G-0C41NE8DJB 『変身』フランツ・カフカ — 本当に変身したのは、虫になった彼ではなかった|亀吉の呟き
亀吉の書評

『変身』フランツ・カフカ — 本当に変身したのは、虫になった彼ではなかった

『変身』フランツ・カフカ — 本当に変身したのは、虫になった彼ではなかった
yoshiomi
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はじめに

「ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢から目を覚ますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わってしまっているのに気づいた」。

世界で最も有名な小説の書き出しの一つだ。題名は知らなくても、この一行だけは聞いたことがある、という人は多い。ある朝、目が覚めたら虫になっていた——その奇妙さだけが切り取られ、『変身』は「不条理文学の代表作」というラベルとともに、読まれないまま通り過ぎられてきた。

けれど、この小説を最後まで読むと、奇妙なことに気づく。変身したグレゴールは、最初から最後まで、ほとんど変わらない。彼は虫の体になっても、家族を思い、出勤を気にし、人間だった頃の心を保ち続ける。そのあいだに、ゆっくりと別人になっていくのは、彼を取り囲む人々のほうだ。破産して無職だった父。病弱な母。そして、最初は虫になった兄を一人で世話していた妹。

『変身』が淡々と追いかけるのは、虫の生態ではない。働けなくなり、役に立たなくなった一人の人間を、いちばん身近な家族がどうやって少しずつ手放していくか、というその過程だ。本当に変身していくのは、誰なのか。フランツ・カフカが書きたかったのは、虫になった彼のことよりも、その周りで変わっていく家族のほうだった。

1. フランツ・カフカという人——プラハの保険局員、焼かれなかった原稿

フランツ・カフカは、1883年、当時オーストリア=ハンガリー帝国の領土だったプラハに生まれた。いまのチェコの首都だ。チェコ語が話される街のなかで、カフカの一家はドイツ語を話すユダヤ人だった。多数派のなかの少数派、そのまた少数派という、二重三重に縁の薄い場所に、彼は立っていた。

カフカはプラハの大学で法律を学び、卒業後は労働者傷害保険協会という半官の保険局に勤めた。労災の書類を扱う、堅い昼の仕事だ。小説は、その勤めを終えた夜と週末に書いた。生涯、作家専業になることはなかった。昼は保険局員、夜だけ小説家、という分裂を抱えたまま生きた人だった。

生前のカフカは、ほとんど無名だった。『変身』を含む数冊が、ごく限られた範囲で知られていただけだ。1924年、40歳のとき、咽頭結核で亡くなる。喉に来る結核は、最後には食べることも飲むことも難しくさせる。痩せていく自分の体を見ながら、彼は死んでいった。

カフカは死ぬ前、親友のマックス・ブロートに、自分の原稿をすべて焼いてくれと頼んでいた。未完の長編も、書きかけの短編も、全部だ。ブロートはそれに従わなかった。焼く代わりに、『審判』『城』『失踪者』といった遺稿を次々に世に出した。もしブロートが遺言を守って火をつけていたら、いま私たちが読むカフカは、この世に残っていない。20世紀文学の最も重要な一人は、友人が約束を破ったおかげで存在している。その、消えるはずだった作家が、世に問われていた数少ない作品の一つが、『変身』だった。

2. ある朝、虫になっていた——だが彼が最初に考えたこと

『変身』は1912年の秋、カフカが三週間ほどで書き上げた。発表は1915年、ライプツィヒのクルト・ヴォルフ社から刊行されている。

物語は、あの有名な一行から始まる。グレゴール・ザムザが朝、目を覚ますと、巨大な虫になっている。

ここで一つ、押さえておきたいことがある。原文でカフカが使った言葉は「ungeheueres Ungeziefer」。この「Ungeziefer」は、古いドイツ語で「神への供物にできないほど汚れた獣」「害虫」を指す言葉で、特定の虫の種類を意味しない。ゴキブリなのか、甲虫なのか、ムカデなのか、原文はそれを明かさない。それどころかカフカは出版社に、表紙にその虫を絵で描いてはならない、と念を押している。何の虫かは、わざと分からないままにされている。

大事なのは、彼が何に変わったか、ではない。変わってしまった後、どう扱われるか、だ。

そして、ここからが『変身』の本当に奇妙なところだ。巨大な虫になって目覚めたグレゴールが、まず何を考えるか。「なぜ虫になったのか」ではない。「この姿をどうすればいいのか」でもない。彼が最初に気に病むのは、出張販売員である自分が、今日の汽車に乗り遅れる、ということだ。次に、上司にどう言い訳するか。そして、自分が稼がなければ返せない、家族の借金のこと。

虫の体で寝床に転がりながら、グレゴールの頭を占めているのは、仕事と金だ。自分の身に起きた異変よりも、働けないことのほうを、彼は恐れている。この一点に、彼がどういう人間として生きてきたかが、すべて出ている。グレゴール・ザムザは、家族を養うためだけに自分を使い切ってきた人間だった。虫になってもなお、その習い性から抜け出せない。

やがて欠勤を咎めに、勤め先の支配人が家までやってくる。グレゴールがドアを開けて姿を見せると、支配人は逃げ出し、母は気を失い、父は新聞とステッキを振り回して、彼を部屋へと追い戻す。追い戻されるとき、グレゴールは扉に体をはさまれ、傷を負う。家族の前に虫として現れた最初の瞬間から、彼は暴力で押し戻される側にいる。

3. 養う側から、養われる側へ——破産した父と、背中のリンゴ

ここで、ザムザ家の事情を補助線として引いておきたい。

グレゴールの父は、五年前に事業に失敗して破産していた。それ以来、父はほとんど働かず、家にいた。母は喘息持ちで体が弱い。妹のグレーテはまだ十七歳前後で、職には就いていない。つまり、この一家の生活は、布地の外交販売員であるグレゴールの稼ぎ一本で支えられていた。父の借金を返すのも、彼の役目だった。家族を背負う、その重さが、グレゴールという人間の形そのものだった。

虫になったことで、その大黒柱が、一夜にして消える。

すると、家のなかで奇妙な逆転が起きる。働かなくなっていた父が、ふたたび働きはじめるのだ。銀行の給仕の制服を着て、家計を支える側に回る。母も下着の仕立てで内職を始め、妹も店員として働き出す。グレゴールが一人で背負っていたものを、残りの三人が分け合うようになる。皮肉なことに、グレゴールがいなくなった家のほうが、働き手としては増えていく。

そして、父は力を取り戻していく。背を丸めていた老人が、制服を着て、しゃんと背筋を伸ばすようになる。その父が、グレゴールに対してふるう暴力も、強くなっていく。

物語の半ばに、忘れがたい場面がある。母と妹が、グレゴールの部屋の家具を運び出そうとする。動きやすいように、という親切のつもりだったが、グレゴールは、人間だった頃の名残である家具まで奪われることに耐えられず、壁にかかった一枚の絵にしがみつく。そこへ父が帰ってくる。取り乱した父は、食卓のリンゴをつかんで、次々とグレゴールに投げつける。その一つが、背中にめり込む。

めり込んだリンゴは、誰にも取り除かれないまま、そこで腐っていく。グレゴールは、その傷のせいで一ヶ月あまり、痛みと衰弱に苦しむことになる。父が投げた果物が、息子の体に刺さったまま腐る——かつて一家を養っていた息子が、いまや養われる立場で受ける扱い。その変化が、背中にめり込んだ一個のリンゴにあらわれている。

4. 唯一の理解者だった妹が、最初に見放す——グレーテの裏返り

家族のなかで、ただ一人、グレゴールの世話を引き受けたのが、妹のグレーテだった。

最初のうち、グレーテは献身的だ。虫になった兄が何を食べられるのかを試し、好みを覚え、食べ残しを片付ける。誰もが虫を恐れて部屋に近づかないなか、彼女だけが毎日扉を開けて入ってくる。グレゴールにとって、グレーテは人間の世界とつながる最後の細い糸だった。彼が虫の体のなかで人間の心を保っていられたのは、妹がまだ自分を「兄」として扱ってくれている、その一点に支えられていたからだ。

けれど、その糸が、少しずつほどけていく。

世話が日課になり、やがて義務になり、義務が重荷になる。グレーテは働きに出るようになり、疲れて帰ってくる。兄の世話は、雑になっていく。掃除は手早く済まされ、食事はとりあえず放り込まれるだけになる。かつての気遣いは、消えていく。グレゴールを「兄」として見ていた目が、いつのまにか「片付けなければならないもの」を見る目に変わっている。

そして、物語の終盤。一家が間貸ししていた下宿人たちの前で、グレーテがヴァイオリンを弾く場面がある。その音に引き寄せられて、グレゴールが部屋から這い出てしまう。虫の姿を見た下宿人たちは激怒し、契約を破棄して出ていくと告げる。家計の頼みだった下宿人を失い、追い詰められた家族の前で、グレーテが、はっきりと口にする。

「あれを追い払わなければいけないわ。あれはグレゴールじゃない」。

唯一の理解者だった妹が、最初に「あれ」と呼ぶ。兄を、人ではないものとして、家から追い出すべきだと、最初に言葉にする。グレゴールを兄と呼ぶ人間は、これでいなくなった。彼を人間の側につなぎとめていた最後の糸を切ったのが、ほかでもない、いちばん近くで世話をしていた妹だった。ここが、この小説のもっとも厳しいところだ。誰かが悪人だから、こうなったのではない。疲れて、追い詰められて、生きるために、人は、いちばん身近な相手を、人ではなくモノのように指す言葉で呼びはじめる。

5. 誰にも看取られず——グレゴールの最後の夜

妹の言葉を、グレゴールは聞いている。

虫の体になっても、彼には家族の声が聞こえていた。言葉を話すことはできないが、聞くことはできる。だから彼は、自分が家族にとってどういう存在になったのかを、全部聞いてしまう。妹が「あれを追い払わなければ」と言うのを、その場で聞いている。

そのあと、グレゴールは自分の部屋に這って戻る。そして、家族にとって自分が消えたほうがいい、という妹の考えに、彼自身が同意するようにして、息を引き取る。明け方のことだった。彼の最後にあったのは、家族への恨みではなく、むしろ家族を思う気持ちのほうだった、と小説は淡々と書く。

ここを、感動的な自己犠牲として読みたくなる誘惑がある。家族のために自ら身を引いた、けなげな魂の物語として。けれど、カフカの筆は、そう泣かせる方向には進まない。グレゴールの死は、英雄的でも、美しくもない。彼は十分に食べられず、背中の傷で弱り、誰にも看取られず、ただ衰えて死ぬ。その死を、小説は短く、そっけなく通り過ぎる。

翌朝、彼の死体を見つけるのは、家族ではない。住み込みの、年老いた大柄な掃除婦だ。物おじしない彼女は、虫になったグレゴールを最後まで恐れなかった数少ない人物でもある。その彼女が、ほうきか何かで遺骸を片付ける。一人の人間の死が、ゴミを片付けるのと変わらない扱いで処理される。カフカは、その扱いの軽さを、誇張も非難もせず、ただ書く。重くも軽くも演出しないその筆が、稼ぐ力を失った人間が家のなかでどう扱われ、どう手放されていくのか、その果てを、いちばん正確なところまで見せている。

6. 本当に変身したのは誰か——結末の散策と、もう一つの変身

グレゴールが死んだあと、『変身』には短い結末が続く。ここに、この小説のもう一つの顔がある。

厄介者がいなくなった家で、両親と妹は、ほっとしたように一日の休みを取る。三人は連れ立って、街の外へ電車で出かける。久しぶりの遠出だ。車内で、両親は将来のことを話す。父の仕事も、母の内職も、妹の勤めも、思っていたより悪くない。引っ越して、もっと小さく手頃な家に移ろう、という話になる。家のなかの空気は、暗いどころか、明るくさえある。

そして、両親はふと、隣に座る娘に目をとめる。

兄の世話と労働で苦労が続いたはずのグレーテが、いつのまにか、血色のいい、美しい娘に育っている。両親は、ほとんど同時に、同じことを思う。そろそろ、この子に良い結婚相手を見つけてやる頃だ、と。終着駅で電車が止まると、グレーテが真っ先に立ち上がり、若い体をぐいと伸ばす。そこで、物語は終わる。

虫になって死んだグレゴールの物語の最後にあるのは、健康に成熟した妹の、伸びやかな体だ。題名の「変身」が指しているのは、本当は、こちらの変身ではなかったか。兄が虫へと変身していくあいだに、世話役だった少女は、一人の女性へと変身していた。一つの命が家のなかで朽ちて消える、まさにそのあいだに、別の命が花のひらくように育っていた。同じ屋根の下で、二つの変身が同時に進んでいた。

ここで、事実と解釈を分けておきたい。グレーテが美しい娘に育ち、最後に立ち上がって伸びをする——これは小説に書かれた事実だ。けれど、それを「家族はようやく前を向いた、救いの結末」と読むか、「一人を見殺しにした家族が、その死をなかったことにして明るい未来へ歩き出す、底冷えのする結末」と読むかは、決まっていない。カフカは、どちらとも言っていない。明るい郊外の景色と、片付けられたばかりの兄の死を、同じページの上に並べたまま、筆を擱いている。救いとも、断罪とも取れる。立ち上がって体を伸ばすその妹の姿が、その両方を同時に抱えている。

おわりに

『変身』を「ある朝、虫になっていた男の奇妙な話」として閉じることは、できる。実際、長くそう読まれてきた。けれど、虫の正体や変身の理由を詮索しているうちは、この小説のいちばん大事な核心には、手が届かない。

カフカが書いたのは、虫の話ではなく、家族の話だった。一人で家族を養ってきた人間が、稼ぐ力を失った瞬間に、家のなかで居場所を削られ、世話され、持て余され、最後には「あれ」と呼ばれて消えていく。その過程に、悪人は一人もいない。みんな、疲れていて、追い詰められていて、生きるために、そうしていく。

父が投げて、背中で腐っていった一個のリンゴ。そして、兄が死んだその日に、電車のなかで立ち上がって伸びをする、妹の若い体。フランツ・カフカは、その二つを並べて差し出して、どちらを見るかは決めずに去っていく。一つの命が朽ちていく、まさにその同じ家のなかで、別の命が育っていた。その二つが同時に起きていたということ——それだけを残して、この小説は閉じる。

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こんにちは。亀吉です。 仕事の合間にブログを書いています。 このブログは、どこまでも個人的で恣意的な思想の表明です。思うままに・・・ 映画と本が好きです。その他音楽や登山など。
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