G-0C41NE8DJB 『死に至る病』キェルケゴール — 「自分は絶望していない」と思っている人へ|亀吉の呟き
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『死に至る病』キェルケゴール — 「自分は絶望していない」と思っている人へ

『死に至る病』キェルケゴール — 「自分は絶望していない」と思っている人へ
yoshiomi
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はじめに

「絶望」という言葉は重い。自分には縁がない、と思う人が多い。借金で首が回らないとか、大切な人を失ったとか、そういう極限にある人の話だろう、と。だが十九世紀のデンマークにいた一人の哲学者は、まるで逆のことを書いた。絶望は特別な不幸ではない。自己を持って生きている人間なら、誰もがかかっている病だ。しかも厄介なことに、ほとんどの人は、自分が絶望していることに気づいていない——。

その本の題は『死に至る病』という。セーレン・キェルケゴールという名で知られる人が、1849年に世へ出した。題だけ見れば、不治の病か、死そのものの話に見える。ところが中身は違う。「死に至る病」とは絶望のことで、肉体の死ではない。むしろその病では死ぬことすらできない、とキェルケゴールは言う。「自分は絶望なんてしていない」。そう思っている人にこそ、この本は向けられている。

1. コペンハーゲンの単独者——キェルケゴールという人

キェルケゴールは1813年、デンマークの首都コペンハーゲンに生まれた。裕福な家の末子だった。父ミカエルは敬虔なルター派で、罪と罰をめぐる宗教的な重さが家の空気を満たしていた。神の前で人はどこまでも不十分だ——そういう感覚を、キェルケゴールは父から受け取って育った。

大学では神学と哲学を学んだ。当時のヨーロッパの哲学を支配していたのはヘーゲルで、世界の全体を一つの大きな理性の運動として体系化する思想だった。キェルケゴールは、その壮大な体系に違和感を抱いた。体系のなかに「この私が、いま、どう生きるか」という一人称の問いが入る場所がない。彼が一生をかけて掘り続けたのは、その「単独者」の問題だった。大きな体系のなかでは、人は「人類」や「時代精神」といった全体の一部として数えられてしまう。だが現に生きて悩んでいるのは、いつでもこの私一人だ。誰とも代わってもらえない一人の人間として、どう生きるか。その問いを引き受ける個人を、彼は単独者と呼んだ。

1840年、彼はレギーネ・オルセンという女性と婚約する。だが翌年、自分のほうから婚約を破棄した。理由を本人ははっきり語らなかった。この破棄は、その後の著作のあちこちに影を落とし続ける。結婚という、ふつうの幸福の形を、彼は自分の手で手放した人だった。

そして彼は、奇妙な書き方をする。多くの本を、自分の名ではなく偽名で書いた。『死に至る病』もそうで、アンティ=クリマクスという名で世へ出された。表紙にはキェルケゴール自身が編集者として名を添えている。自分が書いていることを隠しもせず、しかし自分の名では言わない。「これは理想のキリスト者の視点であって、自分はそこまで届いていない」——偽名は、その但し書きを名前そのものに込めるための工夫だった。おもしろいことに、彼には『哲学的断片』などを書いたヨハネス・クリマクスという別の偽名もある。そちらは「自分はまだキリスト者ではない」という、理想の手前から書く声だった。届いていない側のクリマクスと、理想の高さから書くアンティ=クリマクス。キェルケゴール自身は、そのどちらの声でもあり、どちらでもなかった。

彼は短い生涯で、おどろくほど多くの本を書いた。『あれか、これか』『おそれとおののき』『不安の概念』。偽名を使い分けながら、人が神の前にどう立つのかを、角度を変えて何度も問い直した。1846年にはコルサルという風刺新聞に戯画として描かれ、街を歩けば笑われるようになる。晩年は、制度として安定しきったデンマーク国教会を、本物の信仰を骨抜きにするものだと激しく批判した。そして1855年、路上で倒れ、まもなく息を引き取る。四十二歳だった。

2. 自己とは何か——自己自身に関係する関係

『死に至る病』は、絶望の話に入る前に、まず「自己とは何か」を定義する。その定義が、たいへん込み入っている。

「人間は精神である。精神とは何であるか。精神とは自己である。自己とは何であるか。自己とは、自己自身に関係するところの関係である」。

一度読んだだけでは、何を言っているのか掴みにくい。噛みくだくと、こういうことだ。人間は、無限なものと有限なもの、可能性と必然性、永遠なものと時間的なもの——相反する二つのあいだに引き裂かれて存在している。その二つをただ抱えているだけなら、それは「関係」にすぎない。だが人間は、その関係を自分で見つめ、引き受け、どう扱うかを選ぶ。関係が、自分自身に向かって折り返す。その折り返しの運動こそが「自己」だ、とキェルケゴールは言う。

この「相反する二つ」を、もう少し具体的にしてみる。人は、何にでもなれると夢見る無限の側と、結局この身体・この境遇でしかないという有限の側のあいだにいる。まだ実現していない可能性に開かれていながら、すでにこうなっているという必然からは逃れられない。永遠に触れる部分を持ちながら、時間のなかで老いていく。このどちらか一方へ振り切れても、人は自分を見失う。夢ばかりふくらませて地に足がつかないのも、現実に押しつぶされて可能性を閉じてしまうのも、どちらも同じ関係の失調だ。

つまり自己とは、最初から完成して与えられている何かではない。なるべき自分へ向かって、自分で自分を関係づけていく動きのことだ。だからこそ、その関係はうまくいかないことがある。歯車が噛み合わないように、自己が自己自身に対して正しく関係できない。その失調こそが、彼の言う絶望なのだ。

3. 死に至る病とは絶望である——肉体の死ではない

題名の「死に至る病」は、新約聖書のヨハネ福音書から来ている。ラザロが病で死にかけていると聞いて、イエスが「この病は死に至らず」と言う場面だ。ラザロはいったん死ぬが、イエスは墓から彼を呼び戻す。肉体の死は最後の終わりではない。その逆転が、題の根底にある。

ここからキェルケゴールは、奇妙な反転をしてみせる。本当に恐ろしい「死に至る病」とは、肉体を殺す病ではない。絶望のことだ。そして絶望のいちばん苦しいところは、それによって死ぬことすらできない、という点にある。

ふつう、病が重ければ人は死ぬ。だが絶望は、自己が自己自身との関係を病んでいる状態であって、その自己は、消したくても消えない。自分という重荷から降りたいのに、降りられない。「死ねたら楽になる」と思っても、絶望そのものは死なせてくれない。だから絶望は、終わりのない病として続いていく。彼が「死に至る病」と呼んだのは、死へ向かって楽になっていく病ではなく、死ぬことができないまま続く病のことだった。

そしてもう一つ、彼が強く言うのは、絶望の普遍性だ。絶望しているのは、人生に行き詰まった一部の人ではない。むしろ「自分は絶望していない」と平気でいる人のほうが、自分の状態に気づいていないぶん、より深い絶望のなかにいるのかもしれない。健康そうに見える穏やかな日常の下に、気づかれない絶望が静かに広がっている。キェルケゴールはそう考えた。

4. 二つの絶望——逃げる絶望と反抗する絶望

では、絶望とは具体的にどんな形をとるのか。キェルケゴールは大きく二つに分けた。

一つは、弱さの絶望。「絶望して、自己自身であろうと欲しない」形だ。本来の自分から目をそらし、自分であることの重さから逃げようとする。なりたくない自分を抱えきれず、別の何かに紛れて、自分の問題をなかったことにしようとする。多くの人がはまり込んでいるのはこちらだ、とキェルケゴールは見る。自分を見ないことで、かろうじて日々をやり過ごしている状態だ。

この弱さの絶望にも、濃淡がある。はじめ人は、何か外のものをめぐって絶望する。仕事を失った、恋人が去った、思い描いていた人生が手に入らなかった。本人は「あの出来事のせいで絶望したのだ」と思う。だがキェルケゴールに言わせれば、人が本当に絶望しているのは、その出来事そのものではない。それを失った自分、そんな自分でいることに、もう耐えられない。失ったものは入り口にすぎず、絶望はいつのまにか、外の世界から自分自身へと向きを変えている。だからこの絶望は、出来事のほうが片づいても消えはしない。別の不満へ移っていくだけで、自分から目をそらしているという構図は、変わらないままだ。

もう一つは、反抗の絶望。「絶望して、自己自身であろうと欲する」形だ。これは弱さの裏返しに見えて、もっと激しい。自分を見つめ、自分であろうと強く意志する。ただし、自分を成り立たせている力——キェルケゴールにとっては神——を抜きにして、自分の力だけで自分の主人になろうとする。「誰の助けも借りない。自分は自分の手で作る」。その姿勢が、彼の言う反抗だ。

ここが、いまの私たちには一番ひっかかる場所かもしれない。「自分らしくあれ」「ありのままの自分を肯定しよう」。そういう言葉は、いまでは無条件に良いものとされている。だがキェルケゴールの目から見れば、自分の足だけで立とうとする自己実現は、信仰を欠いた反抗の絶望に限りなく近い。

もちろんキェルケゴールは、自分を投げ出して群れに紛れろと言っているのではない。弱さの絶望——自分から目をそらすこと——も、彼にとっては病だった。問題は、自分であろうとするその方向が、どちらを向いているかにある。自分一人を起点にするのか、自分を成り立たせた力のほうへ開くのか。同じ「自分らしさ」が、向きしだいで絶望にもなれば、その出口にもなる。自分であろうとすることが、なぜ絶望でありうるのか。彼の問いは、百七十年の時を越えて、私たちの足元に届く。

5. 絶望の反対——幸福ではなく信仰だった

絶望の反対は何か。ふつうに考えれば、幸福とか、平穏とか、満ち足りた状態だろう。だがキェルケゴールは、そこに別のものを据えた。

絶望の反対は、信仰だ。

彼は本の終わりに近いところで、絶望の対極を、一つの式のように書いている。「自己は、自己自身に関係し、自己自身であろうと欲することにおいて、自己を措定した力のうちに透明に基礎づけられている」。

難しい言い回しだが、言い換えるならばこうだ。自分という存在は、自分で作ったものではない。気がついたときには、もうここにいた。自分をこうして在らしめた力が、自分の外にある。その力——キェルケゴールにとっては神——の前に、自分を隠さず、ごまかさず、透明なまま立つ。そのとき初めて、自己は自己自身と正しく関係できる。引き裂かれていた二つが、無理に握りしめなくても、収まるところへ収まる。それが信仰であり、絶望の終わりだ、と彼は言う。

気をつけたいのは、これが「頑張って絶望を克服しよう」という話ではないことだ。むしろ逆で、自分の力で自分を完成させようとする握りしめ——反抗の絶望——を、いったん手放すところに、信仰は開ける。自分が根拠ではない、と認めること。それは敗北のようでいて、キェルケゴールにとっては、人がようやく自分自身になれる場所だった。

6. 絶望とは罪である——神の前で

ここまでが、この本の第一部にあたる。第一部でキェルケゴールは、絶望を、まず自己の構造の問題として——神をまだ正面に呼び出さずに——分析した。だが本にはもう半分、第二部がある。そこで彼は、同じ絶望を、もう一段深いところから捉え直す。

第二部の表題は「絶望とは罪である」という。鍵になるのは、「神の前で」という一語だ。自己が、ただ自己自身に関係するだけでなく、自分を在らしめた神の前に立っている——そのことを意識したうえでなお絶望しているとき、その絶望は罪と呼ばれる。罪とは、神の前で、絶望して自己自身であろうと欲しないこと、あるいは絶望して自己自身であろうと欲することを指す。第一部で挙げた二つの絶望が、神という相手の前に置かれると、罪という名前に変わる。

ここでキェルケゴールは、もう一つ意表をつくことを言う。罪の反対は、徳ではない。罪の反対もまた、信仰なのだ、と。善い行いを積み重ねて悪を打ち消すという足し算の話ではない。神の前に自分を隠さず立てるかどうか——その一点が、罪と信仰を分ける。だからこそ、絶望の反対も、罪の反対も、同じ信仰という一語に集まっていく。

そして第二部には、こんな考えもある。神という、より高い基準を前にするほど、人の自己はより大きな重さを持ち、それゆえ絶望もまた深くなる。神を知らなければ、絶望は鈍く、本人にも気づかれない。神の前に立つほど、自分が何者であるかという問いは逃げ場をなくしていく。だから信仰は、絶望から目をそらすことではない。絶望をいちばん深いところまで通り抜けた先で、ようやく開くものだった。

この第二部があることで、第一部の冷静な絶望の分析は、信仰という宗教的な決断の手前まで連れていかれる。絶望は心理の問題で終わらない。誰の前で、自分は自分であろうとしているのか。その問いへと変わっていく。

おわりに

『死に至る病』は、読みやすい本ではない。自己を関係の関係と定義するところから入り、絶望を分類し、最後に信仰へ抜けていく。論理は細かく、宗教的な前提も濃い。気軽に勧められる一冊ではない。

それでも、この本が投げかける問いは、信仰を持たない人のところにも残る。自分は絶望していないと思っていること自体が、ひとつの絶望のかたちでありうる。絶望の反対は、幸福でも平穏でもなく信仰だった。そして、自分であろうと強く願うことすら、ときに絶望に変わる。第一部の心理学的な分析だけを取り出せば、この本は冷たい絶望の解剖図に見える。だが第二部まで読むと、その絶望はすべて、神の前に立つ罪という一点へ流れ込み、その反対に信仰があることがわかる。

キェルケゴールは、絶望を美しいものとして描かなかった。深い苦悩を抱えた孤独な天才、という像に自分を仕立てることもしなかった。彼にとって絶望は、癒されるべき病であって、誇るものではない。生涯ほぼコペンハーゲンを離れず、結婚もせず、偽名の影に隠れながら、キェルケゴールが一冊ずつ書いて確かめようとしたのは、たった一つのことだった。この自分が、何の前に立って、誰として生きるのか。彼はその答えを、幸福ではなく信仰のほうへ預けた。自分の力だけで自分の主人になろうとすること——それを彼は自由の絶頂ではなく、一番気づかれにくい絶望と呼んだ。健康そうな顔をした絶望に、彼は名前を与えた。その反対側に信仰を見ていた人が、十九世紀のコペンハーゲンに一人いた。

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こんにちは。亀吉です。 仕事の合間にブログを書いています。 このブログは、どこまでも個人的で恣意的な思想の表明です。思うままに・・・ 映画と本が好きです。その他音楽や登山など。
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