G-0C41NE8DJB 『幸福論』ラッセル|考察・解説 — 幸福は「勝ち取る」もの
亀吉の書評

『幸福論』バートランド・ラッセル — 幸福は「勝ち取る」ものだった

『幸福論』バートランド・ラッセル — 幸福は「勝ち取る」ものだった
yoshiomi

「幸福論」という背表紙を前にすると、少し身構えるかもしれない。幸福について論じる、という行為には、どこか説教めいた響きがあるからだ。棚には三冊が並んでいる。アラン、ヒルティ、そしてラッセル。世界三大幸福論、と俗に呼ばれる三冊だ。だが、ラッセルの一冊だけは、原題を見ると印象が変わる。The Conquest of Happiness。直訳すれば、幸福の征服。論じるのではなく、奪い取るということになる。

征服という語は穏やかではない。conquest は、城を攻め落とすときに使う言葉だ。幸福を、攻め落とす。配られるのを待つのではなく、こちらから出かけていって、自分の手で取ってくる。バートランド・ラッセルがこの本でやろうとしたのは、幸福を高尚な概念として論じることではなかった。幸福という土地を、どうやって自分のものにするか。その手順を、実務的に書くことだった。

あなたへのおすすめ

「幸福論」なのに、原題は「征服」だった

ラッセルは哲学者であり、数学者であり、論理学者だった。アルフレッド・ホワイトヘッドと組んで『プリンキピア・マテマティカ』という、数学の基礎を論理から組み立て直す巨大な仕事をした人物だ。一九五〇年にはノーベル文学賞も受けている。その頭脳が、一九三〇年に出したのが、この薄い実用書のような一冊だった。難しい言葉はほとんど出てこない。抽象的な定義から始めることもしない。代わりに、人がどういうときに不幸になるか、という具体的な観察から入っていく。

構成も率直だ。本は大きく二部に分かれている。前半は「不幸の原因」、後半は「幸福の原因」。全部で十七の章があり、前半に九つ、後半に八つ並ぶ。まず病名を並べ、そのあとに処方を出す。医者の診察に似た順番で書かれている。幸福を語る前に、不幸を解剖する。そこから始めるところに、この本の姿勢が表れている。

征服という言葉が選ばれた理由も、読み進めるとわかってくる。ラッセルにとって幸福は、性格でも運でもなかった。生まれつき明るい人がいて、暗い人がいる、という話ではない。幸福は、努力して取りにいくもの。放っておけば人は不幸のほうへ流れていく。それがこの本の出発点になっている。だから征服なのだ。攻め落とすには、まず敵の地形を知らなければならない。その地形を描いているのが、前半の九章だ。

不幸の原因を、九つ数える

前半に並ぶ九つの章題を見ると、それだけで身につまされる。何が人を不幸にするのか、バイロン風の不幸、競争、退屈と興奮、疲れ、ねたみ、罪の意識、被害妄想、世評へのおびえ。一九三〇年に書かれた目次なのに、ほとんどそのまま、いまの暮らしの目次として通用してしまう。

たとえば競争。ラッセルは、成功そのものが不幸の種になる場合を書いている。人より上に立つことだけを目標にした人間は、上に立った瞬間に、次の比較対象を探し始める。競争のはしごには、てっぺんがない。登りきったと思った場所に、もう一段が見えてくる。勝ち続けることでしか保てない自尊心は、ひとつ負けるたびに全部が崩れる。だから競争に幸福を預けた人は、勝っているあいだも休めない。

ねたみの章も鋭い。ラッセルは、ねたみを人間のもっとも厄介な感情のひとつとして扱う。自分が持っているものを数えるのではなく、隣の人が持っているものを数えてしまう。その癖がある限り、どれだけ手に入れても満たされない。自分の取り分が増えても、隣の取り分のほうが多ければ、人は不幸になれる。比較という物差しを手放さない限り、幸福はいつまでも他人の側にある。

退屈と興奮、という章も、いまの時代に近い。ラッセルは、刺激を求めすぎることの危うさを書いている。強い興奮に慣れた人間は、静かな時間に耐えられなくなる。次の刺激、また次の刺激と、量を増やし続けなければ満足できなくなる。だが幸福の多くは、退屈に見える地味な時間のなかにある。畑を耕すような、ゆっくりした繰り返しのなかにこそ、長く続く充実がある。刺激の強さで幸福を測る癖がつくと、その地味な時間が、ただの空白にしか見えなくなる。ラッセルは、退屈に耐える力を、幸福のための基礎体力のように扱った。退屈をこわがる子どもは、大人になっても落ち着かない、とまで書いている。

世評へのおびえ、という章もある。人にどう見られているか。その不安に縛られた人間は、自分の生き方を、他人の採点表に明け渡してしまう。隣人の目を気にして、好きでもない服を着て、行きたくもない場所へ行く。一九三〇年の隣人は、いまでは画面の向こうに何百人もいる。世評の数だけ、おびえの数も増えた。ラッセルが九十年以上前に書いた章は、いまの暮らしにこそ、いっそう深く食い込んでくる。

バイロン風の不幸という見栄

九つの章のなかで、一つだけ毛色がちがうのが二章めだ。バイロン風の不幸、という章だ。詩人バイロンの名を借りて、ラッセルはある種の不幸を名指しする。それは、不幸であることに酔っている状態のことだ。

世の中を見下し、人生に意味などないと嘯き、自分だけが真実を知っているという顔をする。そういう不幸には、見栄が混じっている。深く悩んでいる自分は、お気楽に笑っている連中より上等だ、という密かな自負だ。ラッセルは、この手の不幸を厳しく扱う。それは賢さの証ではなく、ただの怠けだと見ている。世界が無意味だと宣言してしまえば、何もしないことの言い訳になる。絶望は、しばしば努力からの逃げ場として使われる。

この指摘が嫌なところを突くのは、不幸を深さと取り違える癖が、誰のなかにもあるからだ。明るくふるまうことを浅いと感じ、暗く沈むことを深いと感じる。その美意識そのものを、ラッセルは疑う。本当に深いのは、世界を呪うことではなく、世界に関心を持ち続けることのほうだ、と。バイロン風の不幸は、外を向くのをやめて、自分の内側だけを見つめ続けた結果として生まれる。そしてここから、この本の中心にある一語に行き着く。

主語が、自分に偏りすぎている

ラッセルが不幸の根に置いたのは、self-absorption という状態だった。訳すなら、自分への没頭。自分自身に注意が吸い寄せられて、外のものが目に入らなくなっている状態のことだ。罪の意識も、被害妄想も、世評へのおびえも、根をたどればここに行き着く。考えていることの主語が、いつも自分になっている。

罪の意識にとらわれた人は、自分の過去ばかりを見ている。被害妄想にとらわれた人は、自分がどう害されるかばかりを考えている。世評を恐れる人は、自分が他人にどう映るかから離れられない。形はちがっても、注意の向きは同じだ。すべて内側を向いている。ラッセルは、不幸な人の共通点を、ここに見た。世界の広さに対して、自分のことを考える時間が、あまりに長すぎる。

この見立てが古びないのは、人間の作りがそう簡単に変わらないからだ。むしろ、自分を見つめる道具は増えた。一日に何度も自分の評判を確かめられる時代になって、注意は前よりもっと内側へ向きやすくなっている。今日の自分はどう見られたか。あの一言はどう受け取られたか。考える主語が自分に偏れば偏るほど、ラッセルの言う不幸の条件はそろっていく。診断は、書かれた当時より、いまのほうがよく当たるのかもしれない。

関心を、外へ

では、どうするのか。ラッセルの処方は、驚くほど単純だ。関心を、自分の外へ向け直す。それだけだ。

ラッセル自身が、自分の幸福の理由をこう書いている。自分が幸福になれたのは、何より、自分自身へのこだわりが少しずつ減っていったからだ、と。注意を、外の対象のほうへ、だんだんと移していった。星でも、歴史でも、川でも、他人の暮らしでもいい。自分の外側にある何かに、本気で関心を持つ。その関心の数だけ、人は幸福になる入り口を増やせる。

熱意の章に、それを言い切った一行がある。多くのものに関心を持つ人ほど、幸福になる機会が多く、運命に振り回されることが少ない。関心がひとつしかない人は、それを失えば全部を失う。だが関心が十あれば、ひとつ失ってもまだ九つ残る。関心を外へ広げることは、幸福の総量を増やすと同時に、不幸が来たときの被害を分散させる保険にもなる。ラッセルは、幸福を一点に賭けることの危うさを、そう説いた。

この処方には、感情を無理に明るくしろという要求がない。ポジティブに考えよう、という類の話ではないのだ。ただ、注意の向きを変える。自分から、外へ。視線の角度を、ほんの少し動かす。幸福を勝ち取るとは、性格を作り変えることではなく、注意という資源を、どこに置くかを選び直すことだった。それなら、生まれつき暗い人にもできる。実際、ラッセルがそうだった。

熱意(ゼスト)という一語

後半の鍵になる言葉が、ゼスト、熱意だ。ラッセルは、幸福な人を見分ける一番の手がかりを、このゼストに置く。食べることへの食欲のように、世界に対して食欲がある状態。目の前のものに、おいしそうだ、面白そうだ、と手を伸ばせる状態のことだ。

ゼストのある人は、料理を前にした健康な食欲のように、人生のあらゆる出来事に向かっていく。新しい仕事も、知らない土地も、初対面の人も、まず噛んでみる。逆にゼストを失った人は、どんなご馳走を並べられても箸が動かない。問題は皿の上ではなく、食欲のほうにある。幸福は、何が与えられるかではなく、それにどれだけ手を伸ばせるかで決まる。ラッセルはそう考えた。

ゼストという言葉を選んだところに、ラッセルの考え方がよく表れている。喜びでも快楽でもなく、食欲にたとえた。食欲は、教養でも才能でもない。生きものとしての、もっと素朴な機能だ。幸福を高尚な精神状態の上のほうに置くのではなく、腹がへって何かを食べたくなる、それくらい身近なところまで下ろしてくる。手の届くところに幸福があるからこそ、自分で勝ち取ることができる。

努力と、あきらめは両立する

後半の終わり近くに、努力とあきらめ、という章がある。一見、矛盾した二つの言葉が並んでいる。だがラッセルは、この二つを対立させない。むしろ、賢い幸福には両方が要ると説く。

変えられることには、努力を惜しまない。変えられないことには、潔くあきらめる。問題は、その線引きだ。あきらめるべきでないところであきらめれば、ただの怠けになる。努力すべきでないところで力めば、世界を相手に勝てない喧嘩を続けることになる。どこまでが自分の手の届く範囲で、どこからが手の届かない範囲か。それを見極める落ち着きが、幸福な人間には備わっている。ラッセルのあきらめは、投げやりではない。力の配分を間違えない、という意味での聡明さだ。

たとえば、過ぎたことを悔やみ続ける時間がある。済んでしまった失敗は、もう手の届かない範囲にある。そこに注ぎ込む後悔は、一銭の利息も生まない。ラッセルなら、そこはあきらめろと言うだろう。代わりに、その後悔に使っていた時間を、次にやれることのほうへ回せ、と。あきらめとは、過去への執着を手放して、力を未来の側へ振り向ける作業のことだ。何もしないことではなく、力の置き場所を変えること。前半で診断した不幸の原因の多くが、過去や他人という、手の届かない対象に力を注ぎ込む癖だったことを思えば、この章は本全体の結び目にあたる。

ここにも、関心を外へ向けるという中心が効いている。自分のことばかり考えている人は、変えられない自分の過去や、他人の評価に、無駄な努力を注ぎ込む。注意が外を向いている人は、自分の力が届く場所と届かない場所を、冷静に分けられる。あきらめと努力の線引きは、視線が自分から離れていて初めて、まともに引くことができる。

自殺の一歩手前にいた青年が書いた

この本がきれいごとに聞こえないのは、書いた人間が、もともと幸福とは縁遠い場所から出発しているからだ。ラッセルは、自分の若いころをこう振り返っている。青年期、人生を憎んでいて、つねに自殺の一歩手前にいた、と。

幼くして両親を亡くし、厳格な祖母のもとで育った。孤独で、内向きで、世界を呪う条件はそろっていた。バイロン風の不幸を、この人は誰よりよく知っていた。自分の内側だけを見つめて、世界に意味などないと結論する若者を、外から論じたのではない。自分がそうだったのだ。

そのうえで、ラッセルは続けてこう書く。いまは反対に、人生を楽しんでいる。一年ごとに、前の年よりもっと楽しんでいるとさえ言える、と。これは生まれつき明るい人間の台詞ではない。死を考えていた青年が、注意の向きを少しずつ外へ動かして、五十年かけてたどり着いた場所からの報告だ。幸福を勝ち取る、という大げさな言葉が、この一行で地に足をつける。征服は、比喩ではなかった。この人は実際に、自分の不幸を少しずつ攻め落として、違う場所までたどり着いた。

おわりに

『幸福論』は、慰めの本ではない。読めば気が楽になる、という種類の本でもない。むしろ、自分がいかに自分のことばかり考えて生きているか、その目盛りを突きつけてくる本だ。不幸の九つの原因を読みながら、いくつ自分に当てはまるかを数えてしまう。たいていの人は、数本の指では足りないだろう。

だが、バートランド・ラッセルの処方は、その全部に対して同じことしか言わない。関心を、外へ。料理に食欲を、世界にゼストを。変えられないことはあきらめ、変えられることには手を伸ばす。どれも、性格を作り変えろという要求ではない。注意という資源の、置き場所を変えるだけだ。生まれつき暗かった一人の数学者が、それで実際に、違う景色の見えるところまで来た。

原題のconquestを、もう一度思い出す。攻め落とす、という言葉の印象が、最後の章まで来ると変わっている。幸福は遠い城ではなく、注意の向きをひとつ変えるたびに、少しずつ手前に寄ってくる。自分のことを考える時間を少し削って、その分を外のどこかへ回す。ラッセルがこの本で渡そうとした武器は、結局のところ、その注意の向きの変え方だった。

本書 / 作品を手に取ってみる

※ 亀吉の呟きは Amazon アソシエイトに参加しています。 リンクから商品をご購入いただくと、 ブログ運営の支えになります。

あなたへのおすすめ
ABOUT ME
亀吉🐢
亀吉🐢
映画・本が好きな極めて一般的な20代
こんにちは。亀吉です。 仕事の合間にブログを書いています。 このブログは、どこまでも個人的で恣意的な思想の表明です。思うままに・・・ 映画と本が好きです。その他音楽や登山など。
記事URLをコピーしました