『羊をめぐる冒険』―名前は、いつか剥がれ落ちる
一枚の写真が届く。そこに写っているのは、星型の斑紋を持つ羊だった。
村上春樹が1982年に発表した長編第三作『羊をめぐる冒険』は、その写真一枚から動き始める。大学時代の友人と二人で翻訳事務所を始め、 やがて広告代理店に拡張した「僕」 (二十九歳) が、 謎の右翼組織の代理人から脅迫まがいの依頼を受け、 恋人とともに北海道の山奥へ向かう——要約すれば、そういう話である。しかし読み終えた後に残るのは、羊の話でも右翼の話でもなく、もっと名前のつかないものの感触のような気がしてならない。
この小説の主要な登場人物は、全員が名前を持っていない。語り手の「僕」、旧友の「鼠」、耳専門のモデルである「彼女」、羊の着ぐるみを着た「羊男」。誰もが固有名詞を剥ぎ取られた状態で物語の中に立っており、名前らしきものを持つ人物といえば「先生」と呼ばれる老いた右翼の大物くらいだが、その「先生」でさえ職能名を引き継いだ呼称に過ぎず、本名は最後まで明かされない。読み始めた最初は記号のように見える。しかし読み終えたとき、その感覚はどこかでずれている。記号だと思っていたものが、気がついたら深いところに刺さっているのである。
野間文芸新人賞を受賞したこの作品は、「鼠三部作」の最終章として、『風の歌を聴け』(1979年)と『1973年のピンボール』(1980年)から積み上げてきた関係性を静かに閉じていく。閉じること、終わらせること——この物語が抱えているのはその一点であるように思われる。何かが終わった後、人はどこに立つのか。その問いはどこにも直接書かれていないが、物語が進むにつれて、その輪郭だけが浮かび上がってくるのである。
1. 名前のない人たち——固有名詞の剥落が開く空間
「僕」という呼称で始まる物語は、珍しくない。しかしこの小説では、語り手だけでなく、その周囲の人間も含めて、誰も名前を持っていない。「鼠」「彼女」「羊男」「先生」——それぞれの呼称は、ある機能や特徴を指し示してはいるが、個体を同定する記号としては機能しない。名前が人間を他の誰とも異なる存在として固定するものだとすれば、この小説の登場人物たちは最初から、その固定を拒んでいるのだということになる。
固有名詞の不在には、通常、二つの読み方が提供される。一つは「匿名性による普遍化」——名前がないから誰でもありうる、という読み。もう一つは「記号としての機能主義」——物語の構造上、名前は不要だという読み。ただし、どちらの読みも「なぜ自分はこれほど彼らのことを気にしているのか」という問いの前で止まってしまうのではないだろうか。彼らが単なる記号であれば、なぜこれほど読後も記憶に残るのか。名前がないことで、むしろ彼らの存在は輪郭を持つような気がしてならない。
名前を持たないということは、ある種の透明度を纏うことに近いのかもしれない。透明というのは無色という意味ではなく、輪郭が他のものと重なりやすい状態のことである。「僕」 は二十九歳の男で、 何かから少しずつ遠ざかっている——それだけが書かれているとき、読者はその「何か」に自分の固有の喪失を代入することができる。名前がないから、読者は「彼の話」として突き放せない。気がついたら「自分の話かもしれない」という曖昧な地点に連れてこられているのである。
「鼠」という呼称には、もう少し複雑な事情がある。前二作からこの呼び名を引き継いだ読者には、すでに感情の輪郭が形成されている。鼠は金持ちの家に生まれ、それでも何かから逃げ続けてきた人物として機能してきた。三部作の読者にとって鼠は記号ではなく、すでに厚みを持った存在である。しかし名前がないことで、その厚みは個体に帰属せず、「逃げ続けること」そのものの象徴として機能し続けるのではないかと思われる。鼠という一語が、一人の人物の代名詞であると同時に、ある種の人間類型の呼び名でもあるという二重性を帯びているのである。
「彼女」の耳は、この小説において特別な位置を占めているように見える。「耳専門のモデル」という設定の奇妙さは、物語の入り口から読者を少し不安定な場所に立たせる。完璧な耳を持つ女性が、名前を持たない。その組み合わせは、何かを完璧に聞くことができる存在が、名を持つことの外側にいるという構造を生み出しているように感じられる。聴覚と匿名性の組み合わせに何を読み込むかは簡単には解けない。ただ、「完璧に聞こえる人」が「名前のない人」でもあるという事実は、読み終えた後もどこかに引っかかり続けることになる。
2. 羊という異物——寓話の皮を被った政治の話
星型の斑紋を持つ羊が人に憑依し、その人間を変えていく。そういう前提を提示されたとき、読者はこれを「ファンタジー」として受け取るか、「寓話」として受け取るかの岐路に立つ。村上春樹は、そのどちらとも言えない場所で書いているように見える。羊の憑依を自然科学的に解説しようとする姿勢も、完全に幻想として処理しようとする姿勢も、この小説にはない。ただ、そういうものがいる、という書き方で先へ進んでいくのである。
羊が憑依した「先生」は、政財界に広範な影響力を持つ人物として描かれる。昭和という時代の暗部の一角に彼は座っており、その後継者を確保するための道具として、「僕」への依頼が発動される。つまり羊の憑依は、個人の変容の話ではなく、権力の継承と腐敗の話として機能しているのだということになる。「何者かに操られた人間が歴史を動かしてきた」という読みを、村上春樹は寓話の形式に落とし込んでいるように見える。
1982年という文脈に戻ると、この小説が書かれた時代は昭和後期であり、戦後日本の政治的構造がある程度固まった後、その膿が少しずつ表面化しはじめた時期でもある。右翼・政財界・闇の組織といった要素を「羊の憑依」という超自然的な語彙で処理したことは、直接的な政治批判を回避しながら、その本質を寓話の精度で抽出する試みだったのかもしれない。村上春樹がこれをリアリズムで書かなかったのは、リアリズムでは届かないものがあると判断したからではないだろうか。
ただし、この政治的読みを前面に出しすぎると、この小説の別の核が見えなくなる。羊の話は、最終的には鼠の話に収束するからである。権力の継承を狙った陰謀と、旧友の消息——この二つの線がどこで交差するかが、物語の実質的な中心軸なのだと思われる。羊が何を象徴するかという問いは、 鼠が何を選んだかという問いと切り離せないのである。 そして、 もう一つ無視できない事実がある。 「先生」 が生まれ育った街は、 後に「僕」 が鼠を探して向かう北海道の架空の街——十二滝町なのである。 「先生」 と鼠と十二滝町は、 出自と血と地理によって、 物語が始まる前からすでに繋がっていた。 「先生」 は物語の中で死に、 鼠もまた本作で物語を閉じることを選ぶ。 同じ街を経由して、 二人は別々の終わり方に辿り着いていくのである。
政治と個人の喪失が同じ物語の中に置かれていること自体が、この小説の構造的な特異点である。普通であれば、どちらかが主軸になり、もう一方は背景に退く。しかし『羊をめぐる冒険』では、羊という異物がその両方を同時に照らしているように見える。昭和史の暗部と一人の男の旅と旧友の消息が、同じ焦点を持って重なっている。その重なりの中から、この物語がなぜ寓話として成立しているのかという問いが、読者の側にじわじわと届いてくることになるのではないだろうか。
3. 十二滝町という場所——閉じた空間が抱えるもの
北海道の山奥、架空の地名「十二滝町」へ向かう旅は、物語の後半を占める大きな移動である。東京の広告代理店から、羊男の棲む館まで——その距離は地理的なだけではなく、日常と非日常の間の移動でもある。都市の論理が通用しない場所へ人を連れていくことで、村上春樹は「僕」を普段通りの判断が利かない状況に置く。
十二滝町という閉じた空間の機能は、物語の速度を落とすことにある。東京での出来事は、依頼・脅迫・調査と比較的速いテンポで進む。しかし山に入ってからは、時間の質が変わるのである。館があり、羊男がいて、鼠の手紙がある。その空間の中で「僕」は何かを待つことを余儀なくされ、待つことしかできない場所に人を連れていくことで、物語は読者にも同じ「待つこと」を強いることになる。
閉じた空間という装置は、文学においてしばしば「本当のことが起こる場所」として機能するものである。日常の外側に設けられた結界の中で、隠れていたものが現れる。十二滝町の山奥もその構造に従っているが、村上春樹がそこで「現れさせる」ものは、超自然的な羊の実体よりも、鼠の不在の輪郭なのではないかと思われる。羊男の存在は謎めいているが、より深く読者に刺さるのは、待ち続けても辿り着けない旧友の痕跡の方かもしれない。
山の館という空間は、「終わりが起こる場所」でもある。三部作の鼠は、ここに来るまでの二作で蓄積された厚みを持っている。その厚みが、この場所で何らかの形で終わる。その終わり方の構造だけを言うなら——村上春樹は、鼠の退場を劇的なイベントとして描くのではなく、気配として処理しているのだと思われる。気配の残り方が、読後に長く続く余韻の正体なのかもしれない。
「僕」が十二滝町を去るとき、物語は終わる。何も解決していないし、何かが始まるわけでもない。ただ彼はそこにいて、そこを離れる。その動作だけが残るのである。閉じた空間は、何かを閉じるためではなく、何かが閉じてしまったことを確認するために用意された場所だったのかもしれない。そう読めば、十二滝町という架空の地名が持つ閉鎖性は、物語の舞台装置というより、喪失の器として機能していることになる。
4. 鼠の退場——別荘の台所、 そして列車から見届けた黒煙
『風の歌を聴け』 から始まり、 『1973 年のピンボール』 を経て、 鼠はここで三作目の到達点を迎える。 「鼠三部作」 という呼称が存在する以上、 最後の章に何かが回収されることは読者も了解の上で本作を開く。 しかし了解していることと、 それが実際に起きたときの感触は別のものである。
「僕」 が別荘に辿り着いたとき、 鼠はすでにそこにいない。 正確に書けば、 別荘の台所の梁で首を吊って、 鼠はすでに死んでいた。 「僕」 が来る前に、 鼠は自分で物語を閉じてしまっていたのである。 その事実を「僕」 はすぐには受け止めない。 別荘で過ごす数日のあいだに、 ソファで居眠りをしている「僕」 のもとに、 鼠は幽霊として現れる。 暖炉の前で、 古い友人のように話す。 死んでいるという事実と、 そこで話していることの間に、 矛盾は持ち込まれない。
鼠は語る。 自分の体には、 あの星の羊が取り憑いていた。 羊が体の中で目を覚ます前に、 死ぬ必要があった。 自分が死ねば、 羊も道連れになって消える——その判断のために、 鼠は梁を選んだのだという。 鼠が逃げ続けてきたのは、 おそらくこの瞬間を遅らせるためだったのかもしれない。 そして、 もう遅らせる必要はなくなった、 と鼠は静かに告げる。
鼠は「僕」 に一つの仕事を託す。 別荘の柱時計に時限爆弾を仕掛けてあるから、 9 時きっかりに、 羊を追ってこの別荘に来る黒服の男もろとも、 ここを吹き飛ばしてほしい。 「僕」 はその通りにする。 別荘を出て、 山を降り、 列車に乗る。 動き始めた列車の窓の向こうに、 やがて黒い煙が立ち上がる。 「僕」 は 30 分間、 その黒煙を見届けることになる。 30 分という時間の長さが、 鼠との関係の長さに、 静かに重なっていく。
英雄的な死ではない。 派手な事件でもない。 ただ別荘の台所の梁と、 柱時計の時限装置と、 列車の窓から見える 30 分の黒煙——その三つの細部だけで、 鼠の退場は組み立てられている。 鼠がしたことは理解できる。 しかし賛成できるかどうかは、 また別の問いである。 体に取り憑いたものを道連れにするために自分を終わらせるという選択は、 読者に「正しさ」 の判定を要求しない。 ただ、 そういう選び方をする人間がいた、 という事実だけが残る。
三部作を通じた鼠と「僕」 の関係性を思い返すと、 二人の間には深い友情があるが、 それが感動的に語られたことはほとんどない。 当たり前のようにそこにあったものが、 当たり前のようにそこからなくなる。 ただし本作では、 その消滅の場所が「別荘の台所」 という具体的な場所であり、 消滅の時刻が「9 時きっかり」 という具体的な時刻であり、 消滅を見届ける時間が「30 分」 という具体的な長さである。 抽象的な気配ではない。 細部を持った、 一回きりの終わり方として、 鼠は退場している。
5. 「僕」 という語り手——二十九歳の重力
名前のない二十九歳の男が語る物語として、この小説を読み返すとき、「僕」という語り手の設計の精度に改めて気がつくことになる。「僕」は感情を大きく表出しない。出来事に驚かないわけではないが、驚き方が抑制されている。羊の憑依という超自然的な前提を前にしても、彼はどこか淡々と動き続けるのである。その淡々さが、物語全体のトーンを作っているのだと思われる。
二十九歳という年齢は、 この物語において象徴的な意味を持っているように見える。 二十代の終わりと三十代の入り口の間——何かが定まっていくはずの時期に、 逆に「定まらないこと」 が前景化する。 共同経営の事務所があり、 恋人がいて、 旧友への手がかりを持つ「僕」 は、 外側から見れば一応の生活の輪郭を持っている。 しかしその輪郭が、 物語が進むにつれて少しずつ輪郭であることをやめていくのである。
「彼女」 との関係も、 北海道行きを境に変わる。 耳専門のモデルである彼女は、 十二滝町の別荘まで「僕」 に同行する。 そして、 別荘に羊男が現れたその瞬間に、 彼女は突然いなくなる。 説明はない。 別れの言葉もない。 異界の力で物語から弾き出されたかのように、 彼女はいなくなるのである。 静かな離脱でもなく、 整理された退場でもない。 「いた」 はずの人が、 次の瞬間「いない」 という不連続が、 そこに置かれている。 「僕」 の周囲のものが一つずつ剥がれていく構造の中で、 彼女の退場はその流れの「速さ」 を一段上げる出来事として組み込まれている。 残るのは、 別荘の中で一人になった「僕」 の輪郭だけである。
三十歳の語り手という設計には、村上春樹なりの必然性があるように感じられる。二十代なら「まだこれからだ」という読み方が自然に発生してしまう。四十代なら「すでに積み重ねてきたものがある」という重量が物語に加わる。二十九歳という地点は、 どちらの保険も使えない場所である。 「まだこれからだ」 とも「積み上げてきた」 とも言えないまま、 何かが終わっていく——その年齢の固有の感触が、 この物語の地盤になっているのではないだろうか。
「僕」 が名前を持たないことと、 二十九歳という年齢設定は、 切り離せない意味を持っているように思われる。 名前のない二十九歳は、 どの時代にも、 どの文化にも現れうる。 1982 年の東京でなくても、 この語り手は立ちうるのである。 そのことが、 この小説を発表から四十年以上経た今も、 特定の読者に届き続ける理由の一部を形成しているのかもしれない。 自分がその時代のその場所にいたとは思えなくても、 名前のない二十九歳の重力をどこかで知っている読者が存在し続けるかぎり、 「僕」 の旅は読み継がれていくことになる。
おわりに
別荘を吹き飛ばし、 30 分間黒煙を見届けた「僕」 は、 東京には戻らない。 自分が三部作のはじまりにいた街——『風の歌を聴け』 のジェイズ・バーがある故郷の街に、 「僕」 は戻っていく。 四年ぶりに、 ジェイズ・バーのカウンターに腰を下ろす。 ジェイは変わらずそこにいる。
「僕」 はジェイに大金の小切手を渡す。 鼠から受け取った金だ、 という意味のことを言う。 そしてジェイに頼む。 鼠と自分の二人を、 このジェイズ・バーの共同経営者にしてくれ、 と。 鼠はもういない。 それでも「僕」 は、 鼠の名前を共同経営者として残すことを、 ジェイに頼むのである。 ジェイは黙ってそれを受け取る。
バーを出た「僕」 は、 川に沿って河口まで歩く。 河口の砂浜に辿り着く。 五十メートルほどの、 小さな砂浜である。 そこに腰を下ろして、 「僕」 は泣く。 二時間、 泣き続ける。 「そんなに泣いたのは生まれてはじめてだった」 と、 物語は書いている。
この小説が、 名前のない男の旅として始まり、 名前のない喪失として終わる、 と要約することはできる。 ただし要約には収まらない一点が、 河口の砂浜にある。 「僕」 は最後に、 二時間泣いた。 鼠が別荘の梁で死に、 別荘ごと吹き飛び、 黒煙が 30 分続いて消え、 故郷に戻り、 ジェイに小切手を渡し、 河口まで歩き、 砂浜に腰を下ろした「僕」 が、 ようやくそこで泣く。 泣くという動作が、 この小説で一度だけ、 ここで起きる。
「僕」 「鼠」 「彼女」 「先生」「羊男」——彼らが名前を持たないことで、 この小説は読者のための空間を作っているのかもしれない。 しかし名前のない構造のラストで、 「僕」 は名前のないまま、 具体的な砂浜の上で、 具体的な二時間、 泣いた。 名前は剥がれ落ちる。 喪失は名前のないまま続く。 ただし、 名前のない喪失を抱えた人間が、 名前のない砂浜で泣くという動作は、 名前を持つことと同じくらい、 一回きりの、 取り消せない出来事として残る。
二十九歳の名前のない男が、 五十メートルの砂浜で二時間泣いた。 その動作だけが、 この物語の最後にひとつ、 名前を持たないまま、 確かに置かれているのである。
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