『方法序説』ルネ・デカルト — 「我思う、ゆえに我あり」は、到達点ではなく出発点だった
「我思う、ゆえに我あり」。
おそらく、世界でいちばん有名な哲学の言葉だろう。しかし、この一行がどんな本のどこに書かれ、何のために書かれたのかとなると、答えられる人は多くない。たいていの場合、この言葉は「自分の頭で考えることが大事だ」といった前向きな標語として受け取られている。デカルトという名前のほうも、「近代哲学の父」「合理主義」といったイメージが先に立ちやすい。何もかもを理屈で割り切る、どこか近寄りがたい人——そんな輪郭で記憶されていることが多い。
その肝心の一行が出てくる本が、『方法序説』だ。読んでみると、思っていたものと違う。難解で分厚い体系書ではない。文庫で百ページほどの、薄くて率直な本だ。しかも全編が「私は」という一人称で書かれている。「私はこういう学問を学び、こう迷い、こういうやり方にたどり着いた」と、一人の人間が自分の知的な来歴を語っていく。その語り口は、哲学の講義というより、長い手紙か、打ち明け話に近い。
けれど、この一行は勝ち誇った自信の宣言ではない。むしろ、あらゆるものを疑ったすえに、それでも最後まで手元に残ったのがこれだった、というだけの言葉だ。そこからもう一度、確かなものを積み直していくための出発点である。この記事では、その一行がどんな時代の、どんな状況のなかで書かれたのかを、本が生まれた背景までさかのぼって見ていきたい。
1. ガリレオが断罪された四年後に——ルネ・デカルトという人と、一六三七年
ルネ・デカルトは、一五九六年三月三十一日、フランス中部トゥーレーヌ地方のラ・エーという町に生まれた。法服貴族の家に育ち、イエズス会の学校で当時の最高水準の教育を受けている。のちに「近代哲学の父」と呼ばれることになる人だ。哲学だけでなく、数学や自然科学にも深く踏み込んだ。学校で習う座標——縦のy軸と横のx軸で平面上の位置を表す、あのグラフ——を「デカルト座標」と呼ぶのは、点の位置を数の組で表すこの方法を、デカルト自身が考え出したからだ。
若い頃のデカルトは、決して書斎にこもりきりの学者ではなかった。当代一流の教育を受けながら、そこで教わる学問の多くが、確かな土台を持たないことに早くから失望していた。二十代には学業をいったん離れ、軍隊に身を置いて各地を渡り歩いている。「世間という大きな書物」から学ぼうとした、と本人は書く。その遍歴のさなか、一六一九年の冬、ドイツに滞在していたデカルトは、暖炉のある一室にまる一日こもった。ばらばらに教わってきた学問を、どうすれば一つの確かな土台の上に建て直せるか。すべての知をつなぐ、たった一つの方法はないものか。その問いを、朝から晩まで一人で考えつづけたという。のちに自分の方法が芽生えた場所として振り返るのが、この小さな炉部屋だ。立派な学派の議論からではなく、一人きりで火のそばにこもった冬の一日から、近代哲学は動きはじめている。
そのデカルトが『方法序説』を世に出したのが、一六三七年。オランダのライデンという町だった。フランス人なのになぜオランダなのか。当時のオランダは、ヨーロッパのなかでは比較的、思想や出版の自由が認められていた土地だったからだ。デカルトは人生の後半の大半を、生まれ故郷ではなくオランダで過ごし、その地で思索を重ね、『方法序説』をはじめとする数々の著作を書き上げている。
一六三七年という年を理解するために、その四年前にさかのぼる必要がある。一六三三年、イタリアの科学者ガリレオ・ガリレイが、地動説を唱えたことで、ローマの宗教裁判にかけられ、有罪となった。教会の権威が、ひとりの科学者に「お前の考えは間違いだ」と公に突きつけた事件だ。
この知らせは、デカルトを直撃した。実はそのとき、デカルトは『世界論(ル・モンド)』という本を書き上げる途中だった。光や宇宙のしくみを論じたその本には、地動説の考えも含まれていた。ガリレオの有罪を知ったデカルトは、その『世界論』の刊行を取りやめている。書きかけの本を、自分で引き出しにしまった。そして数年後、より穏当なかたちで自分の方法と考えを世に出した。それが、一六三七年の『方法序説』だった。
つまりこの本は、何の制約もない自由な空気のなかで書かれたものではない。考えを口にすることが罰せられうる時代に、どうすれば真理を探究し続けられるか、という問いの真ん中で書かれている。
2. ラテン語ではなく、フランス語で。しかも、匿名で
『方法序説』には、当時としてはかなり変わった点が二つある。
一つは、書かれた言葉だ。この時代、まじめな学問の本はラテン語で書くのが当たり前だった。ラテン語は、国を越えて学者たちが共有する、いわば知識人の専門言語だ。ところがデカルトは、『方法序説』をフランス語で書いた。学者だけが読み書きするラテン語ではなく、市場でも家庭でも交わされる、自分の母語のほうを選んだのだ。
これは、ただの好みの問題ではない。デカルト自身が本のなかで、その理由にあたることを書いている。生まれつきの理性だけで判断する人のほうが、古い書物の権威を信じこんでいる学者よりも、自分の考えを正しく受けとってくれるはずだ、と。学者の世界だけで通じる言葉ではなく、自分の頭で考える力を持った人すべてに向けて書く。フランス語を選んだこと自体に、デカルトが誰に向かって語ろうとしていたかが表れている。
もう一つは、最初は著者名を伏せて、匿名で出されたことだ。表紙にデカルトの名前はなかった。ガリレオの一件のあとである。自分の名前を前面に出して、教会や大学の権威と正面から衝突することを、デカルトは避けた。慎重だった、と言ってもいい。怯えていた、と言ってもいい。「近代哲学の父」という勇ましい呼び名の裏側には、権威の顔色をうかがいながら、それでも書くことをやめなかった一人の人間がいる。
だからこの本の手前には、いくつもの「私は」が並ぶことになる。私はこう学んだ、私はここで迷った、私はこの方法を見つけた。一人称で書くというのは、責任の所在を自分一人に引き受けるということでもある。誰かの権威を借りて「これが正しい」と言うのではなく、「私はこう考えた」とだけ言う。本のかたちそのものが、デカルトのやろうとしたことと重なっている。
3. すべてを疑う——方法的懐疑と、暗闇に残った一点
では、デカルトは何をしようとしたのか。
彼が掲げたのは、確実なものを一つでも見つけたい、という願いだった。世の中には、いかにももっともらしい意見があふれている。学校で習ったこと、本に書いてあること、みんなが信じていること。けれど、そのどれが本当に正しいのか。一見正しそうに見えて、実はあやふやな土台の上に建っているものも多い。
そこでデカルトは、思いきった方法をとる。少しでも疑える余地のあるものは、いったん全部、偽だとみなして脇にどける。これを「方法的懐疑」と呼ぶ。
感覚はどうか。目や耳はときどき私たちをだます。遠くの塔が丸く見えて、近づくと四角いことがある。だから感覚は確実ではない。では数学はどうか。2+3=5、これは確実に思える。けれど人は、これほど簡単な計算ですら、ときに考えを取り違える。自分では正しく筋道を追っているつもりで、思い違いをしていることがある。だとすれば、数学の証明もまた、疑おうと思えば疑える。さらに、今こうして見ているこの世界も、夢かもしれない。眠っているあいだは、それが夢だと気づけない。
こうして疑えるものを次々に切り捨てていくと、足元がどんどん崩れていく。何一つ確かなものがない、まっくらな場所に追いつめられる。
ところが、その暗闇のいちばん底に、疑いようのないものが一つだけ残る。こうしてすべてを疑っている、その「疑っている私」だ。世界が夢だとしても、数学が疑わしいとしても、いま疑い、考えているこの私がいなければ、疑うことすらできない。すべてを偽だと考えようとしたそのときにも、考えている自分がここにいることだけは疑えなかった。
これが、「我思う、ゆえに我あり」だ。考えている、だから、私はいる。疑いを最後まで押し進めた先で、ようやく見つかった確かなものだった。
4. その言葉は、到達点ではなく出発点だった
ここで、よく誤解される点を一つ、ていねいに見ておきたい。
「我思う、ゆえに我あり」は、しばしば、ラテン語の「コギト・エルゴ・スム」というかたちで知られている。ところが、一六三七年の『方法序説』に書かれているのは、ラテン語ではなく、フランス語の「ジュ・パンス・ドンク・ジュ・スイ(Je pense, donc je suis)」のほうだ。本の第四部にある。有名なラテン語の「コギト・エルゴ・スム」が文章として定着するのは、その後の別の著作——一六四四年の『哲学原理』——においてだ。
細かい話のようだが、この順番は意味を持っている。デカルトはまず、学者語のラテン語ではなく、母語のフランス語で「私は考える、ゆえに私は在る」と書いた。専門用語の標語としてではなく、自分の言葉として、一人称で書いた。よく知られた学術用語が先にあったのではない。一人の人間が母語で書きつけた一行が先にあって、それがのちに、世界中で引用される命題になっていった。
そして、もう一つ大事なのは、この一行が本の結論ではないということだ。第四部は、全六部のまだ途中だ。デカルトはこの「考えている私」という一点を土台にして、そこから先へ進んでいく。揺るがない地面を一つ見つけたから、その上に少しずつ、確かだと言えるものを積み直していく。
土台が一つ定まると、デカルトはそこから先を建てはじめる。考えている私がいる、と確かめたうえで、その私のなかにある観念をたよりに神の存在を論じ、さらに、はっきりと疑いなく捉えられたことは信じてよい、という土台を据えていく。第四部は、その建て直しの、最初のひと区切りにすぎない。だから「我思う、ゆえに我あり」という一行だけを切り取って満足してしまうと、いちばん面白い建て直しの場面を見落とすことになる。
だから「我思う、ゆえに我あり」は、ゴールではない。すべてを疑って何もかも崩れ落ちた場所で、それでも崩れなかった一点。デカルトはそこに立って、もう一度考えを組み立てはじめる。その最初の一点が、「考えている私」だった。
5. 疑いながら、それでも生きていく——暫定の道徳
ここで一つ、見落とされがちな、しかしデカルトの人間味がよく出た話を挟んでおきたい。
すべてを疑う、と言っても、暮らしのほうは待ってくれない。考えを根っこから建て直しているあいだも、人は毎日を生き、人と会い、その日その日の判断をしなければならない。家の土台を全部はがして調べているあいだ、雨ざらしで寝るわけにはいかない。デカルト自身、それをよくわかっていた。だから彼は、思考を組み立て直すこの期間のために、「暫定の道徳」と呼ぶ当座の生き方の決まりを、いくつか自分に課している。
一つめは、自分の国の法律や慣習に従い、極端に走らず、穏当な意見に沿って生きること。二つめは、いったんこうと決めたら、ぐらつかず、できるだけ断固として行動すること。森のなかで道に迷った人は、あれこれ迷って同じ場所をめぐるより、一つの方角を決めてまっすぐ歩き続けたほうがいい——デカルトはそんな喩えを添えている。三つめは、世界の順序を変えようとするより、自分の欲望のほうを変えるようにつとめること。手に入らないものを嘆くより、自分の望みを、手の届く範囲に整えなおす。
ここを読むと、デカルトが、机の上で理屈をこねるだけの人ではなかったと気づく。むしろ慎重で、地に足がついている。頭のなかではすべてを疑う過激さを引き受けながら、日々の暮らしのほうは壊さず、当座の住まいとして守っておく。考えを根本から問い直す作業と、その日を生きていく営みとを、彼はきちんと分けていた。徹底して疑う人であると同時に、堅実に暮らしを立てる人でもあった。
6. 良識は、誰にでも等しく配られている
ここまで読むと、デカルトという人が、ずいぶん過激なことをやっているのがわかる。世界も、感覚も、数学も、一度すべて疑う。ふつうなら、そんなことをすれば足元が崩れて、何も信じられないシニカルな人間になりそうなものだ。
ところが、『方法序説』が出発点に選んだのは、その正反対の、人間への信頼だった。
本はこう書き出される。「良識は、この世でもっとも公平に配分されているものである」。良識——ものごとを正しく判断し、本当と嘘を見分ける力、つまり理性のことだ。それは、ごく一部の天才だけが持っているものではない。誰にでも、等しく与えられている。デカルトはそう考えた。実際、人は誰でも自分は十分に良識を持っていると思っている、とも書いている。この一言には、どこかおかしみがある。
ここにデカルトの賭けがある。正しく考える力は、もともと誰のなかにもある。足りないのは、その力をどう使うか、という方法のほうだ。だからこそ彼は、難しい専門知識ではなく、誰でも使える「考え方の手順」を示そうとした。本のなかで挙げられる方法の規則は、たとえばこうだ。明らかに正しいと確かめられたものだけを受け入れる。難しい問題は、できるだけ小さく分けて、一つずつ片づける。単純なものから複雑なものへ、順を追って進む。見落としがないか、最後にもう一度全体を振りかえる。
どれも、特別な才能を必要としない。むしろ、誰でも実行できることばかりだ。すべてを疑うというあの過激さは、人間を信じていないから出てきたのではない。一人ひとりが自分の理性をきちんと使えば、権威に頼らなくても真理にたどり着ける——その信頼があったからこそ、デカルトは古い権威を一度すべて疑いにかけることができた。徹底して疑うことと、人間の理性を信じること。この二つは矛盾しない。同じ確信の、表と裏なのだ。
おわりに
「我思う、ゆえに我あり」という言葉だけを取り出すと、それは賢い人の決め台詞のように響く。けれど、その一行がどんな時代の、どんな状況のなかで書かれたのかを知ると、見えてくるものが変わる。
ガリレオが断罪された時代に、自分の本を引き出しにしまいながらも、考えることをやめなかった人がいた。学者だけに通じるラテン語ではなく、誰でも読める母語のフランス語を選び、自分の名前を伏せたまま、「私はこう考えてきた」と一人称で書きはじめた。すべてを疑い尽くしたすえに最後まで残った「考えている私」、そこを出発点にして、一歩ずつ前へ進もうとした。
四百年近く前に、ルネ・デカルトがオランダの一室でフランス語の「私は(ジュ)」と書きつけたとき、近代の哲学はそこから歩きはじめた。何を信じていいか分からなくなったとき、一度すべてを疑ってみて、それでも残るものから始める。その地味で、しぶとい手つきを、デカルトは一冊の薄い本に残した。あの名言の続きにあったのは、こんなにも地に足のついた話だった。
