ペーター・ベーレンスとは — 近代デザインの父、 AEG タービン工場と弟子グロピウス / ミース / ル・コルビュジエ
はじめに
20世紀の建築を語るとき、まず名前が挙がるのはル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエ、ヴァルター・グロピウスの三人だ。近代建築の三大巨匠と呼ばれる彼らが、まだ二十代の頃、同じひとつの事務所で机を並べていた時期がある。その事務所の主が、ペーター・ベーレンスだった。
ベーレンスは建築家でありながら、建築だけの人ではなかった。ロゴ、活字、製品、ポスター、そして工場——ひとつの企業の見え方すべてを一貫してデザインした、世界で最初のインダストリアルデザイナーと呼ばれる人物である。この記事では、その生涯と人物像、そして近代建築の出発点となった仕事を、順を追って見ていきたい。
基本情報
- 名前|ペーター・ベーレンス(Peter Behrens)
- 生まれ|1868年・ドイツ、ハンブルク
- 没|1940年・ドイツ、ベルリン
- 肩書き|建築家/グラフィック・工業デザイナー/タイポグラファー
- 活動の拠点|ミュンヘン/ダルムシュタット/ベルリン(ドイツ)
- 位置づけ|世界初のインダストリアルデザイナー。ドイツ工作連盟(1907年)創設メンバー
ベーレンスの生涯と人物像
生い立ちと人間性
ペーター・ベーレンスは1868年、ドイツのハンブルクに生まれた。はじめから建築家を志したわけではない。ハンブルクの美術学校で学んだあと、デュッセルドルフやミュンヘンで絵画を修め、出発点は画家でありグラフィックの作り手だった。
転機は1899年に訪れる。ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒに招かれ、ダルムシュタットの芸術家村(マチルデの丘)に加わったのだ。ここでベーレンスは自邸を自ら設計する。これが建築家としての第一歩となった。装飾を削ぎ落とした端正なその家は、のちのモダニズムへとつながる芽を、すでに含んでいた。
絵画から工芸、印刷、そして建築へ——ベーレンスは領域の境目を軽々と越えていった。一つの専門に閉じこもらず、ものの見え方そのものを設計しようとする姿勢は、生涯を通じて変わらなかった。
時代背景
ベーレンスが活動したのは、19世紀末から20世紀初頭にかけての大きな転換期だった。産業革命が進み、機械による大量生産が当たり前になっていく。そのなかで、機械でつくられる製品に美と質をどう与えるか、という問いが切実なものになっていた。
1907年、ベーレンスはヘルマン・ムテジウスらとともに、芸術と産業の橋渡しを目指すドイツ工作連盟(ドイチャー・ヴェルクブント)の創設に参加する。そして同じ年、電機メーカーAEGの芸術顧問に就任した。この就任が、彼の名を歴史に刻むことになる。
ベーレンスの建築の特徴と代表作
建築の特徴
ベーレンスの最大の功績は、一企業の見え方すべてを一つの視覚言語でまとめあげたことにある。AEGの仕事で彼が手がけたのは、ロゴマーク、活字、扇風機や電気ケトルといった製品、広告ポスター、さらには工場建築まで——企業に関わるあらゆるものだった。
コーポレート・アイデンティティという言葉が生まれるよりも前に、彼はその概念をすでに実践していた。ここから、ベーレンスは世界初のインダストリアルデザイナーと呼ばれる。
建築においても考え方は同じだった。過剰な装飾を削ぎ、鉄とガラスという新しい素材で構造をそのまま見せる。古典建築が持つ重厚さと、機械時代の合理性。その二つを一つの建物のなかで両立させようとした点に、彼の独自性がある。
代表的な建築物
AEGタービン工場(1909年)
AEGタービン工場は、ベーレンスの代表作であり、近代建築の出発点の一つに数えられる。1909年、ベルリンのモアビート地区に建てられたこの工場は、技師カール・ベルンハルトとの協働によるものだ。約100メートルにおよぶ鉄骨造の建物で、両側面は高さ約15メートルの大きなガラス壁になっている。それまで実用一辺倒だった産業建築に、初めて近代的な造形を持ち込んだ記念碑的な仕事として知られる。

AEGタービン工場(ベルリン、1909年)
ダルムシュタットの自邸(1901年)
建築家ベーレンスの出発点が、ダルムシュタットの自邸(1901年)である。芸術家村のために、外観から内部の家具に至るまでを自らの手で設計した。一軒の家を丸ごと一つの作品として構想したこの試みは、のちにAEGで開花する「すべてを一貫してデザインする」という姿勢の、最初の現れだった。
サンクトペテルブルクのドイツ大使館(1911〜1912年)
ロシアのサンクトペテルブルクに建つドイツ大使館(1911〜1912年)は、聖イサアク広場に面した重厚な建物だ。赤い花崗岩のファサードに列柱を並べ、装飾を切り詰めた古典主義——のちにストリップト・クラシシズムと呼ばれる様式の、最初期の例とされる。この現場で建設監督を務めたのが、当時まだ若き日のミース・ファン・デル・ローエだった。
弟子たちと、その後の近代建築
ベーレンスの事務所は、近代建築のゆりかごだったと言ってよい。1907年から1910年ごろにかけて、のちに巨匠となるヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジエが、ここで学んでいる。三大巨匠が、若い日にひとつ屋根の下で机を並べていたことになる。
ベーレンスの事務所を離れたグロピウスは、1911年、ファグス工場(アドルフ・マイヤーとの共同設計)を手がける。ガラスのカーテンウォールを大胆に用いたこの工場は、師ベーレンスのAEGタービン工場の延長線上にある仕事として、しばしば語られる。ベーレンスの影響は、彼自身の建物だけでなく、弟子たちの手を通じて20世紀の建築全体へと流れ込んでいった。
おわりに
ペーター・ベーレンスの名は、三人の弟子ほど広く知られているわけではない。それでも、近代デザインの語彙——一つの企業を一貫した見え方でまとめること、建物が鉄とガラスの構造を隠さずに立つこと——その多くは、彼の事務所で形になった。
いまも目にするAEGの簡潔なロゴ、ベルリンに残るタービン工場のガラス壁、そして同じ机を囲んでいた三人の若者。ベーレンスが設計したのは、一つ一つの建物であると同時に、その後の百年がよりどころにするデザインの文法そのものだった。
