G-0C41NE8DJB 『論語』孔子 — 四十を過ぎても、惑っていた男|亀吉の呟き
亀吉の書評

『論語』孔子 — 四十を過ぎても、惑っていた男

『論語』孔子 — 四十を過ぎても、彼は惑っていた
yoshiomi

「三十にして立つ」「故きを温ねて新しきを知る」「巧言令色、鮮なし仁」。どれも、本を開いたことがなくても、どこかで耳にしたことがあるかもしれない。論語は、通読した人より、断片で知っている人のほうがずっと多い本だ。生活のなかに散らばった格言の出どころとして、名前だけが広く行き渡っている。

だから論語には、二重の距離がある。言葉としては近く、書物としては遠い。「三十而立」を色紙で見たことはあっても、その一行が誰の、どんな場面の声だったのかを知る人は少ない。では、断片を拾い集めるのではなく、はじめから終わりまで通して読むと、そこから聞こえてくるのは誰の声なのか。

先に言ってしまえば、それは完成した聖人の声ではない。四十を過ぎても惑い、諸国をめぐっても用いられず、弟子に正面から言い返された、一人の人間の声だ。論語は格言集の顔をして、その実、生涯かけて学びをやめなかった人の記録として読める。全二十篇、五百ほどの短い章句の集まりで、長い物語も、整った理論の体系もない。あるのは、問いと答え、つぶやきと言い直しの断片だ。その断片を順に拾っていくと、格言の背後にいた人の輪郭が、少しずつ見えてくる。

あなたへのおすすめ

聖ではなく、学を好む者

孔子は、自分を聖人だとは一度も名乗らなかった。述而篇に、こういう一節がある。「若聖与仁、則吾豈敢」——聖だの仁だのと、どうして自分が言えようか。謙遜の決まり文句として読み流すこともできる。けれど公冶長篇の別の言葉を隣に置くと、そう単純ではないことがわかる。

「十室之邑、必有忠信如丘者焉、不如丘之好学也」。十軒ほどの小さな村にも、自分ほど誠実な者はきっといるだろう。ただ、学を好む点では、自分に及ぶ者はそういまい。孔子はそう言った。誠実さや善良さでは並ぶ者がいると認めたうえで、学ぶことが好きだという一点だけは、静かに、しかしはっきりと誇っている。

聖人という完成形を否定し、好学という進行形を引き受ける。この立ち位置が、論語という本の性格を決めている。到達した人の言葉ではなく、途中にいる人の言葉。だから論語には、答えの断定よりも、問い直しと言い直しのほうが多い。孔子は繰り返し「まだ足りない」と言い、弟子に問われるたびに、少しずつ違う角度から答える。

この好学は、恵まれた環境から出てきたものではなかった。孔子は幼くして父を亡くし、十代で母も失っている。若い頃には、倉庫の管理や家畜の世話といった下級の職に就いた。学問を家業として受け継いだのではなく、貧しい生い立ちのなかで、自分から学びをたぐり寄せていった人だ。やがて魯の国で司法長官格の大司寇にまで昇るが、政治の場で理想を実現できず、官を辞している。地位を得ても、それに安住しなかった。学を好むという一点は、順境でも逆境でも変わらなかった。

十五から七十への遅い道

その進行形をもっとも端的に示すのが、為政篇の有名な一節だ。「吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑はず、五十にして天命を知る、六十にして耳順ふ、七十にして心の欲する所に従ひて矩を踰えず」。

この一節は、しばしば人生の到達目標のように引かれる。三十で一人前になり、四十で迷いがなくなる。そういう成功譚として読めば、孔子は各段階を順調に踏破していった模範のように見える。けれど、順序を逆から見ると、別の景色が現れる。

七十でようやく「心の欲する所に従ひて矩を踰えず」——思うままに振る舞っても道を外さない、という境地に至った、と孔子は言っている。裏を返せば、それ以前は外しかねなかった、ということだ。四十で惑わなくなったと書く人は、それまで惑っていた。しかもこの四十の直後、五十代後半から、孔子は十三年におよぶ諸国遍歴に出る。自分を用いてくれる君主を探して国から国へと渡り歩き、どこにも容れられないまま、六十代の終わりに故郷の魯へ帰ってくる。

「四十而不惑」と書いた当人が、その四十を過ぎてなお、居場所を求めてさまよっていた。十五から七十へと引かれたこの線は、まっすぐな上り坂ではない。惑い、用いられず、引き返し、それでも学ぶことをやめなかった人の、遅く長い道のりの目盛りだ。一段ずつ、ずいぶん時間をかけて刻まれている。

相手によって変わる仁

論語の中心には「仁」という言葉がある。まごころに根ざした人への思いやり、とひとまず言える。けれど孔子は、この最重要の概念を、一度もきれいに定義しなかった。弟子が「仁とは何ですか」と問うたびに、答えが違う。

顔淵篇を読むと、それがよくわかる。高弟の顔淵が仁を問うと、孔子は「己に克ちて礼に復る」と答える。自分を抑えて礼に立ち返ること。ところが仲弓が同じことを問うと、答えは「己の欲せざる所、人に施すこと勿れ」——自分がされたくないことを、人にしてはならない、に変わる。司馬牛が問えば「其の言や訒」、言葉を慎み深くすることだ、と返す。樊遅にはまた別の答えを与えている。

同じ問いに、なぜ違う答えを返すのか。相手が違うからだ。抑えるべき自我の強い弟子には自制を説き、他人への配慮が課題の弟子には恕を説く。孔子にとって仁は、どこかに一つの正解があって、それを暗記すれば済むものではなかった。目の前の一人が、いまどこでつまずいているか。それを見てから、その人にとっての仁を手渡す。

仲弓に与えた「己の欲せざる所、人に施すこと勿れ」は、衛霊公篇にも出てくる。子貢が「一言で、生涯行っていける言葉はありますか」と問うたとき、孔子は「其れ恕か」——それは恕、思いやりだろうか、と答え、続けてこの一句を挙げた。自分がされたくないことを、人にしない。仁のように高くは掲げられていないが、生涯かけて手放さずにいられる指針として、孔子はこの低くて確かな一言を差し出している。

だから論語の仁には、辞書のような定義がない。あるのは、具体的な誰かとのやりとりの断片だ。この本が体系書ではなく対話の記録だというのは、こういうところに表れている。仁は到達すべき頂上ではなく、身近な関係のなかで、その都度、確かめ直していくものとして書かれている。

言い返す弟子たち

論語がただの教訓集にならないのは、そこに弟子たちの声が入り混じっているからだ。孔子の言葉だけが並んでいるのではない。門人たちが問い、時に異を唱え、孔子がそれに応じる。そのやりとりの往復が、この本の骨格になっている。

弟子は三千人いたと伝えられ、そのうち六芸に通じた高弟が七十人あまり。彼らは徳行・言語・政事・文学という四つの領域に分かれていたという。同じ師のもとで、まるで違う個性が育っていた。

なかでも孔子がもっとも愛したのが、顔回だった。仁を問うたあの顔淵と同じ人物だ。昔の中国では、一人が「名」と「字(あざな)」という二つの呼び名を持っていた。顔回が名、顔淵が字で、同じ弟子を場面によって呼び分けているにすぎない。貧しい暮らしのなかでも学ぶ楽しみを手放さず、徳においては群を抜いていた。ところがこの顔回は、孔子より先に世を去ってしまう。訃報に接した孔子は「天予を喪せり」——天が私を滅ぼした、と嘆いた。理想の弟子を失った老人の、抑えの利かない悲しみが、そのまま書き留められている。

対照的なのが子路だ。武勇に秀で、思ったことをそのまま口にする直情の人で、師である孔子にすら遠慮なく異を唱えた。孔子が意に染まぬ相手に会おうとしたときなど、露骨に不機嫌になって、まっすぐ抗議している。師と弟子の関係が、上から下への一方通行ではなかったことが、この子路の遠慮のなさによく表れている。子路はのちに、仕えた国の内乱に巻き込まれて命を落とす。弁舌と外交に長けた子貢は、孔子の死後もその名声を守り抜いた。孔子より若い世代の弟子だった曾子は、「吾日に三たび吾が身を省みる」——日に三度わが身を省みる、と自らを律し続け、孔子の道を後の世へ伝えていく役目を担った。

これだけ違う人間たちが、一人の師のまわりに集まり、それぞれのやり方で学んでいた。仁の答えが相手によって変わったのも、当然だったのかもしれない。目の前にいるのが、顔回なのか子路なのかで、渡すべき言葉はまるで違う。論語の対話は、こうした具体的な顔を持った人々とのあいだで交わされている。

学ぶことと考えること

孔子は学ぶことを何より好んだ人だが、丸暗記の人ではなかった。為政篇に「学びて思はざれば則ち罔し、思ひて学ばざれば則ち殆し」とある。学んでも自分で考えなければ、身につかずぼんやりするだけだ。かといって考えるばかりで学ばなければ、独りよがりで危うい。学と思は、どちらか一方では足りず、両輪でなければ回らない。

この均衡感覚は、知そのものへの態度にもつながっている。同じく為政篇の「之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為す、是れ知るなり」。知っていることを知っているとし、知らないことを知らないとする。それが知るということだ。知ったかぶりをしないこと、自分の無知の輪郭を正確に持っていることを、孔子は知性の条件とした。

学を好むと自ら誇った人が、同時に「知らないことは知らないと言え」と説く。この二つは矛盾しない。むしろ地続きだ。自分がまだ知らない領域があると認めているからこそ、学びは終わらない。好学とは、知識の量を誇ることではなく、無知の縁に立ち続ける姿勢のことだったのだろう。

学びが古いものの反復に閉じないのも、この姿勢と関わっている。為政篇の「故きを温ねて新しきを知る、以て師と為るべし」——古いことを尋ね直して、そこから新しいものを見つけ出せる者こそ、師となるにふさわしい。温故知新という四字は、いまでは古典の尊重を説く決まり文句のように使われる。けれど原文が言っているのは、単に古いものを守れということではない。古いものに立ち返りながら、そこから新しい何かを引き出す、その往復のできる人が師なのだ。過去はしまい込む倉庫ではなく、繰り返し尋ね直しにいく場所なのだ。

学ぶことへの飢えは、時に激しさを帯びる。里仁篇の「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」。朝に真理を聞くことができたなら、その日の夕方に死んでもかまわない。おだやかな好学の人という像からは、少しはみ出す言葉だ。学ぶことを、命と引き換えにしてもいいものとして語っている。四十を過ぎて惑い、諸国で用いられなかった人の内側には、これほど張りつめた渇きもあった。

過ちとの向き合い方

もう一つ、論語を通して繰り返し戻ってくる主題がある。過ちとの向き合い方だ。衛霊公篇の「過ちて改めざる、是を過ちと謂ふ」。過ちを犯すこと自体ではなく、それを改めないことこそが過ちだ、と孔子は言う。

これは、失敗を責める言葉ではない。むしろ逆で、人は過つものだという前提から出発している。問題は、過ったあとにどうするか。気づいて改めるなら、それはもう過ちではない。改めずに握りしめたときに、はじめて過ちになる。

もし完全な聖人なら、そもそも過ちなど犯さないだろう。だが孔子は、自分をそんな聖人だとは考えなかった。だから彼の言葉には、過つことを織り込んだうえで、そこからどう学び直すかという道筋が組み込まれている。惑い、間違え、用いられず、それでも改め続ける。論語の学びは、完璧な人が下す教えではなく、不完全な人が自分に課し続けた習練として書かれている。

退く思想の隣に

同じ古い中国の思想でも、老子の道徳経は、これとは逆の方角を向いている。力まず、争わず、低いところへ流れる水のように、退くことのなかに強さを見た。作為をやめる無為が、そこでは肯定される。

孔子は、そちらへは行かなかった。彼は人の世に関わり続けることを選んだ。用いられなくても諸国をめぐり、弟子と語り、礼を説き、仁を問い直した。関わることの徒労を誰よりも味わいながら、それでも人と人のあいだから降りようとはしなかった。

里仁篇に「徳は孤ならず、必ず隣あり」という一句がある。徳のある人は孤立しない、必ず理解し合える隣人が現れる。用いられず諸国をさまよった人の言葉としては、楽観がすぎるようにも聞こえる。けれど、これは現に報われた者の安心ではなく、報われなくても関わることをやめなかった者の、覚悟に近い。孤立するかもしれない。それでも、人のあいだに徳を積むことに賭ける。退くことに深さを見た思想と、関わることに意味を見た思想。二つは同じ時代の空の下で、反対の方向へ手を伸ばしている。どちらが正しいという話ではない。人が世界とどう向き合うかについて、古代の中国は、少なくとも二つの答えを同時に用意していた。

おわりに

最後に、忘れてはならないことがある。論語は、孔子が書いた本ではない。孔子の死後、その言葉と振る舞いを、弟子や孫弟子が記憶をたどって書き留め、長い時間をかけて編んでいったものだ。誰が編んだのかは、はっきりとは特定できない。

このことは、論語という本の性格をよく言い表している。これは一人の思想家が体系を組み上げた書物ではなく、一人の人間の周りに集まった人々が、その声を惜しんで書き留めた記録だ。だから断片的で、順序も整っておらず、同じ問いに違う答えが並んでいる。矛盾も、言い淀みも、そのまま残っている。

後の世は、この本を儒教の経典に祭り上げ、忠君や上下の道徳と結びつけていった。けれど、そうした重い装いを一枚ずつ脱がせていくと、奥から出てくるのは、思うように用いられず、弟子に言い返され、それでも学ぶことをやめなかった、一人の人の姿だ。

十五で学に志し、七十でようやく矩を踰えないところまで来た。その長い坂を、孔子は最後まで登り続けた。七十で完成したのではなく、七十まで途中だった、と読むこともできる。論語という書物は二十篇で終わるが、孔子の坂は、そこで途切れてはいない。学を好んだ人は、いまも、どこかの目盛りのあたりを歩いている。まだ着いてはいない。急いでもいない。

あなたへのおすすめ
ABOUT ME
亀吉🐢
亀吉🐢
映画・本が好きな極めて一般的な20代
こんにちは。亀吉です。 仕事の合間にブログを書いています。 このブログは、どこまでも個人的で恣意的な思想の表明です。思うままに・・・ 映画と本が好きです。その他音楽や登山など。
記事URLをコピーしました