G-0C41NE8DJB 原広司 — 梅田スカイビル・京都駅ビルを手がけた建築家と「集落の教え」|亀吉の呟き
歴史・建築

原広司 — 梅田スカイビル・京都駅ビルを手がけた建築家と「集落の教え」

原広司の梅田スカイビルを描いた青い線画イラスト
yoshiomi

はじめに

大阪駅の北に、二棟の超高層ビルが並んで建っている。普通と違うのは、その二棟が最上部でつながっていることだ。つながった部分の真ん中には、大きな丸い穴が開いている。地上から見上げると、建物の中央を空が抜けていく。梅田スカイビルである。設計したのが、原広司だ。

原広司は、1936年に神奈川県川崎市で生まれた建築家である。東京大学生産技術研究所で研究と教育に携わりながら設計を続けた人で、京都駅ビルや札幌ドームも手がけている。もう一つ、この人には設計と並ぶ仕事があった。1972年から、世界じゅうの集落を歩いて実測する調査をおよそ30年続けている。訪ねた国は約60。

作品を並べると、駅もドームも高層ビルもあって、ばらばらに見えるかもしれない。けれども、そこには一本の理屈が通っている。理論と、集落を歩いた足跡から、たどっていきたい。

建築家原広司(はら ひろし)の肖像イラスト
  • 本名|原広司(はら ひろし)
  • 生没|1936年9月9日、神奈川県川崎市生(存命)
  • 出自|両親が長野県下伊那の出身で、小学2年のときに飯田へ疎開。以後、高校を卒業するまで伊那谷で育った
  • 学び|1959年、東京大学工学部建築学科を卒業/1961年、修士課程修了/1964年、博士課程修了
  • 事務所|原広司+アトリエ・ファイ建築研究所。東京大学生産技術研究所では1969年に助教授、1982年に教授となり、1997年に退官して名誉教授
  • 受賞|1986年、日本建築学会賞作品賞(田崎美術館)/1987年度、第1回村野藤吾賞(ヤマトインターナショナル)/1988年、サントリー学芸賞/2013年、日本建築学会大賞
  • 様式|有孔体理論。世界の集落調査から導いた、様相としての建築
梅田スカイビルを見上げた外観。二棟が最上部でつながり中央に円形の空洞が開く
代表作、梅田スカイビル。二棟が最上部でつながり、中央に円形の空洞が開いている。撮影: Martin Falbisoner / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

有孔体理論と、集落の教え

原広司は川崎で生まれたが、両親はいずれも長野県下伊那の出身だった。小学2年のときに飯田へ疎開し、高校を卒業するまで伊那谷で過ごしている。山にはさまれた細長い谷に、集落が点々と散っている土地である。1959年に東京大学の建築学科を卒業し、1964年に博士課程を終え、1969年からは生産技術研究所に籍を置いた。

研究者と設計者を、生涯どちらも手放さなかった人である。1972年、世界の集落を訪ね歩く調査を始めた。以後およそ30年、約60か国を回っている。設計の合間の旅行ではなく、設計の根拠を探しに行く調査だった。この人が建築に持ち込んだものを、三つに分けて見ていきたい。

有孔体理論

20代の終わりに立てた考え方である。建築を、閉じた箱としてではなく、孔の開いた物体としてとらえる。内と外を隔てる面があり、そこに孔が開いている。どこに、どんな大きさで孔を開けるかによって、内と外の関係が決まる。

壁を取り払って開け放つのでもなく、閉じ切るのでもない。孔の開け方そのものを設計する。梅田スカイビルの中央に開いた大きな空洞は、この考え方がそのまま形になったものだ。

集落の教え

1972年に始まった調査は、地中海沿岸から中南米、東欧、インド、中東、アフリカ、東アジアへと広がっていった。訪ねたのは、有名な建築家の作品ではない。名前の残らない人々が、その土地の材料で建て、長い時間をかけて集まっていった集落である。原広司は学生たちと現地に入り、一軒ずつ実測して図面に起こした。

そこで見つけたのは、一軒ごとは素朴でも、集まると秩序があらわれるという事態だった。全体をあらかじめ描いてから部分に割るのではなく、部分が積み重なって全体になる。この順序が、以後の設計を支えている。京都駅の内部が建物というより街のように感じられるのは、ここから来ている。

機能から様相へ

近代建築は、機能から形を決めることを原則にしてきた。何のための部屋か、何人が使うか。数えられるものから形を導く。原広司はそこに「様相」という言葉を置いた。光の量、影の落ち方、反射、気配。数値にしにくいものを、建築の主題として正面から扱う。

札幌ドームの銀色の屋根も、梅田スカイビルのガラスの面も、時刻と天気によって見え方が変わる。同じ建物が、朝と夕方で別の顔をする。その移り変わりまで含めて設計の対象と考えるのが、この人の立ち位置である。

代表作をたどる

理論と、60か国の旅が、どんな建物になったのか。四つをたどる。

梅田スカイビル
梅田スカイビルの空中エスカレーターの内部
梅田スカイビルの空中エスカレーター。二棟のあいだの空洞を、斜めに横切って屋上へ上がる。撮影: Martin Falbisoner / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

1993年3月竣工、大阪市北区。地上40階、最高部の高さは175.295メートル。二棟の超高層を最上部でつなぎ、そこに空中庭園展望台を置いた。二棟の頂部を連結する形式の高層建築としては、世界で最初のものとされる。

つないだ部分の中央は、床を張らずに空洞のまま残されている。展望台へは、二棟のあいだの空中に架けられたエスカレーターで上がる。歩いている人の足元にも頭上にも何もない。孔を開けることで内と外の関係を作るという理論が、そのまま高層建築の規模で立ち上がっている。2008年には、イギリスの『THE TIMES』紙が掲載した世界の建築トップ20に、日本から唯一この建物が入った。選定を行ったのはドーリング・キンダースリー社である。

京都駅ビル
京都駅ビルの外観
京都駅ビルの外観。撮影: Carla Abanes / CC BY-SA 2.0 / Wikimedia Commons

1997年9月11日開業。1990年に7人の建築家を指名した国際コンペが行われ、翌1991年に原広司の案が最優秀に選ばれた。古都の玄関口に巨大なガラスの建物を建てることには、当時から強い反対もあった。

できあがった建物の中央には、大階段のある深い吹き抜けが南北に通っている。通路が何層にも重なり、店が並び、階段に人が座る。駅の機能を積み上げた建物というより、屋根のかかった谷、あるいは街に近い。部分が集まって全体になるという集落の秩序を、駅という規模でやってみせた建築である。

札幌ドーム
札幌ドームの外観
札幌ドームの外観。撮影: 掬茶 / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

2001年開業、札幌市豊平区。野球とサッカーを一つの施設で行うために、天然芝のサッカー用フィールドを丸ごと屋外から屋内へ運び入れる仕組みを備えている。芝は屋外で日光を浴びて育ち、試合のときだけ屋内へ入ってくる。

フィールドは縦120メートル、横85メートル、重さおよそ8,300トン。これを空気の圧力で7.5センチだけ浮かせ、34個の車輪で移動させる。移動にかかる時間は約2時間。この規模のものを空気圧で浮上させる方式を採ったのは、世界で初めてだった。雪の多い土地で二つの競技を成り立たせるという条件から、建築と技術が一つになった解が出てきている。

東京大学生産技術研究所
東京大学生産技術研究所(駒場リサーチキャンパス)の外観
東京大学生産技術研究所(駒場リサーチキャンパス)。撮影: Jun Ohwada / CC BY 2.0 / Wikimedia Commons

1999年から2001年にかけて、研究所は六本木から目黒区の駒場へ移った。そのときに建てられた建物群が、原広司のマスタープランに基づいている。原広司自身が長く教授を務めた場所でもある。

細長い棟が並び、そのあいだを通り抜けられるようにつくられている。研究室の前の廊下を、建物の内側というより外の道のように扱う。人が行き来する道筋のほうから配置を決めていく手つきは、集落の実測から持ち帰ったものだろう。有孔体理論を、一棟ではなくキャンパスの規模で試した仕事である。

おわりに

梅田スカイビルを見上げると、二棟のあいだに空が抜けている。あの穴を思い浮かべると、原広司のやってきたことが一つの像に集まってくる。

建築は閉じた箱ではなく、孔の開いた物体である。どこに、どう孔を開けるか。それを決めるために、名前の残らない集落を60か国分歩いた。理論と旅は別々の仕事ではなく、同じ一つのことを違う側から言っている。京都駅の谷も、札幌ドームの動く芝も、駒場の通り抜けられる棟も、その延長線上にある。

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こんにちは。亀吉です。 仕事の合間にブログを書いています。 このブログは、どこまでも個人的で恣意的な思想の表明です。思うままに・・・ 映画と本が好きです。その他音楽や登山など。
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