『風立ちぬ』―夢の外に立ち続けた人の、静かな時間について
1923年9月1日、列車の中で大地が揺れた。
空が煙に変わり、地面が波打ち、乗客が悲鳴を上げていくその混乱の中で、堀越二郎と菜穂子は出会っている。二郎の帽子が風に飛ばされ、 菜穂子がそれを捕まえて返す。 そのときに二人は、 ポール・ヴァレリーの詩の一節を口々に交わす——菜穂子の「Le vent se lève」 (風立ちぬ) に、 二郎が「il faut tenter de vivre」 (いざ生きめやも) と応じる。 詩のキャッチボールが、 二人の最初の接点として映画に刻まれている。 劇的ではない。 むしろ関東大震災という巨大な破壊の規模を思えば、 あの出会いは奇妙なほど静かだった。 大地が根こそぎ形を変えていくその日に、 何かがひっそりと始まったのである。 直後の脱線で、 菜穂子の侍女・お絹が脚を骨折する。 二郎は計算尺を添え木にしてお絹の脚を固定し、 お絹を背負って菜穂子と一緒に里見家まで送り届ける。 そして、 名乗らずに去る。 その「名乗らないまま別れる」 という構造が、 後の再会の下地として静かに残されていく。
宮崎駿の『風立ちぬ』(2013年)は、航空機設計士・堀越二郎の半生を描いた作品である。実在の人物をモデルとしながら、作中の二郎は創作的に再構成されており、傍らには結核を患うヒロイン・菜穂子がいる。彼女は堀辰雄の小説『風立ちぬ』 (1936〜1938 年) と『菜穂子』 (1941 年) のヒロイン要素を組み合わせて生まれた架空の人物だ。堀辰雄はポール・ヴァレリーの詩「海辺の墓地」の一節——「Le vent se lève, il faut tenter de vivre」——を古典日本語に訳してその小説のエピグラフに据えた。「風立ちぬ、いざ生きめやも」。宮崎はその詩句を本作の根幹に置いた。映画の本編でも、その言葉は台詞とモチーフとして繰り返し現れる。事実と虚構の境界の上に立ちながら、この映画は二郎の夢を追う——というよりも、その夢の外側にいる人間の輪郭を、静かに、執拗に、描き続けているのである。
この映画で追いたいのは、菜穂子の時間だ。二郎が設計図に向かっている間、彼女はどこにいたのか。夢の外側に立ち続けた人間が、それでも傍にいることを選んだ——その時間の質を、映画はセリフで説明しない。説明しないまま、ある種の沈黙として画面に残している。その沈黙に触れることが、この記事の軸である。
1. 夢の外側——置かれることと、残ることの間
菜穂子は一度も、自分の場所を嘆かない。
二郎が設計の仕事に向かうとき、彼の目の先には設計図があり、頭の中には翼の形がある。菜穂子はその傍にいる。近くにいながら、しかし二郎の意識が完全に向かう先には存在していない。この映画が描く「夢の外側」というのは、拒絶の話ではないのである。二郎は菜穂子を愛していた。それは疑いようがない。ただ、愛されていることと、相手の夢の中に入れてもらえることは、別の話なのだ。菜穂子はその区別を、誰よりも早く、静かに知っていた。
軽井沢で二人が再会する場面は、どこか夢のような柔らかさを持っている。しかし同時に、そこにはすでに別れの予感が漂っている。菜穂子の病は進行しており、彼女はそれを自覚していた。そういう人間が、二郎の傍にいることを選んだのである。その選択の重さを、映画はセリフで説明しない。沈黙と表情と、風景の質感の中に沈めてしまう。説明されないから、観客は自分の内側で何かと照らし合わせるしかなくなる。
軽井沢のホテルには、カストルプというドイツ人が滞在している。謎めいた佇まいで、ピアノの前に座り、歌を弾き語る男だ。名前はトーマス・マンの『魔の山』の主人公に由来するとされている。彼は二郎と短い言葉を交わし、反戦の暗示を運ぶように去っていく。当時の日本とドイツの政治状況、近づいてくる戦争の影——カストルプのいるホテルの空気は、菜穂子と二郎の静かな時間に、時代の重力をかすかに流し込んでいる。夢の外側にある世界の広さを、その男の存在が静かに示している。
ここで立ち止まりたいのは、「置かれた」という言葉と、「残った」という言葉の間にある距離についてである。菜穂子は二郎の夢の外側に置かれた人間だが、彼女は同時に、そこに残ることを選んだ人間でもある。置かれることと、残ることは、同じ行為ではないのだ。受動と能動の差が、その間には静かに横たわっている。映画が描いているのは、その区別を言語化しないまま、ただ菜穂子が存在し続けている時間である。
菜穂子の選択に名前をつけることを、この映画は最後まで拒む。愛と呼んでもよいし、意志と呼んでもよい。ただ、どちらの言葉も、何かを取りこぼすような感じがある。映画は沈黙を選ぶ。その取りこぼしを正直に認めている。
2. 結核という時間——「今」に根を張った人間の在り方
菜穂子が結核を患っているという事実は、この映画の時間感覚と深く結びついている。
1920年代から30年代の日本において、結核は決して珍しい病ではなかった。治療の手段が限られていたその時代、療養所で時間を過ごすということは、日常から切り離されることでもあった。菜穂子は療養所と二郎の傍を往復する。その往復そのものが、彼女の人生の形として描かれているのである。好んで離れているわけではない。いたくてもいられない時間がある。そういう人間が、いられる時間には傍にいることを選んでいる。
二郎が設計という未来に向かっているとき、菜穂子は現在という時間に根を張っているように見える。今日という日を、今ある体で、今いる場所で生き切ろうとしているように。二郎の時間が常に前を向いているとすれば、菜穂子の時間は今という瞬間に留まっているのだ。その非対称性が、二人の関係の中に独特の緊張感を生んでいる。前を向く人間と、今に立つ人間が、同じ部屋にいる。そのすれ違いは、どちらかの誤りではなく、ただ時間の流れ方の違いとして存在している。
病の存在が示すもう一つのことは、菜穂子が「完全に傍にいられない」という事実である。体の状態が悪化すれば療養所に戻らなければならない。傍にいたくても、いられなくなる瞬間が来る。いられる時間に傍にいる、という選択は、そこから重みを得ている。限られた時間があることを知っている人間の、傍にいるという行為。それは単純な愛情の表明とは少し異なる場所から来ている。
「風立ちぬ、いざ生きめやも」という詩句が映画本編で台詞とモチーフとして繰り返されるとき、菜穂子という存在を通してその言葉を見ると、ある種の解像度を帯びてくる。病があって、時間が限られているとわかっていて、それでも傍にいることを選ぶ——その選択の質が、「風が立った、だから生きなければならない」という言葉の中に折り畳まれている。病は彼女を弱い人間として描くためにあるのではない。時間が限られているということを知っている人間の、静かな意志のようなものを、その条件の中に映画は置いている。
黒川夫妻が二郎と菜穂子の結婚を支える場面には、周囲の人間の温かさの中で人間がどう選択するかという問いが静かに埋め込まれている。二人の結婚は完全に二郎と菜穂子だけの問題として描かれているわけではなく、その温かさに包まれながら成立している。黒川夫人の存在が添える人間的な柔らかさの中で菜穂子が選ぶとき、その選択はより複雑な層を持つ。
3. 菜穂子の視線——夢の外から見える、別の像
二郎が設計に没頭するとき、彼は世界の別の層にいる。
食事をしながら設計を考える。周囲の人間が話しかけても、返事は半分どこかへ行っている。没頭は意識的な選択ではなく、そういう人間の在り方として描かれている。二郎は設計していないときでも、どこか設計しているような人間として描かれている。この映画を、夢に奉仕した人間の話として読むこともできる。二郎は菜穂子を愛しながら、同時に設計という夢に深く縛られていた。愛情と夢が相互に排除し合うのではなく、どちらも本物として同時に存在しているところが、二郎という人物の複雑さを作り出しているのである。
複数の本物を同時に抱えた人間は、それを整理することができない。整理しようとすれば、何かが嘘になる。二郎は設計を諦めて菜穂子の傍にいることを選ばなかったし、菜穂子のために設計を中断しようとも見えない。それは冷たさではなく、ただそういう人間としての形だった。菜穂子はそれを知っていた。知った上で、傍にいることを選んでいた。その前提の上に二人の関係が成立していたとすれば、菜穂子の選択はより複雑な層を持つことになる。
菜穂子の視点から二郎を見るとき、その像は他の人間が見るものと少し異なっているように感じられる。加代——二郎の妹——が兄を案じる目線と、菜穂子が二郎を見る目線は、映画の中で静かに異なる角度を持っている。加代の目に映る二郎と、菜穂子の目に映る二郎は、おそらく違う像を結んでいる。しかし、どちらの視線も二郎の夢の外側から向けられているという意味では、同じ場所に立っている。外側にいる人間の目線が複数あることで、この映画の空間には奇妙な立体感が生まれているのである。
三菱内燃機製造での仕事は、二郎にとって夢の実現であると同時に、大きな矛盾を孕んでいる。彼が設計するものは、最終的に戦争で使われる機械だ。この映画はその矛盾を告発するわけでも、正当化するわけでもない。ただ、そこにあるものとして描く。美しいものを作りたいという夢と、それが向かう先の現実が、同じ人間の中に並存している。その矛盾を抱えたまま生きていく二郎の姿を、菜穂子は傍から見続けているのである。
軽井沢のホテルのバルコニーから、 二郎は紙飛行機を一機、 菜穂子の部屋のバルコニーへ向けて飛ばす場面がある。 紙飛行機は風に乗って、 菜穂子の手元に届く。 風が立てば飛ぶ。 風が止めば落ちる。 その単純な物体の軌跡が、 二人の関係の構造と静かに重なる。
4. 傍にいるという、継続的な行為——更新される選択
菜穂子がなぜ傍にいることを選んだのかという問いに、単純な答えは存在しない。
愛しているから、という答えは正しい。しかし正しいだけで、何かが足りない。愛している人間が全員傍にいることを選ぶわけではないし、傍にいる人間が全員同じ理由でそうしているわけでもない。菜穂子の選択には、愛情以外の何かが含まれているように見える。それが何なのかを、映画は言語化しない。言語化されないまま、観客はその問いを自分の中で抱えることになる。
「傍にいる」というのは、一度の選択ではなく、継続的な行為である。一度選べば終わりではなく、毎日選び直さなければならない。病が悪化するたびに、二郎が図面に向かうたびに、療養所に戻らなければならないたびに、菜穂子はその選択を更新し続けていた。その反復の重さを、映画は一度も強調しない。ただ、繰り返す。繰り返すことで、その重さが静かに積み上がっていく。
療養所と二郎の傍を往復しながら、菜穂子は一度も「なぜこんな状況なのか」という問いを声に出さない。少なくとも映画の中では。それが諦念なのか、別の種類の強さなのか、あるいはその問いを立てることを意識的に避けているのか、映画は教えてくれない。声を出さないということと、何も感じていないということは、全く別のことである。静かであることは、必ずしも弱さではないのだ。
二郎の没頭が奪うもの——それは交わされないまま消えていった言葉であり、向けられなかった視線の数だ。その奪われたものの総量を、映画は数えない。数えないまま、その痕跡だけが画面の中に残っている。奪われたことを誰も声に出さないから、その痕跡はより深く残るのである。
菜穂子が戻ってくるたびに、二郎の傍には菜穂子がいる。その繰り返しの中に、説明されないまま重ねられていくものがある。映画は答えない。
5. 喪失と創造が重なる時間——同じ時計の針
この映画が描いているのは、何かが生まれる時間と、何かが失われる時間が完全に重なっている状態である。
二郎が翼を設計している時間は、彼の最も創造的な時間だった。同時にそれは、菜穂子との時間が削られていく時間でもある。喪失と創造は、この映画の中で対立して描かれているのではなく、同一の時間の異なる側面として存在しているのである。同じ時計の針が、二郎の夢を進ませながら、菜穂子との時間を減らしていく。どちらかが正しくて、どちらかが誤りなのではない。ただ、同じ時間の中でそれが起きているということが、この映画の根にある。
二郎の夢の中に、イタリア人航空機設計士・カプローニが何度も現れる。実在した人物でありながら、映画の中では二郎の夢の中の存在として造形された導師的な人物だ。飛行機は美しい夢だと語るその男は、しかし同時に、その夢が孕む矛盾をも運んでいる。ラストの夢の場面で、 カプローニが二郎に問いかける——「君の零戦か、 一機も帰ってこなかったな」。 二郎は「一機も戻ってきませんでした」 と応じる。 美しいものを作ることと、 そのものが何をするかは、 別の話だという残酷さが、 二人の対話の中に静かに置かれている。そして、その夢の場所へ菜穂子が現れて「生きて」と告げる。夢の中でさえ、菜穂子は二郎の傍にいるのである。
「風立ちぬ、いざ生きめやも」という言葉が映画本編の台詞として、また構造として流れ続けるとき、それは二郎にとっての言葉でもあるが、菜穂子にとっての言葉でもあるように感じられる。二郎にとっての「生きる」が設計することだとすれば、菜穂子にとっての「生きる」は何だったのか。傍にいることだったのか、もっと別の何かだったのか。その問いは菜穂子自身の声からは聞こえてこない。
喪失について、この映画は正面から語らない。結核の進行も、戦争の影も、二郎の仕事が孕む矛盾も、正面から断罪されることなく、ただそこにある出来事として描かれている。映画は感情を代行しない。その淡白さの中で、喪失の重さが際立つ。
1930年代の日本という時代は、この映画の背景に静かに存在している。関東大震災の後、少しずつ形を変えていく社会の中で、二郎は翼を設計し、菜穂子は病と共に生き、風が立ち続けている。個人の夢と時代の流れが交差するその場所に、この映画は二人を置いた。時代の中で夢を持つことと、時代の中で誰かの傍にいることが、同じ時間の中に並んでいるのである。
おわりに
二郎の翼は空を飛んだ。菜穂子は療養所へ戻った。
その後のことを、映画は多くを語らない。語られないまま幕が下りる。だから映画を見終わった後、しばらくの間、菜穂子のことを考えることになる。二郎が図面を引いている夜に、彼女は何を見ていたのか。療養所へ戻るたびに、何を置いてきたのか。傍にいることを選び続けた時間の総量が、どのくらいのものだったのか。
映画は答えを渡さない。その沈黙の中に何があるかは、観客に委ねられている。
「風立ちぬ、いざ生きめやも」という言葉と、菜穂子の選択が、ひとつの形に折り重なる。
