『エセー』モンテーニュ — 私は何を知っているのだろう、その自問自答の先にあるもの
「エッセイ」という言葉を、私たちは当たり前のように使っている。SNSに短い意見を投げるときも、ブログに感想を綴るときも、それはエッセイと呼ばれる。けれど、その言葉が一冊の本から生まれたことを知っている人は、そう多くない。十六世紀のフランスに、ミシェル・ド・モンテーニュという人がいた。彼が自分の書いたものに付けた名前が、Essais——「エセー」だった。
essai は、フランス語で「試み」「こころみ」を意味する。試験の「試」であり、まだ答えの出ていないものに手をつけてみる、という語だ。モンテーニュはこの言葉を、書物のタイトルに据えた。証明された知識でもなく、自信に満ちた主張でもなく、ただ「試してみたこと」の記録として。そして本のあちこちに、天秤のかたちと一緒に、こう刻ませた。「Que sais-je?」——私は何を知っているか。
断定が強さとされる時代に、私たちは生きている。言い切れる人が信頼され、迷いは弱さと見なされる。そんな今だからこそ、四百年以上前に「私は何を知っているか」と問い続けた彼の本を、読み返してみたい。
1. 「エセー」は「試み」だった——ジャンルの名が生まれた場所
モンテーニュがこの本を書き始めたのは、一五七〇年代のことだ。それまで書物といえば、神学であれ法学であれ、体系立てて何かを証明するものだった。まず命題があり、権威ある古人の言葉で裏づけ、反論を退け、結論へと導く。大学で教えられる学問も、その多くは既にある知識を整理し、記憶し、正しく受け渡すためのものだった。結論があり、論証があり、読者はそれを受け取る。知識は上から下へ流れるものだった。
モンテーニュがやったのは、その逆だった。彼は結論を配らなかった。あるテーマについて考え始め、途中で脱線し、古代の逸話を引き、自分の体験を挟み、そしてしばしば、はっきりした答えにたどり着かないまま章を閉じた。脱線は、彼にとって欠点ではなく方法だった。まっすぐに結論へ進むのではなく、思考が自然に枝分かれしていくのにまかせる。「試みる」とは、そういうことだった。うまくいくかどうかわからないまま、とにかく手をつけてみる。書きながら考え、考えながら迷う。その迷いの跡を、消さずに残す。
だから『エセー』には、教科書のような明快さがない。かわりに、一人の人間が何かを考えているその現場が、そのまま写し取られている。読者は答えを手渡されるのではなく、著者が考えていく道のりに立ち会うことになる。この書き方に名前がなかったので、彼は自分でつけた。それが「エセー」だった。のちに英語で essay となり、世界中に広がって、いま私たちが使う「エッセイ」になった。私たちが気軽に「エッセイを書く」と言うとき、そのはるか源に、自分に向き合い続けた一人の男がいる。
2. 私自身がこの書物の題材である——自分を測る本
『エセー』の冒頭には、「読者へ」と題された短い前置きがある。そこでモンテーニュはこう断っている。この本には、他人の役に立とうとか、名声を得ようとかいう狙いはない。飾らず、気取らず、ありのままの自分を描いただけだ。そのあとに、有名な一行が続く。「私自身がこの書物の題材である」。
これは、当時としては奇妙な宣言だった。歴史でもなく、神学でもなく、偉人の伝記でもなく、自分。しかも英雄的な自分ではない。忘れっぽく、気が変わりやすく、体の不調に悩まされる、ごく普通の中年男としての自分。書物とは立派な人物や偉大な出来事を書きとめるものだ、という当時の常識からすれば、こんな平凡な一人の男を丸ごと題材にすることには、何の意味もないように見えたはずだ。それでもモンテーニュは、その等身大の自分を観察の対象に選んだ。
なぜ自分なのか。彼にとって、いちばん近くにあって、いちばんよく観察できるのが自分だったからだ。遠い理想や壮大な真理を論じる前に、まず手元にある一つの標本、つまり自分という人間を、丹念に測ってみる。今日の自分と昨日の自分は違う。同じ本を読んでも、機嫌によって受け取り方が変わる。朝に正しいと思ったことを、夜には疑っている。人はこんなにも移ろいやすい。その移ろいを、欠点として隠すのではなく、そのまま書きとめる。人間とはこういうものだ、という大きな結論のためではなく、こういう人間がここにいた、という一つの事実のために。彼は自分という小さな窓から、人間そのものを覗こうとした。
3. 失われた親友——彼が書き始める前に経験したこと
モンテーニュがなぜこれほど「自分」を書くことに向かったのか。その背景には、一人の友の死がある。若き日のモンテーニュには、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシという無二の親友がいた。二人は考えを隠さず語り合い、互いの魂がそのまま溶け合うような間柄だったという。ところがラ・ボエシは、まだ三十歳を少し過ぎたばかりで病に倒れ、あっけなくこの世を去ってしまう。死の床で、彼は自分の蔵書をモンテーニュに遺していった。
のちにモンテーニュは、「友情について」という章で、この友との結びつきを書いている。なぜそれほど深く愛し合えたのかと問われて、彼はこう答えるほかなかった。「彼が彼であり、私が私であったから」。理由を並べることもできない、ただそうであったから、としか言いようのない結びつき。その相手を、彼は失った。
語り合う相手のいなくなった沈黙のなかで、モンテーニュは紙に向かった。かつては親友に打ち明けていた思考を、今度は紙の上に注いでいく。『エセー』の、あの絶え間ない自問——自分は本当にそう思っているのか、それは確かなのか——は、失われた対話の相手を、書くことのなかに探し続けた跡なのかもしれない。一人になった人間が、それでも誰かと語り合うことをやめないための、一つのかたちだったのだ。
4. 塔の書斎で書き足されていく過程の中で
一五七一年、三十八歳のモンテーニュは公職を退いた。ボルドー高等法院の法官という地位を離れ、故郷の城に戻る。そして城の塔の一室に、書斎をつくった。円い部屋の壁を千冊近い蔵書が囲み、天井の梁には、彼の好きな古典の格言が刻まれていた。ギリシア・ローマの詩人や、古代の懐疑派の哲学者たちの言葉。断定を戒め、判断を保留せよ、と説くような一節が頭上にあり、それを見上げながら、彼は書いた。
『エセー』は、一度書いて終わる本ではなかった。一五八〇年に第一巻・第二巻、あわせて百七の章が初版として世に出る。その後も彼は書き続け、一五八八年には第三巻を加えた増補版を出した。さらに彼の死後、一五九五年には、最晩年までの加筆を反映した版が刊行された。研究者はこの積み重なりを、A・B・Cという記号で区別する。Aは初版まで、Bは一五八八年の追加、Cは最晩年の書き込み。同じ一つの文章のなかに、二十代の言葉と、五十代の言葉と、死の間際の言葉とが、折り重なって沈んでいることがある。
面白いのは、モンテーニュが古い文章を削らなかったことだ。若い頃に書いた一節の隣に、十年後の考えを書き足す。矛盾していてもかまわない。昔はこう思っていたが、今はこう思う——その両方を、同じページに並べたまま残す。前に書いた一文を打ち消すのではなく、その上にもう一つの声を重ねていく。だからどちらが本当の彼なのか、とは問えない。どちらも本当なのだ。人はひとつの意見に凝り固まっていくのではなく、生きている過程の中で考えを入れ替えていく。ふつう私たちは、考えが変われば古いほうを消したくなる。過去の自分の誤りを、なかったことにしたくなる。モンテーニュは、それをしなかった。だから『エセー』を読むと、一人の人間が年をとっていく時間そのものが、地層のように重なって見える。考えが変わることを恥じず、変わった跡をそのまま見せる。そうしてこの本は積み上げられていった。
5. 私は何を知っているのだろう——断定を避けるということ
『エセー』のなかでいちばん長い章は、第二巻に置かれた「レイモン・スボンの弁護」だ。ここでモンテーニュの懐疑は、もっとも深いところまで降りていく。人間の理性は、そんなに信頼できるものだろうか。私たちは五感を通して世界を知るが、その五感はしばしば私たちを欺く。ある人には美しく見えるものが、別の人には醜く見える。ある時代に正しいとされたことが、次の時代には誤りとされる。それなら、私たちが「知っている」と思い込んでいるものは、いったいどれほど確かなのか。
この問いから、あのモットーが生まれる。「私は何を知っているか」。注意したいのは、これが疑問形だということだ。「私は何も知らない」という断定ではない。それではもう一つの言い切りになってしまう。モンテーニュは、断定を避ける姿勢そのものを、断定にしなかった。知らない、と言い切る手前で立ち止まり、問いのかたちのまま留めておく。天秤の意匠は、その釣り合いをあらわしている。どちらにも傾け切らない。
この慎重さには、時代の背景があった。モンテーニュが生きたフランスは、カトリックとプロテスタントが血を流し合う宗教戦争のただ中にあった。人々は、自分こそが正しいと信じ、その確信のために殺し合った。断定が、そのまま暴力に直結する時代。そのなかで彼は、別の章「カニバル(食人種)について」で、新大陸の「野蛮人」と呼ばれる人々を取り上げた。彼らは捕虜を殺して食べるという。残酷きわまりない風習に見える。けれどモンテーニュは、そこで話を止めない。当時のヨーロッパでは、まだ生きている人間を宗教の名のもとに拷問にかけ、火あぶりにしていた。死んだ者を食べるのと、生きた者を苦しめ抜くのと、どちらがより野蛮なのか。彼らの暮らしを鏡にして、文明を誇るヨーロッパ人の残酷さを照らし返す。何が野蛮で、何が文明か。それすら、立つ場所によって裏返る。自分の物差しを、世界で唯一の物差しだと思い込むこと——それこそが、彼のもっとも警戒したものだった。
この姿勢は、子供の教育をめぐる章にも及んでいる。モンテーニュは、知識を頭に詰め込むだけの学び方を嫌った。大事なのは、たくさん覚えていることではなく、自分で考え、自分で判断できること。よく詰め込まれた頭よりも、よくできた頭を、と彼は言う。教わったことをそのまま鵜呑みにするのではなく、いちど噛み砕き、自分の中で消化してから使う。答えを暗記させるのではなく、問いの立て方を身につけさせること。ここでも彼は、簡単に言い切らない構えを、そのまま子供へ手渡そうとしていた。
6. 経験について——年をとった体で、今を生きる
第三巻に「経験について」という章がある。晩年のモンテーニュがたどり着いた場所が、ここによくあらわれている。若い頃の彼は、「哲学することは死に方を学ぶことだ」と、古代の教えにならって書いていた。人生とは、いかによく死ぬかの準備なのだと考えていた。けれど年を重ね、実際に体の衰えや病を抱えるようになると、彼の重心は少しずつ移っていく。
学者の理屈よりも、自分の体が教えてくれる経験のほうを、彼は信じるようになった。眠れないなら眠れないなりに、食が細るなら細るなりに、老いていく体とつきあう。石の病に苦しみ、激しい発作に何度も襲われながら、それでも彼は、痛みを消し去る理想論よりも、痛みとともにある一日のほうを見つめた。死をどう迎えるかに気を取られるより、今日という一日を、痛みも含めてまるごと生きるほうへ。壮大な理想を掲げてそこへ向かうのではなく、平凡な毎日を、平凡なままていねいに過ごすこと。彼は、自分がどんなふうに眠り、何を食べ、どう体調を崩すかまで、細かく書きとめている。そんな些細なことを、と笑う人もいるだろう。けれど彼にとって、確かなものが何もないこの世界で、唯一よりどころにできたのが、自分のこの身に起きる経験だった。
ここには、どこか安心させるものがある。答えにたどり着けなくてもいい。確かなことなど何もなくても、私たちは今日を生きていける。むしろ、何もかも知り尽くしたつもりでいるより、知らないことを知らないまま抱えて、目の前の生活を大事にするほうが、人間には向いているのかもしれない。あれほど懐疑を突きつめた人が、最後にたどり着いたのが、この穏やかな肯定だった。モンテーニュは、そのことを、老いた自分の体で確かめていった。
おわりに
モンテーニュは、自分のためにメダルを一つ作らせている。片面には、釣り合った天秤。そしてもう片面に、あの言葉。「Que sais-je?」——私は何を知っているか。
彼はそこに、答えを刻むこともできたはずだ。長い人生をかけて考え抜いた末の、一つの結論を。けれど彼が最後まで手放さなかったのは、結論ではなく、問いのかたちだった。知っていると言い切ることも、何も知らないと言い切ることも避けて、ただ問いを問いのまま、天秤のように釣り合わせておいた。
そして本のほうも、削られることなく、書き足され続けた。昨日の考えの隣に今日の考えを並べ、矛盾を矛盾のまま残して、一人の人間の移ろいを地層にしていった。もし彼が何か一つだけ確信していたことがあるとすれば、それは「私は何を知っているか」という、その問いそのものだったのだろう。断定しないまま考え続けることの静かな強さを、モンテーニュは四百年後の私たちに、いまも差し出している。
