G-0C41NE8DJB 『罪と罰』ドストエフスキー — 「正しさ」で人を裁きたくなった夜に|亀吉の呟き
亀吉の書評

『罪と罰』ドストエフスキー — 「正しさ」で人を裁きたくなった夜に

『罪と罰』ドストエフスキー — 「正しさ」で人を裁きたくなった夜に
yoshiomi

電車で足を踏まれて、謝りもしない相手の顔を見たとき。列に割り込まれたとき。ニュースの中の誰かを、画面のこちら側から裁いたとき。「自分はこの人とは違う」と、胸の奥でほんの少しだけ思ったことが、たぶん誰にでもある。その一瞬、私たちは自分を、ルールの内側にいる側ではなく、ルールを見下ろせる側に、そっと移している。

フョードル・ドストエフスキーが一八六六年に書いた『罪と罰』は、その「ほんの少し」を最後まで押し進めてしまった青年の話だ。彼は「自分は他の人間とは違う」という感覚を、頭の中のつぶやきから一つの理屈へと組み上げ、その理屈を確かめるために、斧を握る。

長い小説だ。文庫で千ページを超える。暗くて、じめじめしていて、登場人物はみな貧しく、しゃべりすぎる。それでも、この小説が百五十年後の私たちのほうを向いているのは、ラスコーリニコフが特別な怪物だからではない。彼が握った理屈の入り口に、私たちもときどき立っているからだ。

ここで追いかけたいのは、「罰」がどこから始まっていたのか、という一点だ。シベリアに送られることが罰なのではない。罰は、もっと早く、彼が斧を振り下ろした、まさにその直後から始まっている。

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棺桶のような部屋で理屈を育てる

ロジオン・ラスコーリニコフは、ペテルブルクの貧民街の、棺桶のように狭い屋根裏部屋に住んでいる。元は大学で法律を学んでいたが、学費が払えず、いまは籍を失っている。家庭教師の口も手放し、下宿のおかみに家賃を滞納し、外に出れば物乞いと変わらない身なりで、人と目を合わせるのも億劫になっている。蒸し暑い夏のペテルブルクの、饐えた匂いまで漂ってくるような街が、彼を取り巻いている。

その貧しさのなかで、彼は一つの考えを育てていた。人間は二種類に分けられる、という考えだ。大多数は、ただ既存のルールに従って生きる「凡人」。ごく一部だけが、人類を前へ進めるために、古い法や道徳を踏み越える権利を持つ「非凡人」。ナポレオンは何万人を死なせても英雄と呼ばれる。なら、一線を越える資格を持つ人間が、確かにいるのではないか。そしてこの理屈の肝は、その資格を持つ者なら、一線を越えても良心の呵責に苦しまずにいられる、という一点にある。罪の意識に押し潰されるのは、しょせん凡人の側の話だ——理屈は、そう言ってのける。

ラスコーリニコフはこの考えを、大学に在籍していたころ、雑誌に論文として発表してさえいた。理屈はもう、彼の頭の中だけのものではない。活字になって、外の世界に出てしまっている。危ういのは、その理屈のいちばん尖った先端に、彼が自分自身を立たせようとしたことだ。自分は凡人なのか、非凡人なのか。確かめる方法は一つしかない——実際に、一線を越えてみること。

そんな彼のもとに、故郷の母プリヘーリヤから長い手紙が届く。妹のドゥーニャが、一家の暮らしを立て直すために、ルージンという中年の俗物との結婚を決めた、という知らせだ。自分のために妹が身を切ろうとしている——その手紙は、ラスコーリニコフの中で燻っていた焦りを、いっそう煽り立てる。世の中は理不尽で、善良な者ほど踏みつけられ、自分は何一つできずに屋根裏で腐っている。彼の理屈は、こうした現実への怒りと、自分の無力さへの苛立ちを養分にして、だんだんと熱を帯びていく。

斧を振り下ろした直後に

標的に選ばれたのは、街の高利貸しの老婆アリョーナ・イワーノヴナだった。質草を抱えて何度か訪ねるうち、ラスコーリニコフは老婆を「誰の役にも立たず、ただ他人の困窮を吸って肥えるシラミのような存在」と値踏みするようになる。あれを一人消せば、その金で何十人もの若者が救われる。一方を引き算して、もう一方を足し算する。勘定は、きれいに合っているように見える。

実際に手を下す場面は、英雄的でも劇的でもない。彼は斧を上着の下に隠して老婆の部屋に入り、後ろから振り下ろす。手は震え、ほとんど自分が何をしているのか分からないまま体が動く。そしてここで、彼の理屈がまるで見込んでいなかったことが起きる。物音に気づいて戻ってきた老婆の義理の妹リザヴェータが、部屋に入ってきてしまう。ラスコーリニコフは、立ちすくむこの女まで、続けて斧で殺す。

「人類のため」という理屈は、一人目の老婆までしか説明できない。二人目のリザヴェータは、ただ、そこに居合わせただけだ。理屈の外で、計画になかった血が流れる。この瞬間に、彼の壮大な理論には、最初の、そして決定的なひびが入っている。

奪った金や品物は、犯行のあと人目を避けて、中庭の石の下に隠した。証拠を遠ざけるための隠し場所だ。ところが彼は、それをろくに使えない。隠した石に、近寄ろうともしないのだ。犯行のあと彼を襲うのは、勝利感でも解放感でもなく、高熱とうわごと、人の足音への怯え、血が逆流するような恐怖だった。何日も寝込み、友人のラズミーヒンが看病に来ても、まともに口がきけない。

この小説のタイトルにある「罰」は、判決でも牢獄でもない。罰は、まだ誰にも捕まっていないのに、もう始まっている。法律でも警察でもなく、彼自身の中の何かが、理屈の許可を待たずに、勝手に彼を裁きはじめる。「非凡人なら、踏み越えても平気なはずだ」——その仮説は、斧を振り下ろした直後に、彼自身の体によって反証されてしまった。理論では、良心という一点を、一秒も黙らせることができなかったのだ。

ポルフィーリーという男

事件を担当するのが、予審判事ポルフィーリー・ペトロヴィチだ。人あたりのやわらかい、とらえどころのない中年の男で、大声で問い詰めるかわりに、雑談のなかに相手の急所をそっと差し込んでくる。決定的な物証は、持っていない。それでも彼は、ラスコーリニコフをじわじわと追い詰めていく。武器にするのは、足跡でも凶器でもなく、ラスコーリニコフ自身がかつて発表した、あの論文だ。

ポルフィーリーは雑談を装いながら、論文の話を持ち出す。「非凡人には踏み越える権利がある、と書いておられましたね。ところで、あなたご自身は、どちらの側のおつもりなんです?」。この問いは、どんな証拠よりも深く刺さる。ラスコーリニコフが本当に恐れているのは逮捕ではない。自分が「非凡人の側」にいるという、たった一つの拠り所が、外から軽く突かれて崩れることだ。

皮肉なのは、ポルフィーリーが少しも急がないことだ。放っておいても、容疑者のほうが先に耐えきれなくなる——彼はそう見抜いている。ラスコーリニコフを本当に取り調べているのは、机の向こうの判事ではなく、彼の内側に住みついた、もう一人の取調官のほうなのだ。

二人の対話は、追う者と追われる者の駆け引きでありながら、どこかで、ラスコーリニコフが自分自身と続けている問答の、代理戦争にもなっている。ポルフィーリーは彼を罠にかけようとしながら、同時に「楽になりなさい、自首して、もう一度こちら側へ戻りなさい」と促してもいる。逃げ道がふさがれていくのは、ポルフィーリーが包囲を狭めているからというより、ラスコーリニコフ自身が、もう自分の理屈を信じきれなくなっているからだ。

ソーニャの差し出す手

その理屈の外側から、まったく別の手が差し出される。ソーニャ——ソフィヤ・マルメラードワ。

彼女の父マルメラードフは、酒で身を持ち崩した元役人だ。物語の序盤、ラスコーリニコフはたまたま入った居酒屋で、この男から長い身の上話を聞かされる。酒がやめられず職を失い、妻子を飢えさせ、娘のソーニャを街に立たせてしまった——それでも飲むのをやめられない、という告白だ。一家は困窮し、まだ年若いソーニャは、家族を食べさせるために、身を売るしかなかった。当時のロシアで娼婦に発行された「黄色い鑑札」を受け取り、街に立つ。彼女は自分を犠牲にして、義理の母と幼い弟妹を支えている。そして、その境遇のただ中で、神への信仰を手放さない。

ラスコーリニコフは、このソーニャに惹かれていく。二人は、ある一点でよく似ている。彼は「人類のため」という理屈で一線を越え、彼女は「家族のため」に自分の身を売った。どちらも、一線の向こう側に立っている。違うのは、ソーニャが自分を一度も正当化しないことだ。彼女は自分の境遇を理屈で薄めようとしない。苦しみを苦しみのまま引き受けて、それでも他人を信じることをやめずにいる。

よく知られた場面がある。ラスコーリニコフは、ソーニャに、新約聖書の「ラザロの復活」のくだりを声に出して読ませる。死んで墓に葬られたラザロが、四日後に呼びかけられて生き返る、あの箇所だ。震える声でそれを読み上げるソーニャの前で、彼はやがて、自分が老婆を殺したことを打ち明ける。

ソーニャは、彼を論破しない。「あなたの理屈は間違っている」と説き伏せもしない。彼女がするのは、ただ「いますぐ十字路へ行きなさい。地面にひざまずいて、あなたが汚した大地に口づけしなさい。それから、みんなの前で『私が殺しました』と言いなさい」と告げることだ。そして、糸杉の十字架を彼に渡す。理屈には理屈で応じる、というその土俵に、彼女は最初から上がろうとしない。

スヴィドリガイロフという影

この小説には、もう一人、忘れがたい男がいる。スヴィドリガイロフ。ラスコーリニコフの妹ドゥーニャが、かつて家庭教師として住み込んでいた家の主人で、彼女に執拗に言い寄ってくる地主だ。

二人は、物語の後半で何度か言葉を交わす。スヴィドリガイロフはたまたま隣室を借りていて、壁ごしにラスコーリニコフがソーニャへ告白するのを残らず聞いていた——そう明かし、面白がるように彼を見つめる。「我々は一つ穴のむじなですよ」。ラスコーリニコフが理屈を積み上げて必死にたどり着いた場所に、この男は最初から手ぶらで座っている。だから向かい合うと、ラスコーリニコフは自分の理論のいちばん醜い部分を、鏡で見せられているような心地になる。

スヴィドリガイロフは、過去にいくつもの暗い噂を背負っている。それでいて、彼の中には、罪を罪として咎める声が、ほとんど聞こえてこない。彼は「すべては許されている」という地点に、何の理屈も組み立てずに、ただ平然と立っている。ラスコーリニコフが論文まで書いて必死に正当化しようとした場所に、この男は、はじめから手ぶらで座り込んでいる。

だからこそ、スヴィドリガイロフは、ラスコーリニコフにとっての影になる。良心の咎めという、あの「黙らない一点」を本当に持たない人間は、どこへ行き着くのか。物語の後半、ドゥーニャに完全に拒まれたスヴィドリガイロフは、持ち金を周りの人々に分け与え、世話になった子どもに金を残し、そして、ある夜、拳銃で自ら命を絶つ。咎める声がないということは、自由ではなかった。引き止める声も、生きていていい理由も、彼の中にはもう、何ひとつ残っていなかった。

ラスコーリニコフを苦しめ続けた良心の声は、見方を変えれば、彼をまだこちら側につなぎ止めていた、細い糸でもある。スヴィドリガイロフの最期は、その糸を持たない者の行き着く先を、ラスコーリニコフに——そして私たちに——見せている。

十字路で土に口をつける

そして、あの場面が来る。

ソーニャに打ち明けたあとも、ラスコーリニコフはまだ、完全には理屈を手放せていない。「自分の理論は正しかった。ただ、自分がそれを実行できるほどの非凡人ではなかっただけだ」——彼はなお、そんなふうに自分を整理しようとする。理屈の建物は、まだ半分、立っている。

それでも彼は、ソーニャの言葉に従って、街の広場へ出ていく。人々が行き交う十字路の真ん中で、ひざまずき、地面に額をつけ、汚れた大地に口づけする。なぜそうするのか、彼自身うまく言葉にできない。頭で組み立てた理屈は、この動作を一度も許可していない。「大地に口づけすれば罪が清まる」などという命題を、彼が論証したわけではない。ただ、体のほうが先に、地面へ向かって倒れ込む。

ここに、この小説の背骨がある。あれほど理屈で武装していた青年が、最後の最後に救いへ向かって踏み出す一歩は、論理の結論としてではなく、ひざまずくという、理屈以前の身体の動きとしてやってくる。頭では最後まで手放せなかった一線を、ひざまずいた体のほうが、先に越えていく。

そのまま彼は警察署へ行き、「人を殺したのは私です」と告げる。

おわりに

判決は、シベリアでの八年の流刑だった。自首したことやこれまでの行いが考慮された、比較的軽い刑だ。ソーニャは、彼を追ってシベリアまで移り住み、流刑地の近くで暮らしながら、彼を見守り続ける。

最後の数十ページ——エピローグに入っても、ラスコーリニコフはまだ、心から悔いてはいない。獄中でも彼はむっつりと黙り込み、自分の罪を、心の底ではなお「失敗した計画」としてしか感じられずにいる。回心は、まだ訪れていない。

それが、ある日、川のほとりで変わりはじめる。広いシベリアの河を眺めているとき、ソーニャがそばに来る。その瞬間、彼の中で、理屈では一度も動かなかった何かが、ようやく動く。彼は彼女の足元に泣き崩れ、自分が彼女を愛していることを、はじめて理屈抜きに知る。

フョードル・ドストエフスキーは、ここを「復活」と呼んだ。ただし、用心深く書いている。これは更生の完成ではない。物語の最後の一文で、ドストエフスキーは、これが「新しい物語の始まり」であって、その物語はまだ語られていない、とだけ記す。救われた、とは言い切らない。救いに向かう、その最初の一歩のところで筆を置く。八年の刑の、まだ初めの年なのだ。

罰は、シベリアで始まったのではなかった。斧を振り下ろした直後、彼の中の何かが、彼を裁きはじめた。罰は、あの瞬間から始まっていた。救いのほうも同じだ。頭で出した結論としてではなく、地面にひざまずくという体の動きから始まっていた。

「自分は他の人とは違う」と思ったあの夜、私たちもまた、ラスコーリニコフが立った入り口の、すぐ手前にいる。違うのは、たいていの場合、私たちはそこで斧を握らずに済んでいる、ということだけかもしれない。次に誰かを心の中で裁きたくなったとき、その「正しさ」が自分のどこから来ているのかを、振り下ろす前に、一度だけ立ち止まって見てみたい。ラスコーリニコフが、十字路でようやく膝をついたあの場所より、ずっと手前で。

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こんにちは。亀吉です。 仕事の合間にブログを書いています。 このブログは、どこまでも個人的で恣意的な思想の表明です。思うままに・・・ 映画と本が好きです。その他音楽や登山など。
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