヒルティは、その気づきを人生の技術にまで高めた。一番重いのが最初の一歩なら、その一歩を軽くする工夫だけを考えればいい。
これは根性論ではない。むしろ逆で、根性がいらないように仕事を設計する知恵に近い。全部をやろうとせず、まず一つだけ始める。ヒルティが一度に一つを説くのは、私たちが「全部」を思い浮かべた瞬間に動けなくなることを、よく知っていたからだろう。明日やるべき仕事の山を、まとめて持ち上げようとするから、腰が上がらない。山ではなく、一番上の一つだけを見る。
なぜ始めると軽くなるのか。ヒルティはそこを難しく説明しない。ただ、始める前の私たちは、まだ触れていない仕事を頭の中でこねくり回し、実際より大きく、実際より重く感じている、とだけ言う。頭の中の仕事は、いくらでもふくらむ。手をつけた仕事は、そのふくらみがしぼんで、等身大の一つの作業に戻る。恐れていたのは仕事ではなく、仕事の影のほうだった。取りかかるとは、影に光を当てて、それを本来の大きさに戻す動作でもある。
明日の仕事の全体を思って気が重くなるのは、全体を一度に持ち上げようとしているからだ。ヒルティの言葉に従うなら、明日やるべきことは一つしかない。始めること。それも、最初の一筆を書くこと。それ以上のことは、始めたあとの自分に任せていい。始めたあとの自分は、始める前の自分より、たしかに軽くなっているのだから。
2. 幸福は持つものではない
では、そうして働くことが、なぜ幸福につながるのか。ここでヒルティの考えの、一番独特なところに触れることになる。
私たちは普通、幸福を何か手に入れるもののように考えている。お金を手に入れれば、地位を手に入れれば、休みを手に入れれば、幸福になれる。そういう絵を描く。幸福とは所有だ、という前提が、どこかにある。手に入れたら幸福になる、まだ手に入れていないから幸福ではない、と。
ヒルティはその前提を、一つずつ外していく。彼にとって幸福とは、快楽を所有している状態ではなかった。善いものへ向かって、いま前へ進みつつある、その状態のことだった。到達点ではなく、動いていること。持っていることではなく、進んでいること。だから、目的地として幸福を探しにいくと、いつまでも見つからない。幸福は場所ではなく、歩いているという事実のほうにあるからだ。
この考え方は、働くこととまっすぐつながる。仕事の喜びは、報酬を受け取る瞬間にあるのではなく、課題に取りかかり、少しずつ形になっていく、その進行のなかにある。ヒルティは、人を幸福にするのは仕事の種類ではない、と見ていた。立派な仕事だから幸福なのではない。着手し、作り、仕上げていく、その動き自体が人を満たす。だとすれば、幸福は誰にでも、いま手をつけている何かの中にある。特別な仕事を待つ必要はない。目立たない仕事にも、進んでいるという同じ手ごたえがある。どんな立場の人にも、前へ進む余地はいつも残されている、というのがヒルティの見方だった。
快楽との違いも、ここではっきりする。快楽は手に入れた瞬間に頂点があり、あとは冷めていく。持てば持つほど、次はもっと、と乾いていく。一つ手に入れれば、すぐに次が欲しくなり、満たされたはずの場所がまた空く。前へ進んでいる状態には、その渇きがない。進みつづけているかぎり、そこに幸福があるのだから、もっと多く、を必要としない。持つことをめぐる幸福はいつも足りず、進むことをめぐる幸福はいつも足りている。
そう考えると、幸福を「探す」という言い方じたいが、少しずれて見えてくる。探すのは、どこかにある宝物を前提にした動詞だ。ヒルティの幸福は、探して見つけるものではなく、進みながら、そのつど足元にあるものだった。見つけにいくのをやめて、いま向かっているその動きのなかに、すでにある、と気づき直すこと。それが、彼の幸福論の一番深い転換だった。
3. 時間について
前へ進みつづけるには、進むための時間がいる。ところが私たちは、その時間がない、といつも言っている。ヒルティはこの「時間がない」という言い方そのものを、静かに疑う。
第一部には「時間をつくる方法」と訳される一篇がある。原題を直せば、時間を持つ技術、とでもなる。ここでヒルティが言おうとしているのは、時間は最初から「ある」ものではなく、「つくる」ものだ、ということだ。一日の時間は誰にとっても同じだけあるのに、ある人はそこから多くを生み出し、ある人は何も残せずに終える。差は、時間の量ではなく、時間の作り方にある。時間がないのではなく、時間を作っていないのだ、と彼は言う。
彼が挙げるのは、たとえば朝の時間だ。一日の最初の、まだ何にも荒らされていない時間に、一番大事なことを置く。頭が澄んでいて、誰にも邪魔されない時間帯に、一番重い一つを片づけてしまう。細切れの時間も、捨てたものではない。わずかな空きを寄せ集めれば、まとまった仕事ができる。移動のあいだ、待っているあいだ、そういう時間を拾い集めることを、彼は軽んじなかった。
そして、断ること。あれもこれもと引き受けているうちに、自分の時間は他人の用事で埋まっていく。何を引き受けないかを決めることが、時間を作ることの半分を占める。断らずにいれば、一日はすぐに他人のものになる。自分の前進のための時間は、意識して守らなければ、いつのまにか消えている。断るのは冷たいことのようで、実は自分の向かう先を守る行為なのだ。すべてに応えようとする人ほど、自分の一日を持てなくなる。
こう書くと、いかにも実用的な時間術に見える。忙しさに追われる私たちには、たしかに効く助言だ。けれど、ヒルティがこれを幸福論の中に置いたのには、もっと深い理由がある。時間の使い方は、そのまま生き方の形になる。何に時間を作り、何を断るかを選ぶことは、自分がどこへ向かって進むのかを選ぶことでもある。時間の配り方が、その人の向かう方向を決める。だから時間をつくる技術は、成功の技術である前に、幸福の技術なのだ。前へ進むための時間を、自分の手で作り出すこと。それが進みつづける状態を、下から支えている。
4. 耐えること、信じること
進みつづける、と言っても、進めない時期はある。努力が実らない時期、思うようにいかない時期、運命がこちらの都合を聞いてくれない時期。ヒルティはそこから目をそらさない。むしろ、そこにこそ、彼のもう一つの支柱があった。
ヒルティは古代ストアの哲学者エピクテトスを深く愛読し、その一部を自ら訳してもいた。エピクテトスの教えの核には、自分の力の及ぶものと、及ばないものを見分ける、という一線がある。及ぶものは、自分の意志であり、判断であり、どう応じるかという内側の態度だ。及ばないものは、他人の評価であり、境遇であり、運命だ。及ばないものに心をすり減らすのをやめ、及ぶものに力を集める。運命には耐え、内なるものに向き合う。この線引き一つで、心の消耗の多くは減る。
ヒルティはこのストアの態度に、キリスト教の信頼を重ねた。及ばないものに耐えるとき、ただ歯を食いしばるのではなく、その先を信じて委ねる、という姿勢だ。すべてを自分で背負おうとすれば、進めない時期はただ苦しいだけになる。自分の力だけで運命をねじ伏せようとして、力尽きる。けれど、及ばないところは委ねていい、と思えるなら、耐えることは前進の一部になる。立ち止まっているように見える時期も、内側では進んでいる。耐えている時間は、無駄に止まっている時間ではなかった。
古代ストアの禁欲と、キリスト教の信仰。普通なら別々に語られる二つを、ヒルティは一人の生き方の中で結び合わせた。自分にできることは尽くす、できないことは信じて委ねる。この二つがそろって、はじめて人は、うまくいかない時期を越えて進みつづけられる。片方だけでは、どこかで折れる。意志だけで押し通そうとすれば、及ばないものにぶつかって力尽きるし、委ねるだけでは、及ぶものまで手放してしまう。二つの間に立って、どちらもやめないこと。ヒルティが示したのは、その難しいけれど地に足のついた立ち方だった。
エピクテトスの名を出すからといって、ヒルティは古代の哲学を借りてきて飾ったわけではない。彼はその教えを、進めない時期を実際に生きるための道具として握っていた。及ぶものと及ばないものを分けるという一線は、頭で理解する言葉ではなく、苦しい日に思い出して使う言葉だ。今日うまくいかなかったことのうち、自分の手の内にあったのはどれで、そうでなかったのはどれか。それを分けるだけで、抱え込む重さは変わる。
そして、その前進を日々ささえるのが、良い習慣だった。幸福は一度の大きな決意で手に入るものではない。決意は長くもたない。今日はやるぞ、と思っても、その熱は数日でさめる。もつのは習慣のほうだ。毎日の小さな繰り返しが、気分に左右されずに人を前へ運ぶ。始める決心が重いのなら、始めることを習慣にしてしまえばいい。習慣になったことには、決心がいらないからだ。決心を毎朝しぼり出す代わりに、決心のいらない形にまで、行いを馴らしてしまう。ヒルティが良い習慣を重んじたのは、それが弱い日の自分を運んでくれると知っていたからだろう。
おわりに
ヒルティの『幸福論』から受け取るのは、大きな答えではない。幸福とはこれだ、という定義を握らされるわけではない。残るのは、もっと小さな、けれど手放しにくい一つのことだ。
気分が整うのを待たなくていい。まず始めればいい。始めた瞬間に、一番重かったものは背中の後ろへ回り、仕事のほうが人を運びはじめる。幸福は、そのずっと先で手に入る何かではなく、いま進みはじめた足元に既にあるのだ。持てば手に入るものではなく、進んでいるあいだ、その足元にあるものだった。
明日の仕事を思って気が重くなっているときに、この本が差し出すのは、頑張れという励ましではない。全部をやれ、でもない。ただ、最初の一筆を。ペンを取り、最初の一画を引いてみる。始める前がいちばん重いだろう。しかし、引いてしまえば次の一筆はきっと軽くなる。その小さな一動作。そこから、幸福と呼ばれる前進が、また続いていくのだ。
