エピクロス — 「快楽主義者」と誤解された男は、パンと水で足りると言った
はじめに
「エピキュリアン」という言葉がある。今では、高級な食事を惜しまない人、ワインの銘柄に通じている人、贅沢と享楽を生活の芯に置いている人を指して使われる。レストランの名前にも、グルメ特集の見出しにも、この言葉はよく似合う。快楽を愛する人、という温度がそこにはある。
ところが、その語の元になったエピクロスという哲学者が説いたのは、ほとんど正反対のことだった。彼はパンと水で足りると言いきった。特別な日に少しのチーズと、ほんの少しの葡萄酒があれば、それで十分だと。豪華な食卓は満たすどころか、満たすたびに新しい飢えを呼ぶだけだと考えていた。
語のイメージと、その語が生まれた場所とが、これほど遠くまで離れてしまった例は珍しい。なぜ「パンと水で足りる」と言った男の名が、美食家の代名詞になったのか。そして彼が本当に説いた快楽とは、いったい何だったのか。エピクロスを読むことは、この二つの問いをほどいていくことになる。
1. 「享楽家」という誤解——名前だけが、意味を変えて残った
エピクロスは紀元前三四一年、エーゲ海のサモス島に生まれた。三十代の半ば、紀元前三〇七年ごろにアテネへ移り、そこに自分の学校を開く。プラトンのアカデメイア、アリストテレスのリュケイオンと並ぶ場として、その名は当時から知られていた。彼は三百巻ともいわれる著作を残したと伝わるが、その大半は散逸して、今に残るのはわずかな手紙と短い教説の集まりだけだ。
残ったものの中心に、メノイケウスという弟子に宛てた一通の手紙がある。幸福とは何か、快楽とは、徳とは、神とは、死とはどういうものか。それを在家の弟子に向けて、嚙んで含めるように説いた短い文章だ。後の時代に編まれた哲学者たちの伝記が、この手紙と、四十条からなる『主要教説』を書き写して伝えてくれた。エピクロスの肉声に近いものは、この細い糸でかろうじてつながっている。それとは別に、ローマの詩人ルクレティウスが、エピクロスの自然学を壮大な詩『物の本質について』に書き換えて残した。教えの大きな部分は、こうした弟子筋の手を通って、後の世まで生き延びたのだ。
奇妙なのは、思想の中身がほとんど失われていく一方で、彼の名前だけが生き延びたことだ。英語の epicure、epicurean という語は、もとはエピクロスの徒を指す言葉だった。それが十六世紀以降、「美食家」「享楽を追う人」という意味へ少しずつ滑っていく。今の辞書を引けば、その語はもう哲学とはほとんど関係のない、食卓と贅沢の言葉になっている。
なぜこんな逆転が起きたのか。一つには、エピクロス自身が「快楽」という言葉を教えの中心に据えたことがある。快楽を善と呼べば、誤解の余地はいくらでも生まれる。もう一つには、彼を敵視した人々がいた。簡素な暮らしの実態には触れず、「快楽主義」という看板だけを取り出して、放縦や堕落のレッテルに作り替えていった。中身が消え、看板だけが残る。エピキュリアンという言葉は、その看板のなれの果てなのだ。
だから、この言葉のイメージから入ると、本人にはまず届かない。彼が「快楽」と呼んだものは、私たちが今その語に感じている温度とは、別の方向を向いている。
2. 快楽とは「苦の不在」だった——満たすことではなく、乱されないこと
エピクロスにとって快楽とは、快感を積み上げることではなかった。彼が快楽と呼んだのは、苦しみがないこと、ただそれだけだった。体に痛みがなく、心が乱されていない——その状態をこそ、最も高い快楽と呼んだ。
彼はこの状態に二つの名前を与えている。体に苦痛のないことをアポニア、魂が波立たない平静をアタラクシアと呼んだ。この二つが満たされたとき、人はもうそれ以上のものを足す必要がない。御馳走を重ねても、快楽の総量が増えるわけではない。空腹が消えた先に、もっと深い満足があるわけでもない。満たされた地点から先は、ただ味が変わるだけで、苦が減ったわけではないからだ。
たとえば、喉が渇いて水を飲むとき、飲んでいる最中の心地よさがある。けれど本当に値打ちがあるのは、飲み終えて渇きが消え、もう水を求めなくてよくなった、そのあとの状態のほうだ。飲む快楽は、渇きという欠如があってはじめて成り立つ。渇きの消えた状態は、それ自体で完結していて、もう何にも脅かされない。エピクロスが上に置いたのは、この後者の満ち方だった。欠けたものを埋めていく最中の快楽より、欠けたものがもうない状態そのものを、彼ははるかに高く見た。
メノイケウス宛の手紙の中で、彼はわざわざ念を押している。自分の言う快楽とは、放蕩者の快楽でも、官能にふけることでもない、と。それはむしろ、体の痛みと心の乱れから自由であることなのだ、と。誤解されることを、彼自身が生前から恐れていたのが分かる。そして快楽を選ぶには、思慮が要るとも説いた。目の前の快に飛びつくのではなく、その快が後でどんな苦を連れてくるかまで勘定に入れて、引き受けるものと退けるものを冷静に見分ける。賢く選ぶことが、快楽の側に立つということだった。
だからこそ、生活は簡素になっていく。パンと水で空腹が消えるなら、それで苦は取り除かれている。御馳走はそこに快を足すのではなく、御馳走でなければ満たされないという新しい飢えを足してしまう。彼が質素を選んだのは、禁欲のための禁欲ではない。簡素な快で足りるからこそ、贅沢を欲しがらずにすむ。減らしていった先に、乱されないものが残る——その順序を、彼は見ていた。
彼の暮らしぶりを伝える、こんな逸話が残っている。ある友人への手紙で、エピクロスはチーズを少し送ってほしいと頼んだ。気が向いたときに、ご馳走ができるように、と。彼にとっての贅沢とは、その程度のものだった。ふだんはパンと水で足り、たまの楽しみが一かけらのチーズ。それを「ご馳走」と呼べる人は、もう、ほとんど何にも脅かされていない。手に入れないと不安なものが少ないほど、人は自由でいられる。
同じヘレニズムの時代に、これとちょうど逆を行く一派がいた。キュレネ派と呼ばれる人々は、肉体の、その瞬間の、強い快こそが善だと考えた。快楽は足し続けるものだ、という立場だ。彼らはエピクロスの説く「欲も苦もない状態」を、生きた快楽ではない、死体の状態だと嘲笑した。同じ快楽という言葉を掲げながら、片方は足す方へ、片方は引く方へ、正反対に歩いていったのだ。
3. 何を引くのか——欲望と、二つの大きな恐れ
引く、と言っても、闇雲に我慢するわけではない。エピクロスは欲望を三つに仕分けした。
一つめは、自然で必要な欲望。空腹を満たす、喉の渇きをいやす、寒さをしのぐ、安心して眠る。生命と心の平安にかかわるもので、満たすのはたいてい難しくない。二つめは、自然ではあるが必要ではない欲望。豪華な食事、珍しい香り、贅沢な衣。あれば嬉しいが、なくても苦にはならない。三つめが、空虚な欲望だ。名声、権力、富、そして不死。これらは自然でも必要でもなく、何より際限がない。手に入れても、もっと、と次が要る。満ちるということが、最初から仕組まれていない。
足しすぎる苦しみの多くは、この三つめから来ている。だからまず、際限のない欲を見分けて手放す。これが引き算の一段めだ。自然で必要なものはたやすく満たせるのだから、暮らしの土台は、思っているよりずっと小さくてすむ。本当に要るものは少なく、要らないものほど、声を大きくして私たちを急かしてくる。とりわけ富や名声は、いくら積み上げても「これで十分」という地点を持たない。足すことで安心を買おうとするほど、かえって安心から遠ざかっていく。
けれど、エピクロスが本当に取り除こうとした苦は、欲望だけではなかった。人の心を最も深く乱すのは、二つの大きな恐れだと彼は見た。神への恐れと、死への恐れである。
神について、彼は無神論を説いたのではない。神々は存在する、と認めている。ただし神々は至福のうちにあり、人間の暮らしに介入も干渉もしない。罰を下したり褒美を配ったりすれば、その至福が乱れてしまうからだ。だから神の怒りに怯える必要はない。むしろ神々は、何ものにも煩わされない境地の、完成された姿だった。怒りも嫉妬もなく、誰かを罰する必要も感じない。人が目指すべき乱されなさを、神々は先に生きている——そういう遠さに、エピクロスは神を置いた。彼の自然学、世界は原子からできているという考えも、知識を誇るためのものではなかった。天変地異や病を神の罰と読む迷信を消し、そこから来る恐れを断つための道具だった。
死については、よく知られた一行がある。「死は、我々にとって何ものでもない」。メノイケウス宛の手紙にある言葉だ。理屈はこうだ。善も悪も、すべて感覚を通してやってくる。死とは感覚が終わることだから、死そのものには何の感覚もない。「我々が在るとき、死はまだ無い。死が在るとき、我々はもう無い」。だから死と私たちは、決して出会わない。これは冷たい諦めでも、生を軽く見る言葉でもない。死の恐怖という、心を最も激しく乱す一つを取り除くための、いわば治療として書かれている。
後の時代のエピクロスの徒は、この教えの核を四つの短い処方に約めた。神を恐れるな。死を恐れるな。善いものは手に入れやすい。恐ろしいものは耐えやすい。四つの薬、と呼ばれた言葉だ。神への恐れを取り除き、死への恐れを取り除き、際限のない欲を退けていけば、本当に必要な善は手の届くところにあり、残った苦痛も思うほど長くは続かない——そういう順序になっている。余計なものをそぎ落とした先に、もう揺らぎようのないものが残る。エピクロスの言う快楽とは、そうやって最後に残ったものの名前だった。
4. 隠れて生きよ——庭に残ったもの
名声が空虚な欲望の一つなら、その帰結ははっきりしている。エピクロスは「隠れて生きよ」と説いた。公の場や政治、人の評判から退いて、近しい友と暮らせ、という教えだ。
名声は、空虚な欲望の中でもとりわけ厄介だ。群衆の評価に絶えずさらされ、他人の意見に自分の安定を預けることになる。今日の称賛は明日の侮蔑に変わりうるし、権力の周りには怨みが集まる。手に入れても満ちず、失えば苦しむ。彼が公職や栄誉から距離を取ったのは、怠けたかったからではない。心の平静を、他人の手の中に置かないためだった。古代のアテネでは、市民の義務を放棄するものとして、この教えは激しく非難されもした。
退いた先で彼が最も重んじたのが、友情だった。幸福を支えるさまざまな手立ての中でも、友を持つことが飛び抜けて大きい、と彼は考えていた。財産や地位は奪われも目減りもするが、安心して語り合える相手がいるという満ち方は、外から崩されにくい。友と分け合うパンは、一人で食べるどんな御馳走よりも、人を満たす。あらゆるものを引いていく彼の生き方の中で、友情だけは、進んで残しておくべき数少ない「足す」価値だった。
彼の学校は「庭」と呼ばれ、アテネの郊外の庭園で営まれた。そこに集った人々は、自分たちを師弟というより「友人たち」として理解していたという。そしてこの庭には、当時のほかの学校がほとんど受け入れなかった人々がいた。女性がいて、奴隷がいた。名声も地位も要らないと決めた場所では、世間が引いていた身分の線のほうが、先に薄くなっていたのだ。エピクロスの思想は、書物の中だけのものではなかった。パンと水を分け合い、際限のない欲を一つずつ手放し、恐れを語り合って解いていく。庭という場所そのものが、引き算の暮らしの形をしていた。
ローマの哲学者セネカが書き残したところによれば、この庭の門には、こんな意味の言葉が掲げられていたという。旅人よ、ここでは心地よく過ごせる、ここでは快楽こそが最も善いものとされている、と。そして客を出迎える者は、麦で作った菓子と、たっぷりの水でもてなし、こう言い添えたという。よくもてなされたでしょう。この庭は、あなたの食欲をかき立てるのではなく、鎮めるのだから、と。快楽の庭の入り口に置かれていたのが、豪華な宴ではなく、麦と水だった。エピクロスの言う快楽がどういうものだったかを、この門ほど短く言い当てるものはない。
紀元前二七〇年、彼は尿路結石による激痛のなかで死を迎える。その最後の日、弟子のイドメネウスに宛てて手紙を書いた。耐えがたい痛みの最中にありながら、心は満ち足りていて、これまで交わした語らいの記憶がそれを支えている——そう記して、その日を幸福な一日と呼んだと伝わる。引いたあとに残るものを、彼は最後まで手放さなかった。
おわりに
私たちは、毎日のように急かされている。もっと欲しい、もっと稼げ、もっと頑張れ。画面の向こうでは、誰かがいつも、自分より多くを持っているように見える。足りない、という感覚が、生活の底に貼りついて離れない。
エピクロスは、その手を逆に動かした人だった。足すのではなく、引く。神への恐れを、死への恐れを、きりのない欲を、一つずつ下ろしていく。最後に残ったのは、パンと水だった。残ったものが少ないことに意味があるのではない。引いたあとに、もう乱されないものが残る——彼が大切にしたのは、その過程だった。彼が「快楽」と呼んだのは、たくさん手に入れた状態ではなく、もう何も足さなくていいと気づいた状態のことだった。
二千三百年前の庭で、身分の違う人々がパンと水を囲んでいた光景を思い浮かべてみる。そこには、今の私たちが快楽という言葉に重ねている華やかさは、何一つない。それでも、彼らが手にしていたものを、私たちのほうがまだ手にしていない、ということがありうる。
足りないと感じて、私たちは足し続ける。けれどエピクロスを読んだあとでは、その感覚そのものを疑ってみたくなる。本当に足りないのか。それとも、もう足しすぎているのではないか。あの庭の食卓に並んだものの少なさは、欠乏のしるしではなく、これ以上は何も足さなくていい、という満ち足りた状態のことだったのかもしれない。私たちが取り戻したいのは、もっと多くのものではなく、その満ち足りのほうなのだ。
