G-0C41NE8DJB 三メートル四方まで、暮らしを削った人——鴨長明『方丈記』|亀吉の呟き
亀吉の書評

三メートル四方まで、暮らしを削った人——鴨長明『方丈記』

三メートル四方まで、暮らしを削った人——鴨長明『方丈記』
yoshiomi

ここ数年、「持たない」という言葉をよく見るようになった。部屋を小さくする、物を減らす、暮らしを軽くする。その感覚の遠い先駆者に、鴨長明がいる。『方丈記』は無常を説いた本だと学校で習う。けれど読み直すと、観念の話というより、もっと実用的な記録に近い。住まいをどこまで小さくできるか。鴨長明はそれを、一丈四方——約三メートル四方の小屋で、実際に測った人だった。

冒頭の一行は有名だ。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」。川は流れ続けるが、いま目の前にある水は、さっきの水ではない。この一行が長く読み継がれてきたのは、漢文の調子と和文のやわらかさを混ぜた和漢混淆文という文体で、絶えず/あらず、と前後を対にして畳みかけているからでもある。鴨長明はこの川の比喩を、人の住まいに重ねていく。家も人も、留まらずに流れていく。そこまでは観念に聞こえる。だが『方丈記』が他の無常論と違うのは、その観念を、自分の暮らしの寸法にまで落としたところにある。流れる水だと頭で理解するのではなく、流れる水であることを引き受けられる家を、実際に建ててしまった。枕草子や徒然草と並んで三大随筆に数えられるこの短い本に、鴨長明その人がいちばん濃く出ているのは、それが実測の記録だからだ。

鴨長明は冒頭で、もう一歩踏み込む。川の流れに浮かぶうたかた——水の泡は、消えてはまた結び、結んではまた消えて、長く留まったためしがない。人とその住まいも、これと同じだという。さらに、朝顔の花とその上の露にたとえる。露が落ちて花だけが残ることもあるが、その花も朝日が射せば枯れる。花がしぼんで露がまだ消えずにいることもあるが、その露も夕方までは保たない。住まいが主人より長く残ることもあれば、主人が住まいを見送ることもある。どちらが先に消えるかは決まっていない。ただ、どちらも必ず消える。無常という言葉を、花と露という目に見えるものへ、何度も引き戻していく。抽象を具体へ引き戻す書きぶりは、もう冒頭から始まっている。

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後ろ盾を失うということ

鴨長明は一一五五年に生まれた。父の鴨長継は、下鴨神社——賀茂御祖神社の禰宜だった。神社の要職である。順当にいけば、父の跡を継いで神職の道を歩むはずだった。

ところが父が早くに世を去る。鴨長明がまだ二十歳前後の頃のことだ。後ろ盾を失って、神職の階段をうまく上れなくなる。代わりに彼が打ち込んだのは和歌と音楽だった。琴を弾き、琵琶を奏で、歌を詠む。その才は世に認められ、一二〇一年には後鳥羽院の和歌所の寄人に選ばれている。『新古今和歌集』には、その歌が十首入っている。歌の道についての考えを記した『無名抄』も、仏教説話を集めた『発心集』も、のちに書き上げたものだ。神職の道がふさがれた一方で、歌人として、書き手として、世に立つ道が開けたかに見えた。

転機は一二〇四年に来る。河合社という、下鴨神社の摂社の禰宜の座が空いた。鴨長明はそこを望んだ。後鳥羽院も内々に推す意向を示していたという。神職としてもう一度立てるかもしれない、という話である。ところが惣官の鴨祐兼が、その座に自分の息子を据えようと動き、望みは妨げられた。祐兼の横やりで、とうとう禰宜になれなかった。

このできごとが、世を捨てる直接のきっかけの一つになる。神職の道は完全に閉じた。一二〇四年から一二〇八年の頃、五十歳前後で、鴨長明は出家する。法名は蓮胤。世を捨てた人として、彼は山へ入っていく。家を持つ側から、家を畳む側へ、立ち位置を移していった。

都で見たもの

ただ、鴨長明が世を捨てたのは、自分の不遇のためだけではない。出家する前に、彼は都でいくつもの破滅を見ていた。『方丈記』の前半は、その記録に多くの紙幅を割いている。

一一七七年、安元の大火。火は風にあおられて燃え広がり、都の三分の一が焼けた。一一八〇年には治承の辻風——大きな竜巻が吹き、家々をなぎ倒して屋根や塀を遠くまで巻き上げた。同じ年の六月、平清盛による福原遷都が強行される。長く続いた都が突然よそへ移され、人も町も混乱に落ちた。ところがその新しい都は、わずか半年ほどで立ちゆかなくなり、人々はまた京へ引き返す。いちばん動かないはずの「都」までが、半年のあいだに揺れ動いた。続く一一八一年から翌年にかけては養和の飢饉。日照りと長雨で作物が実らず、京の路上に死者があふれた。隆暁法印という僧が、行き倒れた死者の額に「阿」の字を記して供養しながら数えたところ、その数は四万二千を超えたという。『方丈記』が書きとめた光景に、こんな一つがある。母親が先に息絶えているのも知らず、まだ乳を吸いながら、その傍らに横たわる幼い子がいた、と。薪が足りず、人々は自分の家を壊して売りに出した。その薪に、赤い丹や金箔のついた木片が混じっている。たどってみれば、すべを失った者が古い寺へ入り込み、仏像を盗み、堂の仏具を打ち砕いて薪にしていたのだった。家も富も信仰も、流れて消えていく。そういう具体を、無常という言葉の底にいくつも沈めている。そして一一八五年、元暦の地震。地が揺れ、山が崩れ、家がつぶれた。揺り返しはその後も長く続いた。

鴨長明はこれらを、遠い噂としてではなく、都に生きる一人として見届けている。だからこの部分は、災害を見世物として並べた記録にはならない。書きとめているのは、立派な家を建てた人がその家もろとも焼ける姿であり、財を蓄えた人が財ごと失う姿だ。家も、富も、流れていく水と同じだった。冒頭の川の比喩は、ここで観念であることをやめる。実際にこの目で見た、焼けた家と飢えた路上の記憶に裏打ちされて、急に重くなる。無常とは、鴨長明にとって言葉ではなく、都の風景そのものだった。

一丈四方

世を捨てた鴨長明は、はじめ大原に隠れ、やがて日野の山に小さな庵を結ぶ。この庵が、書名にもなった「方丈」——一丈四方の小屋だ。

一丈四方とは、約三メートル四方。畳にして五畳半ほどの広さしかない。若い頃から数えれば、その住まいはけたちがいに小さくなっていった。ふつう人は、年を重ねるごとに広い家へ移ろうとする。鴨長明は逆の方向へ、ひたすら削りながら歩いた。そして人生の最後にたどり着いたのが、この五畳半だった。

注目したいのは、その作り方だ。鴨長明の小屋は、土台を地面に固定していない。礎石の上にただ柱を立て、継ぎ目は掛金で留めただけ。つまり組み立て式で、分解して別の場所へ運べる。なぜそんな作りにしたのか。理由を書きのこしている——もし気に入らないことがあれば、たやすく外へ移すためだ、と。

家を建てるとは、ふつう、その土地に根を下ろすことだ。だが鴨長明は、根を下ろさない家を作った。いつでも畳んで動かせる住まい。流れていく水であることを、嘆くのでも諦めるのでもなく、住まいの構造そのものに引き受けてしまった人がいた。冒頭で語られた無常は、この一丈四方の組み立て式の小屋という、たった一つの実物に姿を変える。観念を実測にまで持っていったとは、こういうことだ。

思えば、都で見たのは、立派な家が主人もろとも崩れ、焼け、流されていく光景だった。その記憶を抱えた人が選んだのは、はじめから崩すことを織り込んだ家だ。掛金を外せば畳める。気が向けば運べる。その小屋は、いつ手放してもいいように作られた住まいだった。失うことに怯えるかわりに、失える形をあらかじめ用意しておく。一丈四方とは、無常に抵抗するための砦ではなく、無常と一緒に動くための、小さな器だった。

五畳半の中身

その五畳半に、鴨長明は何を置いたのか。『方丈記』は、小屋の中の配置まで几帳面に書きとめている。

西側には仕切りを設け、その奥に阿弥陀の像を据え、傍らに普賢菩薩の絵を掛けた。前には法華経を置く。東のはしには、わらびのほどろ——枯れたしだを敷いて寝床にした。南西には竹を吊って棚をしつらえ、黒い革張りの籠を三つ並べる。中身は、和歌の書き抜きと、管絃の楽譜と、往生要集。そのそばに、折りたためる琴と、継いで作った琵琶を立てかけた。折琴と継琵琶という、持ち運びを考えた楽器だ。

並べてみると、手放さなかったものの輪郭が見えてくる。仏と、経と、歌と、音楽。世のすべてを捨てて山に入った人が、最後まで籠に入れて運んだのは、信仰と、自分が打ち込んできた歌と音だった。小さくするとは、何もかも捨てることではない。何を残すかを、籠三つぶんまで絞り込むことだった。神職にはなれなかったが、歌人であり楽人であった自分を、鴨長明はこの五畳半の中でも手放していない。

おもしろいのは、その琴と琵琶までが、折りたたみと継ぎ合わせのできる作りだったことだ。家が運べるだけではない。中に置く楽器も、畳んで持ち運べる形をしている。三つの籠も、背負って動かせる。その小屋は、外側の柱組みから中身の一つひとつまで、まるごと「いつでも動ける」ように整えられていた。根を張らないことを、これほど隅々まで一貫させた住まいは、なかなかない。

十歳と六十

小さな小屋の中で、鴨長明はどう過ごしたのか。『方丈記』の後半は、その暮らしの細部でできている。

山のふもとに、山守の小さな庵があった。そこに幼い子がいて、ときどき小屋へ遊びに来る。手持ちぶさたな日には、この子を連れて山を歩いた。少年は十歳、鴨長明は六十。本人が、そう書きつけている。歳はまるで違うのに、心を慰めるところは同じだ、と。花を見、木の実を拾い、谷の水を汲む。仕える主もなく、養う家族もない一人の老人が、十歳の子と並んで山道を行く。粗末ではあっても、その筆はこの日々をいきいきと書く。

季節は、小屋のまわりを順にめぐっていく。春には藤の花が、紫の雲のように西へたなびく。夏にはほととぎすが鳴き、その声を聞くたび、死出の山路を思う。秋にはひぐらしの声が耳を満たし、はかないこの世を悲しんでいるように聞こえる。冬には雪が降り、積もってはまた消えていくさまを、自分の罪障になぞらえる。花も鳥も雪も美しい。けれど、その耳と目は、美しさの中にいつも、消えていくものの気配を聞きとっている。満ち足りた小屋の暮らしの底にも、冒頭の川は流れ続けている。

鴨長明はこの暮らしを、はっきり肯定している。広い家に住んで人に気を使うより、狭い小屋に一人でいるほうがいい。多くを持って失う不安を抱えるより、はじめから何も持たないほうが軽い。災害も飢饉も遷都も見てきた人が、長い回り道の果てにようやく見つけた答えのように、この簡素な日々は書かれている。読んでいて、ここで本が終わってもよかったのに、と感じるほど、その小屋の時間は満ち足りて見える。「持たない暮らし」は、この五畳半でいちど行き着くところまで行き着く。

最後に、その小屋を疑う

『方丈記』が書き上げられたのは建暦二年、西暦でいえば一二一二年。日野の小屋で暮らしていた、晩年のことだった。世を捨ててからの年月をこの五畳半で振り返り、最後に筆を擱く。その本の結びで、鴨長明は、安らかな結論を出して終わらせなかった。彼は突然、自分自身に問いを向ける。

仏の教えでは、何かに執着することを戒める。ならば、この草庵を愛し、この閑かさを愛している自分の心は、どうなのか。それもまた執着ではないのか。世を捨て、家を捨て、一丈四方まで削ってたどり着いた静けさ——その静けさを愛する心さえ、仏道の妨げになるのではないか。鴨長明は明け方の静かな時間に、そう自分へ問いかける。

これは、きれいな終わり方ではない。せっかく小さな小屋で得た安らぎを、自分の手で疑いにかける。そして問いに答えを出さないまま、舌の先で念仏を二度三度となえて、筆を擱く。安住を肯定して終わる本ではなかった。最後の最後で、その安住への愛着すら手放そうとして、けれど手放しきれず、念仏へ逃がすようにして終わる。

いまの「持たない暮らし」は、しばしば一つの達成として語られる。これだけ減らせた、こんなに身軽になった、と。鴨長明の歩みも、五畳半に至るまではその達成の物語に見える。だが、達成したところで足を止めなかった。減らしきった暮らしに満足している自分を、その満足ごと、もう一度疑った。少なく持つことが目的になれば、それもまた一つの執着になる。鴨長明が最後に見ていたのは、持ち物の数ではなく、持つことと手放すことのあいだで揺れる自分の心のほうだった。

鴨長明という人の誠実さは、この最後の自問にこそ出る。持たない暮らしを礼賛して終わることもできたはずだ。けれど、「持たない」ことに満足している自分を、もう一度疑った。小さくすることが到達点ではなかった。小さくした先で、その小ささを愛する心にまで問いを向けた人がいた。私たちが『方丈記』を八百年経ったいまも読み返すのは、この最後の一手があるからだ。

おわりに

日野の山にあった一丈四方の小屋は、もう残っていない。残っているのは寸法だけだ。約三メートル四方、畳にして五畳半。礎石に柱を立て、掛金で留め、気に入らなければ運べる小屋。その中に、阿弥陀の像と、法華経と、籠三つぶんの歌と楽譜と、折りたためる琴があった。

八百年前、大火と飢饉と地震を都で見届けた人が、最後にその広さまで暮らしを削った。そして削りきった小屋の中で、その静けさを愛する自分の心を、もう一度疑った。鴨長明は答えを出さないまま、舌の先で念仏を二度三度となえて、筆を擱いている。三メートル四方の中で彼が最後にしたのは、自分の心と向き合うことだった。その姿が、八百年分の時間を越えて、いまも小屋の寸法と一緒に残っている。

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