G-0C41NE8DJB 『ダンス・ダンス・ダンス』―それでも踊るしかないのか、という問いの重さについて|亀吉の呟き
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『ダンス・ダンス・ダンス』―それでも踊るしかないのか、という問いの重さについて

『ダンス・ダンス・ダンス』―それでも踊るしかないのか、という問いの重さについて
yoshiomi
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はじめに. 命令の底にあるもの——「踊り続けろ」の非情

ドルフィンホテルの場所に、かつて別のホテルがあった。

『羊をめぐる冒険』の中で「いるかホテル」と呼ばれた古い建物は、34歳のフリーライターが再び札幌を訪れたとき、すでにそこには存在しなかった。大理石のフロント、整然としたロビー、飾られた花——高級ホテルとして建て替えられた場所に、古い建物の気配だけが残っている。正確には、気配も残っていない。ただ暗闇の階だけが、前の建物の記憶を別の形で保存しているかのように、「僕」を待っていた。

「踊り続けろ」と羊男は告げる。

多くの読者がこの命令を「生きることへの肯定」として処理してきた。踊ることは動くことであり、動くことは生きることだという構図で。しかしこの言葉を受け取ったとき、どこかに居心地の悪さが残る。励ましに聞こえるはずの言葉が、なぜか命令として刺さる——その感覚は、読み終えてからも消えない。

「踊り続けろ」には、続けなければならないという強制がある。踊ることの喜びではなく、踊ることの義務が、その言葉の底に張りついている。「僕」はその命令に応じて動き続けるが、踊ることが好きだとは一度も言わない。ただ踊る。歯車として回り続けることと、踊り続けることの間に、どれほどの距離があるのかと考えると、その距離は思ったより短い。

1. 踊ることの義務——命令は救済ではなかった

「踊り続けろ」という言葉が、この小説の全体を貫いている。

羊男がその言葉を告げる場面は短い。長い説明も、根拠も、慰めもない。ただ「踊り続けろ」とある。「僕」はその言葉を受け取り、東京と札幌を往復しながら、仕事をこなし、人と会い、行方不明になった女性を探し続ける。その行動のすべてが「踊ること」として機能しているのだとすれば、踊ることとは何か特別な喜びを伴う行為ではなく、消耗しながら続けることだ。

「僕」の仕事はフリーライターである。依頼された原稿を書く。内容への情熱が語られることはほとんどない。打ち合わせをして、締切に合わせて何かを書く。1988年に書かれたこの小説の中で、「高度資本主義」という言葉を「僕」自身が口にする場面がある。その言葉は社会への告発としてではなく、自分がいる場所への冷めた認識として出てくる。踊ることは、その社会の歯車であり続けることと地続きの場所に置かれている。

ここで問いが生まれる。もし踊ることが義務であり消耗であるとするなら、なぜ踊り続けることが肯定されるのか。あるいは、肯定されているのか、そもそも。羊男の「踊り続けろ」は命令であって、「踊ることは素晴らしい」という保証ではない。踊り続けた先に何が待っているかは、語られない。踊ることに意味があるとも言われない。ただ、やめるな、と言われるだけである。

それは生存命令に近い。意味があるから続けるのではなく、続けることそのものが生きていることの証明になっているような構造だ。もし踊るのをやめたら何が起きるのかは、この小説の中では試されない。「僕」は踊ることをやめない。だから読者はその問いを、自分の中に持ち帰ることになる。やめたら、どうなるのか。

その問いへの答えを、村上春樹は渡さないまま先へ進む。命令が命令のまま機能し続け、それを受け取った「僕」が踊り続け、物語は閉じる。救済の言葉に聞こえる「踊り続けろ」の底に、救済でも肯定でもないものが張りついている——その非情さが、読後も頭の中に残り続けるのである。

2. 名前を持つ女、名前を持たなかった女——キキという空白

物語の最初から、キキはいない。

「僕」がドルフィンホテルに戻る理由のひとつは、かつてそこでキキという女性と過ごした記憶のためである。コールガールであったキキは、美しい耳を持つ女性として描写される。その耳の描写が繰り返されることで、読者の中にキキの像がゆっくりと作られていくのだが、彼女はすでに行方不明であり、「僕」は彼女の消息を追いながら、同時に追うことの意味を問い続ける。

ただし、キキという名前は、前作では存在しなかった。

『羊をめぐる冒険』の中で彼女は「彼女」だった。耳の美しいコールガールとして「僕」の隣にいたが、固有名詞は与えられなかった。名前のない存在として、前作は閉じた。本作で初めて「キキ」という名前が与えられ、しかしその瞬間にキキはすでに行方不明である——名前を得たときにはもう、探さなければならない存在になっていた。

前作で匿名のままだった人間が、続編で名前を持つ。その順序には、奇妙な重さがある。名前を持つことで、失われた存在の輪郭が初めて定まる。しかし輪郭が定まったのは、彼女がいなくなってからのことだ。「僕」がキキを探すとき、彼は名前を手がかりにして空白を追っている。

行方不明という状態は、死よりも処理が難しい。死であれば、少なくとも終わりという輪郭がある。しかし失踪は終わっているかどうかもわからない空白のまま続く。「僕」の中でキキが占める場所は、その空白のままだ。埋めることも、諦めることも、どちらも選ばれないままに、物語は進んでいく。それは選択の放棄ではなく、空白のままで動き続けることの、踊りのひとつの形である。

キキの不在が「僕」を動かすのだとすれば、その動機は愛情と呼べるものなのか、それとも空白を抱えたまま動かずにいられないことなのか、この小説はその区別をしない。「僕」自身も、おそらくその区別を必要としていない。ただキキのことを考え続けながら、踊り続ける。前作では名前さえなかった女性を探して、「僕」は動き続けるのである。

3. ユキの孤独——選ばされた側の話

「僕」の孤独は、自分で選んだ孤独に見える。

34歳で、恋人もなく、熱中できる仕事もなく、都市と都市の間を移動しながら生きている。その孤独には、少なくとも選択の余地があったのではないかと感じることができる。別の生き方もあったかもしれないが、「僕」はこの生き方を続けている。孤独であることへの鈍い慣れが、彼の語り口の底に流れている。

13歳のユキの孤独は、構造が違う。

母親のアメは仕事で不在がちな写真家であり、父親も側にいない。ユキは子どもとして、大人たちの都合の中に置かれている。彼女が孤独なのは、そう選んだからではない。大人たちがそれぞれの事情で動き続けた結果として、ユキはその場に残されているのである。

「僕」はユキと行動を共にするうちに、ある種の保護者的な役割を引き受けていく。しかしユキは保護されることを必ずしも望んでいるわけではなく、ただ誰かと同じ時間にいたいだけなのかもしれない。彼女が持つ超能力的な感受性は、大人たちが見えていないものを見る力として機能している。その鋭さは、置かれた環境が研いだものである。

「僕」とユキは、孤独という点では重なっているように見える。しかしその孤独の起源が根本的に異なることを、この小説は説明しない。ただ二人を並べて置く。その並び方の中に、不均衡がある。「僕」は踊ることを命じられた側だが、ユキはそもそも踊りの舞台に上げられることすら、自分では決めていないのである。命令以前の問題が、ユキの場所にはある。

4. 二つの死——役柄の内側と外側で

五反田くんは、「僕」の中学時代の同級生で、いまや映画スターである。

外見は華やかで、仕事はある。「僕」とは対極の場所にいるように見える人物だが、読んでいくと、その外側の豊かさの裏に深い虚無があることがわかってくる。彼は長い時間をかけて映画スターという社会的役柄を生きてきた人間であり、その役柄への適応が完璧であればあるほど、役柄の外側に「本当の自分」が残っていないという事態が進行していた。華やかな成功と内的な虚無の非対称——それが五反田くんという人物の輪郭を、静かに形作っていたのである。

「僕」への告白の場面で、五反田くんは言う。自分の中の何かが壊れている、破壊衝動を制御できなくなっている、キキに自分が何をしたのか自分でもわからない、と。その告白の言葉は、スターとしての役柄から完全に外れた場所から来ている。整った外面の下に、ずっとそこにあったものが、とうとう外に出てきたようでもある。しかし告白は解決に向かわない。言葉は宙に浮いたまま、五反田くんはその夜のうちに、芝浦の岸壁へと車を走らせる。

彼はマセラティを海に向けて走らせた。その選択を衝動と呼ぶか絶望と呼ぶかは、小説は決めない。ただ車が海に入ったという事実だけが、静かに置かれている。読者はそこで、五反田くんが長い時間をかけて積み上げてきたものの重さを、事後的に測ることになる。演じることでしか生きてこられなかった人間が、演じるべき対象も、演じることの意味も失ったとき、何が残るのか。五反田くんの場合、その問いへの答えは、芝浦の夜の海だった。

彼の死は「踊り続けろ」という命令の暗部を照らしている。踊り続けることが役柄を生き続けることと同義になってしまったとき、役柄が空洞化すれば踊り続けることも空洞化する。五反田くんは外から見れば、誰よりも豊かに踊り続けてきた人間だったはずである。しかしその踊りの内実が何だったのかは、本人にも最後まで明確ではなかった。持っているものの重さが、内側に向かって彼を引き続けていた。

ディック・ノースの死は、五反田くんの死とは構造が根本的に異なっている。

ディックは詩人で、ベトナム戦争で片腕を失った男であり、アメのアシスタントであり恋人でもあった。五反田くんのような華やかな役柄を持っていたわけではない。彼は静かに誰かの隣にいる人間として、この物語に存在していた。強く存在を主張しない人物だ。

彼は食料品の買い物の帰り道、トラックに轢かれて死んだ。予兆はなかった。意味もなかった。普通の昼間の、普通の帰り道の出来事だった。前日に何か特別なことがあったわけでも、彼が何かを予感していたわけでもない。ただ、ある日の午後に、ディック・ノースという人間は物語からいなくなった。残されたユキは「あの人は親切だったのに」と静かに言い、アメは淡々と次の助手を探した。ユキの言葉は短い。その短さの中に、失うことへの子どもなりの受け取り方が詰まっているように読める。アメの冷静さは、彼女という人物の輪郭を、別の角度から浮き彫りにするのである。

五反田くんが「役柄から降りられない人間の死」だとすれば、ディックは「役柄を持たなかった人間の死」として、この物語の中に置かれている。どちらも「踊り続けろ」という命題の外側に出てしまった人間だ。ただその出方があまりにも違う。五反田くんは長い蓄積の末に、告白という形で言葉を残し、それでも届かなかった。ディックは何も残さず、午後の光の中で消えた。意味のある絶望の末の死と、意味の付かない事故死——その対比は、踊り続けることがいかなる構造の上に成り立っているのかを、言葉なしに問いかけている。

踊ることをやめた者、踊ることを奪われた者。どちらの不在も、「僕」の中に何かを残していく。それは答えではなく、問いのさらに深いところにある何かである。この二つの死を経た後で、「僕」はそれでも踊り続けることを選ぶ。ユキとの関係を手放さず、ドルフィンホテルのフロントにいたユミヨシさんへと向かっていく。踊り続けることの意味が明確になったわけではない。ただ「僕」は、踊ることをやめなかった。その選択の重さは、二つの死の後でなければ、これほど重く読者に届かなかっただろう。

5. 踏みとどまること——「僕」が選んだ場所

二つの死を引き受けた後の「僕」の動きは、静かである。

派手な決意があるわけではない。何かを乗り越えたという高揚もない。ただ「僕」は、ユキを放置しないことを選び、ユミヨシさんとの距離を縮めることを選ぶ。その選択の地味さが、この小説における「踊り続けること」の実態を、最もよく示している。踊ることとは劇的な行為ではなく、ただ誰かの隣に留まり続けることだ。

ユキとの関係において、「僕」は何かを保護しているというよりも、ともに動き続けていると言った方が正確だろう。彼女は13歳であり、「僕」は34歳であるが、その年齢の非対称よりも、二人が同じ宙吊りの場所に立っているという共通性の方が、この物語では機能しているように見える。ユキは「僕」に何かを求めているのではなく、ただ側にいることを許している。「僕」もまた、何かを与えようとしているのではなく、ただ離れないことを選んでいる。

ユミヨシさんとの関係も、似たような質を持っている。ドルフィンホテルのフロントに立っていた彼女との距離が縮まっていく過程に、劇的な場面はない。眼鏡が似合う彼女は、どこか整然とした存在として登場するのだが、「僕」は彼女のそばにいることを選び続けることで、その整然さの裏に静かに流れているものへ、少しずつ近づいていく。深夜のフロントで一人立っているユミヨシさんの、大理石のカウンター越しに聞こえてくる落ち着いた声の質——その声が、五反田くんの告白の夜以来「僕」の中に空いたままだった何かに、そっと触れるのである。ドルフィンホテルという場所——かつて「いるかホテル」だった場所、建物は変わっても何かが続いている場所——のフロントに立ち続ける彼女は、役柄を持ちながら役柄に擦り切れないまま、「僕」の前に立っている。役柄を持ちすぎた人間が海に消えた後で、夜のカウンターをただ守るように立っているその背筋を、「僕」は見ている。その背筋の静けさに、この小説で最も体温のある瞬間がある。

しかしそれは安心できる結論ではない。「僕」が踏みとどまったことは確かだが、踏みとどまることに喜びがあったとは語られない。義務として踊り続けた人間が、踊り続けた結果として誰かの隣にいる——それは救済に見えるかもしれないし、別の種類の消耗に見えるかもしれない。この小説はその判断を読者に渡したまま、先に進まないのである。

1980年代のバブル期に書かれたこの小説が、今も読まれているとするなら、踊り続けることの義務感は時代を超えているのだろう。「高度資本主義」という言葉を「僕」が口にする場面は、告発でも嘆きでもなく、冷めた現状認識として出てくる。その冷めた認識は、時代を変えても有効であり続ける言葉の持ち方をしている。歯車として踊り続けることへのアイロニーを解消せず、それでも踊ることをやめない——「僕」のその姿勢が、いまこの文章にたどり着いた誰かの姿勢と、どこかで重なっているとしても、それを確かめる手段はない。

おわりに. 宙吊りのまま——踊り終えない話

「踊り続けろ」という言葉は、物語の最後まで宙に浮いたままである。「僕」はその命令に応え続けて、小説は閉じる。踊ることの意味が明かされることはなく、踊ることへの肯定も否定も、最後まで確定しない。

ユキはまだ13歳だ。「僕」は移動し続けるが、彼女はまだその年齢のままここにいる。踊り続けることを命じられてもいない彼女に、羊男は何も告げなかった。

五反田くんは海に消え、ディックは午後に消えた。どちらも踊ることの外側に出た人間として、物語の中に置かれている。そしてその二つの消え方があまりにも違うことが、踊り続けることとは何かという問いに、答えではなく深さを与えている。意味のある絶望と、意味の付かない事故——どちらにも抗うことなく踊り続けることを、羊男の命令は求めている。

かつて「いるかホテル」だった場所に建ったドルフィンホテルに、「僕」は戻ってきた。建物は変わり、キキはいなくなり、それでも暗闇の階だけが残っていた。場所が姿を変えても、そこに宿るものは別の形で続く。踊ることもまた、喜びや意味とは別のところで、ただ続いていく。

「踊り続けろ」は命令か、救済か。村上春樹はその問いへの答えを渡さないまま、「僕」を踊らせ続ける。

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