G-0C41NE8DJB 『病牀六尺』正岡子規 — 六尺の世界になっても、やめなかったこと|亀吉の呟き
亀吉の書評

『病牀六尺』正岡子規 — 六尺の世界になっても、やめなかったこと

『病牀六尺』正岡子規 — 世界が六尺になっても、見ることをやめない
yoshiomi

「病牀六尺、これがわが世界である」。本書は、この一行から始まる。六尺は、畳一枚ほどの長さだ。寝返りを打つのがやっとの、その床の広さが、書き手にとって世界のすべてだった。手足は思うように動かず、痛みは絶えない。窓の外へ歩いて出ていくことは、もう二度とない。それでも、その六尺から見えるものを、書き手は最後まで見つめつづけた。

書いたのは正岡子規。俳句と短歌を「写生」で作りかえた人物である。写生とは、目の前のものを、目に映るとおりに、ありのまま写しとること。花なら花を、そのままに。正岡子規は生涯をかけて、この見方を磨いた。そして、その一生ぶんの見る目が、最後に向かった先が、詩でも花でもなく、死んでいく自分自身だった。

本書は、その病床から、亡くなる直前まで新聞に連載しつづけた日記のような随筆である。痛みの訴えも、庭の草花も、食べたものも、見舞いに来た人の顔も、同じ一つの目で写されていく。世界がどれだけ狭くなっても、見て書きとめる手を止めない。その姿が、百年をこえて、いまも読む者の前に立っている。

だからこの本を開くには、まず書き手がどういう人だったかを知っておくといい。なぜ六尺の床が世界のすべてになったのか。なぜその狭さのなかで、なお書きつづけられたのか。それは、正岡子規という人が生涯なにをしてきたかと、分かちがたく結びついている。

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写生で作りかえた人

正岡子規は伊予の松山に生まれた。若くして東京へ出て新聞社に身を置き、そこを拠点に、俳句と短歌の革新運動を進めていく。当時の俳句は、古い型をなぞるばかりの月並みに流れていた。子規はそれを退ける。ありもしない風流をこしらえるのではなく、目の前の景色や物を、見たとおりに写しとろう。この「写生」という一つの態度が、子規の仕事の芯になった。

写生というと、目に映るものをただ書き写すだけの、素朴なやり方に思えるだろう。だが子規がやったのは、その逆だった。手あかのついた美しい言葉、だれかが先に使った風流の型、そういう借り物をいったん全部わきに置く。そのうえで、いま自分の目の前にあるものだけを、自分の目で確かめて書く。ありふれた景色が、そうやって見直されると、はじめて見るもののように立ちあがる。写生とは、見ることを一から鍛えなおす方法だった。

同じことを短歌でもやった。旧派の歌のしきたりを正面から批判し、新しい歌のあり方を世に問う。自分が中心になって俳句の雑誌を率い、その周りに多くの若い書き手が集まった。のちに近代の俳句と短歌を担っていく高浜虚子や河東碧梧桐、伊藤左千夫といった人たちが、この門から育っている。学生時代からの親友には夏目漱石がいて、松山で同じ屋根の下に過ごした時期もあった。子規がいなければ、いまの俳句も短歌も、まるで違う姿だったにちがいない。それだけの仕事を、子規は三十いくつの短い生のうちにやり切った。

子規が据えたこの見方は、子規ひとりのものでは終わらなかった。写生は、そのあとの俳句や短歌の土台になり、近代の詩のことばを大きく方向づけていく。ものを正面から見て、見たとおりに書く。この当たり前のようで難しい態度が、子規を通していちど作品の芯にすわると、あとにつづく書き手はもう、そこを素通りできなくなった。子規の仕事は、一つの流派をこえて、詩の見方そのものを入れかえたのだ。

「子規」という号は、ホトトギスという鳥の、別の呼び名からきている。ホトトギスは、鳴いて血を吐くと昔から言い伝えられてきた鳥だ。子規は若い日に肺を病んで血を吐き、その自分を、この鳥に重ねた。名前そのものが、はじめから病とともにあったことになる。やがて、戦争に従軍した帰りの船の上で大量の血を吐いてからは、結核が背骨をむしばむ病へと進み、子規は少しずつ、寝返りも打てない体になっていった。

病が重くなっても、机に向かえるうちは向かった。起きあがれなくなってからは、寝たまま書いた。書くことは、子規にとって仕事であると同時に、生きていることのしるしのようなものだったのだろう。見ることと書くこと。その二つだけは、体がどれほど利かなくなっても、最後まで子規のもとにとどまり続けた。

六尺の床という世界

動けなくなってもなお、子規は書くことをやめなかった。それどころか、病が重くなるほど、書く量はむしろ増えていったようにも見える。本書は、その最晩年に、新聞へ日々連載しつづけた随筆の、最後のひと続きにあたる。ほとんど毎日、床のなかから短い文を書きつぎ、それを亡くなる直前まで続けた。この連載が途切れたとき、子規の命も尽きかけていた。

書けるものは、六尺の床から見えるものに限られている。天井の木目。庭に咲いた草花。障子に映る光。運ばれてくる薬と食べ物。看病してくれる家族の手つき。見舞いに来る人の話。そういう、ごく小さなものばかりだ。世界の側は、これ以上ないほど狭い。けれど、その狭い世界を、子規は隅々まで見た。狭いのは世界の広さのほうであって、見る目の深さではなかった。

新聞に載るということは、その日その日に読者がいるということでもある。子規は、自分の痛みや庭の草花を、ただ日記帳にしまいこんだのではない。毎朝、顔も知らない大勢の人へ向けて、床から見えたものを送りつづけた。動けない体で世界とつながる、細いけれど確かな一本の糸が、この連載だった。書くことは、六尺の外へ通じる、たった一つの通り道でもあった。

この本は、子規が生涯かけてやってきたことの、いちばん最後にある。若い日に写生をかかげ、俳句と短歌を作りかえ、多くの書き手を育てた。その仕事が、動けない六尺の床にたどり着いても、まだ止まらずに書きつづけている。力つきて終わった記録ではない。子規の写生が、いちばん遠くまで届いた場所なのだ。

だから本書は、子規という文学者が最も動けなくなった時期の、いちばん小さな世界からの記録ということになる。世に問うべき大きな主張を掲げた本ではない。むしろ、掲げるべき舞台を失った人が、それでも手放さなかったものだけで書いた本だ。手放さなかったのは、見る目と、それを書きとめる手だった。生涯かけて鍛えた写生が最後にたどり着いた場所こそ、この一冊なのである。

同じ目で写す

本書を、悲惨な闘病記として読むこともできる。事実、痛みの描写はなまなましい。麻痺した体、うずく背中、眠れない夜。読んでいて息が詰まるところも少なくない。だが、そう読むだけでは、いちばん大事なところを取り落とす。子規の筆は、感動的な最期の物語ではなく、最後まで手放されなかった一つの目の記録だからだ。

おどろくのは、その目の落ち着きようだ。激しい痛みを訴える文のすぐ隣に、庭の草花を写した文が、まったく同じ手つきで並んでいる。苦しみを大げさに嘆くのでもなく、けなげに耐えてみせるのでもない。痛みは痛みとして、花は花として、来客は来客として、同じ距離から写されていく。自分の苦痛すら、一つの観察の対象になる。ここには、読者を泣かせにくる感傷が、ほとんどない。あるのは、どこまでも冷めた写生の目だ。

たとえば、庭に咲いた花の色や形を、子規はこまかく書きとめる。運ばれてきた食べ物の味も、同じ調子で記す。かと思えば、次の文では、背中の痛みの走り方を、やはり同じこまかさで書く。ふつうなら、痛みが花をかき消してしまうはずだ。子規の目は、そうならない。花も痛みも、同じ重さで並べていく。

これは、けなげな病人の美談ではなく、写生という方法が、いちばん過酷な場所で試された記録だ。ふつう、自分がひどく苦しいとき、人はその苦しみに飲み込まれて、まわりが見えなくなる。子規は反対のことをしてみせた。苦しいときこそ、その苦しみをも含めて、見えるものを見た。飲み込まれずに写す。その行いを、体が壊れていく最後までやり遂げたのだ。

平気で生きて居る

本書のなかに、とりわけよく知られた一節がある。「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた」。子規は書く。悟りとは、どんなときも平気で死ねることだと、これまで思っていた。だがそれは間違いで、本当は、どんなときも平気で生きていることのほうが悟りなのだと、子規は書きつけた。

これは、達観でも諦めでもない。平気で生きるとは、痛みや死を涼しく受け流すことではなく、むしろその逆に近い。子規は最後まで、生きたがっていた。苦痛にうめき、いらだち、家族に当たることもあったと、本書は隠さず書く。聖人のように澄みきってなどいない。その、取り乱すこともある生身のまま、それでも今日見えるものを見て、書く。死を前にして、なお生の側にとどまりつづける。その姿勢を、子規は「平気で生きて居る」と呼んだ。

平気で死ぬことを悟りと呼ぶなら、そこには、もう終わってもいいという諦めが少し混じる。だが平気で生きるとなると、そうはいかない。明日も痛いとわかっていて、その明日を、なお生きる側で引き受けることになる。逃げ場のない苦しみのただなかで、それでも生を手放さない。子規のいう悟りは、おだやかな境地の名ではない。最後まで生きようとすることの、別の名だった。

だから、ここでいう平気とは、感情が動かないことではない。動揺しながら、痛みながら、それでも見る目と書く手だけは崩さないでいること。死をおだやかに受け入れる境地ではなく、最後の一日まで生に踏みとどまる、そのねばりのことだ。悟りという言葉から思い浮かべる、あの澄まし返った様子とは、ずいぶん向きが違う。子規の悟りは、生きる側に最後まで踏みとどまることだった。

写生が最後に見たもの

こうして見てくると、本書が俳人の余技でないことがわかる。病床でつけた気晴らしの雑記メモではなく、写生という、子規が一生をかけて鍛えた見方の、いちばん遠くまで届いた地点がここにある。花や景色を写していた目が、最後に、自分の壊れていく体と、細っていく命そのものへ向けられた。対象が外の世界から自分自身に変わっても、目のはたらきは少しも変わっていない。

これは、おそろしいことでもある。自分の死を、他人事のように、一つの景色として写す。ふつうなら目をそむけたくなるものを、そむけずに見て、言葉にする。そこには、対象と一定の距離を保ちつづける、写生という方法の強さが出ている。近すぎれば飲み込まれ、遠すぎれば冷たくなる。子規は、自分の死という最も近いものにさえ、写生の目が保てる距離を、最後まで探しつづけた。

その距離は、冷たさとは違う。自分を突きはなして眺めるのとも違う。自分の痛みや弱さも、庭の花と同じだけの丁寧さで受けとめる。だからこの本を読んでいると、突きはなされた寒々しさよりも、むしろ、ものをよく見る人のあたたかさのようなものがにじむ。よく見るとは、対象を大切にあつかうことでもあるのだと、子規の筆は教えてくれる。

俳句や短歌という短い詩型のなかで磨かれた見方が、詩の枠を越えて、一人の人間の生き死にそのものを写すところまで届く。本書が読み継がれてきたのは、闘病の記録だからではなく、この一点のためだろう。見るという、いちばん受け身に見える働きが、死にゆく人にとって、最後まで残された能動の行いになる。写生は、ここで生の凝視になった。

見ることをやめない

本書が最後に残すのは、きれいにまとまった教訓ではない。

できることが、一つずつ減っていく。歩けなくなり、起きられなくなり、やがて寝返りも打てなくなる。世界は、どんどん小さくなっていく。そういうとき、人は、生きている意味までいっしょに手放してしまいそうになる。もう何もできない。子規は、そうしなかった。世界が六尺に縮んでも、その六尺を、最後の一日まで見つづけた。見て、書いた。狭くなった世界の分だけ、一つ一つのものを、より深く見た。

これは、元気なうちには気づきにくいことだ。世界がいくらでも広いと思えるうちは、見ることのありがたさなど、考えもしない。だが、できることが減って、世界が手のとどく範囲まで縮んだとき、はじめて見るという行いの重さを知る。子規は、その重さを、だれよりも早く、だれよりも深く知った人だった。失ってはじめて分かるものが、この世にはいくつもある。見ることも、そのひとつだった。

見るという行いは、体が動かなくなっても、最後まで残る。痛みのなかでも、目は開いている。世界が狭まっていくとき、それでも見て、書きとめる手を止めないこと。それが、子規にとっての「平気で生きて居る」だった。大きな世界を持っていることが生きているということではなく、狭い世界であっても、それを最後まで見つづけることが、生きているということだったのかもしれない。

いつか自分の世界が狭くなったと感じる日が、誰にでも来る。そのとき、本書のこの一行が、ふと戻ってくるかもしれない。病牀六尺、これがわが世界である。狭い。けれど、まだ見えている。まだ、書ける。子規は、その最後の六尺を、世界と呼んだ。

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