『二宮翁夜話』二宮尊徳 — ためる手をめぐらせる手へ
はじめに
二宮尊徳の名前より先に、多くの人の頭に浮かぶのは、あの銅像かもしれない。背中に薪を負い、歩きながら本を開いている少年の像。かつて全国の小学校の校庭に立っていた、勤勉のお手本だ。あの像のせいで、二宮尊徳という人は「よく学び、よく働いた、偉い人」という、道徳の教科書のような輪郭におさまりがちだ。
けれど、その少年像だけを見て本書を素通りするのは、いかにも惜しい。本書が伝えているのは、少年の勤勉さの話ではない。荒れ地と、飢饉で傾いた村々を、机の上の理屈ではなく現場で実際に立て直しつづけた、晩年の尊徳の思想である。しかも本書は、尊徳自身が書いた本ではない。そば近くに仕えた弟子の福住正兄が、晩の談話や日々の言動を、数年のあいだ丹念に書きとめた語録だ。孔子の言葉を弟子が編んだ論語や、渋沢栄一の講演を編んだ論語と算盤と、同じ成り立ちの一冊なのである。
だから、まず銅像を一度、頭からどけてみたい。その先に、飢えと荒廃の底で説かれた、地に足のついた思想が待っている。
銅像になった少年
尊徳は、江戸時代の後期、相模の国、いまの神奈川県の小田原あたりに、百姓の子として生まれた。幼い名を金次郎という。暮らしは、はじめから楽ではなかった。金次郎がまだ幼いころ、近くの川が氾濫し、一家の田畑は押し流された。やがて父も母も相次いで世を去り、幼い兄弟は親類に預けられ、二宮の家はほとんど離散のふちに追いこまれる。
父を失い、母を失い、幼い弟たちは方々へ預けられた。一家がばらばらになる、そのふちで、金次郎はまだ十かそこらの子どもだった。ふつうなら、うつむいて日をやり過ごしてもおかしくない。だが彼は、うつむくかわりに、足もとの荒れ地に目をやった。
身を寄せた伯父の家で、金次郎は昼のあいだ懸命に働いた。そのうえで、わずかな時間を惜しんで書物を読もうとする。あの銅像が写しているのは、この時期の姿だ。だが像が伝えそこねているのは、彼が本を読んで賢くなったという話ではなく、その先にある。金次郎は、人が捨てた苗を拾い、誰も見向きもしない荒れ地に植えた。用水路のわきの、猫のひたいほどの空き地。そこから採れたわずかな米を元手に、また次の一歩を積む。倹約して蓄え、蓄えたものをまた田に変える。そうして年月をかけ、若くして、傾いていた二宮の家を、自分の手で立て直してみせた。
何もないところに近い場所から、小さな一粒、一鍬を積みあげて、家を再び興す。この原体験が、のちに尊徳が説く思想の芯になる。像の少年は、賢さのお手本として立っているのではない。ほんとうは、無一物のふちから小を積んで大に達した、その一部始終の入り口に立っている。銅像を勤勉の象徴として拝むだけでは、この肝心の中身が、まるごと抜け落ちてしまいかねない。
荒れ地から一粒を拾い、また一粒を積む。この地味なくり返しのなかに、のちの尊徳の思想の骨格が、そっくり畳みこまれている。小さなものを侮らないこと。天の恵みを待つだけでなく、人の手を加えること。今日の一鍬が、十年ののちの一反につながると信じて、手を止めないこと。銅像の少年は、そのすべての入り口に立っている。像を勤勉の飾りとして拝むだけでは、この畳まれた骨格が、まるごと見過ごされる。
小を積むということ
尊徳の思想を、たったひとことで表す言葉がある。積小為大。小を積んで、大を為す、と読む。大きな事業は、どこか遠くにある大きな一手によって成るのではない。近くの、小さな一鍬、一銭、一日の労を、あきることなく積み重ねた先に、はじめて姿を現す。
尊徳は、こんな意味のことを語っている。遠くの大きな成果をはかろうとする者こそ、足もとの小さなことを、おろそかにしてはならない。小を積まずに大を望めば、たいていは途中で行きづまる。だから、大事をなそうと思う者は、まず目の前の小事を、こつこつと務めるがよい。
遠くをはかる者は富み、近くをはかる者は貧しくなる。尊徳の言葉として、そんな一節も伝わっている。目先の実りだけを追う者は、種籾まで使いつぶし、やがて立ちゆかなくなる。逆に、何年も先を見すえて、いま蒔く一粒を惜しまぬ者は、時をかけて豊かになる。先を遠くはかるほど、足もとの小さな一手が、おろそかにできなくなる。積小為大は、この長い時間の物差しと、分かちがたく結びついている。
その言葉に重みがあるのは、彼自身がそれを机上でなく現場で証してみせたからだ。二宮の家を再興した手腕を見こまれ、尊徳は下野の国、いまの栃木県の桜町という荒れ果てた領地の立て直しを任される。家族とともにその地へ移り住み、以後、生涯の後半をまるごと注ぎこんで、荒れた村々をよみがえらせていく。荒れ地を耕し、傾いた村を建て直すこの一連の取り組みは、のちに報徳仕法と呼ばれた。特効薬のような一手は、どこにもない。土を直し、水を引き、種を選び、人の心を励ます。気の遠くなるような小さな手当てを、来る年も来る年も積みあげていく。積小為大は、彼にとって、書物のなかの標語ではなく、泥にまみれた歳月そのものだった。
尊徳の立て直しは、桜町の一領にとどまらなかった。手がけた村は、下野やその周りに数多くのぼり、荒れ地の再興は生涯の後半のほとんどを占める。晩年には、日光の神領の立て直しまで任され、その仕事のなかばで世を去った。机上の学者が書いた理屈ではない。飢饉と荒廃のただなかで、鍬をにぎり、そろばんをはじき、村びとと寝食をともにしながら練りあげた、現場の知恵である。だからこそ本書の言葉には、泥と汗のにおいがしみついている。
尊徳は、豊かさの出どころについても語っている。田が実るのは、日の光や雨という天の恵みがあればこそだ。だが、恵みだけでは米は実らない。天がくだす力に、人が鍬を入れ、草をむしり、水を引く労を加えて、はじめて稲は稔る。天の恵みを待つだけの者に、実りは約束されない。恵みに、人の手の働きを重ねること。尊徳のいう勤労とは、その重ね合わせのことだ。
身の丈をはかる
尊徳の思想は、勤勉のすすめだけでは終わらない。むしろ、ここからが本領だ。彼が村を立て直すとき、必ず最初に据えた土台がある。分度、という考え方である。
分度とは、身の丈をはかること。その家、その村が、いまどれだけの実りで成り立っているのかを、情を抜きにした醒めた目で見さだめ、これだけで暮らすという限度を、あらかじめ定めておく。これは、精神論とは正反対の、そろばんずくの発想だ。「気合いで働け」でも「心を入れかえよ」でもない。まず、入ってくるものの実額をつかみ、支出の枠を、そこにきっちりはめる。欲には際限がないから、放っておけば暮らしは必ず身の丈を超えてふくらむ。その膨張を、分度という物差しで、はじめに断っておく。
尊徳には、天道と人道という見方もある。天道とは、自然のなりゆきのことだ。田は、手を入れなければ雑草に呑まれ、放っておけば荒れていく。それが天のなりゆき、すなわち天道である。いっぽう人道とは、その天のなりゆきに、人が手を加えて、田を田として、村を村として保ちつづける、不断の営みをいう。人道は、放っておけば保てない。草をむしり、水を直し、去年と同じ手入れを、今年もまたくり返す。分度は、その人道を足もとで支える設計図でもある。身の丈を先に定めるからこそ、村は無理な膨張で自滅せず、手入れを続けるだけの体力を、細く長く保てる。根性でなく、勘定に裏打ちされた見取り図。そこが、尊徳の地に足のついたところだ。
尊徳が村の再興を支える柱としたものは、いくつかの言葉に束ねられる。まごころを尽くす至誠、身を惜しまず働く勤労、身の丈をはかる分度、そして余りをめぐらせる推譲。この四つが、報徳という一つの考えを支えている。報徳とは、天地から、親から、世の人から受けた恵みに、自分の働きで報いていくこと。受けた恩を、また別の誰かへ返し送る営みである。四つの柱を、さらに詰めていけば、勤と倹と譲の三文字に行きつく。よく働き、無駄を削り、余りを人へ譲る。むずかしい理屈ではない。荒れた村を立て直すために本当に要るものだけが、そぎ落とされて残っている。
たらいの水
分度によって、身の丈のなかに、いくらかの余りが生まれる。問題は、その余りをどうするかだ。ここで尊徳の思想は、もっとも彼らしい一点に行きつく。推譲、である。
推譲とは、押し譲ること。分度によって生まれた余りを、自分の内にため込むのでなく、外へ譲り分けていく。将来の自分のために譲る。子孫のために譲る。困っている隣人のために、村のために、世のために譲る。ため込む手を、めぐらせる手へと裏返す。それが推譲だ。
尊徳は、この考えを、たらいの水にたとえて説いたと伝えられる。たらいに張った水を、自分の方へ引き寄せようと手前へかき寄せると、水はかえって左右へ逃げ、向こう側へ去っていく。逆に、水を向こうへ押しやるように手を動かすと、水はたらいのふちを回り、めぐりめぐって、自分の方へ返ってくる。利を独り占めしようとかき寄せれば、するりと逃げる。人に譲ろうと押しやれば、巡って自分に返る。
これは、見返りをあてにした損得の勧めではない。かき寄せる手つきそのものが水を逃がし、押しやる手つきそのものが水を返す、というめぐりの理を説いている。ため込みは、めぐりを止める。譲ることは、めぐりを起こす。尊徳が荒れた村々で実際にやってみせたのも、つまりはこれだった。分度で生まれたわずかな余力を、種籾に、道具に、困窮した者の立て直しにと外へ回し、村ぜんたいの巡りをもう一度動かしていく。ひとりが抱えこめば、そこで水は淀む。手放して回せば、村という大きなたらいのなかを、水はまためぐりはじめる。
尊徳には、一円融合という言葉もある。善と悪、貧と富、天と人。世の中は、とかく物事を二つに割って、片方をよしとし片方をしりぞけたがる。だが尊徳は、対立して見えるものを切り離さず、一つの円のなかへ融かし込んで捉えようとした。たらいの水も、じつはこの見方の延長にある。ため込みと譲り、引くことと押すこと。相反して見える二つは、めぐりという一つの円の、向きちがいの動きにすぎない。かき寄せと押しやりを別々の徳目として並べるのでなく、ひとつづきの流れとして掴む。そこに、尊徳の物の見方の芯がある。
いまの暮らしに
こう見てくると、本書を、古い農村の昔話として棚に戻すのは、少し早すぎる。分度と推譲という二つの言葉から、時代の衣を脱がせてみる。すると残るのは、驚くほど今の私たちの暮らしに近い問いだ。
身の丈に合った暮らしの枠を、はじめに決めているか。入ってくるものの実額を、情ぬきにつかんでいるか。そして、そこに生まれた余りを、ただ不安からため込んでいないか。それとも、先のため、人のため、世のために、いくらかでもめぐらせているか。ものも情報もあり余り、そのくせ人と人の巡りは細くなったと言われる時代に、身の丈で暮らし、余りをめぐらせるというこの発想は、少しも古びていない。
分度と推譲は、大きな組織の話にも、小さな家計の話にも、そのまま置きなおせる。会社であれ、家であれ、まず入ってくるものの実額を醒めた目でつかみ、暮らしの枠をそこに定める。そのうえで生まれた余力を、目先の消費で使い切らず、将来へ、人へ、次の世代へと回していく。ため込んで淀ませるのでなく、めぐらせて活かす。二百年前の荒れ地で練られた物差しは、時代の衣さえ脱がせれば、今日の暮らしの真ん中に、ふしぎとまっすぐ収まる。
ものはあり余るのに、将来への不安から、手放すより抱えこむほうへ心が傾く。人とのつながりは細くなり、誰もが自分の器の水を、じっと見張っている。そんな時代だからこそ、押しやれば返るというめぐりの発想は、古びるどころか、むしろ今の私たちにこそ必要に思える。
じっさい、後の世の実業家たちが、この思想に深く学んでいる。日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一も、経営の神様と呼ばれた松下幸之助も、尊徳の教えに繰り返し立ち返った。渋沢の論語と算盤、松下の道をひらくと、本書を同じ棚に並べてみると、一本の系譜がうかびあがる。正しさと稼ぎを割らずに握ろうとした渋沢栄一、その人にしか歩けない道を説いた松下幸之助、そして、ためる手をめぐらせる手へ裏返した尊徳。実業と生き方をひとつにつなぐ、地に足のついた思想の連なりだ。ただし尊徳がなお際立つのは、彼が学者ではなく、最後まで泥のなかの実践者でありつづけた点にある。語られた言葉のひとつひとつが、実際に立て直された村の土から掘り出されている。
おわりに
薪を背負った銅像の少年から、ずいぶん遠くまで来た。読みすすめてみると、あの校庭の少年像の輪郭が、少しずつ塗り替えられていく。勤勉のお手本という平べったい像から、無一物のふちで小を積み、身の丈をはかり、余りをめぐらせた、一人の現場の人の姿へ。像はもう、ただ本を読んでいるのではない。かき寄せるのでなく押しやる、その手の向きを、生涯かけて確かめていた人に変わっていく。
私たちの手は、たいてい、何かをかき寄せる形をしている。もっと蓄えよう、もっと確保しようと、水を手前へ引く。だが尊徳が、たらいの水で示したのは、その逆だった。手前へかき寄せた水は、つかもうとするほど左右へ逃げていく。逆に、向こうへ押しやった水は、たらいのふちに沿ってぐるりと回り、やがて自分の手もとへ戻ってくる。
ためこもうと手前へ握りしめていた手を、いちど、そっと向こうへ返してみる。すぐに何かが変わるわけではないし、はじめは手放した分だけ減った気がするだろう。それでも、押しやった水がめぐって戻ってくるように、外へ向けた小さな一杯が、思いがけない巡りとなって、いつか自分の側へ返ってくるのかもしれない。積みあげるのは、小さな一鍬でいい。そしてその手を、ときどき、かき寄せる形から、押しやる形へ、返してみる。二百年前の荒れ地から、尊徳がいまも手渡そうとしているのは、その手の向きだ。
