『アフターダーク』―カメラが夜を見ていた、その隣に
深夜のファミリーレストランで、若い女がひとり本を読んでいる。
語り手は上空にいる。ビルの窓を探し、明かりの残る部屋を見つけ、そこへゆっくりと降りていく。それが『アフターダーク』の始まり方である。読者は物語の内側に招かれるのではなく、カメラとともに外側から降下することになる。村上春樹はここで、語り手として人間を選ばなかった。
「私たち」という複数形の意識が、映像機材のように夜の東京を漂う。感情を持たず、内面を推測せず、見えるものだけを見えているままに映す装置として、物語は動き始める。カメラという語り手は、知らないことを恥じない。知っていることを偽らない。ただそこにある夜を、そのままの質感で記録し続けるのである。
この小説に登場する人物たちは、それぞれ何かを抱えて夜の中にいる。眠れない女、働く女、逃げてきた男、消えていく男。彼らの内側をカメラは掘らない。表情と言葉と動作だけを記録して、次の場面へ移る。語られなかった部分が、語られた部分と同じ密度で画面の外に広がっているような構造を、この小説は持っているのだろう。
夜明けが来ても、何かが解消されるわけではない。カメラは朝になると静かに上昇し、また夜の東京を遠景に収める。残るのは、一夜分の記録のみである。
1. 夜の鳥の目——カメラが持つ、 知らないことの誠実さ
小説は、 こう始まる。 「目にしているのは都市の姿だ。 空を高く飛ぶ夜の鳥の目を通して、 私たちはその光景を上空からとらえている」。 「目撃」 ではなく「目にしている」。 「物語」 でもなく「都市の姿」。 夜の鳥の目という比喩で、 視点の高さがまず提示される。 体験でも追体験でもなく、 高い場所からの観察。 読者はこの最初の一文で、 物語の内側に招き入れられるのではなく、 都市の上空に置かれることになる。
カメラという語り手が手放しているものがある。 感情の説明、 だ。 カメラは対象の内面を語らない。 語ることもできない。 マリが今何を考えているのか、 なぜ朝まで帰らないつもりなのか——カメラはそれを知らないし、 知ることもできない。 見えるものだけを、 見えているままに映す。 この「知らない」 という姿勢に、 奇妙な誠実さが宿っているのかもしれない。 知っているふりをしないこと。 内面を代弁しないこと。 その人がそこにいる、 という事実だけを、 静かに確保することである。
普通、 物語は登場人物の内側へと踏み込もうとするものだ。 なぜそこにいるのか、 何を感じているのか、 この出来事は彼女にとって何を意味するのか——そういう問いへの答えを、 物語は用意しようとするものである。 村上春樹は『アフターダーク』 において、 その誘惑にできるだけ応じない。 カメラにはそういう踏み込みができないという制約があり、 その制約がむしろ自由になっているのだろう。 知らないから、 あれこれ理由を語らずに済む。 語らないから、 読んでいる側の想像が入り込める余地が生まれるのである。
俯瞰の視点には、 高さの意図がある。 ビルの上空から見下ろすとき、 人物の顔はまだはっきり見えない。 それでも確かに、 そこに人がいるという確認はできる。 「ねえ、 見てごらん。 あの窓際に、 若い女が一人いる」——カメラがマリへと視線を降ろしていく動きが、 読んでいる側にも同時に起きることになる。 俯瞰は、 感情移入を少し遠ざける。 外から始まるから、 近づくという運動が成立するのである。
読んでいる私たちは、 このカメラの視線を通して夜を見ながら、 気づけば夜に見られている側になっているのかもしれない。 カメラが向いているのは画面の向こう側だが、 同時にこちら側にも目が向いているかもしれない——そういう気配が、 ふとした拍子に訪れることになる。 怖いというより、 どこか確認されているような。 夜の深い場所で、 自分の存在が静かに記録されているような——その感覚が、 この小説の読書時間を形作っているのだろう。
2. 眠るエリと眠らないマリ——姉妹のあいだにある、名前のつかない距離
エリは眠っている。
病のような眠りの中に、エリは沈んでいる。鏡の前に椅子が置かれた部屋、暗く光るテレビの画面——その部屋のイメージは、現実の部屋というよりも、意識の底の暗い部屋のようでもある。語られることの少ない姉の不在が、この小説の通奏低音として流れているのだろう。エリは眠り、マリは眠らない。同じ夜の中に、姉妹は全く異なる形で存在しているのである。
マリはファミリーレストランで本を読んでいる。朝まで帰らないつもりで、ただそこにいる。なぜそこにいるのか、という問いへの答えが、はっきり語られることはない。家が嫌いというわけでも、誰かを待っているわけでもない。理由のない夜の外出を、村上春樹は粗末にしない。きちんと存在するものとして、夜の中に置くのである。その置き方に、眠れないわけではないけれど眠りたくもない夜に似た質感があるのかもしれない。
眠るということと、眠らないということ。この対比に、何かが含まれているのだろう。眠るのは、意識を手放すことだ。夜に引き渡すことである。エリはもっと深い場所で、何かに引き渡されてしまっている。テレビ画面の向こう側に引き込まれたようにして、彼女は夜の中に沈んでいる。それは選択の結果というより、何かに選ばれた結果のように見える。一方でマリは、眠ることを保留にして外に出ている。夜の中にいながら、夜に引き渡されていない。この差異が、姉妹の関係そのものを映しているように見えるのだが、どう映しているのかは言い切れないのである。
マリがエリを愛しているのかどうか、この小説ははっきり語らない。姉妹の関係は複雑で、嫉妬と依存と愛情がないまぜになって、輪郭が曖昧になっている。マリはエリのことを話すとき、感情をつとめて脇に置くような話し方をする。その抑制が、抑制であることに気づくのだろう。言わないことが、言っていることより重くなる——そういう質感が、この姉妹の描写には宿っているのかもしれない。抑制の奥に何があるのかを、カメラは映せない。ただ、抑制している声の質を、そのまま記録するのみである。
眠るエリと眠らないマリ。その断絶は埋まらないまま、朝を迎える。でも断絶なのかどうかも、読み終えた後では確信が持てなくなっているのかもしれない。距離があることと、断絶していることは、別のことだろう。遠く離れていても、同じ夜の中に存在していることが、何かの形の共鳴であるのかもしれない。カメラは判断せずに引いていく。その引き方が、答えを準備していないことの誠実さとして、静かに残るのである。
3. 高橋と深夜のスタジオ——法学科の青年と、 二つの曲
高橋は、 スタジオに残っている。
深夜のジャズセッション。 トロンボーンを抱えて、 仲間たちと音を出している。 ただし高橋は音大生ではない。 法学科の大学生で、 司法試験に専念するためにこのバンドをやめようとしている時期にある。 高橋の動作は、 「音楽に賭ける若者」 の動作ではない。 もうすぐ手放そうとしているものを、 最後にもう一晩だけ鳴らしている、 という方向の動作である。 マリに声をかけるのは、 夜の引力に従った接続のようにして起きる。 夜に起きていることは、 だいたいそういう感じで繋がるものだという質感が、 この出会いにはあるのだろう。 ただし高橋は、 マリの姉エリの元同級生であり、 まるで初対面の他人というわけでもない。
この小説の題名は「アフターダーク」 ——カーティス・フラーが 1959 年に録音した「Five Spot After Dark」 という曲名から取られている。 ただし、 高橋がバンド練習で実際に長いトロンボーン・ソロを吹いているのは、 ソニー・ロリンズ作曲の「ソニームーン・フォア・トゥー」 だ。 「Five Spot After Dark」 は別の場所で、 別の意味で鳴っている。 中学生のとき初めてこの曲を聴いて、 「両方の目からうろこがぼろぼろ落ちるような気がした」 と高橋は語る。 自分を音楽に向かわせた原体験の曲、 という位置にこの曲は置かれている。
題名のもとになっている曲と、 今夜のスタジオで実際に鳴らしている曲が、 別の曲である。 この二重構造は、 小説のタイトルの選び方として奇妙な精度を持っているのかもしれない。 自分を音楽に呼び寄せた曲があり、 今夜まだ鳴らしている曲があり、 そして音楽から離れて司法試験に進もうとしている自分がいる。 三つのことが、 同じ青年のなかで同時に起きている。 「アフターダーク」 (闇の後で) という題名は、 高橋の音楽との関係そのものの輪郭として機能しているように見える。 音楽の夜が、 もうじき終わろうとしている。
トロンボーンという楽器の選択にも、 ずっと気になる質感がある。 ギターでもピアノでもなく、 管楽器の中でも少し異質な、 あの重低音の響き。 演奏者の息が直接音になる楽器で、 体の内側が音として出てくる。 高橋がやめようとしているのが、 その楽器だということ——体の内側を音にする楽器を手放すという動作は、 何かを内側に閉じ込めようとする動作と区別しがたい。 その判断を抱えて、 高橋は深夜のファミリーレストランでマリに声をかける。
高橋とマリの会話は、 初対面の距離にしては踏み込んでいるように見える。 でも不自然ではない。 午前二時に、 知らない人間と話すとき、 昼間よりも本当のことを言えてしまうことがある。 高橋とマリのやりとりは、 その夜の引力の中で動いているのだろう。 二人の間に流れる言葉は、 秘密の交換というよりも、 同じ夜の中にたまたまいたという確認のような質感を持っているのかもしれない。 防衛が薄い時間帯に、 言葉が動く。 それだけのことが、 確かに起きているのである。
二人の会話が何かを変えたのかどうかは、 わからない。 恋愛的に接続するわけではない。 互いの秘密を共有したわけでもない。 深い夜をともに通り抜けた、 という事実だけが、 そこに残る。 高橋がいなければ、 マリの夜は別の夜になっていたかもしれない。 でも、 高橋がいたことで何がどう変わったのかは、 それほど明確ではないのである。 その明確でなさを、 村上春樹はそのままにしておく。 その「しない」 という判断が、 この小説を夜の小説たらしめているのかもしれない。
4. アルファヴィルの廊下——カメラが引かない夜
物語の中に、 空気の質が変わる場面がある。
ラブホテル「アルファヴィル」 の廊下で、 一人の中国人女性が傷ついた状態で発見される。 後にカオルのもとに迎えに来る中国人組織のスタッフが、 彼女を「グオ・ドンリ (郭冬莉)」 と呼ぶ。 十九歳。 名前のない女性として物語の中に置かれているのではない。 名前を持って、 暴行を受け、 自分の言語が通じない場所で泣いている十九歳である。 マリは中国語が話せる外国語大学生として、 通訳のためにその部屋へと呼ばれていく。 それまでの夜の浮遊感の中に、 突然、 重力が戻ってくる。 現実の傷が、 夜の膜を破って入ってくるのである。
カメラは、ここでも記録し続ける。暴力の場面で、カメラは移動しない。残酷なものを映さないように編集したりしない。ただそこにある現実として、傷ついた女性の存在を視野の中に留め続けるのである。夜の浮遊感を映したカメラが、夜の暴力も同じ視線で映す。都合のいいものだけを映すカメラは、都合のいい夜しか映せない。村上春樹がカメラという装置を選んだことの意味が、この場面で静かに問われているのかもしれない。
マリが通訳として関わるこの場面は、彼女の内側に何かを残す。傷を抱えた他者と、言語を通して接続しようとする行為。単純な善意ではなく、もっと切迫した、何かに応えなければという動き。マリにとって中国語は学んだ言語で、その言語を必要とする人間が、この夜にいた。接続が生まれたことが何をもたらしたのかは明確には語られない。助けた、という事実だけが残って、その事実が何を意味するのかは、読んでいる側に渡されるのである。
暴力をふるった白川の顔は、作中でほとんど描かれない。背景も、深くは掘られない。これは省略ではなく、意図的な選択だろう。加害者を物語の中心に据えないこと。被害を受けた女性の存在を、物語の背景に落とし込まないこと。その均衡を取ろうとする緊張が、この場面には走っているのだろう。見続けるカメラが、見るべきものと見るべきでないものを勝手に決めないまま、ただそこに起きていることを記録し続けているのである。
カオルという人物が、この文脈で印象に残る。元プロレスラーで、今はラブホテルを切り盛りする女性。夜を商売にしているが、夜に起きる傷を見て見ぬふりをしない倫理を持っている。彼女のたたずまいには、夜を長く生き抜いた人間の静かな実用性があるのかもしれない。感傷に流れない。冷たくもない。夜の中でずっと目を開けていた人間だけが持てる、独特の落ち着きが、カオルには宿っているのだろう。
5. 夜明けという現象——変わらないことの確かさ
朝は来る。
それは必ずそうなる。夜がどんなに深くても、光は戻ってくる。村上春樹は、その夜明けを美化しない。ドラマチックに描かない。マリが朝の光の中で何かを掴んだりはしない。タカハシが決定的な一歩を踏み出したりもしない。ただ、夜が終わる。それだけが起きるのである。
夜が終わることと、何かが変わることは、別のことだ。村上春樹はここを混同させない。夜明けは解決ではないのである。新しい一日の始まりは、前の夜を帳消しにしない。エリは目を覚ますかもしれないし、目を覚まさないかもしれない。傷ついた女性はどこかへ去っていく。タカハシは次の夜にまたスタジオにいるのだろう。マリはまた、何らかの夜を過ごすのだろう。人間は連続性の中に存在していて、夜明けはその連続性を断ち切るものではないのかもしれない。ただ光の質が変わった、という一瞬の現象として、朝は来るのである。
カメラは朝になっても特別に演出しない。夜を特別視しなかったのと同じように、朝も特別視しないのだろう。時間が流れた、という事実だけが、静かに積み重なっていく。その積み重なりに、意味を与えない。与えないことが、この小説にしかない重さを生んでいるのかもしれない。語られなかった意味が、語られなかったまま、重さとして残っているのである。
エリがもし目を開けた瞬間があるとすれば、それはどんな朝だったのか。テレビ画面の向こう側から戻ってきた意識が、最初に捉えるのは何か。部屋の天井か、窓からの光か、自分の手か。その瞬間は、小説の中で直接描かれない。描かれないことがそのまま存在する。空白の中に、読んでいる私たちがいることになるのかもしれない。
夜明けの描写は、この小説の中でも静かな場面のひとつだ。でもその静けさは「夜が終わってよかった」という安堵の静けさではないのだろう。夜という時間が確かにここで完了したという、完了の、冷静な静けさである。燃え尽きることなく、ただ光の質が変わっていく。カメラはその変化を、同じ落ち着きで記録し続けるのだろう。演出しないことが、演出よりも誠実な夜明けの記録になっているのかもしれない。
おわりに. 見られていた夜、 そして帰ってきて、 と囁いた朝
本を閉じた後、 部屋を見回すことになる。
不安な感覚ではない。 ただ、 しばらくの間、 自分がどういう空間にいるのかを、 もう一度確認したくなるのだろう。 カメラの視線に慣れた体が、 現実の部屋の中で、 少し居場所を探す。 『アフターダーク』 を読んでいる時間の中で、 見ることと見られることの境界が、 少し溶けているのかもしれない。
エリの部屋では、 もう一つ気にかかる場面があった。 暗く光るテレビ画面の向こうに、 薄いマスクをした「顔のない男」 がいて、 眠るエリを見つめ続けていた。 カメラがエリを見ている同じ夜に、 別のカメラ的な何かがテレビの内側からエリを見ている——「見られていた」 という関係が、 この小説の中で二重に走っていることになる。 私たちが夜を覗いていた間、 夜もまた、 別の場所から誰かを覗いていた。
ラストの場面で、 マリは家に帰り、 ずっと眠り続けているエリの隣のベッドに、 静かに潜り込む。 そして、 眠るエリの耳元で囁く。 「エリ、 帰ってきて、 お願い」。 一夜をかけて夜の中を歩いてきたマリが、 最後に辿り着くのは、 姉の隣の場所である。 連れて行ったのではない。 連れ戻したのでもない。 ただ、 隣で囁いた。 その動作だけが、 夜の終わりに置かれている。
「次の闇が訪れるまでに、 まだ時間はある」 ——小説はその一文で終わる。 朝が来たから夜が終わったのではない。 次の闇が訪れるまでの、 仮の明るさを与えられただけ。 マリの囁きが届くかどうかも、 はっきりとは語られない。 ただ、 マリは隣にいて、 囁いた。 そしてその時間は、 次の闇が訪れるまでの間だけ、 確かにそこにあった。
高橋が「ソニームーン・フォア・トゥー」 を鳴らし続けていた夜も、 郭冬莉が助けを必要としていた夜も、 顔のない男がテレビの内側からエリを見ていた夜も、 マリがエリの隣で囁いた朝も——全部、 あったのだろう。 現実の記録という意味ではなく、 この小説の時間の中で確かに存在していた夜として。
夜があった。 カメラはそれを見ていた。 そして、 夜が終わる前に、 マリは隣のベッドに潜り込んで、 帰ってきて、 と囁いた。
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