G-0C41NE8DJB 『風の歌を聴け』―29 歳の「僕」 が、 21 歳の夏を書きあぐねている|亀吉の呟き
亀吉の書評

『風の歌を聴け』―29 歳の「僕」 が、 21 歳の夏を書きあぐねている

『風の歌を聴け』―29 歳の「僕」 が、 21 歳の夏を書きあぐねている
yoshiomi

「完璧な文章などといったものは存在しない。 完璧な絶望が存在しないようにね」——『風の歌を聴け』 はこの一文で始まる。 語り手の「僕」 は 29 歳の既婚者だ。 彼が物語の冒頭でこの宣言を置いてから、 21 歳の夏 (1970 年 8 月 8 日から 8 月 26 日までの 18 日間) を回想していく。 29 歳の「僕」 は語る側に、 21 歳の「僕」 は語られる側にいる。 物語の中で「僕」 は二度生きている。

村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』 は、 1979 年 4 月に第 22 回群像新人文学賞を受賞し、 同年 6 月の『群像』 に掲載、 7 月 23 日に講談社から単行本化された。 のちに『1973 年のピンボール』『羊をめぐる冒険』 と続いていく「鼠三部作」 (『ダンス・ダンス・ダンス』 を加えて四部作とも) の第一作。 村上春樹の長い作家活動の起点に置かれた小説だ。

本作はしばしば「事件のない小説」 と評される。 だが、 それは正確ではない。 事件は 8 年前の夏にすでに起きていて、 現在の「僕」 がそれをまだ書きあぐねている——という構造を持っている。 観察したいのはその構造だ。

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1. 二度生きている「僕」 ——回想型の語りの原型

29 歳の「僕」 と、 21 歳の「僕」。 物語の語り手は前者で、 物語の中で動いているのは後者だ。 物語の最初に置かれる「完璧な文章などといったものは存在しない」 という宣言も、 29 歳の「僕」 のものだ。 21 歳の「僕」 は、 まだ文章について悩む余裕を持っていない。 ただ夏を生きているだけだ。

この二重時間の構造は、 本作のあらゆる場面に薄く広がっている。 ジェイズ・バーで鼠とビールを飲んでいる 21 歳の「僕」 の姿が、 29 歳の「僕」 の記憶のフィルターを通して描かれる。 鼠が何かを語ろうとして語らない夜の場面も、 29 歳の「僕」 が「あの夜、 鼠は何を語ろうとしていたのか」 を今も問い続けている形で書かれている。 過去はそこにあった事実として描かれず、 現在の「僕」 が思い出せる形でだけ描かれる。

ここで起きているのは「回想」 という単純な操作ではない。 29 歳の「僕」 は、 21 歳の夏に起きたことの意味を、 8 年経った今もまだ受け取り切れていない。 だから物語を書き始めた。 物語を書くことそのものが、 受け取り切れない過去を引き受ける作業として、 本作には組み込まれている。

この回想型の語りは、 後の村上春樹の長編、 特に『ノルウェイの森』 (1987) で大規模に展開される。 37 歳のワタナベが 18 歳から 19 歳のころを回想する構造は、 『風の歌を聴け』 の二重時間構造を 8 年後にスケールアップさせたものだ。 起点はここにある。

29 歳の「僕」 は、 21 歳の自分を冷たく観察しているわけではない。 むしろ「僕」 は 21 歳の自分を、 「僕」 という同じ名前を持つ別の人間として書いている。 二人のあいだには 8 年の距離があり、 その距離があるからこそ、 21 歳の「僕」 の行動や沈黙の意味を、 29 歳の「僕」 はもう一度受け取り直そうとしている。 受け取り直そうとして、 まだ受け取れていない。 そのまま物語は進む。

2. ジェイズ・バーと、 鼠と——18 日間の場所と人

1970 年 8 月 8 日、 21 歳の「僕」 は東京の大学から故郷に帰省する。 行きつけのバーは「ジェイズ・バー」。 バーテンダーのジェイは中国人で、 物語の中ではほとんど多くを語らない人物として配置されている。 そこで「僕」 は、 大金持ちの息子で大学を中退した友人の鼠と再会する。 鼠は 1947 年 9 月生まれ、 22 歳。

18 日間、 「僕」 と鼠はジェイズ・バーでビールを飲みながら過ごす。 鼠は何かを語ろうとして語らない夜が続く。 ある女性についての断片、 父親への複雑な感情、 大学を中退した経緯——これらが鼠の口から少しずつ漏れるが、 物語が「鼠の物語」 として完結することはない。 鼠は語りきらないままで、 物語の中に留まり続ける。

この「語りきらない鼠」 という人物像が、 後の三部作に引き継がれていく。 『1973 年のピンボール』 では鼠はジェイズ・バーから去る決意をする。 『羊をめぐる冒険』 では鼠は北海道の山中で死ぬが、 死ぬ前に「僕」 と再会する。 『ダンス・ダンス・ダンス』 ではジェイズ・バーが東京に移っており、 鼠はもう存在しない。 4 作を横断して読むと、 鼠とジェイズ・バーがどう変質していくかが見えてくる——『風の歌を聴け』 のジェイズ・バーは、 鼠がまだ「語りきらない」 ことができる場所だった、 とわかる。

鼠が語らないことは、 物語の欠落ではない。 むしろ、 21 歳の友人同士のあいだに「全部を語る必要はない」 という距離感が確かに存在する、 ということを、 鼠の沈黙が示している。 ビールを飲みながら一緒に時間を過ごす、 そのこと自体に意味がある——そう書くと甘くなるが、 本作の鼠と「僕」 はそういう関係をすでに持っている。 「語らないことを共有する」 という関係の輪郭を、 春樹は 21 歳の二人の友人を通じて描いている。

3. 小指のない女の子——名前を持たない他者

ある夜、 ジェイズ・バーの洗面所で倒れていた若い女性を、 「僕」 は介抱して自宅まで送る。 彼女は左手の小指がない。 8 歳のときに失ったという。 1 月 10 日生まれ、 双子の妹がいる。 港のレコード店で働いている。

彼女は本作の中で名前を与えられない。 「小指のない女の子」 と呼ばれ続ける。 数字 (1 月 10 日、 8 歳、 双子) と部位 (左手の小指の不在) で輪郭が示されるだけの人物。 「僕」 は彼女と関係を持ち始めるが、 物語の中で二人の関係が「結ばれる」「壊れる」 という形で展開することはない。 ただ会い、 話し、 過ごし、 そして 18 日後、 「僕」 は東京に戻る。

29 歳の「僕」 は、 物語の終わり近くで、 彼女の「その後」 を簡潔に語る。 「彼女はもうこの街にはいない」、 というような形で。 彼女が誰だったか、 二人のあいだに何があったか、 「僕」 はそれを 8 年経った今も書き切れていない。 名前を持たないまま物語の中に残り続けることが、 彼女の存在の仕方になっている。

小指のない女の子は、 後の春樹作品で繰り返し現れる「名前を持たないか、 限定的な記号で示される女性」 の系譜の最初の一人だ。 村上春樹の長い作品群の中で、 彼女はその出発点にいる。

彼女が「小指のない女の子」 と呼ばれ続けることで、 彼女は一人の固有の人間ではなく、 「ある記号によって縁取られた存在」 のままになる。 これは冷たい書き方ではない。 むしろ、 21 歳の「僕」 が彼女を完全に理解できなかった、 という事実を、 29 歳の「僕」 が誠実に保持している、 という形に近い。 名前を与えてしまうことは、 「理解した」 と仮構することに近い。 名前を与えないまま物語の中に置き続けることで、 「理解できなかった」 という事実そのものが、 彼女の存在の仕方として保たれている。

4. デレク・ハートフィールド——存在しない作家が物語の中心にいる

本作には、 デレク・ハートフィールドという作家が頻繁に登場する。 1909 年生まれ、 1938 年に自殺した、 アメリカの作家。 「僕」 は冒頭で「文章についてのほとんどを彼から学んだ」 と語り、 彼の小説からの引用を作中に何度も挿入する。 「文章とは何か」 という問いを、 ハートフィールドの教えとして語る場面が連なる。

ところが、 デレク・ハートフィールドは実在しない。 村上春樹が創作した架空の作家だ。

ここに本作の最も注目すべき装置がある。 「事実」 と「フィクション」 の境界が、 作品の最初の数ページから揺らがされている。 「僕」 が「ハートフィールドの教え」 として語る文章観は、 実は村上春樹自身の文章観なのだが、 それを「架空の他者の引用」 という形で間接的に置く。 このメタフィクション的な装置は、 後の村上春樹の長編 (『1973 年のピンボール』 の「スペースシップ」 の物語、 『羊をめぐる冒険』 の「羊博士」 の存在、 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 のもう一つの世界、 など) で繰り返し変奏される。 ここが起点だ。

物語の終わり近く、 「僕」 はハートフィールドの墓を訪ねる場面を語る。 オハイオ州の小さな町の墓。 そこで「僕」 が何を感じたか、 物語は多くを語らない。 ただ、 存在しない作家の墓を訪ねた「僕」 が、 8 年後に物語を書いている。 本作はその事実だけを差し出す。

存在しない作家の存在しない墓に、 「僕」 は実際に行ったと書く。 オハイオ州の小さな町の名前まで具体的に置かれる。 読者はその墓が架空であることに、 物語の途中で気付くか、 あるいは最後まで気付かないままで読み終えるかもしれない。 どちらでもいい、 という形で本作の装置は成立している。 「事実」 と「虚構」 の境界は、 読者の中で揺らがされたまま閉じる。

5. 18 日間の終わり——8 月 26 日と、 その後の 8 年

1970 年 8 月 26 日、 「僕」 は東京に戻る。 鼠はジェイズ・バーに残り、 小指のない女の子はまだ港のレコード店で働いている。 ジェイは何も言わない。 海辺の街は、 「僕」 が去った後も続いていく。

物語の最後の数ページで、 29 歳の「僕」 は登場人物たちの「その後」 を簡潔に語る。 鼠は今もこの街にいる。 小指のない女の子はもうこの街にいない。 ジェイズ・バーは少し改装した。 ハートフィールドの墓を「僕」 は訪ねた。 三番目のガールフレンドだった仏文科の女の子は自殺した——これは物語の地下水脈にずっと流れていた記憶で、 ここで初めて文章として浮かび上がる。

この「その後」 の語り方が、 本作の構造を最後にもう一度確認させる。 29 歳の「僕」 は、 21 歳の夏の意味を、 まだ書き切れていない。 「その後」 を語ることは、 8 年経って彼らがどうなったかを記録するためというより、 8 年経った今もそれぞれが「その後」 を生きていることを、 自分に確かめるための動作に近い。

おわりに. 群像新人文学賞、 応募時のタイトル

本作のタイトルは、 群像新人文学賞応募時には「ハッピー・バースデー、 そして、 ホワイト・クリスマス」 だった。 群像編集部の宮田昭宏が「発表や単行本化のときに表記に困る」 と村上に直接面会し、 改題を依頼した。 村上はその場で承諾し、 トルーマン・カポーティの短編『最後の扉を閉めて』 (Shut a Final Door, 1947) のラストの一文「Think of nothing things, think of wind」 から、 「風の歌を聴け」 という新しいタイトルを生み出した。

このタイトル変更のエピソードは、 本作の成立に関する偶然と必然の両方を示している。 もし応募時のタイトルのままで本作が刊行されていたら、 村上春樹の作家活動はおそらく違う形を取った。 「風の歌を聴け」 という言葉が表紙に置かれたことで、 本作の世界全体が、 別の色彩を帯びることになった。

『風の歌を聴け』 を 1979 年に手に取った読者は、 まだその先に何が続くかを知らなかった。 鼠三部作も、 『ノルウェイの森』 も、 『海辺のカフカ』 も、 『1Q84』 も、 まだ書かれていなかった。 ただ、 29 歳の「僕」 が 21 歳の夏を書きあぐねている、 という一冊の小説が、 そこにあった。 村上春樹の長い作家活動は、 ここから始まる。

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