G-0C41NE8DJB 『マチネの終わりに』——未来は、 静かに過去を書き換える|亀吉の呟き

『マチネの終わりに』——未来は、 静かに過去を書き換える

『マチネの終わりに』——未来は、 静かに過去を書き換える
yoshiomi

東京の演奏会後の食事会で、 一人の天才クラシックギタリストと、 一人のパリの通信社のジャーナリストが出会う。 二人とも 40 代だ。 蒔野聡史 (福山雅治) と小峰洋子 (石田ゆり子)。 西谷弘監督の『マチネの終わりに』 (2019) は、 この出会いから始まる 6 年の物語を、 静かなテンポで追っていく。

原作は平野啓一郎の同名小説 (2016 年、 毎日新聞出版)。 第 2 回渡辺淳一文学賞を受賞した作品で、 平野が長く提唱してきた「分人主義」 と、 「未来は常に過去を変えている」 という思想が、 二人の中年男女の出会いと別れの中に翻訳されている。 映画はその思想を、 福山雅治のクラシックギターの音と、 石田ゆり子の沈黙の表情で受け止め直す試みだ。

公開週末の興行成績は 1.29 億円、 初登場 3 位。 大ヒット作の数字ではない。 だがこの映画について書くとき、 数字は最も遠い場所に置かれることになる。 中心にあるのは「過去は変えられる」 という一つの命題を、 6 年の歳月で受け取ろうとした男女の、 微かに揺れる時間だ。

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1. 出会いの瞬間——「あなたのギターを聴いて、 父の映画を思い出した」

物語の出発点は、 東京の演奏会後の食事会の場面だ。 蒔野は天才クラシックギタリストとしての評価をすでに確立している。 洋子はパリの通信社で長くジャーナリストとして働いてきた。 互いに別々の世界で評価を得てきた二人が、 一夜の食事会で言葉を交わす。

洋子は蒔野に、 こんな話をする。 自分の父はクロアチアの映画監督・イェルコ・ソリッチで、 その代表作の主題歌が「幸福の硬貨」 という楽曲だった、 と。 そして蒔野は、 その曲を聴いてクラシックギターに本格的に打ち込むようになった、 と答える。 二人は気付く。 自分たちの人生のごく早い時期に、 同じ一つの楽曲が静かに鳴っていた。 その曲が、 別々の人生を、 別々の方向から照らしていた。

ここで起きているのは、 出会いという瞬間の一面でしかない。 蒔野と洋子は、 出会った瞬間に互いを認識したが、 その認識の中には「過去」 が含まれている。 「父の映画」 と「ギターを好きになったきっかけ」 という、 それぞれの過去が、 出会いの中で初めて繋がる。 過去はそこにあった事実ではなく、 出会いの瞬間に意味を持ち直し始める。 これが本作の物語が静かに引っ張っていく構造だ。

平野啓一郎が長く語ってきた「分人主義」 の最初の現れも、 ここに置かれている。 蒔野は他の人の前では別の蒔野でいる。 洋子もまた、 婚約者リチャード新藤 (伊勢谷友介) や、 通信社の同僚の前では別の洋子でいる。 だが食事会のテーブルで向かい合った瞬間、 二人のあいだに、 二人だけの分人が立ち上がる。 この分人を抱えながら、 二人は別々の場所に帰っていく。

食事会の場面で福山雅治と石田ゆり子が交わすのは、 大きな台詞ではない。 ギターと映画と父についての、 静かな会話。 だが、 その静かな会話の中で、 二人の表情が少しずつ変わっていく。 福山の蒔野の目には「この女性の前でだけ生まれる自分」 への気付きが、 石田の洋子の唇には「この男性の前でだけ立ち上がる自分」 への戸惑いが、 滲んでいる。 派手な恋愛劇の出会いとは違う。 出会った瞬間に何かが完成するのではなく、 出会った瞬間に何かが「これから始まる」 ことを、 二人が同時に予感している。 その予感の質感を、 西谷弘監督は俯瞰のショットではなく、 二人の顔の細部にゆっくりとカメラを寄せる構図で見せている。

2. 「幸福の硬貨」 ——架空の楽曲が、 二人を繋ぐ

「幸福の硬貨」 は架空の楽曲だ。 平野啓一郎が小説の中で創作した、 物語上の名曲。 洋子の父・イェルコ・ソリッチが監督した映画の主題歌、 という設定で、 蒔野がギタリストとして歩み始める原点に置かれた一曲だ。

映画版『マチネの終わりに』 では、 この架空の楽曲を、 実在の音楽として観客の耳に届けなければならない。 西谷弘監督は、 クラシックギタリスト福田進一に演奏と監修を依頼し、 福山雅治が福田の指導のもとで実際に演奏する。 音楽担当の菅野祐悟が、 映画版の「幸福の硬貨」 を新たに作曲する。 こうして、 小説の中だけにあった楽曲が、 映画の中で音として鳴り始める。

ここで奇妙な転換が起きる。 フィクションの中で「過去に存在していたはずの楽曲」 が、 映画館に座る観客の耳に「現在の音」 として届く。 過去のフィクションが、 現在の現実として鳴り直す。 これは小説の中の蒔野と洋子が経験する「過去の意味の更新」 と、 構造的に相似している。 映画は「過去は変えられる」 という思想を、 物語の中で語るだけでなく、 楽曲の存在の仕方そのもので体現している。

蒔野が「幸福の硬貨」 を弾くとき、 観客はそれが架空の楽曲であることを忘れる。 映画館に座っている観客にとって、 その曲はそこに鳴った音であり、 蒔野の指が動いて生まれた現実の音である。 だが映画が終わって少しすると、 観客は思い出す。 この曲は小説の中で「架空」 とされていた曲だった。 にもかかわらず、 自分の耳には届いた。 過去のフィクションが、 現在の経験になった。

これが平野の「未来は常に過去を変えている」 思想の、 もう一つの現れ方だ。

3. 三谷早苗——「分人」 としての介入

蒔野には、 マネージャーとして長く側にいる三谷早苗 (桜井ユキ) がいる。 三谷は蒔野のスケジュールを管理し、 演奏会の準備を進め、 蒔野の生活を陰で支えてきた。 そして、 蒔野を深く慕っている。

物語の中盤、 蒔野と洋子が連絡を取り合いながら、 互いの人生に踏み込もうとした瞬間に、 三谷は決定的な行動に出る。 蒔野になりすまして、 洋子に別れのメールを送るのだ。 「やはり一緒にいることはできない、 これ以上連絡を取り合うのはやめよう」 という意味の文面。 洋子はそのメールを蒔野からのものとして受け取り、 二人の関係は途絶える。

この介入は、 単純な「悪役の悪意」 として描かれていない。 三谷は蒔野を慕っている一人の人間で、 自分が長く側にいながら手に入れられなかった蒔野の心が、 ある日突然現れた洋子へと傾いていくのを目撃した。 三谷の側にも、 三谷の人生がある。 その人生から見て、 別れのメールを送るという選択は、 三谷の中の一つの分人の判断だった。

桜井ユキの演技は、 三谷を単純な悪役にしない。 メールを送る場面の三谷の顔には、 罪悪感と、 同時に「これしかなかった」 という諦観が並んでいる。 観客は三谷を憎みきることができない。 三谷もまた、 蒔野を中心にして立ち上がった一つの分人を、 自分の中に抱えている。 それを守るために、 三谷は洋子を遠ざける選択をする。

そして 6 年後、 蒔野は三谷と結婚する。 洋子はリチャードと結婚し、 ニューヨークで子供を授かり、 やがてリチャードの浮気で離婚する。 三谷の介入は、 二人の人生の方向を変えた。 だが平野の思想からすれば、 その方向の変化は「失った」 ことではない。 別の方向に進んだ過去が、 後の現在によって意味を変えていく可能性が、 まだ残されている。

そして 6 年後、 物語の重要な転換点が訪れる。 三谷自身が、 ニューヨークまで洋子を訪ねていく。 そこで三谷は洋子に対し、 別れのメールを送ったのは自分だったと直接告白する。 そのうえで、 蒔野のコンサートに来てほしいと頭を下げる。

このシーンは、 映画版で原作から大きく変更された場面の一つだ。 原作小説では、 洋子は三谷からの「コンサートに来ないでほしい」 という言葉から、 2 年前の偽メールの真相を間接的に推測する。 映画版の三谷は、 もっと能動的に動く。 自分の罪を直接洋子の前に置き、 そのうえで二人の再会の場を自分の手で作り直そうとする。 蒔野のために自分が引き離した二人を、 蒔野のために自分が再会させる——三谷の選択はそういう形を取る。

ここで三谷の人物像は、 単なる介入者でも単純な悪役でもない、 別の輪郭を持ち始める。 自分の中の蒔野を慕う分人と、 蒔野の中にある洋子を慕う分人を、 どちらも消さずに生きようとする一人の人間として、 三谷は描き直されていく。 桜井ユキはこの告白の場面で、 派手な涙や激情を見せない。 静かに頭を下げる動作の中に、 6 年間抱え続けた罪悪感と、 それでも蒔野のために選び直した覚悟が、 同時に置かれている。

4. 6 年のずれ——失ったわけではない時間

蒔野と洋子のあいだに、 6 年の時間が流れる。

その 6 年は、 普通の意味では「すれ違いの時間」 として理解される。 蒔野は三谷との結婚生活を送り、 洋子はニューヨークで子育てと離婚を経験する。 二人は連絡を取らないまま、 別々の人生を生きる。 一般的な恋愛小説や映画なら、 この 6 年は「あれば二人は結ばれたはずなのに、 失われた時間」 として描かれる。

だが本作は、 この 6 年をそういう仕方で見せない。 蒔野の演奏家としてのキャリアは、 6 年のあいだに新たな深みを得ている。 洋子は子供を抱え、 リチャードとの結婚生活を経験することで、 別の意味で人として成熟していく。 6 年は「失われた時間」 ではなく、 二人それぞれが別々の場所で別々の経験を積んだ時間として、 映画は描く。

この時間の描き方が、 平野啓一郎の「未来は常に過去を変えている」 思想の、 最も具体的な体現だ。 もし蒔野と洋子が 6 年前に結ばれていたら、 それぞれが今持っている深みは、 別の形だっただろう。 6 年が経った後で二人が再会するとき、 互いに見ている相手は 6 年前の相手ではない。 別々の経験を積んで、 別々に深まった二人が、 6 年後の現在で再び向き合うことになる。

「失われた時間」 として読めば、 6 年は悲しみの源だ。 だが「別の経験を積んだ時間」 として読めば、 6 年は二人がそれぞれ別の場所で生きてきた厚みの源になる。 映画はこの両方の読み方を観客に渡す。 そのうえで、 ニューヨークのマチネへと物語を運んでいく。

5. ニューヨークのマチネ——「幸福の硬貨」 が鳴る場所

ニューヨークの劇場で、 蒔野のマチネ (昼公演) が開かれる。 洋子は会場の客席に座っている。 6 年ぶりに、 蒔野の演奏を間近で聴く時間。

蒔野は公演で「幸福の硬貨」 を弾く。 それは出会いの夜に話題に上った楽曲。 洋子の父が監督した映画の主題歌で、 蒔野がギターを好きになったきっかけの曲。 6 年前のテーブルで、 二人がそれぞれの過去として持っていた一つの楽曲が、 ニューヨークの劇場で、 蒔野の指によって、 洋子の前で鳴っている。

「幸福の硬貨」 が鳴るその瞬間、 二人の過去は、 もう一度繋がり直す。 6 年前の出会いの夜の意味が、 6 年後の現在によって書き換えられている。 「あの夜、 私たちは父の映画の主題歌について話した」 という記憶が、 「あの夜以来、 私たちはずっとこの曲で繋がっていた」 という意味へと、 静かに変質していく。 過去はそこにあった事実ではない。 現在の出来事によって、 過去は別の形で甦り直している。

アンコールで、 蒔野は観客に向けてこう語る。 「公演後、 セントラルパークの池のあたりを散歩するつもりです」。 これは観客全員に向けた言葉だが、 同時に、 客席の洋子だけに届けられたメッセージでもある。 マチネが終わり、 観客が劇場を出ていく。 洋子もまた、 セントラルパークへ向かう。

公園で、 二人は再会する。 高ぶった感情を、 互いに抑えながら、 何かを言葉にしようとしては言葉にできずに、 微笑み合う。 映画はその場面で、 静かに閉じる。

おわりに. 未来は、 過去を書き換えていく

『マチネの終わりに』 が観客に渡しているのは、 「あの時別の選択をしていれば」 という後悔ではない。 むしろ、 「あの時の選択も、 今の選択も、 それぞれの過去を別々の形で生かし続けている」 という、 もう少し優しい思想だ。

蒔野が三谷と結婚した過去は、 三谷の介入による「奪われた可能性」 として読むこともできる。 だが、 三谷と過ごした 6 年があったから今の蒔野がいる、 という見方もできる。 洋子がリチャードと結婚しニューヨークで子供を育てた過去も、 「本来あるはずだった蒔野との時間を奪った時間」 として読むこともできれば、 「洋子という人間に別の深みを与えた時間」 として読むこともできる。

映画は、 どちらの読み方が正しいかを決めない。 だが、 セントラルパークで再会する二人の微笑みは、 「失ったもの」 への悲しみよりも、 「別の形で繋がり続けていた」 という静かな受け止めに近い。 6 年は、 失われたのではなく、 二人を別々に深めた時間だった。 そして「幸福の硬貨」 は、 二人の出会いの夜にも鳴っていたし、 6 年後のマチネにも鳴った。 その間、 二人の中でも別の形で鳴り続けていた。

平野啓一郎が「未来は常に過去を変えている」 と書くとき、 それは過去をなかったことにする魔法ではない。 過去はそこにある。 だが、 過去の意味は、 現在の出来事によって何度でも書き換えられていく。 セントラルパークで微笑み合う二人は、 6 年前の出会いの意味を、 もう一度、 別の形で持ち直している。

「マチネ」 という言葉は、 昼公演を指す。 マチネが終わる頃、 まだ陽は高い。 夜はまだ来ていない。 もう一度、 二人はそれぞれの場所に帰っていくだろう。 だが、 マチネの終わりに二人が交わしたあの微笑みは、 帰った先の生活の中で、 別の意味で何度も鳴り直していくはずだ。

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こんにちは。亀吉です。 仕事の合間にブログを書いています。 このブログは、どこまでも個人的で恣意的な思想の表明です。思うままに・・・ 映画と本が好きです。その他音楽や登山など。
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