G-0C41NE8DJB 『殺戮にいたる病』我孫子武丸|考察・感想 — 叙述トリックの衝撃
亀吉の書評

『殺戮にいたる病』―「知っていた」という確信が、静かに崩れる

『殺戮にいたる病』―「知っていた」という確信が、静かに崩れる
yoshiomi

物語が始まる前から、犯人は明かされている。

我孫子武丸『殺戮にいたる病』(1992年、講談社ノベルス)は、蒲生稔という名前を冒頭で読者の前に差し出す。謎として置くのではなく、事実として。ミステリが本来持つ「誰がやったか」という問いは、最初の数行で解体される。物語は、残された問いのない場所から動き出すことになる。

それなのに、読者は最後に騙される。

この逆説を、構造の問題として辿ってみる。「犯人の名前を知っている」と「この物語を理解している」は、同じことではないのだ。知識として名前を持っていることと、物語の中で何かを「わかっている」こととのあいだには、埋まらない距離がある。『殺戮にいたる病』は、その距離を読者に向けて静かに掘り続ける一冊である。

物語は三つの視点で進む。 犯人・蒲生稔本人の視点。 稔を追う元刑事・樋口武雄の視点。 そして、 連続殺人犯と思しき身近な誰かの存在に怯える女性・蒲生雅子の視点。 雅子は新聞の事件記事を読み、 家の中の小さな違和感を拾い集めながら、 自分の家族の中に犯人がいるのではないかと案じ続ける。 雅子の視点で読まれる「家族」 が誰なのかという問いは、 終章まで読者に正確には開かれない。 三者はそれぞれ別の場所で、 別の「事実」 を持ちながら、 同じ物語の中を動いている。 読者はその三つを順番に受け取りながら、 自分の中に一枚の地図を組み上げていくことになる。

終章で、その地図は一度だけ、完全に書き直されることになる。

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1. 知ること——名前を持つという錯覚

犯人の名前を知っている。それは読者に、ある種の優位をもたらすのだ。

ミステリを読む行為には、たいてい「解こうとする」動機が混ざっている。手がかりを拾い、伏線を繋ぎ、犯人を当てようとする動きが、読書体験の根底に走っている。ところが『殺戮にいたる病』は、その動機を冒頭で奪ってしまう。犯人は蒲生稔だ。名前を知っている。探す必要はもうない。

その瞬間、読者は別の構えに移行することになる。

犯人を探すのではなく、犯人を「見る」という構えへ。稔の内面を、その歪んだ衝動を、読者は観察者として眺め始める。自分は舞台の外にいる。事実を知っている側にいる。その位置取りで、物語に入っていく。しかしその位置取りこそが、罠の始まりであったのだ。

「知っている」 という感覚は、 読者に安定をもたらす。 物語の内側で翻弄されている登場人物たちとは違う場所に、 自分はいると判断することになる。 雅子は身近な誰かが犯人かもしれないと案じているが、 その「身近な誰か」 が誰なのかを確信していない。 樋口は犯人を追っているが、 まだ捕まえていない。 読者だけが、 すべてを知っている側にいる——少なくとも、 そう感じている。 その優位は、 物語が進むにつれて強化されていくように見える。 章を重ねるごとに、 地図の解像度が上がっていく——そう感じながら読み続けることになる。

しかし「知っている」は、名前を持っているという事実にすぎなかった。物語が何を語ろうとしているか、三つの視点がどう配置されているか、この構造の中で「蒲生稔」という名前が果たしている役割は何か——それを読者は理解していたわけではなかったのだ。知識と理解のあいだの距離を、読者は自分でも測れていなかったのである。

終章で明かされるどんでん返しは、その距離を一気に可視化する。「知っていたつもりだった」という確信が崩れるとき、読者は自分が何をわかっていなかったかを初めて問い直すことになる。名前を知っていることと、物語を知っていることは、別の問題だったのである。

2. 三つの孤独——視点が配置するもの

三視点の構造は、単なる語り口の工夫ではないのだろう。

稔の視点、樋口の視点、雅子の視点。三者は物語の中で交わることなく、それぞれの「真実」を持ったまま動いている。読者はその三つを束ねて読むが、登場人物の誰もが、隣の視点を持っていない。稔は自分の衝動の中に閉じている。 樋口は証拠と推理の外側に出られない。 雅子は家族への愛と、 家族の中に犯人がいるかもしれないという不安のあいだでだけ動いている。 それぞれが、 徹底して孤独であるのだ。

この孤独の配置は、物語の構造そのものになっている。

三視点が交差せず並走し続けることで、 読者もまた三つの孤独を順番に引き受けながら読み進めることになる。 稔の内面を読んでいる間、 読者は稔の論理の中にいる。 樋口の章では、 樋口の見ている世界を共有することになる。 雅子の章では、 雅子の目線で家族の中の違和感を拾っていく。 読者はその違和感を集めながら、 「雅子は息子の犯行を疑っているのだろう」 と自然に読んでしまう。 三つの孤独を渡り歩きながら、 読者はそれぞれの「これが真実だ」 という感触を積み重ねていく。

問題は、その積み重ねが、読者の中で一枚の「地図」に変換されていくことにある。

三つの視点を知っている読者は、その三つを統合した、より高い位置に自分がいると判断してしまうのだ。稔の衝動も知っている。樋口の捜査状況も知っている。雅子の動向も知っている。それらを束ねた「全知」の感覚が、読者の中でゆっくり育っていく。しかしその全知は、構造の中で制御されていたのである。与えられた三つの孤独をいくら足しても、この物語の全体像は見えないように設計されていた。その欠落を、読者は気づかないまま読み進めることになる。

終章で明かされるのは、隠されていた事実だけではない。三つの視点を渡り歩いてきた読者自身が、ずっと何かを見落とし続けていたという構造そのものが、明かされることになる。三人の孤独はそれぞれ完結していたのではなく、特定の欠落を囲むように配置されていたのだ——ということを、読者はそのとき初めて知ることになる。

3. 見ることと見えていること——語りの構造

語りは、見せることと隠すことを同時に行う。

小説の語り手はカメラのようなものである。どこに向けるか、何を画角に入れるかを決めているのは、語り手だ。読者はそのカメラが捉えた映像だけを受け取ることになる。カメラが向いていない場所で何が起きているかを、読者は知ることができない。それは叙述上の制約であり、同時に叙述の技術でもある。

『殺戮にいたる病』の語りは、この「向いていない場所」を意図的に設計しているのだろう。

三視点の語りは、一見すると情報量を最大化する構造のように見える。一つの視点より、三つの視点の方が、より多くの「現実」を映しているはずだ。読者はそう判断しながら読む。しかし三つの視点が意図的に重なり合わないように設計されているとき、それぞれの視点の「正確さ」は担保されていない。語り手が見ているものを、読者は「そのまま」受け取ることができないのである。語りの構造と、読者の受け取り方のあいだには、常にずれがある。

そのずれを、読者は意識しないまま読み進めることになる。

信頼できない語り手という概念が、ミステリの文脈では語られる。しかし読者が三つの視点を渡り歩いているとき、どの語り手をどこまで信頼するかを常に問い直しながら読むことは難しい。人は語られた言葉を、まず受け取る。疑うのはその後だ。そのごく自然な読書の動きを、この作品の語りは利用しているのだ。語りを信頼するとはどういうことか——その問いは、叙述トリックの技術論と地続きになっているだけでなく、もう少し広い場所にまで繋がっていくのかもしれない。読者が日々「わかっている」と思いながら何かを受け取るときの、その受け取り方の構造に。

4. 「病」という言葉——治癒の届かない場所

タイトルに「病」という言葉がある。

この「病」は、医療的な診断名ではない。稔の内面に宿る衝動を、そう呼んでいるのである。殺意を、暴力への傾きを、「病」という言葉で指し示している。治療可能な疾患としてではなく、その人の内部に根を張った何か——治癒という概念が届かない場所にあるものとして、その言葉は置かれている。

「病」と呼ぶことで、何かが起きるのだ。

稔の衝動を「病」と名指すことは、それを外側から分類する行為でもある。名前を与えることは、輪郭を与えることだ。輪郭が与えられれば、観察できる。観察できれば、距離を置くことができる。「病」という言葉は、読者が稔の内面に引きずられないための装置として機能しているように見える。読者はその言葉を受け取った瞬間、稔の衝動を「外側から見るもの」として棚に上げる。棚に上げることで、読み続けることができる。

しかしその距離は、物語が進むにつれて変容していく。

稔の視点で書かれた章を読むとき、読者はその内面の論理を、いくらかの時間、内側から追うことになる。外側から分類する言葉が用意されていても、語りの構造上、読者は稔の思考の動きを一緒にたどることになるのだ。「病」という言葉が作った距離は、叙述の引力によって縮まっていく。読者は観察者の位置に留まり続けることができない。棚に上げたはずの衝動の論理が、章を読み進めるうちに、いつの間にか棚から下りてきているのである。

そのことが、「殺戮にいたる病」というタイトルの射程を広げているのではないだろうか。稔の衝動だけを指す言葉として置かれているようで、この物語を読む行為そのものの中に何かが潜んでいる。「病」という名指しは、読者が安全な距離を保てると思っている間中、その前提を静かに崩しにかかっているのかもしれない。治癒が届かない場所は、物語の外側に出てからも、しばらく輪郭を持ち続けるのである。

5. 崩れる瞬間——「わかっていた」という積み上げの重さ

終章で起きることを、詳しく書くつもりはない。

ただ、あのどんでん返しが機能する理由は、叙述の技術的な巧妙さだけにあるのではないのだ。それ以上に、読者が積み上げてきた「自分はわかっている」という確信の厚みに、理由がある。確信が厚いほど、崩れるときの衝撃は大きくなる。そしてこの作品は、その確信を丁寧に育てる。

三視点の語りは、読者に情報を与え続ける。犯人の名前も、衝動の内実も、追う刑事の動きも、気づかない母の行動も——読者は順番に受け取って、自分の中で一つの像を作っていく。像は章を重ねるごとに解像度を上げていくように見える。「わかってきた」という積み上げが、読者の中でゆっくり育っていくのだ。

その積み上げが、罠であったのだ。

解像度が上がっているように見えた像は、解像度が上がっているように見せられていたのである。三視点の語りは、読者に「全体を掴んでいる」という感覚を与えながら、特定の欠落を読者の視野から外し続けていた。その欠落は、終章まで、欠落だと気づかれないように設計されている。終章の一行が着地したとき、読者は何が欠けていたのかを初めて知ることになる。知ると同時に、ずっと知らなかったことも知ることになるのだ。

「知っていた」 と「わかっていた」 は、 同じことではなかった。

犯人の名前を知っていた。 物語の輪郭を把握していたつもりだった。 しかしこの物語が何を語ろうとしているかを、 本当に「わかっていた」 わけではなかった——その事実は、 終章で初めて読者の前に姿を現す。

ここから先は、 作品の核心に触れる。 終章で明かされるのは、 「雅子と稔の関係」 そのものだった。 雅子は稔の母親ではなかった。 雅子は 稔の妻 だった。 そして雅子が連続殺人犯ではないかと疑い続けてきた「息子」 は、 別の名前を持つ別の人物——信一 という、 雅子の本当の息子だった。 連続殺人犯・蒲生稔は、 雅子の であり、 信一の だった。

つまり、 雅子の視点を「息子の犯行を疑う母親の物語」 として読んできた読者の地図は、 終章で一度に書き直されることになる。 雅子は息子の犯行を疑っていた、 という構造は崩れない——疑われていた相手が、 息子・信一 (無実) ではなく、 まったく別の場所にいた夫・稔 (真犯人) だったという、 関係の置換が起きるのである。 同じ「蒲生」 という姓を持つ家族の中で、 読者は名指しの対象を一人ずらされていた。 そのずれを、 章を重ねるごとに自分で増幅させていたのは、 ほかでもない読者自身だった。

崩れ方は、 ミステリとしての快感を超えて、 もう少し個人的な場所に届いてくるのかもしれない。 自分が何かを「わかっている」 と思うときの根拠の薄さ、 というような場所に。 その薄さを、 この作品は問い直してはくれない。 ただ、 差し出すだけなのである。

おわりに. 地図は書き直される

読み終えた後に残るのは、トリックへの感嘆ではないのだろう。

「自分は何を見ていたんだろう」という問いだ。その問いは、叙述トリックの達成という文脈から少しはみ出して、読者の日常の認識に触れる。物語の構造の外側で、日々なんとなく「わかっている」と思っているものごとへの問いに、繋がっていくのかもしれない。

我孫子武丸が1992年に書いたこの作品は、「叙述トリックの傑作」として語られ続けてきた。その評価は正確である。しかし正確である分だけ、作品の核心のある部分を、言い当てきれていないような気もする。技術的達成の話として語られるとき、あの崩れ方が読者に与える固有の衝撃——「知っていた」という感覚の土台ごと問い直されるあの瞬間——は、少し後退してしまうのだ。

三人の孤独が並走し、 どれも交わらないまま終章へと収束していく構造は、 読者の孤独とも重なっているのかもしれない。 稔を知っていた。 樋口を知っていた。 雅子を知っていた——のはずだった。 ただし、 雅子と稔がどう繋がっているかを、 読者はずっと別の形で読まされていた。 関係の置換が一つあれば、 「知っていた三人」 は別の三人になりうるのだった。 それでも、 この物語がどこへ向かうのかを、 最後まで知ることはできなかった。

知ることと、わかることは、ちがう。

その距離を、三十年以上前に書かれたこの一冊が、静かに測り続けているのである。

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