『菜根譚』洪自誠 — いちばん深い味は、淡いほうにある
濃い酒、脂ののった皿、辛くて甘いもの。舌をはっきり動かす強い味は、口に入れた瞬間にうまいとわかる。足せば足すほど、次はもっと強い刺激がほしくなり、気づけば、何を食べても薄く感じるようになる。同じことは、味の話だけにとどまらない。もっと大きな成果、もっと高い評価、もっと確かな安心。強いものを足しつづける癖は、いつのまにか暮らしのすみずみまで広がっていく。足すことは、いつでも簡単だ。もう一品、もう一杯、もう一つの肩書き。難しいのは、足すのをやめることのほうだ。何を減らせばいいのかは、足しているあいだは見えてこない。
いまから四百年ほど前、中国の明の末に書かれた『菜根譚』は、その反対のことを言う。いちばん淡いところにこそ、本当の味がある。堅くて筋の多い菜の根を、時間をかけて噛みしめた者だけが、ものの味を知る。派手なものを追いかける手を少しゆるめて、淡いものの奥をのぞいてみないか。その古い書物は、いまも変わらず、そう声をかけてくる。
菜の根を噛みしめる
書名の菜根とは、野菜の根のことだ。太くもなく、甘くもなく、筋ばっていて、噛むのに骨が折れる。宋の汪信民という人が、こんな言葉を残している。人がいつも菜の根を噛みしめていられるなら、その人には何事も成しとげられる。堅いものを噛みつづける辛抱ができる者は、暮らしのどんな苦さにも耐えられるし、噛むほどに出てくる淡い味を、ちゃんと味として受け取れる。この一句が、そのまま書物の名になった。
やわらかくて甘いものは、口に入れた瞬間にうまいとわかる。噛む手間もいらない。けれど、その味はすぐに飽きる。菜の根はその逆で、噛みはじめは味がしない。顎が疲れてくるころ、奥のほうからじわりと淡い甘みが出てくる。すぐにわかるうまさと、噛みしめてようやくわかる味。この書物が肩を持つのは、いつでも後者のほうだ。菜の根という書名じたいが、その淡いほうの味を指し示している。
いまの暮らしには、噛まなくても味のするものがあふれている。口に入れた瞬間から濃い味が広がり、顎を使う前に舌が満たされる。速くて、強くて、はっきりしている。けれど、そうやって手に入れた味は、口を離れた瞬間に消えていく。菜の根はそれとは反対の速さで、ゆっくりと味を渡してくる。待てる者にしか届かない味というものが、たしかにある。この書物が菜の根に名を借りたのは、待つことのなかにこそ深い味があると、はじめに言い切っておきたかったからだろう。
前集と後集のあいだ
『菜根譚』は、短い言葉を数多く連ねた書物だ。ひとまとまりの条が、前集と後集の二つに分けて集められている。前集にはおよそ二百あまり、後集に百あまり。前集はおもに、世の中で人と交わっていくときの身の処し方を説く。後集は打って変わって、俗世から一歩退き、山や林のそばでおだやかに暮らす楽しみを説く。働く日々のなかの知恵と、そこから離れたところの安らぎ。人が生きる二つの場面を、この一冊が両手で受け持っている。働いているときの人は、後集の安らぎを忘れがちになる。逆に、退いて暮らす人は、前集の煩わしさを遠いものにしてしまう。どちらか一方だけを選べば、生き方はかたよる。この書物は、その両方を同じ一冊のなかに並べておくことで、人はどちらの場面も行き来しながら生きるのだと、ごくあたりまえのこととして示している。
言葉の背後には、儒と道と仏の三つが溶けあっている。世の中での身の処し方は儒の教えに、あるがままに従い、力まず暮らす構えは道の教えに、こだわりを手放して心を空にする姿勢は仏の教えに近い。ふつうなら別々に語られ、時には競いあう三つの教えが、この書物のなかでは一つの生き方に混ざりあっている。どれか一つの宗派を勝たせるためではない。日々をどう生きるかという、その一点で三つが自然に重なっている。難しい理屈を並べるかわりに、朝に飯を炊き、人とあいさつを交わし、夜に一杯の茶を飲む、その手のとどく高さで語られている。
醲肥辛甘は真味に非ず
前集のなかに、この書物の芯を言いあてた一行がある。
醲肥辛甘は真味に非ず、真味は只だ是れ淡。
濃い酒、脂、辛いもの、甘いもの。そうしたはっきりした味は、本当の味ではない。本当の味は、ただ淡いだけだ。
そう言い切ったあとに、洪自誠はもう一段先へ進む。
神奇卓異は至人に非ず、至人は只だ是れ常。
奇をてらい、人を驚かせる者は、いちばん高いところに達した人ではない。達した人は、ただ平凡であるだけだ。
味の話は、そのまま人の話につながっている。強い刺激で舌を驚かせる料理が本物でないように、目立つふるまいで人を驚かせる生き方も、本物ではない。淡い味が舌の奥に長く残るように、目立たない平凡さが、その人をいちばん深いところで支えている。濃さを競っているあいだは見えてこない味が、淡さの側に回ってはじめて立ちあがってくる。舌でわかることと、生き方でわかること。洪自誠はその二つを、同じ一つのこととして書いている。日々の食卓で確かめられることが、そのまま生き方の指針になる。だから、この教えは頭で覚えるものではなく、舌で思い出すものになっている。
濃い味に慣れた舌は、淡い味を物足りないと感じる。けれど、それは淡さが薄いからではなく、こちらの舌が強い刺激に鈍くなっているからだ。しばらく濃い味を離れてみると、菜の根の淡い甘みが、前よりもはっきりと立ってくる。味そのものが濃くなったのではない。受け取るこちらが、淡さを聞き分けられる耳を取りもどしただけだ。洪自誠が真味は只だ是れ淡と書いたとき、変えようとしていたのは味のほうではなく、味を受け取る側のありようだったのだと思う。
一歩をゆずるということ
前集には、人と交わるときの心得も多い。世の中の道は狭くて、でこぼこしていて、通りにくい。だから、通りにくい道にさしかかったら、一歩を退いて、人に先を譲る。そして、自分が楽に通れる道でも、その三分を人に譲る心を持っておく。全部を自分で通ろうとしない。少しだけ、いつも人のために場所をあけておく。それが、狭い道を長く歩いていくための知恵だとされる。
これを、うまく世を渡るための駆け引きとして読むと、いちばん大事なところを取りこぼしてしまう。譲るのは、あとで得をするためではない。押しのけて先に立とうとする気持ちそのものを、淡くしていくための構えだ。濃い味を追う口がやがて飽きるように、我を張りつづける生き方も、いつか自分を苦しくする。三分を譲るのは、相手のためであると同時に、自分の欲を薄くして、息のしやすい場所をつくることでもある。角を立てて勝ち取った一歩は、あとあとまで肩に力を残す。ゆずってあけた一歩は、自分の胸をかえって広くする。ここでも淡さが、人と人のあいだにそっと差し入れられている。
狭い道で誰かとすれ違うとき、どちらも譲らなければ、二人ともそこで立ち往生する。一歩を退いて相手を先に通せば、道はふたたび流れはじめる。譲った側が損をしたように見えて、そのじつ、いちばん楽に前へ進めているのは譲った者のほうだ。淡く生きるとは、勝ちを積みあげないぶんだけ、余分な重さを背負わずにすむということでもある。
風は竹に音を残さない
後集に入ると、言葉の景色がひらける。風が、まばらに生えた竹の林を吹きぬけていく。竹はしばらく音を立てるが、風が過ぎてしまえば、あとに音は残らない。雁が、冷たく澄んだ淵の上を渡っていく。水面に影が映るが、雁が去ってしまえば、淵に影は残らない。だから、すぐれた人の心もそれと同じだ。事がやってきたときにはじめて動き、事が去っていったあとは、また空へ還っていく。
これは、忘れっぽさやそっけなさを勧めているのではない。風が吹くあいだ、竹はちゃんと鳴る。雁が渡るあいだ、水はちゃんと影を映す。応じるべきときには、しっかり応じる。ただ、それが過ぎたあとまで、いつまでも心に握りしめておかない。済んだことへの後悔も、まだ来ないことへの心配も、竹に残らない音のように手放していく。何もしないのではない。応じるだけ応じて、済んだら残さない。淡く受けとめて、淡く送り出す。この竹と雁の景色は、そのことを目に見えるかたちで描いている。
人は、済んだことを何度も心のなかで噛みなおす。言えなかった一言、うまくいかなかった一日。それらを握りしめたまま夜を越えると、朝になっても手のなかが重い。風が過ぎたあとの竹は、もう鳴っていない。雁が去ったあとの淵は、もう影を映していない。応じたそのときに応じきって、あとは残さない。この後集の一句は、手放すことを冷たさとしてではなく、明日をまた受け取るための余地として描いている。空になった心にだけ、次の風は吹きこんでくる。
至人はただ是れ常
この書物を書いた洪自誠については、確かなことがほとんどわかっていない。号を還初道人といったこと、明の万暦のころの人とされること。伝わっているのは、それくらいだ。生まれた年も、亡くなった年も残っていない。若いうちに官の世界へ進んだが、途中でそこを離れたとも言われるものの、詳しい経歴は霧のなかにある。名を大きく残そうとした人ではなかったのだろう。至人はただ是れ常、と書いたその手が、自分の生涯もまた、淡いままにしておいたように見える。
だからこそ、この書物は誰かの成功物語にならずにすんでいる。えらい人が高いところから語る教訓ではなく、名も残さなかった一人の人が、暮らしのなかで噛みしめた味を、短い言葉にして書きとめていく。醲肥辛甘は真味に非ず。その言葉に重みがあるのは、書いた本人が濃い味の側に立たなかったからだ。淡い味を勧める人が、みずから淡く生きた。言葉と生き方が、ずれていない。名前すら淡く消えていったこの書き手を思うと、平凡であることのなかに、かえって崩れない強さがある。
派手な生涯を残した人の言葉は、その派手さのぶんだけ、読む者を気おくれさせる。自分にはとても真似できない、と思わせる。けれど、名も残さず淡く生きた人の言葉は、こちらの暮らしのすぐ隣に置ける。えらくなろうとしなかった人が、えらさの外にある味を教えてくれる。だから『菜根譚』の淡さは、遠い理想というより、こちらの暮らしのすぐ隣にあるものになっている。至人はただ是れ常という一句は、平凡な一日のなかにこそ手が届く、という約束でもある。
出世の技術という誤読
『菜根譚』は、いつの時代も広く読まれてきた。日本でも、忙しく働く人たちの座右の書として長く愛されてきた。ただ、そのぶん、痩せた読まれ方もされやすい。一歩を譲る心得は、相手を思いどおりに動かすための人あしらいの手管として。淡く生きる勧めは、効率よく成果を出すための処世のこつとして。強い刺激を足しつづける生き方を、この書物はいちばん遠ざけているのに、その勧めじたいが、強い成果を足すための道具に読みかえられてしまう。
けれど、この書物が向いているのは、そういう方角ではない。もっと勝つため、もっと得るため、もっと認められるためのやり方を、洪自誠はここで説いていない。むしろ、勝ち負けや損得の物差しそのものを、少し手放してみようと誘っている。淡さは、強さの控えめな言いかえではない。濃い味を足しつづける競争から、そっと一歩おりることだ。菜の根を噛みしめる時間は、成果を数える時間の外にある。この一冊を出世の手引きとして読むと、いちばん淡い、いちばん大事な味のところを、噛まずに飲みくだしてしまう。速く役立てようとするほど、この本のいちばん深い味は逃げていく。
役に立てようとする気持ちそのものが、強い味をもう一つ足す動きになっている。もっと得るために、この本さえ道具にしてしまう。けれど菜の根は、噛んで何かの役に立てるために噛むのではない。噛みしめている、その時間のなかに味がある。目的のために淡さを使おうとしたとたん、淡さは濃さの仲間に変わってしまう。この書物を急がずに読むというのは、役立てる手を一度ゆるめて、ただ噛みしめてみるということだ。
おわりに
濃い味をさんざん追いかけてきた口に、最後まで残っていたのは、菜の根のあの淡さだった。強いもの、多いもの、目立つものを、一つずつ手放していく。そうやって薄くしていった先に、それでも舌の奥に残る味がある。洪自誠が書きとめたのは、うまく生き抜くための知恵というより、いちばん濃いと思っていた味の、もっと奥に淡さがひそんでいるという気づきのほうだ。淡さは、何かを我慢して選ぶものではない。濃い味を追ってさんざん遠回りをした口が、最後にたどりつく場所だ。だから、いま強い味を足したくてたまらない人を、この書物は責めない。足すだけ足して、それでも満たされなかったところから、淡さの味はようやく開きはじめる。遠回りをした舌ほど、菜の根の奥の甘みを深く受け取れる。
菜の根は、噛むほどに味が出る。急いで飲み込んでしまえば、何の味もしない。これは、食卓の上だけの話ではない。もっと強い成果を、もっと高い評価をと足しつづけてきた手を、いちど休めてみる。すぐに暮らしが変わるわけではないし、はじめは物足りなさばかりが目につくだろう。それでも、足すのをやめて、いま手のなかにある日々を見なおしていくと、速さのなかで通りすぎていた淡いものが、あとからゆっくり立ちのぼってくる。いちばん深い味は、これから足す何かのなかにではなく、とうに手にしていた平凡な一日の奥に、はじめからひそんでいる。四百年前の洪自誠が差し出してくるのは、その味に気づくための、ほんの少しの辛抱だ。
