G-0C41NE8DJB 『青の炎』―孤独の構造を、静かに見ていた|亀吉の呟き
亀吉の書評

『青の炎』―孤独の構造を、静かに見ていた

『青の炎』―孤独の構造を、静かに見ていた
yoshiomi
あなたへのおすすめ

はじめに. 湘南、1999年——届かなかった経路の形

江ノ電が通る。由比ヶ浜の砂が、夏の終わりに白く乾いている。その地形の中に、高校2年生の櫛森秀一は暮らしていた。母・友子と、妹・遥香と、三人で。

その家に、離婚した後も男は来た。曾根隆一という名前の男が、金を要求し、暴力をふるった。離婚は成立していた。法律の上では、他人のはずだった。それでも曾根は来た。

貴志祐介が1999年に発表した『青の炎』は、その男を秀一が殺す話だ。完全犯罪を計画し、実行し、その後に綻びていく——という構造で書かれた犯罪小説である。しかし読み終えた後に残るのは、「少年が人を殺した」という事実よりも前の、もっと静かな場所にある何かではないだろうか。秀一が計画を立てる前の夜、彼はどこにいたのか。誰に話せたのか。誰がそこにいたのか。

DVへの法的対応が整備され、社会の認識が変化した2020年代からこの小説を読むと、「今なら別の選択肢があった」と分かるぶんだけ、あの時代にその選択肢がなかった秀一の場所が、より鮮明に浮かび上がってくる。構造が変化したことで、その構造の中に閉じ込められていた少年の輪郭が、より正確に見えるようになった。

秀一を裁くつもりはない。彼の選択が正しかったかどうかを問うことも、この小説の読み方としては弱いと思う。そうではなく——秀一が一人で抱えるしかなかった場所の輪郭を、できるだけ静かに見ていたい。その場所の記憶を、形は違っても自分の体の中に持っている人が、この小説の読者の中にいるはずだからだ。

1. 構造としての孤独——助けを求める先が、最初からなかった

秀一は頭がいい。湘南の進学校に通い、ロードレーサーで体を鍛え、知性的で冷静に見える少年として描かれている。しかしその冷静さは、生まれつきの気質というよりも、状況が要求した鎧のように機能しているのではないだろうか。曾根が来るたびに、家族を守るために、判断し、動かなければならない。その役割を、17歳の少年が引き受けていた。

「なぜ大人に頼らなかったのか」という問いは、立てることだけなら簡単だ。しかしその問いは、秀一が置かれた環境の具体的な条件を素通りしている。母・友子は傷ついており、状況をコントロールできる立場にない。警察は「離婚した元夫婦の問題」として動きにくい。法律は、暴力が証明できる形で記録される前には介入しにくい構造になっている。秀一の孤独は、彼の性格の問題ではなく、構造の問題として、この小説の中に描かれているのではないだろうか。

大人の世界がある。法律がある。警察がある。しかしそのどれもが、秀一の家の中で起きていることには届いていない。届く経路が設計されていない。その「設計されていない空白」の中に、秀一は一人でいた。ひとりで考え、ひとりで計画し、ひとりで動く。それ以外の選択肢が、彼には見えていなかった。

友人に話すという選択肢は、どこかで消えている。誰かに打ち明けるという行為は、秀一にとって現実的な選択として立ち上がってこない。それは弱さではなく、むしろ過剰なまでの責任感——家族を守るためならすべてを自分で引き受けるという、17歳の少年が全身で背負った何かの重さ——が、そこにあるからだろう。計画を立てている間も、秀一の体の中にはその重さが乗り続けていた。

孤独というものには、種類がある。誰もいない孤独と、誰かはいるが届かない孤独は、違う。秀一の孤独は後者に近い。妹の遥香がいる。母の友子がいる。同級生の福原紀子もいる。それでも、この計画を話せる相手は誰もいない。話してしまえば、誰かを危険にさらすことになる。あるいは、話しても解決しない。その閉じた回路の中で、秀一はひとりだった。

2. ロードレーサーと孤独——自分の足で走り続けた少年

秀一の愛車はロードレーサーだ。彼はその自転車に乗り、湘南の道を走る。計画の中で、ロードレーサーはアリバイトリックの中心として機能する。移動時間、距離、速度——秀一はそれを精密に計算し、自分の体の能力を証拠として使う。道具であり、武器でもあった。

ただ、ロードレーサーはそれだけではないように見える。秀一が自転車に乗るとき、それは一人でいることの、最も純粋な形だ。ペダルを踏む力は自分のものだけで、スピードは自分の体だけが作り出す。誰にも頼れない場所で、誰にも頼らずに動く——その走り方は、秀一が家の中で置かれていた状況と、どこかで重なっている。

鎌倉から湘南にかけての地形を、秀一は自分の足で知っていた。坂の傾斜、風向き、江ノ電の時刻——その土地の細部が、計画の精度を支えている。外側から見れば緻密な犯行計画の道具立てとして読めるが、その背後には、誰にも頼れないまま長い時間をかけてその土地を走り続けてきた少年の時間がある。計画の精緻さは、孤独の蓄積でもあったのかもしれない。

そしてこの小説のラストで、秀一は自らロードバイクをトラックに突っ込ませる。追い詰められた末の、その選択。愛車が最後まで彼を運んだ。計画の道具として始まり、逃げる手段にもなり得たはずの自転車が、最終的にその役割を担う。彼を乗せたまま、終わりまで走り続けた。

その最後の走りを、どう読むかは難しい。事故として処理されるかもしれない形で選ばれたその終わり方は、最後まで「計画する秀一」であり続けようとしたのか、それとも計画でも何でもなく、ただ走っていたらそこに着いたのか——作品はその問いに答えを与えないまま、静かに閉じている。

3. 守ることの設計——「完全」が向かっていた場所

「完全犯罪」という言葉には、知的な響きがある。計画の精巧さ、証拠の消し方、アリバイの構造——ミステリというジャンルの文脈では、しばしばその技術的な側面が前景化される。しかし秀一が目指した「完全」は、そういうものとは少し違う場所にあるように読めるのではないだろうか。

秀一が恐れているのは、捕まることそのものではない。捕まることによって、守ろうとした家族がさらに傷つくことを恐れている。母・友子と妹・遥香を曾根隆一という存在から切り離すこと。その後、家族三人で静かに生きていくこと。その完成形のために、犯行が「完全」でなければならなかった。完全犯罪は目的ではなく、守ることの手段として設計されていた。

だとすれば、計画が綻びていくプロセスは、単なるミステリの謎解き構造ではなくなる。秀一の内側にある何か——計画の精緻さでは補えない何か、あるいは17歳という年齢が持つ限界、あるいは人間が人を殺した後に必ず抱えることになる重さ——が、綻びとして外側に滲み出てくるのかもしれない。読者が惹かれているのは「計画がどう崩れたか」の技術論ではなく、「なぜ崩れたのか」の内側にある問いの方だろう。

幼馴染の石岡が、偶然犯行を目撃する。秀一は石岡に強請られ、石岡もまた殺す。「完全」を保つために始まった計画が、「完全」を保つためにさらなる暴力を必要とする——その連鎖の中に、この小説が持つ最も静かな残酷さがある。守るために始めたはずのことが、守ることとは別の方向に秀一を連れていく。

秀一が目指した「完全」は、バレないための完全ではなかった。家族を守りきるための完全だった。その二つは似ているようで、内側の温度がまったく違う。

4. 福原紀子の存在——届こうとした声と、届かせなかった距離

秀一のクラスメイト・福原紀子は、秀一に好意を持つ人物として描かれる。物語の中で彼女の存在は、秀一の孤独の構造を外側から照らすように機能している。

紀子は秀一に近づこうとする。彼の内側にある何かを感じ取り、その距離を縮めようとする。しかし秀一は、自分が抱えているものの重さを、紀子に渡すことができない。渡してしまえば、紀子を巻き込むことになる。あるいは、渡したところで、この重さは誰かが代わりに持てる種類のものではないと、秀一はどこかで知っている。その確信が、秀一と紀子の間に、言葉では埋められない距離を作る。

好意を持つ誰かがいることと、孤独が解消されることは、別のことだ。紀子の存在は、秀一の孤独を温めもするが、溶かすことはできない。それは紀子の限界ではなく、秀一が抱えているものの性質の問題だろう。誰かに話せる種類の重さと、話してしまえば話した相手まで壊れるかもしれない種類の重さは、違う。秀一のそれは、後者に近かったのではないだろうか。

完全に一人だったわけではない。届こうとした人間がいた。しかし届かなかった——届かせなかった、というべきか。その違いは小さいようで、秀一の内側では大きな差として働いていたかもしれない。夜、秀一が一人で計画を立てているとき、紀子の存在がどこかで滲んでいたとしたら——それは弱さではなく、17歳がまだ人間であることの、静かな証拠だったのかもしれない。

孤独な計画の精緻さと、隣にいる人間の体温とは、本来共存しにくい。しかし秀一の中では、その二つが同時に在り続けていた。計画を立てている間も、誰かの声が記憶の中にある。

5. 法と正義の乖離——17歳の前に置かれた問い

「法」と「正義」は、同じではない。誰もがそれを知っている。しかしその乖離を17歳で、家族を守るために、具体的な行動の選択として突きつけられる経験は、多くの人間には訪れない。秀一にはそれが訪れた。

法律が正しく機能すれば、曾根隆一は家族に近づけなくなる。理想としては、そうなるはずだった。しかし秀一が置かれた1999年の現実では、その経路はなかった。法が届かない場所で、正義とは何かを、秀一は自分で定義しなければならなかった。その定義が「家族を守ること」だった。それが「人を殺すこと」と接続したとき、法と正義の乖離は最も鋭く、最も個人的な問いになった。

この問いを「少年犯罪に共感してよいか」という形で立て直すと、問いは道徳的評価の迷路に入り込む。秀一の選択を擁護するか批判するかという二択に読者を追い込む。しかしこの小説は、その二択の手前にある場所に立ち続けているように見える。秀一が「正しかったか」ではなく、「秀一がそこにいたこと」を、作品はずっと見ているのではないだろうか。

秀一は断罪されていない。美化されてもいない。ただ、内側に潜り続ける視線が、計画の最初から最後まで動かなかった。その視線の冷静さは、秀一の冷静さと似ている。感情を持ちながら、感情を表に出さないまま、動き続ける——そういう少年を、そういう距離から書き続けた。

現代の読者が『青の炎』を読むとき、1999年と今では、DVへの法的対応は変わっている。保護命令の制度が整備され、相談窓口が増え、「離婚した元夫婦の問題」として警察が動かなかった時代と、今は違う。だからこそ逆説的に、この小説のリアリティは増しているかもしれない。「今なら別の選択肢があった」と分かるほど、「あの時代に、その選択肢がなかった秀一」の孤独が、鮮明になるからだ。制度の変化が、その場所にいた少年の輪郭をより正確に照らし出す——そういう読み方が、今この小説には可能なのではないだろうか。

おわりに. 問いは秀一に向かわない

鎌倉の家で、秀一は一人だった。

法が届かない場所で、警察が動けない場所で、大人に頼れない場所で、誰にも話せない重さを一人で抱えて、それでも動かなければならなかった夜——形は違っても、その構造を、自分の記憶の中に持っている人が、この小説の読者の中にいるはずだ。

孤独の構造は、人に話せない。話せないから孤独なのだ。秀一が計画を誰にも話せなかったのも、その中にいたからだろう。話してしまえば、もう一人ではなくなるが、同時に、自分だけが背負っていた何かが崩れる。その崩れを恐れる気持ちがあった。

秀一への問いは、読み終えた後にあまり意味を持たなくなる。彼が正しかったか間違っていたか、別の方法があったか——そういう問いは、どこかで失効する。残るのは問いの向き先が変わった後の静けさで、その静けさの中で読者は、秀一ではなく、自分の方を向くことになるかもしれない。

最後に秀一を運んだのは、ロードレーサーだった。一人で漕ぎ続けてきた、自分の足だけで動く自転車だった。アリバイを作るために使い始めたそれが、最後まで彼のそばにあった。計画の道具として始まり、逃げる手段にもなれたはずで、しかし最終的に向かったのはトラックの前だった。

ただ、彼は走っていた。鎌倉の道を、最後まで。

あなたへのおすすめ
ABOUT ME
亀吉🐢
亀吉🐢
映画・本が好きな極めて一般的な20代
こんにちは。亀吉です。 仕事の合間にブログを書いています。 このブログは、どこまでも個人的で恣意的な思想の表明です。思うままに・・・ 映画と本が好きです。その他音楽や登山など。
記事URLをコピーしました