『夜は短し歩けよ乙女』―先輩の饒舌は、乙女の夜に届いていたか
はじめに. 語りの過剰——先輩はよく喋る
先輩は、よく喋る。
その喋り方は独特だ。失敗した夜のことを語るとき、先輩の言葉はむしろ饒舌になる。木屋町の夜に乙女を追いかけ、古本市の人混みに飲み込まれ、「偏屈王」の舞台で桃色ブリーフの男たちに翻弄され、樋口師匠の八畳間に転がり込む。そのたびに先輩は語る。自分がいかに間抜けだったか、いかに計算通りに行かなかったかを、語りながらどこかほのかに楽しんでいるような調子で。読者は微笑みながら、あるいは苦笑しながら、先輩の語りに乗っていく。
でも読み終わってから、その語りの量を思い返すと、不思議な非対称に気づくかもしれない。先輩はあれほど言葉を費やしていたのに、乙女のことを、実際にどれだけ語っていたのだろうか。作戦の精緻さは語られる。失敗の痛さも語られる。焦りの細部まで、丁寧に言葉になる。でも乙女が何を見て、何に笑って、その夜の京都をどんな目で歩いていたか——そこへ向かう先輩の言葉は、語りの総量と比べると、驚くほど少ないのだ。
森見登美彦の『夜は短し歩けよ乙女』は2006年に角川書店から刊行された。舞台は京都。先輩と呼ばれる男性が黒髪の乙女に恋をして、春夏秋冬の四章にわたって夜の京都を舞台に物語が動く。先輩と乙女の視点が交互に現れる構造を持ち、2007年に山本周五郎賞を受賞、同年の本屋大賞で2位に入った。
この記事が問いたいのは、先輩の語りという現象についてだ。先輩は「信頼できる語り手か否か」という問いよりも、もう少し手前の、静かな場所に問いがある。先輩はあれほど饒舌に語りながら、その語りの中心に、乙女という人間を本当に置いていたのだろうか。饒舌であればあるほど、何かを覆っているということがある。先輩の語りは、その「覆い方の形」を持っているように見える。
1. ナカメ作戦の精密さ——語られたことと、語られなかったこと
先輩が自分の作戦を語るとき、その語りは非常に具体的になる。
「ナカメ作戦」——なるべく彼女の目にとまる作戦——を先輩は実に丹念に遂行する。どのタイミングで声をかけるか、どのような角度で乙女の視界に入るか、自分の行動を「なるべく自然に見える」ように設計するための試行錯誤を、先輩は熱を持って読者に報告し続ける。その報告の密度は高い。先輩が自分の行動と思考についていかに精密に観察しているか、語りを追うだけで伝わってくる。先輩は優秀な観察者だ——少なくとも、自分自身については。
ここで少し、先輩の内側に入ってみてほしい。下鴨の古本まつりで乙女の背中を見つけた先輩が、どれほど素早く計算を始めるかを。あの人は今あの棚を見ている、次はこちら側に来るかもしれない、そうすれば自分が「自然に」その場にいることができる——先輩の頭の中では、緻密な将棋盤が展開されているのだ。ナカメ作戦と名付けることで先輩は自分の行動に一種の体裁を与えているが、その実態は、愛する人の動線を先読みして先回りし続けるという、ほとんど測量士のような仕事だ。その勤勉さは滑稽だが、誠実でもある。問題は、その勤勉さが向いている方向にある。
作戦の精緻さは、その対象への観察の深さを必ずしも意味しない。むしろ逆のことが起きうる。精密な作戦を立てるとき、人はしばしば「相手」ではなく「自分の作戦の成功」に集中し始める。相手の実際の動き、相手の目の向き、相手がその夜の京都で何を面白がっているかという事実よりも、自分の次の一手が優先される。先輩の語りを読んでいると、この逆転がゆっくりと見えてくるのだ。
先輩は乙女について語る。黒髪の、天真爛漫な、不思議な引力を持つ乙女について。でもその語りは、乙女という人間の内側へはほとんど踏み込まない。乙女が何を欲しがり、何に退屈し、夜の古本まつりでどんな本を手に取ったかを、先輩の章は詳細に追わない。追うのはむしろ、そういう乙女を前にした先輩自身の反応と、次に取るべき行動の計算だ。先輩の語りの中で、乙女は「引力を持つ存在」として現れるが、乙女自身の世界の重心は、先輩の語りからはほとんど見えてこない。
「好きである」ということと「見ている」ということは、同じではないのかもしれない。先輩の語りは、乙女への愛情と、乙女への観察の欠如を、同時に持っている。その両立が、先輩という人物の最も奇妙な場所として残るのだ。語りの量があれほど多いから、その語りが届いていない場所が、かえって見えにくくなっているのかもしれない。
2. 乙女の地図——同じ夜の、別の座標系
乙女の視点章を読んだとき、多くの読者はある種の驚きを覚えることになるだろう。
先輩の章を読んでいると、夜の京都はある程度「先輩の地図」の上にある。先輩がどこにいて、乙女がどこにいて、その距離がどう縮まるか縮まらないか、というドラマの磁場が夜の輪郭を形づくっている。でも乙女の章に移ると、その磁場がすっと消える。乙女にとって、夜の京都は先輩との距離で測られる場所ではないのだ。
春の夜、乙女は偽電気ブランを求めて木屋町・先斗町を渡り歩く。偽電気ブランとは、浅草の電気ブランをモジった架空の酒で、京都の特定の店でしか出されない。乙女はその酒を、夜の縁をたどりながら探していく。夏には下鴨の古本まつりで、幼少期に読んだ絵本『ラ・タ・タ・タム』を探し求める。秋の学園祭では「偏屈王」のプリンセス・ダルマの代役を突然演じることになり、冬には流行り風邪の京都を見舞いに歩き回る。その動きはすべて、先輩の作戦とは独立して走っている。乙女の夜の重心が、古本の手触りや偶然の縁や夜そのものの豊かさの中にあって、先輩の磁場がその重心に届いていないから、先輩が乙女の地図に現れないのだ。
先輩の章と乙女の章を並べて読むと、同じ夜が二枚の地図として存在していることがわかってくる。一枚の地図では先輩の作戦と焦りが中心にある。もう一枚の地図では、夜そのものの豊かさが広がっている。二枚の地図が重なっていると思っているのは、先輩だけなのかもしれない。先輩は乙女と同じ夜を共有しているつもりでいる。でも乙女の地図を見ると、先輩がいると思っていた場所に、別の何かが描かれているだろう。
この構造は、読者に「乙女が先輩に気づいているかどうか」という問いを立てさせる。でもその問いは、少しずれているかもしれない。本当の問いは別の場所にある——先輩は、乙女という人間を見ていたのか、という問いだ。乙女の地図に先輩が薄いのは、先輩が乙女の世界の重心に触れていないからかもしれない。乙女を動かしているもの——古本への愛、人との縁の偶然、夜そのものの質感——は、先輩の作戦とは別の場所にある。
先輩は乙女の引力圏にいる。でも乙女の重心には、届いていない。この非対称を、この小説は断定しない。責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ二枚の地図を並べる。その並べ方の静けさが、この小説の最も誠実な場所のひとつだと感じるのだ。
3. 饒舌の形状——語ることで後退するもの
先輩の語りを声に出して読んでみると、その速さに気づく。
先輩は驚くほど自己卑下が速い。作戦の失敗を語るとき、その失敗の描写は過剰なまでに詳細で、自分の間抜けさについての観察が異様に精密だ。李白氏の前で翻弄され、韋駄天コタツの熱を受け取り損ね、樋口師匠の八畳間に転がり込む夜。先輩の夜はいつも彼が予期しない方向へ流れていく。そのたびに先輩は語る——自分がいかに滑稽であったかを、饒舌に、ほとんど喜んで語る。その饒舌の中に、先輩という人物の体温がある。愛嬌がある。滑稽な誠実さがある。
でも、その饒舌が「自分」に向かっているとき、饒舌は「乙女」に向かっていない。先輩の語りを流れに沿って読んでいると、乙女が登場するたびに先輩の観察が自分の内側へ折れ返るのがわかるかもしれない。乙女が笑ったとき、先輩がどう感じたかは書かれる。乙女の笑いがその夜の文脈の中でどういう意味を持っていたかは、先輩の語りの中では薄い。乙女は先輩の世界の中で「先輩の感情を動かすもの」として現れるが、乙女自身の世界の重心は、先輩の語りからは見えてこないままなのだ。
饒舌には二つの種類があるように思う。伝えたいことがあって言葉が溢れる饒舌と、言葉が先に出ることで、言葉にならないものが後退していく饒舌。先輩の語りを読んでいると、後者の匂いがする。先輩は自分の心情を隠しているわけではない。むしろ驚くほど率直に、作戦と失敗と焦りを読者に開示する。でも、その率直さの豊かさの中で、何か別のものが静かに覆われているように見える。語ることで、語れていないことが隠れる。
先輩の饒舌は、その語りの形として、「乙女を見ていない場所」を持っているのかもしれない。これは先輩の悪意や鈍さの話ではないのだろう。語ることに一所懸命なとき、人は対象の外側に回れないことがある。先輩の語りはまさにそういう形をしていて、森見登美彦はそれを描写として設計したというより、先輩という人物を書いたら自然にそうなった、というような質感を持っている。
ここに、この小説の静かな恐ろしさがある。先輩の語りは、読者にとってもなじみのある形をしている。誰かを好きでいながら、その誰かの世界の重心を見ていなかったことは、特別な鈍さでも悪意でもなく、語ることに夢中なあいだにただ起きてしまうことかもしれない。先輩の饒舌を読みながら、どこかで笑えなくなる瞬間が来るとしたら、おそらくそういう場所でのことだろう。
4. 樋口と羽貫——閉塞と祝祭が並ぶ夜
この小説を読むとき、前作『四畳半神話大系』(2004年)との連続性について触れておく必要があるだろう。
両作に共通して登場する樋口と羽貫は、この小説に「別の宇宙」の気配を持ち込む。詭弁論部のOB級存在として八畳間に住む怠惰の権化・樋口師匠と、豪快な飲みっぷりの歯科助手・羽貫さん。『四畳半神話大系』の「私」と本作の「先輩」は別人だが、同じ京都の夜に同じ人物たちがいる。これは直接の続編ではなく、同じ「森見ワールド」という広い宇宙が京都の夜を背景に持っているという、ゆるい連続性の確認だ。
重要なのは、両作のトーンの対称性だろう。『四畳半神話大系』の「私」は自意識の四畳半に閉じ込められた青年だった。どの選択をしても同じ場所に辿り着く、あの反復と閉塞の構造。本作の先輩は、同じ種類の自意識を持ちながら——饒舌に自分を語り、失敗を詳述し、作戦に名前をつける——乙女という外部の存在に引き出されていく。樋口と羽貫が両作に登場することは、その「閉塞」と「祝祭」が同じ京都の夜の中で並存していることの暗示として機能しているのだろう。
ここで先輩の自意識を、『四畳半』の「私」と並べてみると、奇妙な連続性が見えてくる。四畳半の「私」は自意識の内側に籠もり、どの扉を選んでも同じ部屋に帰ってくる。本作の先輩は乙女という外部に開かれているように見えるが、ナカメ作戦という名の計算を介することで、乙女という「外部」を自分の地図の上に落とし込もうとしている。外に出たつもりで、実は自分の地図の縮尺を変えているだけ、という可能性が、先輩の語りを読んでいると浮かんでくることがある。
樋口師匠は先輩の夜にも顔を出す。羽貫さんも縁の連鎖に絡んでくる。彼らは乙女の地図にも先輩の地図にも現れる人物として、二枚の地図の間を自由に移動している。その自由さと、先輩の語りの固定された視線を並べると、先輩の視界の固定ぶりが浮かび上がってくるのだ。四畳半の「私」が閉塞の中にいたように、先輩もまた別の種類の閉塞の中にいるのかもしれない——乙女という外部を持ちながら、その外部の実質に触れられないという、見えにくい種類の閉塞の中に。
5. 乙女の引力——見られることなく動く重心
乙女という人物の最も不思議な点は、その「引力」の性質にある。
乙女は先輩を惹きつける。それだけでなく、夜に出会う多くの人々を、自分の周りに集めていく力を持っている。偽電気ブランを求めて木屋町の夜を渡り歩き、古本市の神さまと出会い、「偏屈王」の舞台でプリンセス・ダルマの代役を演じ、冬の風邪禍に知人たちを見舞いに歩く。その引力は明らかに存在する。でも乙女は、その引力について意識していない——少なくとも乙女の章を読む限りはそう見える。乙女は自分が何かを引き寄せているという自覚なしに、ただ夜を歩く。
この無自覚さが、先輩の語りと奇妙な対照をなしている。先輩の語りは自意識の密度が高く、自分の行動の一つひとつを観察し、言語化し、意味付ける。それに対して乙女は、起きることをそのまま受け取って動く。先輩が「なるべく自然に見える形で」接近しようとするとき、その「自然さ」は徹底的に意識的に設計されたものだ。乙女の歩き方が持つ軽さとは、構造として対称的な位置にある。
乙女の地図に先輩が薄いのは、乙女が先輩を無視しているのではない、という読み方がある。乙女の夜の重心が、古本の匂いや偶然の縁や夜そのものの質感の中にあって、先輩の作戦がその重心に触れていないから、先輩が乙女の地図の中心に現れないのかもしれない。先輩は乙女の目に触れることを目指していた。乙女の目にはおそらく触れていた。でも乙女の重心に触れたかどうかは、先輩の語りからは確認できないままだ。
先輩が「なるべく自然な形で」乙女の視界に入ろうとするとき、その「自然な形」は誰にとっての自然さなのだろうか。先輩の設計した「自然さ」は、先輩の地図の上で自然に見える形だ。でも乙女の地図は別の場所にある。その地図の上では、先輩の「自然な接近」がどんな形で見えていたのか——あるいは見えていなかったのか——は、先輩の章からは読み取れないままだ。
乙女の引力は、先輩の言葉に拾われることなく動いている。偽電気ブランの夜も、古本まつりの夜も、「偏屈王」の舞台の夜も、乙女が持つ引力の正体は乙女自身の章の中で動いていて、先輩の章ではほとんど観察されない。乙女は見られているのだが、見られているのは先輩の地図に投影された乙女であって、夜を歩いている乙女の実質ではないのかもしれない。その差を、先輩の語りは埋めることができないままだ。
おわりに. 先輩は、何を見ていたのか
読み終わったあと、先輩の語りを思い返す。
あれほど饒舌だった。作戦の精緻さ、失敗の痛さ、焦りの形まで、先輩は丁寧に言葉にしていた。その誠実さは本物だったと思う。でも乙女という人間そのものについて——その夜の歩き方、その笑いの理由、その縁の選び方——先輩はどれだけ語っていたのだろうか。語りを辿り直すと、先輩の言葉の量と、乙女への観察の密度が、比例していないことに気づく。
先輩の語りのこの形状は、ごく日常的な場所にある何かを映しているのだろう。誰かを好きでいながら、その誰かの世界の重心を見ていないことは、特別な鈍さでも悪意でもなく、語ることに一所懸命なあいだにただ起きてしまうことがある。先輩の饒舌は、その気づかなさを覆う形で機能していたのかもしれない——言葉があれほど多かったから、その言葉が届いていなかった場所が見えにくくなっていたのだ。
乙女の章は、その見えにくい場所を開く。乙女の地図には先輩がほとんど現れない。先輩の地図には乙女を見ているつもりの先輩がいる。この非対称を、この小説は断定しない。二枚の地図をただ並べる。
夜は短い。乙女は歩く。先輩は喋り続ける。
