ペーター・ベーレンス — 近代デザインの父、 AEG タービン工場と弟子グロピウス / ミース / ル・コルビュジエ
はじめに
ベルリンの西、モアビートの街角に、長さ123メートルの工場が建っている。鉄の柱がむき出しのまま並び、そのあいだをガラスが埋める。1909年に完成したAEGタービン工場である。工場に、隠すべきものは何もないと言っているような建物だ。設計したのが、ペーター・ベーレンスである。
ペーター・ベーレンスは、1868年にハンブルクで生まれたドイツの建築家だ。画家として出発し、建築は独学で身につけた。電機メーカーAEGの芸術顧問として、ロゴマークから電気ケトル、カタログ、そして工場までを一つの手で設計している。企業の見た目を全体として設計した早い例として、企業アイデンティティの父と評される人である。
もう一つ、この人を語るときに欠かせないことがある。ベーレンスの事務所には、ヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジエがいた。近代建築を動かした三人が、同じ製図室を通っている。

- 本名|ペーター・ベーレンス(Peter Behrens)
- 生没|1868年4月14日、ハンブルク生/1940年2月27日、ベルリンにて没。71歳
- 出自|ハンブルクに生まれ、早くに両親を亡くして後見人のもとで育った
- 学び|建築は完全な独学。絵画は1886年ごろからハンブルク、カールスルーエ、デュッセルドルフで学び、のちミュンヘンへ移った
- 職歴|1899〜1903年、ダルムシュタットの芸術家村/1903〜1907年、デュッセルドルフ工芸学校長/1907〜1914年、AEG芸術顧問/1922年、ウィーン美術アカデミー教授に就任
- 主な位置づけ|1907年、ドイツ工作連盟の創立メンバー(ミュンヘン)/1936年、プロイセン芸術アカデミー会員
- 様式|即物性(ザッハリヒカイト)。装飾を剥いだ古典建築、いわゆるストリップト・クラシシズムの初期例とされる

企業アイデンティティと、即物性
ベーレンスは、建築の学校に一日も通っていない。1886年ごろから絵を学び、ハンブルク、カールスルーエ、デュッセルドルフと移り、やがてミュンヘンに落ち着く。20代の肩書きは画家であり、版画家であり、工芸家だった。ユーゲントシュティール、つまりドイツ語圏のアール・ヌーヴォーの作り手として名前が知られていた時期である。
転機は1899年、ヘッセン大公に招かれてダルムシュタットの芸術家村に加わったことだった。1901年、そこに自邸を建てる。家具も食器も文字も自分で設計した、生涯で最初の建築である。以後、デュッセルドルフ工芸学校の校長を務め、1907年にAEGの芸術顧問となり、同じ年にドイツ工作連盟の創立に加わった。この人が持ち込んだものを、三つに分けて見ていきたい。
企業アイデンティティ
AEGの芸術顧問という役目は、いまでいうデザイン部門の責任者にあたる。ベーレンスはロゴマークを描き、電気ケトルや扇風機やアーク灯を設計し、カタログと広告の版面を組み、店舗を整え、そして工場そのものを建てた。会社の見た目を、部分ごとに別々の人へ振り分けるのではなく、全体として一つの性格に揃えたのである。
製品と印刷物と建築を、同じ考え方で貫くという発想は、当時ほとんど例がなかった。今日の企業がブランドと呼んでいるものの、早い形がここにある。工業製品のデザインを職能として引き受けた、最初期の一人でもあった。
即物性
ザッハリヒカイトと呼ばれる態度である。用途と材料から素直に形を決め、装飾を上から貼らない。構造をそのまま見せる。工場は工場らしく、ポットはポットらしく作る。ユーゲントシュティールの曲線から出発した人が、たどり着いた場所だった。
ただし、冷たい合理主義に振り切ったわけではない。タービン工場では、鉄とガラスという新しい材料を使いながら、正面は神殿のような構えにしている。柱を立て、破風を載せ、そのうえで彫刻も繰形も置かない。古典建築の骨組みだけを残して飾りを剥ぐこのやり方は、ストリップト・クラシシズムの初期例とされる。
独学と越境
絵画から工芸へ、工芸から文字組みへ、文字組みから製品へ、そして建築へ。ベーレンスは分野の境目を、こだわりなく越えていった。建築を独学で身につけたことが、既成の様式に縛られない身軽さになっている。学校で様式を教わらなかったぶん、材料と用途から考えるほかなかったとも言える。
その姿勢は、事務所を通り抜けた若者たちに移っていった。グロピウスが1908年から1910年まで、ミース・ファン・デル・ローエが1908年から1912年まで在籍している。ル・コルビュジエは1910年10月から翌年3月までの、およそ五か月だった。教えたのは様式ではなく、材料と用途から考える手つきのほうである。
代表作をたどる
絵から出発した人が、何を建てたのか。最初の住宅から晩年のオフィスビルまで、四つをたどる。
ダルムシュタットの自邸

1901年、ダルムシュタットのマチルデの丘に建つ。芸術家村の展覧会に合わせて建てられた住宅で、ベーレンスにとって最初の建築である。設計の経験はなかったが、建物だけでなく、家具、食器、リネン、案内状の文字までを自分で手がけた。
まだユーゲントシュティールの曲線が濃く残っている。それでも、暮らしにかかわるものを一人の手で通して作るという方法は、のちのAEGでの仕事とそのまま重なる。ここで試したことを、ベーレンスは会社という規模でやり直したことになる。
AEGタービン工場

1909年、ベルリンのモアビート。長さ123メートル、高さ25メートル、幅25.6メートルの組立工場である。近代建築の出発点に置かれることの多い建物だ。
それまでの工場は、実用の建物として建築の対象と見なされていなかった。ベーレンスは逆に、工場を街に見せる正面として設計した。側面は鉄の柱を等間隔に立て、あいだをガラスで埋めて内部の作業を透かす。正面は柱と破風で神殿のように構え、飾りは置かない。働く場所に、堂々とした顔を与えたのである。
サンクトペテルブルクのドイツ大使館

1911年から1913年にかけて建てられ、1913年1月14日に開館した。聖イサアク広場に面して、花崗岩の柱がひたすら等間隔に並ぶ。柱頭も台座もなく、装飾はほとんどない。国家の建物に求められる重さを、繰り返しだけで出そうとした建築である。
この現場を任されていたのが、当時二十代半ばのミース・ファン・デル・ローエだった。1911年から翌年にかけて監理にあたっている。のちにミースが到達する、柱の反復と面の構成による建築を思うと、この現場の意味は小さくない。
ベロリーナハウス

1929年9月に着工し、1932年1月に竣工して開業した。ベルリンのアレクサンダー広場に面する、地上8階地下2階の事務所兼商業ビルである。晩年の代表作にあたる。
鉄筋コンクリートの骨組みを隠さず、そのまま外に見せた。ドイツでこの作り方を採った早い建物の一つとされる。横に連なる窓の帯が、階を重ねるごとに同じ調子で繰り返される。広場をはさんだ向かいには、同じくベーレンスの設計によるアレクサンダーハウスが建ち、二棟で広場への門のような構えをつくっている。1975年から文化財として保護されている。
おわりに
タービン工場の側面には、鉄の柱とガラスが、123メートルにわたって同じ調子で並んでいる。あの壁を思い浮かべると、ベーレンスのやってきたことが一つの像に集まってくる。
用途と材料から形を決め、装飾を貼らず、その考え方をロゴから工場まで一続きに通す。学校で様式を教わらなかった人が、材料のほうから建築を組み直した。その手つきを、グロピウスとミースとコルビュジエが持って出ていく。近代建築が始まった場所を一つ挙げるとすれば、ベルリンのあの製図室ということになる。
