G-0C41NE8DJB 『大衆の反逆』オルテガ・イ・ガセット — 自分に、何も求めないという傲慢|亀吉の呟き
亀吉の書評

『大衆の反逆』オルテガ・イ・ガセット — 自分に、何も求めないという傲慢

『大衆の反逆』オルテガ・イ・ガセット — 自分に、何も求めないという傲慢
yoshiomi

「みなと同じでいい」。そう思うと、肩の力が少し抜けるかもしれない。周りに合わせておけば、致命傷は避けられる。自分にことさら何かを求めなくても、一日は回っていく。この安心感には、確かに暖かい温もりがある。

ただ、その安心の奥に別のものを見た人物が海の向こう側にいた。スペインの哲学者、オルテガ・イ・ガセットである。1930年に刊行された『大衆の反逆』で、オルテガは20世紀に入って起きた一つの変化を見つめた。それまで背景にいた群衆が、社会のあらゆる場所に満ちてきて、前面に出てきた。街も、政治も、文化も、人で埋まっていく。第一次大戦が終わり、この先に全体主義の影が差してくる時代である。その光景を前に、オルテガは手放しでは喜べなかった。豊かさが広がり、多くの人が舞台に上がってきた。その明るさの奥に、彼は一つの危うさを感じ取っていた。

オルテガはこの現象を「充満」と呼んだ。どこへ行っても人がいる。カフェも、列車も、劇場も、人で埋まっている。かつては限られた人しか入れなかった場所に、いまは誰もが入っていける。それ自体は悪いことではない。むしろ豊かさの証だ。ただオルテガは、その豊かさに慣れきった心が、何を忘れていくのかを見つめた。『大衆の反逆』は、その忘れものについての本だと言っていい。

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大衆とは誰のことか

まず、言葉の使い方をそろえておきたい。オルテガの言う「大衆」は、貧しい人のことでも、労働者のことでもない。学歴や財産で分けられる階級の名前ではない。

大衆とは、一人ひとりの心の向きのほうなのだ。「自分に対して特別な要求を持たず、生きることが今の自分の繰り返しでしかない人」。オルテガはそう描く。自分を今より先へ進めようという努力を、自分から進んではしない。みんなと同じであることに、満足しきっている。この型に当てはまるなら、金持ちでも、知識人でも、立派な肩書きを持つ人でも、等しく「大衆人」になる。逆に、慎ましい暮らしの中でも、自分に厳しい課題を出し続ける人は、大衆人ではない。

この定義は、少し意地が悪い。ふつう「大衆」という言葉は、上の人が下を見下ろすときに使う。数の多い、名もない人々、という響きがある。オルテガはその響きをずらしている。問題は数でも、身分でもなく、生きる構えのほうにある。だから、たった一人でいても大衆人でありうるし、大群衆の中に少数者がまぎれていることもある。人数と心の型は、別々に数えなければならない。

だから、これは「あそこにいる愚かな人たち」を指さす言葉ではない。財布の中身とも、資格とも関係がない。問われているのは、自分に何を求めているか、それだけだ。オルテガが数えているのは人の数ではなく、一人ひとりの心の向きのほうだった。

「自らに多くを課す」という貴族

オルテガはこの大衆に、もう一つの型を対置する。「少数者」、あるいは「真の貴族」と彼が呼ぶ人たちだ。

ここで注意がいる。貴族といっても、血筋のことではない。生まれや家柄で決まる身分ではない。オルテガの貴族は、自分に多くを求め、困難をわざわざ引き受ける生き方を指す。権利を数えるより先に、自分が負うべき義務を数える。楽なほうへ流れそうな自分に、あえて厳しい課題を出す。そういう構えのことを、彼は貴族と呼んだ。だから貴族は、生まれつきの誰かではなく、そのつど選び取られる姿勢のことになる。

たとえば、誰も見ていない仕事を丁寧に仕上げる人。約束を、相手が忘れていても守る人。もっと楽ができる場面で、あえて難しいほうを選ぶ人。オルテガの貴族は、そういう人のことだ。派手さはない。称賛されるとも限らない。それでも自分に対して、勝手に高い基準を課している。誰かに強いられたからではなく、自分がそう決めたから、そうする。この「自分で自分に課す」ところに、オルテガは人間の品位を見た。

つまり、大衆と少数者を分けるのは、能力の高さでも、成功の大きさでもない。自分に何かを要求するかどうか。その姿勢だけが、二つの型を分ける。

そう考えると、この本が「意識を高く持って、上を目指せ」という励ましではないと分かる。オルテガの貴族は、上昇や勝ち負けの話をしていない。肩書きを増やすことでも、人より前に出ることでもない。自分の生を、自分への務めとして引き受けているかどうか。問われているのは、それだけだ。むしろ、人の目に映る成功を追いかけること自体が、大衆人の身ぶりになりうる。少数者は、誰にも見られないところで、自分に課題を出し続ける人のことだ。

満足しきったお坊ちゃん

大衆人の姿を、オルテガは「満足しきったお坊ちゃん」という言い方でも描く。甘やかされて育った子どものように、与えられたものを当たり前として受け取る人のことだ。

私たちが日々使っている豊かさを思い浮かべてみる。電気も、水道も、医療も、自由にものを言える仕組みも、どれも誰かが長い時間をかけて築いてきたものだ。いまあるものは、無数の努力の結果として、かろうじて保たれているにすぎない。放っておけば崩れる。誰かが手を入れ続けているから、続いている。当たり前に見える一日は、当たり前ではない。

けれど満足しきったお坊ちゃんは、それを自然の産物だと思っている。空気のように、初めからあったものだと感じている。だから、それを支えている複雑な仕組みには目が向かない。感謝も、責任も、頭に浮かばない。恩恵だけを吸い込んで、それを可能にしているものを見ようとしない。豊かさの上にあぐらをかきながら、その豊かさがどこから来たのかを問わない。

忘恩は、特別に冷たい人だけのものではない。ごくふつうに暮らしている誰の中にも、忘恩の芽はある。蛇口をひねれば水が出ることを、いちいち誰かの労苦として思い出す人はいない。それでいい場面も多い。ただ、その「当たり前」が心の全部を占めたとき、人は自分の生に何も足そうとしなくなる。

オルテガはこれを「忘恩」と呼ぶ。文明への忘恩。ここにこそ、この本が突きつける「傲慢」がひそんでいる。傲慢というと、威張り散らす人の姿を思い浮かべる。だがオルテガの言う傲慢は、もっと目立たない。声を荒げるわけでも、人を押しのけるわけでもない。ただ、与えられたものに何も返さず、何も求めないまま満ち足りている。その満ち足りの中に、傲慢はひそんでいる。

凡俗である権利

大衆人には、もう一つ際立った特徴がある。オルテガの有名な一句が、それを言い当てている。大衆とは「おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとする」人々だ、と彼は書く。

自分が平凡であることに気づいていない、という話ではない。むしろ分かっている。分かった上で、平凡なままでいる権利を堂々と主張する。「これでいい」「変える必要はない」「みんなこうだ」。その声を、あらゆる場所で押し通そうとする。平凡であることは、本来なら恥じることでも威張ることでもない、ただの出発点なのだ。ところが大衆人は、それを到達点にしてしまう。ここから先へは行かない、という宣言にしている。

権利は声高に主張する。けれど、自分に負う義務のほうは持たない。この釣り合いの崩れに、オルテガは危うさを見た。

さらにオルテガは、その心の型が振る舞いに表れたかたちとして「直接行動」を挙げる。意見が食い違ったとき、本来なら人は議論をする。相手の言い分を聞き、理由をぶつけ合い、少しずつ折り合いをつけていく。手間のかかる回り道である。ところが大衆人は、その回り道をとばしてしまう。相手の話を聞かないまま、自分の意見を通そうとする。数を頼み、圧力をかけ、異論をねじ伏せる。話し合いそのものを、弱さや無駄と見なすのだ。

議論という回り道は、面倒なだけの無駄ではない。そこには、自分が間違っているかもしれないという前提が畳み込まれている。相手の話を聞くのは、自分を疑う余地を残しておくことだ。直接行動が削り取るのは、その「自分を疑う余地」のほうだった。

「反逆」とは、この構えのことだ。大衆が、自らに多くを課す少数者の役割まで奪い取って、自分の平凡さをそのまま社会の基準にしようとする。誰もが意見を言えるようになったこと自体は、進歩だった。オルテガが見ていたのは、その進歩が裏返る瞬間だった。誰もが声を持ったことが、その平凡さをそのまま基準にしてよい、という開き直りに変わっていく。

反逆とは何への反逆か

タイトルにある「反逆」という言葉は、どこか物々しい。誰かが誰かに刃向かう、革命のような場面を思わせる。だがオルテガの言う反逆は、そういう劇的なものではない。

反逆とは、大衆が、これまで少数者が担ってきた役割まで引き受けようとすることだ。かつては、難しい判断や、面倒な責任は、それを引き受ける構えのある人に委ねられていた。良くも悪くも、そういう役割分担があった。ところが今は、誰もが自分の意見をそのまま社会に押し出せる。専門家の判断も、長い議論の積み重ねも、「自分がそう感じるから」の前では軽くなる。

オルテガは、昔に戻れと言っているのではない。身分でものごとを決めていた時代を懐かしんでいるわけでもない。ただ、誰もが前に出られるようになった分だけ、「自分に何も課さないまま前に出る」人が増えたことを見ていた。力が広く配られたのに、その力に見合う義務のほうは、置き去りにされている。反逆とは、この釣り合いの崩れのことだ。

自分の中の二つの向き

ここまで来て、大事なことを一つ確かめておきたい。

『大衆の反逆』は、他人を見下すための本ではない。「あの人たちは大衆だ、自分は違う」と、席を分けて安心するための道具ではない。もしこの本をそう読むなら、その読み方こそが、オルテガの言う大衆人の身ぶりに近い。自分は問い直さず、問題を外側に置いてしまうからだ。オルテガの筆はときに厳しい。だが、その矛先は「向こう側の誰か」だけに向いてはいない。

大衆人にも少数者にも、だれもがなりうる。同じ一人の人間の中で、二つの型は絶えず入れ替わる。自分に何かを求め、面倒な課題を引き受ける日もあれば、「もういいや、みんなと同じで」と要求をおろす日もある。だから「大衆の反逆」は、遠い社会の出来事であると同時に、自分の中で「何も求めない自分」がいつのまにか前に出てくる、その動きのことでもある。

厳しいようだが、これは救いでもある。大衆人は、生まれつきの身分ではない。だとすれば、少数者もまた、生まれつきの才能ではない。今日、自分に一つ課題を出せたなら、その一日、その人は少数者の側にいる。うまくいかず要求をおろした日は、大衆の側に戻る。その行き来を、恥じることはない。大事なのは、その二つの向きを忘れないことだ。どちらか一方しかないと思い込んだとき、人は動けなくなる。

それでも自らに課すこと

では、オルテガは何を求めたのか。

本の後半で、彼の視野はヨーロッパ全体へと広がっていく。「世界を支配しているのは誰か」を問い、国ごとに閉じるのではなく、ヨーロッパがひとつにまとまっていく道を展望する。1930年、この先に二つの大戦の影が差してくる時代に書かれた見取り図である。話は一気に大きくなる。

ただ、その大きな話の根にあるものは、意外なほど身近だ。オルテガには「私は、私と私の環境である」という有名な一句がある。人は自分ひとりで完結しているのではなく、自分を取り巻く状況とともに、そのつどの生を生きている。だからこそ、その生をどう引き受けるかが、その人自身をつくっていく。社会もまた、少数者と大衆という二つの力が、たえず入れ替わりながら成り立っている。どちらか一方を消すことはできない。だからオルテガは「大衆をなくせ」とは言わない。求めたのは、もっと手前のことだった。

一人ひとりが、自分の生を、自分への務めとして引き受けること。与えられた豊かさを当たり前と思わず、それを支えている見えない仕組みに目を向けること。平凡でいる権利を主張する前に、自分に何を求められるかを、一度考えてみること。

それは「こう生きれば正解」というハウツーではないし、上を目指せという号令でもない。自分に何かを求める。ただそれだけのことだが、この一歩はひどく難しい。

自分に課すといっても、大げさな決意はいらない。無理に高みを目指すことでもない。今より半歩、自分に何かを求める。その半歩で、心の向きは変わる。オルテガが伝えたいのは、その僅かな心の向き先である。

おわりに

「みんなと同じでいい」と思うとき、肩の力が抜けるだろう。その感覚そのものを、責める必要はない。合わせることで守られるものも確かにある。

オルテガがこの本を書いてから、一世紀近くが過ぎた。時代は変わり、道具も変わった。それでも「みんなと同じでいい」という声の心地よさは、少しも古びていない。むしろ、同じであることがこれほど簡単に確かめられる時代は、かつてなかった。

ただ、その安心がそのまま居座って、自分に何も求めなくなったとき、オルテガの言う傲慢がそこへ入り込んでくる。文明への忘恩は、悪意から生まれるのではない。「何も求めない心地よさ」から芽を出す。だからこの傲慢は、遠い誰かの欠点ではなく、自分の内側にもあるのだ。誰の中にも「みんなと同じ」で満ち足りていたい自分がいるものだ。

しかし、『大衆の反逆』は、その傲慢を裁いて終わらない。名前をつけて、こちらに提示してくるのだ。大衆と少数者は、社会を二つに割る線ではなく、一人の中を行き来する二つの心の向きだ。どちらへ傾いているかは、日によって異なる。だからこそ、勝負がつくことはない。その心の向きと揺れながら生きていかなければならない。

揺れること自体は、止められない。止める必要もない。ただ、その揺れが止まり、自分に何も求めなくなった日に、傲慢は始まる。だから、問われるのはいつも今日の自分なのだ。今日、自分に何かを求めているか。そこなのである。

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こんにちは。亀吉です。 仕事の合間にブログを書いています。 このブログは、どこまでも個人的で恣意的な思想の表明です。思うままに・・・ 映画と本が好きです。その他音楽や登山など。
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