G-0C41NE8DJB 『哲学の慰め』ボエティウス — 奪われて、はじめて自分のものではなかったと知る|亀吉の呟き
亀吉の書評

『哲学の慰め』ボエティウス — 奪われて、はじめて自分のものではなかったと知る

『哲学の慰め』ボエティウス — 奪われて、はじめて自分のものではなかったと知る
yoshiomi

はじめに

高い官職にあった男が、ある日を境にすべてを失う。財産も、地位も、名誉も取り上げられ、反逆の罪で牢につながれ、処刑の日を待っている。身に覚えのない罪だった。男の名はボエティウス。五世紀の終わりごろに生まれ、東ゴート王テオドリックに仕えたローマの元老院議員であり、執政官まで務めた人である。

その牢の中で、ボエティウスは一冊の本を書いた。『哲学の慰め』という。慰めというやわらかな言葉が題についているが、書かれた場所は処刑を待つ独房で、書き終えてほどなく彼は殺されている。救い出されることも、赦されることもなかった。外側の状況は、最後まで一つも好転していない。

それでもこの本は「慰め」と呼ばれ、しかも千五百年のあいだ読み継がれてきた。状況が変わらないまま、人はどうやって慰められるのか。『哲学の慰め』が差し出すのは、「不運を嘆くな」という励ましではない。もっと静かで、もっと厳しい、幸福の在り処そのものの組み替えである。

本を開くと、そこにいるのは勝者ではない。すべてを失い、死を待つ人間である。だからこの本の言葉には、机の上で組み立てた理屈にはない重さがある。慰めが本物かどうかは、いちばん苦しい場所で試される。本書はまさに、その場所から書かれた。

あなたへのおすすめ

1. 嘆く男の前に現れた女——感傷ではなく理性で

ボエティウスが牢にいるのは、ある元老院議員を陰謀の疑いからかばったことがきっかけだった。宮廷では、腐敗を正面から批判する彼を疎む声が高まっていた。やがて反逆の罪を着せられ、弁明の機会も十分に与えられないまま、遠い牢へ送られる。ボエティウスは、栄達の頂点から一気に転落したのだ。

物語は、そのボエティウスが牢の中で嘆く場面から始まる。かつての栄光を思い、いまの不運を呪い、詩の女神たちに囲まれて悲しみの詩を書きつけている。そこへ一人の女性が現れる。背が高く、年齢のよくわからない、威厳のある姿をしている。「哲学」を人のかたちにした存在である。

哲学は、まずボエティウスのまわりにいた詩の女神たちを追い払う。彼女たちを、病人の甘い自己憐憫をあおるだけの者として、きっぱりと退ける。慰めというと、優しく寄り添って涙をふいてくれるものを思い浮かべるかもしれない。だがこの本の哲学は、そういう慰め方をしない。泣いている男の隣に座り、その悲しみの中身を一つずつ検分していく。

詩の女神たちを追い払う場面は、この本の姿勢を言い切っている。悲しみに寄り添い、涙を美しく歌い上げる詩。それは苦しみを慰めるようでいて、じつは苦しみの中に人を留めておく。甘い自己憐憫は、心地よいぶんだけ抜け出しにくい。哲学が最初にしたのは、その甘さを断つことだった。慰めるためにこそ、まず優しさのほうを退けたのである。

哲学がまずしたのは、慰めることではなく、思い出させることだった。おまえは自分が何者かを忘れている、と彼女は言う。世界が何によって導かれているかも、人がどこへ向かうべきかも、いまのおまえは見失っている。だから悲しいのだ。病の名は、記憶の喪失だった。失ったものの数を数えているうちに、ボエティウスは自分自身を見失っていた。哲学の治療は、外から与える薬ではなく、もともと本人の内にあったものを思い出させる作業として進んでいく。

本文は、散文と韻詩が交互に現れる不思議な形式で書かれている。理を説く散文のあいだに短い詩が挟まり、また散文へ戻る。理屈で追いつめ、詩で息をつがせる。哲学の女神との対話は、いわば病んだ心を治療していく過程として進む。その第一段階は診断だった。おまえは何を失ったと思っているのか。その問いから、すべてが始まる。

2. 運命の車輪——借りたものはいつか返す

哲学は、まず「運命」を呼び出して語らせる。運命は気まぐれな女神フォルトゥナとして描かれ、ボエティウスに向かってこう言い返す。わたしが取り上げたのは、はじめからわたしのものだった。おまえが握っていたのは、貸し与えられていたあいだだけのこと。返してもらうのに、なぜ礼ではなく文句を言うのか。運命は、おおよそそういう意味のことを語る。

ここで有名な「運命の車輪」の像が出てくる。運命は大きな車輪を回している。低いところにあったものを高く持ち上げ、高いところにあったものを下へ落とす。輪が回るとは、そういうことだ。上りに乗って喜んだのなら、下りが来ても文句は言えない。上昇と下降は、同じ一つの輪の上の、別の位置にすぎない。

運命について、哲学はもう一つのことを言わせる。運命が信頼できないというのは、じつは運命のいちばん正直なところなのだ、という。移り変わることこそ、運命の変わらぬ性質である。だから運命に裏切られたと嘆くのは、筋が通らない。移ろうと知りながら乗ったのは、こちらのほうだった。晴れの日が続くと信じたのは、運命の約束ではなく、人の側の思い込みにすぎない。

車輪の像には、もう一つの意味がある。いま底にいる人も、輪が回ればいつか上がりうるということだ。運命の無常は、高い者には脅しだが、低い者には希望でもある。ただしボエティウスは、その希望に賭けようとはしない。上がったり下がったりする輪の上に、そもそも幸福を置かないこと。彼が探すのは、輪の外にある確かさのほうである。

この論理は冷たく見える。何もかも失った人に向かって、それははじめからおまえのものではなかった、と言うのだから。けれど、より響くのはこの冷たさのほうである。人が不運に打ちのめされるのは、奪われたものを「自分のもの」だと思い込んでいるからだ。地位も財産も評判も、握っているあいだは自分の一部のように感じられる。運命は、その思い込みに冷や水を浴びせるのだ。あれははじめから借り物だったのだと。

それでも、と哲学は付け加える。運命がすべてを奪ったわけではない。奪われたものばかりを見ていると、まだ手の内に残っているものが見えなくなる。いちばん確かなものほど、失われたときにしか値打ちに気づかない。運命の車輪が下へ回ったそのときですら、輪の軸のように動かないものが、どこかにある。哲学は、その在り処を次に探しにいく。

3. 偽りの善——富も名声も幸福ではない

対話が進むと、話は「では本当の幸福とは何か」へ移っていく。哲学の見立てはこうだ。人は誰でも幸福を、つまり善を求めている。ところが多くの人が、幸福そのものではなく、幸福の断片を幸福と取り違えている。富、地位、権力、名声、そして肉体の快楽。人が血眼で追いかけるこれらは、どれも本物の善ではない。

なぜか。富は奪われる。地位は失われる。名声は他人の口しだいで、権力はかえって敵を増やし、快楽は過ぎ去ってしまう。どれも不安定で、外にあり、そのどれ一つとして、それだけで人を満たしはしない。金があっても不安な人はいる。名声があっても孤独な人はいる。断片をいくら集めても、断片は断片のままだ。

哲学は、偽りの善を一つずつ吟味していく。富は、持つほどに失う不安を連れてくる。守るために鍵をかけ、番人を雇い、奪われまいと怯える。地位や官職は、就いた人を立派にするわけではない。悪人がその座に就けば、座のほうが汚れるだけだ。権力は、握るほどに敵を増やし、いつ寝首をかかれるかと眠りを浅くする。名声は、他人の口の中にあって、当人にはどうにもならない。快楽は、過ぎ去ったあとに悔いだけを残すこともある。どれも、外から手に入れ、外から奪われるものばかりである。

面白いのは、と哲学は続ける。人が別々に追いかけているこれらは、もとをたどれば一つのものの、ばらばらになった断片なのだ。満ち足りていること、力があること、敬われること、名が知られること、喜びがあること。人はこれらを別々の目的として追う。けれど本当の幸福は、それらがひとつに揃った状態のはずだ。ばらばらに一つずつ手に入れようとするから、いつまでも満たされない。全部を別々に集め終える日は、けっして来ないからである。

しかも、断片を追う人は、その数だけ引き裂かれていく。富を求めれば富に、評判を求めれば評判に、心が散らばっていく。一つに落ち着けないまま、あちこちへ引っぱられる。真の幸福は、そういうものではないはずだ、と哲学は言う。それは完全で、揺るがず、それ自体で足りているものでなければならない。哲学はそれを、最高の善、すべての善の源にある一点だと考える。理屈をたどっていくと、それは神と呼ぶほかないものに行き着く。

では、それらを求めること自体が間違いなのか。哲学は、そうは言わない。富も地位も、それ自体が悪なのではない。間違いは、それらを最終の目的に据えることにある。手段であるはずのものを、幸福そのものと取り違える。橋を渡るための橋の上で、立ち止まって暮らそうとするようなものだ。断片は、真の善へ向かう途中にあるならよい。断片で歩みを止めるとき、それははじめて人を幸福から遠ざける。

ここで一つ、書き添えておきたいことがある。ボエティウスはキリスト教徒だったが、この本の中では聖書も教会も持ち出していない。彼が慰めを求めた先は、信仰の言葉ではなく、ギリシア以来の哲学の理屈だった。牢の中で最後にすがったのが、祈りではなく考える力だったところに、この本の姿勢がよく表れている。救いを外から待つのではなく、いま手のなかにある理性で、自分の足場を組み直そうとしたのである。だからこの本の慰めは、信じられる人だけのものではない。考えられる人すべてに開かれている。

4. 奪えないもの——自由は意志の同意にある

最も難しく、そして最も美しいのは、終わりに近い対話である。ボエティウスは哲学に問う。悪人が栄え、善人が苦しむのはなぜか。世界に秩序などあるのか。哲学は、世界は偶然に転がっているのではなく、摂理によって導かれていると答える。人の目には無秩序に見えても、より高いところから見れば、すべては一つの秩序の中にある。

哲学は、摂理と運命を分けて説明する。摂理とは、すべてを一望する高い視点から見た、世界の設計そのものである。運命とは、その設計が時間の中でほどけていく、目に見える順序のことだ。同じ一つの秩序を、高いところから見れば摂理と呼び、地上で移り変わりとして受け取れば運命と呼ぶ。人の目に運命が気まぐれに見えるのは、設計の全体が見えていないからにすぎない。

そのうえで哲学は、意外なことを言う。悪人は、栄えているように見えて、実は何より大切なものを失っている。悪をなすことで、その人は人間としての本来のかたちから遠ざかっていく。だから、罰を受ける前にすでに、悪人は罰を受けている。栄えている悪人ほど、幸福からは遠い。損得の勘定では見えないところで、帳尻は合っている。

善人が苦しみ、悪人が栄えるという、いちばん飲み込みにくい現実にも、哲学は正面から答えようとする。目に見える運不運は、幸福のほんとうの目盛りではない。善をなす力そのものが善人への報いであり、悪をなすこと自体が悪人への罰である。外から降ってくる幸運や不運は、その内側の釣り合いとは別の次元にある。だから、栄える悪人を羨む必要はない。彼はすでに、いちばん大切なものを手放している。

すると、さらに厄介な問いが出てくる。もし神がすべてを前もって知っているのなら、人間の自由な選択などないのではないか。結末が先に決まっているなら、選ぶことに意味はないのではないか。この問いに、哲学は時間そのものの捉え方を変えて答える。神の「永遠」とは、長く引き延ばされた時間のことではない。限りない生のすべてを、一度にまるごと持っていることだ。

つまり神は、時間の外にいる。過去も未来も、神にとっては「いま」目の前にある。だから神が未来を知っているというのは、明日の天気を予想するのとは違う。すでに現在として見ているだけであって、それが人の選択を縛るわけではない。見られているからといって、選べなくなるわけではない。

対話は、祈りが無駄ではないという一点にも触れる。すべてが見られているのなら、どう生きるかにはなお意味がある。見ている者の前で、人は何を選ぶかを問われ続けている。決まっているから選べないのではない。見られているからこそ、選ぶことに重みが残る。ここに、この本の慰めの核心がある。運命は、財産も地位も、命さえも奪える。けれど、何を善しとし、何に同意するかという意志——その一点にだけは、運命の手が届かない。奪えないものは、人の内側にあったのだ。

おわりに

ボエティウスは、この本を書き終えてまもなく処刑された。運命の車輪は、最後まで彼を下へ運び続け、命そのものを奪っていった。外側の物語としては、これは救われなかった人の記録である。

けれど、彼が牢の中で見つけた「奪えないもの」は、彼が死んだあとも消えなかった。『哲学の慰め』は写され、訳され、読み継がれた。アルフレッド大王が古い英語に訳し、チョーサーが中世の英語へ移し、エリザベス一世が六十を過ぎてから自ら筆をとった。運命はボエティウスの命を奪ったが、彼が内側に見つけたものだけは、千五百年かけても奪えなかった。

ただ、一つだけ問いが残る。運命に触れられない場所が本当に自分の内側にあるのだとして、それは、すべてを失ったときにしか見つからないものなのだろうか。持っているものが借り物だと気づくのに、人はいちど牢を必要とするのだろうか。ボエティウスが独房で書き残したのは、その問いだったのかもしれない。

あなたへのおすすめ
ABOUT ME
亀吉🐢
亀吉🐢
映画・本が好きな極めて一般的な20代
こんにちは。亀吉です。 仕事の合間にブログを書いています。 このブログは、どこまでも個人的で恣意的な思想の表明です。思うままに・・・ 映画と本が好きです。その他音楽や登山など。
記事URLをコピーしました