『ハサミ男』殊能将之—語り手の体温を疑い始めるとき
はじめに. 冷たい独白の手触り
殺人犯の独白から始まる小説は、 たいてい熱を帯びている。 怒り、 衝動、 性的執着、 何らかの動機。 文章の温度が、 行為の温度に呼応している。 そういう書かれ方が多い。
殊能将之の『ハサミ男』は、 そうではないのである。 一人称の語り手は、 ハサミで美少女を殺す。 でも、 その独白は、 妙に冷静で、 整っていて、 ときどき教養的ですらある。 文学への引用、 古典への言及、 自分の犯行を遠くから眺めるような距離感——そういう手つきで、 殺人が記述される。
読みながら、 ふと、 こちらの体温も下がっていることに気がつくだろう。 ページの冷たさが、 こちらに移ってきている。 そういう手触りの文章なのだ。
物語の筋を書くことは、 ここではしない。 1999年、 第13回メフィスト賞受賞作。 殊能将之の長編デビュー作。 このくらいの情報で、 とどめておきたい。 ネタバレを避けるのではなく、 (おそらく)そもそも筋を語ることが、 この作品に対して不誠実な行為になるからだ。
書けるのは、 文体の温度のことだけである。
1. 殺人犯の知性、 その出どころ
語り手の独白は、 知的である。 殺人を犯す人物の独白が、 ここまで教養的でいいのか、 と思うほどに。 古典、 哲学、 文学への言及が、 軽やかに混ざる。 殺人の場面で、 そういう引用が出てくる。
これは、 物語上のリアリティとしては、 やや不自然である。 連続殺人犯が、 これほど落ち着いて、 古典を引きながら自分の行為を語る——そういう人物は、 統計的にもまずいない。 にもかかわらず、 違和感より先に、 こちらは語り手の知性そのものに引き込まれていく。
ここで起こっていることを、 少し言葉にしてみる。 知的な独白は、 殺人という行為から、 こちらを一度引き離す効果を持つ。 行為の生々しさが、 文章の冷たさによって、 緩衝される。 読者は、 殺人を見せられているのに、 殺人の生々しさからは引き離された場所に置かれる。
その立ち位置自体が、 この作品の入り口なのではないか、 と読みながら感じることができる。 距離が作られる。 そして、 その距離があるからこそ、 終盤で何かが裏返るとき、 こちらは深く揺らされることになるのだろう。
2. 視点が切り替わる瞬間
『ハサミ男』には、 一人称の独白と、 三人称の記述が、 交互に置かれている章構成がある。 これは比較的早い段階で読者に明かされる構造なので、 書いても問題ないだろう。
一人称の章では、 殺人犯の内面が語られる。 三人称の章では、 警察の捜査が描かれる。 ふつうに読めば、 「犯人視点」 と「捜査側視点」 の往復として、 受け取れる。
ただ、 読み進めるうちに、 視点の切り替わりそのものに、 不安が混ざってくる。 「誰が語っているのか」 「いまの章は、 信用していいのか」 という疑念が、 静かに芽生えるのだ。 殊能将之は、 その疑念を過剰に煽ったりはしない。 ただ、 文体の温度を一定に保ったまま視点だけを切り替える。 読者は、 自分の疑念を、 自分で抱えることになる。
これは、 叙述ミステリの古典的な手法でもある。 だが、 殊能将之の場合、 手法を「使っている」感じがほとんどしない。 仕掛けが「物語の構造そのものに溶けている」と言っても良いかもしれない。 「ここで叙述トリックが使われている」 と意識する前に、 すでにこちらは構造の中に絡め取られている、 という具合である。
視点が切り替わる瞬間、 章の冒頭で、 こちらは一瞬立ち止まることになるだろう。 「いま、 誰の話を読んでいるのか」 を確認する数秒が発生するのだ。 立ち止まる数秒が、 読書中に何度も訪れることになる。
3. ハサミという道具
凶器が、 ハサミである。 ナイフでも銃でもなく、 ハサミなのだ。 この選択が作品全体の温度をある程度決めている気がする。
ナイフは、 刃の長さがあり、 一度の動作で深く刺すことができる。 銃は、 距離を取って撃てる。 どちらもある種の「断絶」を演出する道具である。 殺す側と殺される側のあいだに、 物理的・心理的な距離が作られる。
ハサミは、 これらとは対照的だ。 刃が短く、 二枚が組み合わさって、 ものを切る道具である。 殺す側が、 殺される側の身体に、 ハサミを当てる。 開く。 そして閉じる——その動作には、 妙な近さがある。 近すぎるのだ。 殺人として、 効率的とは決して言えないだろう。 にもかかわらず、 語り手はハサミを使う。
なぜハサミなのか、 ということを語り手は深くは説明しない。 説明しないことが、 この小説全体の冷たさを生んでいる一つの要因なのだ。 「この道具を選んだ理由を自分でも整理しきれていない」 という感触が、 独白から漏れる。 知的に整理された文章の隙間に、 不可解な選択が一つだけ置かれている。 その一つが、 作品全体の不気味さをずっと支えているようにも感じられる。
道具の選び方は、 文体の選び方と似ている。 殊能将之が「ハサミ」 を選んだことと、 「冷たい独白」 を選んだことは 同じ手つきの判断なのではないか、 と読みながら感じることができる。 どちらも、 ふつうではない選択である。 ただ、 普通ではないことを殊能将之は声高には主張しない。
4. 模倣される犯行
序盤、 比較的早い段階で物語に動きが入る。 語り手が、 次の獲物を尾行している。 その途中で、 自分より先に同じ標的が別人によって殺されているのを発見する。
「自分の犯行が他者に模倣された」 ように見える展開である。 これは、 ネタバレに該当しないレベルの設定情報として、 帯にも書かれている類の話である。 だから書いておく。
ここから物語は、 「自分のフィールドに、 別の何者かが踏み込んできた」 という不安を軸に動き始める。 連続殺人犯の独白なのに、 語り手は被害者のように怯える。 自分の存在が、 別の存在によって、 上書きされかけている感覚と言ってもいいかもしれない。
ここで起こっていることを言葉にすることは少し難しい。 「アイデンティティの侵犯」 と書くには整理しすぎている。 「鏡像」 と書いてもきれいすぎる。 そもそも殊能将之の文章は、 そういう整理を求めてはいないだろう。
語り手は、 自分の犯行を模倣されたことに、 知的な好奇心と、 動物的な不安の両方で、 反応することになる。 その両方が、 同時に、 同じ文章の中で起こっている。 知的な好奇心の側に立てば、 これはミステリの謎解きである。 動物的な不安の側に立てば、 これは縄張りの侵食である。
二つの温度が、 同じ独白の中に同居している。 そして、 こちらはどちらの温度を取って読むべきか、 ずっと迷わされることになるのだ。
5. 体温が引き下げられていく時間
ここまで書いてきて、 一つの変化に気が付く。 それは、 30ページ、 50ページ、 100ページとページをめくるうちに、 体温が少しずつ、 ページに引き下げられていく感じがする、 ということである。 物理的に体温が下がっているわけではないだろう。 でも、 自分の指先や呼吸のリズムが、 だんだん文章の温度に合わせられていく感覚があるのだ。
これは、 おそらく没頭とは違う種類の現象である。 没頭しているとき、 こちらは作品に引き込まれていく。 自分の体温が作品の体温に向かって、 上がっていく。 でも、 『ハサミ男』を読んでいるとき、 起こっているのは逆方向である。 こちらの体温が、 作品の冷たさに引き下げられていくのだ。
たぶん、 これは殊能将之という作家の文体の特徴なのではないかと思う。 読者を熱狂させるのではなく、 読者の体温を下げて、 自分の温度に揃えさせる。 その手つきが静かで巧妙なのだ。 だから怖さを生む。
体温が揃ったとき、 読者はすでに語り手の側にいるだろう。 殺人犯の独白を、 殺人犯と同じ温度で受け取ってしまっている。 ここまで来て、 ようやく終盤の仕掛けが効くのか、 と読みながら感じるのだ。
おわりに.
本を閉じた時、 部屋の温度は、 読み始めたときと変わっていないだろう。 でも、 自分の体温は、 読み始めたときよりも少しだけ低く感じるかもしれない。
殊能将之の作品を久しぶりに読んだ。 1999年のデビュー作だから、 もう20年以上前の本である。 その間に、 叙述ミステリと呼ばれるジャンルは、 たくさんの作品を生んできた。 でも、 『ハサミ男』の冷たさには、 ほかの作品では代替されない手触りがある。
知的な独白、 視点の交錯、 ハサミという道具の選び方、 模倣される犯行——どの要素を取り出しても、 単独では「ふつう」 のミステリの構成要素である。 でも、 殊能将之の手にかかると、 それらが、 ふつうではない並びで置かれる。 そして、 文体の冷たさが、 全体を一つに繋ぐ。
何かが裏返る、 その手前で本を閉じる、 という読み方は、 おそらくこの作品には許されないだろう。 最後まで読んで、 仕掛けに揺らされて、 自分の体温が引き下げられたことを、 終わってから気づく——そういう読書を、 この本は要求してくるのだ。
