『今日の芸術』岡本太郎 — うまくあってはいけない
はじめに
「今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」
本の冒頭に、こう叩きつけられる。上手に描けていること。目に美しいこと。見ていて心地よいこと。私たちが絵や芸術に、当たり前のように期待してきた三つの価値を、岡本太郎はまとめて否定する。しかも遠慮なく、真っ向から。読んだ者は、のっけから胸ぐらをつかまれる。
『今日の芸術』は、一九五四年に世に出た、岡本太郎の芸術論である。副題は「時代を創造するものは誰か」。難しい専門書ではない。誰にでも読めるやさしい言葉で、けれど一行ごとに読者を挑発しながら、芸術とは何か、それは誰のものか、を問いつめてくる。世に出るなり、大きな反響を呼んだ一冊だ。
普通の芸術入門書は、私たちを上手な観客に育てようとする。名画の見どころ、時代ごとの様式、味わいのこつ。だがこの本のねらいは正反対だ。読者を観客席から引きずり出し、下手でいいから、自ら描く側・創る側へ突き飛ばす。芸術を味わうための本ではなく、芸術を「行う」ように強く腕を組んでくる本。それが『今日の芸術』である。
うまくあってはいけない
まず、うまさについて。
絵の前で、「うまいなあ」という言葉がまず出てくることがある。写真のようにそっくりだ、細部まで描き込まれている。上手であることが、いつのまにか絵の良し悪しそのものとして通っている。だが岡本太郎は、その物差しを叩き割る。うまく描こう、うまく見せよう、という心こそが、かえって芸術を殺すのだ。
うまく描くとは、どこかにお手本があって、それに近づけることだ。名人の筆づかい、正しい遠近法、整った構図。近づけるほど「うまく」なる。けれど、そのとき描き手は、お手本の言いなりになっている。自分の内から噴き出すものより、他人が決めた正解を先に立てている。上達とは、しばしば、自分を殺して型にはめる作業なのだ。
だから岡本太郎は、下手を恐れるなと言う。子どもが画用紙いっぱいに、めちゃくちゃな線をぶつける。あの、うまいも下手もない勢い。技術の裏づけなど何もないのに、見る者をたじろがせる力。芸術に要るのは、うまさではなく、あの噴き出す勢いのほうだ、と岡本太郎は言い切る。整った絵より、下手くそでも生きている絵を、この人ははるかに高く買う。
うまさへの信仰は、根が深い。学校で丸をもらい、人にほめられ、そうやって私たちは幼いうちから、正解に近づくことを覚え込む。絵もいつしか、正解のある試験のようになる。岡本太郎が壊そうとしているのは、その採点する目だ。誰かの物差しで自分をはかる癖を捨てないかぎり、手はいつまでも自由にならない。うまくなるほど不自由になる、という逆説を、この男は正面から我々に突きつける。
きれいであってはいけない
次に、きれいということ。
「きれい」と「美しい」は違う、と岡本太郎は区別する。きれいとは、角がとれて、調和して、誰の目にも感じよく整っているさまだ。応接間にかけて、誰からも文句を言われない絵。無難で、上品で、間違いがない。だが、そのきれいさのなかに、本当の芸術はいない、と岡本太郎は見る。
本物の芸術は、もっと得体の知れないものだ。醜さや、不快さや、毒を含んでいる。見る者を落ち着かせるどころか、ざらりと引っかき、ときに目をそむけさせる。きれいごとの枠に、どうしても収まらない。整えられた美しさではなく、内側からせり上がってくる強さ。それを岡本太郎は「美しい」と呼ぶ。きれいと美しいのあいだには、深い断絶がある。
きれいさは、いつのまにか周りへの気遣いと結びつく。角を立てないこと、誰の機嫌も損なわないこと。その配慮が、絵からとがった部分を少しずつそぎ落としていく。だが岡本太郎に言わせれば、周りに合わせて丸くなった表現は、もう自分のものではない。人の顔色をうかがった瞬間に、芸術はこっそり他人のものへとすり替わる。きれいという言葉のなかには、その明け渡しが隠れている。
きれいなものは、安心を与える。だが安心は、芸術が一番警戒すべきものだ。きれいにまとめようとした瞬間、絵は毒を抜かれ、飼いならされ、ただの飾りに落ちる。角を残せ。毒を残せ。整えるな。岡本太郎は、この要求を繰り返し突きつける。
ここちよくあってはいけない
そして、心地よさ。
三つめの否定が、一番厳しいかもしれない。芸術は、見る者をなでてはいけない。うっとりさせ、癒やし、まどろませるものであってはいけない。むしろ、揺さぶり、突き刺し、落ち着かなくさせるもの。心地よさは、芸術の敵である。
考えてみれば、私たちは芸術に癒やしを求めがちだ。疲れた日に美しい絵を見て、ほっとしたい。やわらかな音楽に包まれて、慰められたい。だが岡本太郎に言わせれば、それは芸術を、都合のいいクッションに変えることだ。なでられて眠るための道具に、芸術をおとしめることだ。
癒やしを売り物にする絵や音楽は、世の中にあふれている。疲れをやわらげ、気持ちを整えてくれる。それ自体を悪いとは、岡本太郎も言わない。ただ、それを芸術と呼ぶな、と言うのだ。人をまどろませて満足させるものと、人を目覚めさせて落ち着かなくさせるもの。両者はまるで逆を向いている。芸術がわけもなく心地よいとしたら、どこかで牙を抜かれた印だ、と岡本太郎は疑ってかかる。
本当の芸術は、目の前に立ちはだかる。安心をくれない。答えをくれない。むしろ、こちらの構えを崩し、抱えていた前提を引きはがす。心地よさからはじき出され、足場を失う、その居心地の悪さのなかにこそ、芸術の火はある。岡本太郎の求める芸術は、心地よさを含んでいない。
爆発ということ
では、芸術とは何なのか。うまくもきれいでも心地よくもないなら、いったい何が残るのか。
岡本太郎の答えは、こうだ。芸術とは、内に蓄えたエネルギーを、損得も評価も忘れて、丸ごと外へ開ききることである。うまく見せる計算も、褒められたい下心も、値打ちがつくかどうかの勘定も、一切捨てる。ただ、自分のなかで膨れ上がったものを、全身で、無条件に放つ。その一瞬の解放こそが、芸術だ。
これは、絵の技術の話ではない。生き方の姿勢の話だ。ふだん私たちは、損か得か、うまくいくかどうかを勘定しながら、自分を小さく畳んで暮らしている。その畳んだものを、一度、ためらいなく開ききってみる。結果がどう転ぶかを考えず、いまの自分の全部をこめて放つ。岡本太郎が芸術と呼ぶのは、その爆発するような一瞬の生き方のことだ。
評価を忘れる、というのが、実は一番難しい。私たちはたいてい、うまくいったか、人にどう見られるか、得か損か、を絶えず勘定しながら手を動かす。その勘定こそが、放とうとする力にブレーキをかける。岡本太郎の言う爆発とは、そのブレーキごと踏み外すことだ。勘定を捨てた者だけが、自分の全部を惜しみなく外へ放てる。だから爆発は、無鉄砲のようでいて、一番正直な行為でもある。
だから、爆発は破壊ではない。こわすためでなく、ありったけを外へ放つための開放だ。内にこもったものを、こもったまま腐らせるのか、それとも危険を冒して外へ開くのか。岡本太郎は、ためらう手を、開かせようとする。腐らせるくらいなら、解き放つことを求める。
誰もが創る側に立つ
『今日の芸術』の一番熱い主張は、終わりのほうの章にある。芸術は、一部の才能ある専門家のものではない。誰もが創るものだ、という宣言だ。
私たちは、芸術を遠いものだと思い込んでいる。絵は画家が描くもの、音楽は音楽家が奏でるもの、自分は席に座って受け取る側。その線引きを、岡本太郎はきっぱり否定する。子どものころ、誰もが画用紙に夢中で線を引いた。歌い、踊り、泥をこねた。あの、評価も損得も知らずに創っていた衝動は、大人になった今も、消えてなどいない。ただ、うまくやろうとする分別に、押さえ込まれているだけだ。
芸術家だけが芸術をするのではない。生きることそのものを、創造にすればいい。飯を作ること、部屋を整えること、人と語らうこと。その一つ一つを、お手本や世間体に合わせるのでなく、自分の内から発して創り出す。そうやって暮らし全体を爆発させることが、岡本太郎の言う芸術だ。プロの絵描きになれ、という話ではない。誰もが、いま立っているその場所で、創る側にまわれる。この一行は、絵の話を越えてくる。生き方そのものに火をつける。
創る側に立つのに、才能の証明も、他人の許しもいらない。要るのは、うまくやろうという分別を一度手放す度胸だけだ。まずければまずいまま、へたならへたなまま、内から噴き出すものに手を委ねる。その一歩を踏み出せるかどうかに、専門家も素人もない。岡本太郎が引こうとする線は、才能のあるなしをまたいで、踏み出す者と踏み出さない者とを分ける。あるかないかではない。やるかやらないかである。
パリの十年と縄文の衝撃
この激しい芸術観は、どこから来たのか。岡本太郎の来歴をたどると、その根にたどりつく。
岡本太郎は、一九一一年、神奈川に生まれた。父は当代きっての漫画家・岡本一平、母は歌人にして小説家の岡本かの子。才気あふれる、けれど一筋縄ではいかない両親のもとで育った。東京美術学校に入ったのち、両親の渡欧について、まだ若い岡本太郎はパリへ渡る。
パリでの十年余りが、この芸術家をつくった。抽象絵画の運動に身を投じて自ら描きながら、岡本太郎はパリ大学で哲学・社会学・民族学を学ぶ。社会学者マルセル・モースに師事し、思想家バタイユらの過激な研究会にも出入りした。芸術と学問、造形と思想。普通は切り離されるその二つを、岡本太郎は一人の身のうちで激しくぶつけ合わせた。芸術を、うっとりする情緒としてではなく、人間の根源から噴き出すエネルギーとして捉えるまなざしは、この十年で鍛えられた。
帰国して数年後、岡本太郎は「縄文土器論」を発表する。それまで「原始的」と見下されていた縄文土器の、ごつごつと荒れ狂う造形に、この人はすさまじい生命力を認めた。整ってなどいない。きれいでもない。だが、内から噴き上がる力がある。日本美術史の見方を揺さぶったこの発見は、『今日の芸術』の主張と、地下で一本につながっている。うまさやきれいさの手前にある、生のエネルギー。それを、遠い縄文の土のなかにまで、岡本太郎は掘り当てていた。
観客席から引きずり出す
『今日の芸術』が、普通の芸術入門書と根本から違うのは、ここにある。
入門書は、読者を教養ある観客に仕立てようとする。知識を増やし、目を肥やし、上手に鑑賞できるようにする。だが岡本太郎は、鑑賞という受け身の姿勢そのものを疑う。芸術を、床の間に飾って眺めるものにした時点で、芸術はもう息をしていない。芸術は見るものではなく、生きるもの。味わうものではなく、するもの。
岡本太郎には、晩年に書かれた『自分の中に毒を持て』という一冊がある。生き方をめぐる本だ。安全な枠のなかにとどまるな、内の危険なものを飼い殺すな——その挑発は、実は四十年近く前のこの『今日の芸術』に、もう出そろっている。かたや芸術、かたや生き方。入り口は違っても、岡本太郎が終生求め続けたことは、一つだった。うまくあろうとする自分を捨てて、内にあるものを開ききること。
のちに岡本太郎は、大阪の万博で「太陽の塔」を立てる。あの、うまくもきれいでもない、天へ突き上げる異形の塔。人びとをぎょっとさせ、半世紀を越えていまも立ち続けるあの造形は、『今日の芸術』の思想が、そのまま巨大な現物になったものだと言っていい。本のなかの叫びが、地に根を張って屹立している。
三つの誤解をほどく
この本は、しばしば誤解される。三つの誤解を、ほどいておきたい。
一つ。これは、芸術エリートによる難解な現代芸術の擁護論ではない。よく「現代芸術はわからない」と言われる。だが岡本太郎は、わかる人だけがありがたがる閉じた世界を、擁護してなどいない。むしろ逆だ。わからないことを恐れるな、専門家に判定を委ねるな、誰もが自分の手で創る側に立て——本書はそう大衆に呼びかける。芸術を、選ばれた者の手から、みんなの手へ引きずり下ろす本なのだ。
二つ。これは、うまく描くための技法書でも、お手本でもない。「うまくあってはいけない」と言い切る本が、上達のこつを教えてくれるはずがない。ここには、正しい構図も、美しい配色も、名画の模写の仕方も書かれていない。あるのはただ、うまさという物差しそのものを砕く、まっすぐな挑発だけだ。手本を求めてこの本を開いた人は、手本にすがる心ごと、揺さぶられることになる。
みっつ。これは、晩年の生き方論の焼き直しでもない。岡本太郎の名は、いま自己啓発の文脈で語られることが多い。だが『今日の芸術』は、脂の乗った四十代の岡本太郎が、「芸術とは何か・誰のものか」という一点に絞って書いた、正真正銘の芸術論だ。生き方一般のはげましに薄めてはならない。芸術という具体的な戦場で、岡本太郎は価値の転換を叫んでいる。
おわりに
『今日の芸術』には、解決がない。
いや、正しくは、解決を岡本太郎はよしとしない。うまく描けるようになるこつも、美しくまとめるすべも、心地よく癒やされる時間も、この本は一切差し出さない。差し出すどころか、それらを求める心を、片っ端から叩き落としていく。読者はしまいに、頼りにしていた物差しを全部取り上げられ、手ぶらで立たされる。
けれど、手ぶらで立たされたその場所こそが、出発点なのだ。うまくあろうとする手を止めろ。きれいにまとめようとする手を止めろ。なでられて安心しようとする心を捨てろ。そのうえで、内に蓄えたものを、損得も忘れて、丸ごと外へ放て。岡本太郎は、なだめもしない。見守りもしない。ただ、ためらう者の背中に手を当てて、前へ押し出そうとする。
下手でいい。うまくあってはいけないのだから。きれいでなくていい。ここちよくなくていい。小さく畳んだ自分を、一度丸ごと開いてみればいい。その爆発が、うまくいくか、醜いものになるかは、開いた者にも分からない。岡本太郎の手のひらは、もう、こちらの背にあたっている。あとは、前へ倒れ込むだけだ。
