『四畳半神話大系』―どの扉を開けても、同じ部屋が待っていた
四畳半一間。窓から入る光の角度も、壁の薄さも、隣室の気配も、どれほど選択肢を変えても変わらない。
森見登美彦の『四畳半神話大系』は、2004年に太田出版から刊行された小説だ。舞台は京都大学周辺。語り手の「私」は大学3回生で、腐れた学生生活を呪いながら、入学時の選択を悔やみ続けている。物語は同じ「入学」から始まる四つの並行する物語で構成され、映画サークル「みそぎ」、 樋口師匠の弟子になる道、 ソフトボールサークル「ほんわか」、 秘密機関「福猫飯店」——それぞれ異なる選択をした「私」の数年間が繰り返し語られる。そしてどの選択をした「私」も、ほぼ同じ孤独に辿り着く。
この構造が問いかけてくることは、「どのサークルを選べばよかったか」ではないのかもしれない。もっと根の深いところにある。四つの「もしも」を実行した結果、孤独は変わらなかった——それはいったい何を意味しているのだろうか。選択が悪かったのか。選んだ人間が変わらなかったのか。それとも、どの扉を開けても同じ部屋に繋がっているという、構造そのものに問題があったのか。
この小説は、その問いに答えを返さない。答えの代わりに、四つの物語を並べて置く。読み終えたあと、「あのとき別の選択をしていれば」という自分自身の問いが、少し違う形をして戻ってくるような一冊だ。
1. 繰り返す物語——同じ孤独が、四度訪れる
並行世界を使う物語は、たいてい対比のために設計されている。ある世界では成功し、別の世界では失敗する。その落差が選択の重さを照らし出す。しかし『四畳半神話大系』は、その設計に乗っていない。
四つの世界で、「私」はそれぞれ異なる選択をする。映画サークルを選んだ「私」も、樋口師匠の弟子になった「私」も、ソフトボールサークルに入った「私」 も、 秘密機関に潜り込んだ「私」 も——どの「私」も小津に絡め取られ、碌でもない企みに巻き込まれ、気づけば腐れた時間の中にいる。薔薇色のキャンパスライフを夢想しながら、その夢想の眩しさで現実を呪う日々が繰り返される。明石さんはどの章にも姿を現すが、「私」はどの世界でも彼女との距離を縮められない。選択肢が変わっても、「私」はほとんど同じ「私」でいる。
一度目に読んだとき、「そういう性格なのだ」と思うかもしれない。二度目は「またか」と感じるかもしれない。三度目で、何か別の問いが浮かび上がってくることになる。これはもしかすると、どう選んでも変わらない話なのではないか、という問いが。
「私」の自意識は、ここで一度触れておく必要がある。「私は入学当初より薔薇色のキャンパスライフを夢想してきた」——と「私」は繰り返す。その語りはいつも饒舌で、自己弁護と自己批判が奇妙に混在しており、自分の腐れた現状を徹底的に呪いながら、しかし呪う自分のことも密かに愛でているような、暑苦しい自意識で満ちている。小津の所為にしながら、どこか小津を手放したくない。明石さんのことを語りながら、近づく一歩を何度でも先送りする。「私」は自分の孤独の設計者でありながら、その建築に気づかないふりをし続けているのだろう。そのふりが非常に精緻にできていて、読んでいるこちらは「お前が悪い」と思いながら、それを言い切れない何かを感じるのだ。
選択肢の違いが結果を変えないとき、「もっといい選択があった」という問いの立て方は、少し違う場所に向かい始める。問うべきは選択の内容ではなく、なぜどの選択をしても同じ場所に辿り着くのかという、別のことなのかもしれない。物語が繰り返されるたびに、その重さは静かに積み重なっていくのだろう。
「薔薇色のキャンパスライフ」 という定型句は、 全章で繰り返される。 最初はただの自嘲に見えるが、 四つの世界を通過したあとに同じ言葉を見ると、 もはや単純な自嘲には読めなくなっている。 「私」 がこの定型句を手放せないこと、 それ自体が問いの一部になっているのかもしれない。 そして本作の構造のもう一つの特徴として、 どの並行世界にも 明石さんが現れ続ける ことを、 ここで一度押さえておきたい。 同じ女性が、 異なる選択をした四つの「私」 のどの章にも、 別の形で存在し続けている。 「私」 がどの扉を開けたとしても、 明石さんという同じ一人が、 必ずどこかで隣に立っているのである。
2. 自業自得の孤独——裁く手を止めたとき
「私」を読んでいると、裁きたくなる瞬間がある。なぜ動かないのか。なぜ言わないのか。なぜその判断をするのか。自意識だけが肥大して、行動が追いつかない。小津に振り回されながら、縁を断ち切ることもしない。明石さんへの気持ちを持ちながら、言葉にする場面を何度も手放していく。読んでいる側の目には、「私」の孤独は明らかに「私」が選んでいるように見えてくるのだ。
ただ、裁く手を一度止めてみたい。「私」が自業自得の孤独にいるとして、だからといって何が変わるのか、という問いがある。「お前が悪い」と言えたとして、それはこの小説が問うていることと、どこかでずれているのではないだろうか。
「私」は自分が悪いと、おそらく分かっているのだろう。分かっていながら抜け出せない——この感触は、「分かる」が解決の道具にならない状況を指している。「変わらなければ」と思いながら変われない状態は、意志の弱さだけで説明しきれないのかもしれない。人間の行動には、「分かる」と「できる」のあいだに、かなり広い領域があるように思える。それを「甘え」と呼ぶこともできるのだろうが、そう呼んだあとに何かが解決するわけでもないだろう。
さらに言えば、「私」は四つの世界で毎回異なる選択をしている。それでも辿り着く場所は似たようなものだ。これは「選択を変えても変わらないもの」が「私」の中にある、ということなのか。あるいは「選択を変えても変わらない構造」が「私」の外側にある、ということなのか。どちらで読むかによって、孤独の重力の向きが変わってくる。前者なら「私」の問題であり、後者なら「私」を包む何かの問題だ。
この小説の巧みさは、その問いをどちらかに決着させないことにあるのかもしれない。「私」を哀れむ理由も、裁く理由も、どちらも半分ずつ正当だ。ただ、同じ場所に座って、なぜここにいるのかを静かに考える——小説はそういう時間を読者に要求しているように感じられる。
「私」の孤独を個人の性格に帰責する読みと、構造に帰責する読みのあいだに、この小説は立っているのだろう。どちらかに決めることよりも、その問いをそのまま持ち続けることの方が、この小説との正直な付き合い方に近いのかもしれない。自業自得か、構造の問題か——その問いは、読み終えたあとも、自分自身のある場所を指し続けることになる。
3. 四畳半という空間——閉じた部屋と、閉じた街
「私」の下宿は、四畳半一間だ。狭い。壁が近い。荷物を置けば身動きが取れなくなる。この部屋が物語全体の象徴として機能しているのだが、興味深いのは四畳半と街の関係だろう。
外には街がある。大学がある。人がいる。「私」はそこに出ていく。出ていって、何かが起き、小津と碌でもない夜を過ごし、明石さんのことを考え、やがて四畳半に戻ってくる。外に出ても、「私」の孤独はほとんど変わらない。出町柳を歩いても、下鴨神社の境内を通り抜けても、鴨川の河原に座っても、百万遍の交差点を渡っても——街の中にいても、四畳半の中にいるのと似たような状態が続く。
この街の描かれ方は、観光の京都ではない。美しい場所として登場するのではなく、「私」が動き回る回廊の部品として配置されている。どれほど歩き回っても、同じ巡回に戻ってくる。逃げ場のない構造として、街がある。四畳半は一部屋だが、この街も「私」にとっては四畳半なのかもしれない。壁が四枚あるか、路地が無数にあるかの違いで、「私」の動ける範囲は変わっていないのかもしれない。
物語の終盤近く、四畳半が無限に増殖するシークエンスがある。「私」は部屋から部屋へと彷徨い、どこへ行っても同じ四畳半が続く。外に出ても四畳半。街を歩いても四畳半。別のサークルを選んでも四畳半。扉を開けるたびに、同じ部屋が待っている——この小説が最初から問い続けてきたことが、ここで最も直截な形をとるのだろう。
この増殖するシークエンスは、 悪夢のようでもあり、 同時に何か奇妙な解放感を伴っているように読めるかもしれない。 どこへ行っても同じなら、 どこへ行くかにこだわる必要がなくなるともいえるからだ。 増殖する四畳半の中で、 「私」 はあるものを思い出す。 古本まつりで明石さんが落とした、 ぬいぐるみ「もちぐま」 のことを。 そのもちぐまを明石さんに渡す、 という、 ささやかな約束のことを。 「私」 はその約束を抱えて、 部屋から部屋へと彷徨い、 やがて出口に辿り着く。 出口は最初からあった——他者との小さな約束という形で、 部屋の外側に。 四畳半は牢だったのか。 それとも「私」 がそこから出ようとしなかっただけなのか。 もしくは、 「私」 を外へ呼び出す手がかりは、 自分の中ではなく、 他者の手元に置かれた一冊の絵本や一匹のぬいぐるみとして、 ずっと前から差し出されていたのか。
4. 小津という存在——悪友か、「私」の引力か
どの並行世界にも、小津は現れる。妖怪のような風貌と描かれているこの人物は、「私」をさまざまな企みに巻き込み、碌でもない方向へと引っ張る。「私」は小津のことを腐れ縁と思いながら、どの世界でも小津から離れることができない。
小津の機能はひとつではないだろう。物語を動かす推進力として機能している。「私」は自分から動かないが、小津が引っ張るので事態が動く。狂言回しとして、複数の章をまたいで物語に一貫性を与えてもいる。樋口師匠や羽貫さんとの繋がりも、多くの場合小津を経由している。こういう「接着剤」的な人物がいることで、並行世界の四つの物語は別々の話ではなく、同じ構造の反復として機能するのだろう。
ただ、小津の存在には別の読み方もできるのかもしれない。「私」が腐れた状況を呪うとき、その呪いの矛先はしばしば小津に向かう。小津のせいで、という思考の動きがある。その動きの中で、「私」は自分の選択の責任を小津という形に押し付けているのではないか、という観察が、どこかで浮かんでくる。
異なる選択をしたはずの「私」が、どの世界でも小津と出会い、小津と腐れ縁になっていく。「私」が小津を引き寄せているのか。あるいは小津という存在が「私」という人間の引力に引き寄せられてくるのか。小津が「私」の外にいる人間なのか、それとも「私」の内側にある何かが外側に投影された形なのか。
森見登美彦が小津を「樋口師匠の弟子」でもあるという形で書いたことは、面白いと思う。小津は「私」の悪友であると同時に、師弟関係の中にいる人物でもある。その二重性が、単純な「悪役」として処理できない複雑さを小津に与えているのだろう。どの並行世界でも同じ場所に現れ続ける小津は、「私」という人間の地図に最初から書き込まれていたのではないか、という読みが、章を重ねるごとに強くなっていく。
5. 並行する「私」 ——四つの選択が収束していく場所
四つの物語が並行する、 という形式自体が、 この小説の問いになっているのだろう。 読者は四つすべてを読む。 どの「私」 の体験も知りながら、 やがて気付くことになる——四つの並行世界は、 別々に終わるのではない。 一つの場所に向かって、 静かに収束していくのである。
その収束点を、 森見登美彦は具体的に描く。 賀茂大橋に、 大量発生した蛾が舞う。 四つの世界で別々に動いていた「私」 たちが、 同じ橋の上で同じ蛾の群れに巻き込まれる。 四つの平行線が一点で交差する。 その交差点で、 「私」 は明石さんに出会う——いや、 もう何度も出会っていたが、 ここで初めて、 並行世界の総体としての「私」 が、 明石さんに辿り着く。 ぬいぐるみ「もちぐま」 を、 明石さんに手渡す。 そして、 二人は恋仲になる。
つまり、 「もし別の選択をしていれば」 という想像を四通り実行した結果として、 「別の扉を開けても、 同じ人の隣に辿り着いた」 という景色が広がることになる。 これは「どの選択にも意味がない」 という話ではない。 むしろ、 「どの選択を選んだとしても、 ある特定の場所 (明石さんとの出会い) には到達するように、 世界は設計されていた」 という、 反転した肯定の話に近いのである。
「私」 はこれまで、 「薔薇色のキャンパスライフ」 を「選び取れなかったもの」 として呪い続けてきた。 自分の腐れた現状を呪うことで、 別のどこかにあるはずだった薔薇色を保ち続けてきた。 しかし、 四つの並行世界を経由したあとに「私」 が辿り着くのは、 自分が呪い続けていた現状の中に、 すでに薔薇色の素材がずっと置かれていたという発見である。 小津と過ごした腐れた夜の総体が、 明石さんに辿り着くまでの道筋として機能していたのだ——という、 想像していたのと違う形での「薔薇色」 の到来。
森見はラストでこう書く。 「成就した恋ほど語るに値しないものはない」。 この一文は、 並行世界の構造を畳んでいくときの、 最後の畳み方になっている。 語るに値しないほど成就してしまった恋を、 「私」 はもう「薔薇色のキャンパスライフ」 として呪う必要がない。 呪う対象としての夢想が、 呪う必要のない現実に置き換わる。 四つの並行世界の総体が、 その置き換えを支える土台になっていたのである。
「選択は問題ではなかった」 という命題は、 だから二通りに読める。 一つは「選択を変えても変わらないものがある」 という諦め方。 もう一つは「どの選択を選んでも、 同じ場所に辿り着くように世界は設計されていた」 という、 別の角度からの肯定。 本作が立っているのは、 後者の場所だろう。 ただし後者は前者を否定するわけではない。 二つの読みが同時に成立する場所に、 この小説は立っている。
おわりに——薔薇色は、 別の形で来ていた
どの選択肢を選んでも同じ孤独に辿り着く「私」 は、 実在しない特定の誰かではないのかもしれない。 自分が悪いと分かっていても抜け出せない、 理想と現実の落差を自分の手で埋めることができない、 変わらなければと思いながら変わらない——こういう状態は、 「私」 に固有のものではないのかもしれない。
「あのとき別の選択をしていれば」 という問いを、 一度も持ったことがない人間は少ないだろう。 進路の選択、 人間関係の分岐、 言えなかった言葉、 踏み出せなかった一歩。 過去のある地点に戻り、 別の扉を開ける想像は、 多かれ少なかれ誰もが持っているものではないかと思う。
この小説が問い返してくるのは、 その想像の構造そのものだろう。 別の扉を開けたとして、 本当に別の場所に辿り着けたのか。 四つの並行世界を経由したあとで、 「私」 はある収束点に辿り着く。 もちぐまを明石さんに手渡し、 賀茂大橋の蛾の群れの中で、 二人は恋仲になる。 薔薇色のキャンパスライフは、 「私」 が思い描いていた形では手に入らなかった——確かにそうである。 だが、 思い描いていた形とは別の形で、 薔薇色は来ていた。 ただし「私」 がそれを薔薇色と呼ぶことを覚えるまでに、 四つの並行世界分の時間が必要だったのである。
森見登美彦が物語の最後に置いた一文——「成就した恋ほど語るに値しないものはない」 ——は、 だから二重の意味を持つように読める。 一つは、 文字通り「成就した恋は語るに値しない」 (= ここから先は語らない、 物語は閉じる) という宣言。 もう一つは、 「成就した恋を語らないことが、 薔薇色を呪わずに保持する唯一の方法だ」 という静かな了解。 「私」 が四つの並行世界で繰り返し呪い続けてきたのは、 手に入らない薔薇色だった。 手に入った薔薇色は、 もう呪う必要がない。 呪う必要がないものは、 語るに値しない。 つまり、 語るに値しないという宣言そのものが、 薔薇色の到来の証拠なのである。
「私」 が四畳半で薔薇色のキャンパスライフを夢想し続けた時間と、 明石さんと結ばれて夢想を呪わなくてもよくなった時間は、 別々のものではないのかもしれない。 「夢想する自分」 と「夢想を呪わなくてもよくなった自分」 は、 同じ並行世界の総体の中に並んで存在している。 四つの選択肢のうちのどれを選んだとしても、 「私」 はその両方を経験することになっていた——そう読むと、 この小説の構造の意地悪さと優しさが、 同じ場所から生まれていることが見えてくる気がする。
「あのとき別の選択をしていれば」 と問い続けてきた誰かが、 四つの並行世界を読み終えたあと、 自分の今の場所をもう一度見渡す。 別の扉を開けても、 たぶん同じ人の隣に辿り着いていた。 そう思える瞬間が、 自分の「あのとき」 を呪うことを、 少しだけ柔らかくしてくれるのかもしれない。 薔薇色は別の形で来ていた、 という観察が、 本作の読後の手触りとして長く残ることになる。
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