ミース・ファン・デル・ローエ — 「Less is more」 とバウハウス校長、 シーグラム・ビル
はじめに
ニューヨークのパーク街に、道路から一歩下がって建つ38階建てのビルがある。1958年竣工のシーグラム・ビルだ。敷地の半分近くを広場として空け、外壁にはブロンズ色のガラスと、垂直に走るI形鋼のマリオンが並ぶ。装飾はほとんどない。設計したのはミース・ファン・デル・ローエである。
ミース・ファン・デル・ローエは1886年、ドイツのアーヘンに生まれた建築家だ。石工の家に育ち、正規の建築教育を受けないまま設計の道に入った。バウハウス最後の校長を務め、ナチスの台頭でアメリカへ渡り、シカゴで教えながら建てつづけた。残したのは「Less is more(少ないほど豊かである)」という言葉と、それを実際に確かめた建物である。削ることが豊かさになる、という逆説を、50年かけて一つずつ検証していった人だった。

- 本名|マリア・ルートヴィヒ・ミヒャエル・ミース。1920年代に母の旧姓ローエへ「ファン・デル」を挟んで名乗り直した
- 生没|1886年3月27日、ドイツ・アーヘン生/1969年8月17日、アメリカ・シカゴ没・83歳
- 出自|石工の家。父ミヒャエル・ミースは石材を扱う職人で、幼少期から石の現場に触れて育った
- 学び|正規の建築教育は受けていない。ベルリンでブルーノ・パウル、次いで1908年から1912年までペーター・ベーレンスの事務所に勤めた
- 事務所|1912年、ベルリンに自身の事務所を構える
- 受賞|1959年、RIBAゴールドメダル/1960年、AIAゴールドメダル/1963年、大統領自由勲章
- 様式|モダニズム。鉄とガラス、装飾を削ぎ落とした構成

Less is more という哲学
ミース・ファン・デル・ローエの建物を年代順に並べても、驚くような形は出てこない。四角い枠、細い柱、大きなガラス。作品ごとに手法を変えるタイプの建築家ではなく、同じ問いを半世紀かけて研ぎつづけた。何を足すかではなく、何を残すか。ミースの一貫性は、その一点にある。
ミニマリズム
装飾を削る。柱を細くする。壁を減らす。ミースの設計は引き算の連続でできている。「Less is more」という言葉は、その態度を一行にしたものだ。
ただし、削れば安く済むわけではない。バルセロナ・パビリオンには大理石とオニキスが使われ、シーグラム・ビルには1,500トンのブロンズが投じられている。形を削ったぶんだけ、負荷は素材と精度の側へ移る。簡素に見えることと、簡単であることは違う。
ユニバーサルスペース
用途を決めない大きな空間をひとつ作り、中の使い方は後から決める。ミースが「ユニバーサルスペース」と呼んだ考え方である。柱を外周へ追い出して内部を柱なしにすれば、間仕切りは自由に動かせる。教室にも、展示室にも、事務所にもなる。
建物の寿命は、用途の寿命より長い。だから空間の側を決めきらない。時間に対するこの構えが、ユニバーサルスペースの底にある。
構造をそのまま見せる
鉄とガラス。ミースが選んだのはこの二つだった。構造を仕上げで隠さず、柱と梁の並びをそのまま外から読めるようにする。素材の性質を隠すための細工をしない。
シーグラム・ビルの外壁に並ぶI形鋼のマリオンは、実際に建物を支える構造材ではない。鉄骨の割付を外に見せるために取り付けられた部材である。構造を見せるという主題のために、見せるための部材を足している。ミースの引き算が、単なる省略ではないことがここに出ている。
代表作をたどる
ドイツ時代からアメリカ時代へ、代表作を順にたどる。1929年のバルセロナから1958年のニューヨークまで、規模も材料も変わっていくが、四角い枠と大きなガラスという骨格は動かない。
バルセロナ・パビリオン

1929年、バルセロナ万国博覧会のドイツ館として建てられた。展示物を置かない展示館である。細い十字断面の柱が屋根を支え、大理石とオニキスの壁が、部屋を仕切らないまま何枚も立つ。壁は空間を囲うためではなく、視線の流れをつくるために立っている。

博覧会が終わると、1930年に解体された。実物が立っていたのは8か月ほどである。以後56年のあいだ、この建物は白黒写真だけで20世紀の建築に影響を与えつづけた。1986年、同じ敷地に再建されている。いま訪れて見られるのは、その再建された姿だ。
ファンズワース邸

1945年に依頼を受け、1951年にほぼ完成した、イリノイ州プレイノの週末住宅である。白い鉄骨のフレームが床と屋根を地面から持ち上げ、四方はガラス。内部に立つのは水回りの芯だけで、あとは仕切りがない。ユニバーサルスペースを住宅の寸法で試した一棟だ。

完成後、建設費が当初の見積もりを大きく超えたことをめぐって、ミースが未払いの設計料を求めて提訴し、施主のイーディス・ファンズワースが反訴した。裁判は施主側の支払いを命じる形で決着している。住むための家として見るか、建築として見るか。この住宅の評価は、いまも割れたままだ。
S.R.クラウンホール
1956年、シカゴのイリノイ工科大学。ミース自身が建築学部を率いていた、その校舎である。屋根を外側の鉄骨梁から吊ることで、内部を柱のない一室にした。約120×220フィート、天井高18フィートの大空間に間仕切りを立て、複数の授業が同時に進む。
ユニバーサルスペースという考え方が、そのまま建物の姿になっている。ミースはこの建物を、自分たちがつくったなかでもっとも明快な構造だと語った。教える場所で、自分の原理をいちばん素直に組み立てたことになる。
シーグラム・ビル

1958年、ニューヨーク、パーク街375番地。フィリップ・ジョンソンとの協働で建てられた38階建てのオフィスビルだ。敷地の半分近くを広場として空け、建物を道路から後退させている。敷地いっぱいに建てるのが常識だった当時、この空け方は異例だった。
そして1961年、ニューヨーク市の新しい都市計画がこの手法を制度に取り込む。地上に公開空地を設けたビルに、高さの割増を認める仕組みである。一棟の建物のふるまいが、街のつくり方の側に移った。
おわりに
バウハウスは1933年に閉じられ、ミース・ファン・デル・ローエは1938年にアメリカへ渡った。国も、施主も、扱う規模も変わった。それでもやっていることは変わらなかった。装飾を削り、構造を見せ、用途を決めない空間をひとつ作る。1929年の小さなパビリオンと、1958年の38階建てを並べても、同じ考え方が働いているのが見える。
削ることは、貧しくすることではない。何を残すかを決めることだ。残すものが少ないほど、残した一つひとつの精度が問われる。「Less is more」がいまも引かれつづけるのは、それが標語だからではなく、建物の側で確かめられた条件だからだろう。
