『人生論』レフ・トルストイ — 自分の幸福を手放したさきに
はじめに
世界中が名前を知る小説を書き上げた男が、あるとき、筆を止めた。
レフ・トルストイ。長い戦争の時代を生きる人々を描いた大作と、ひとりの女性の破滅を追った物語。そのふたつだけで、トルストイはすでに世界的な作家になっていた。財産があり、家族があり、まぶしいほどの才能があり、うらやまれるだけの名声があった。人が欲しがるものを、ほとんど手にしていた男だ。
その男が、生きる理由を見失う。何を書いても、何を成しても、心の奥から「それが、いったい何になる」という声が消えない。手に入れたはずの幸福が、少しも自分を満たさない。誰もがうらやむ場所に立ちながら、足もとの土が抜けていく。名声も財産も、迫ってくる問いのまえでは、一枚の薄い紙のようだった。
その苦しみの底で書かれたのが、告白の書『懺悔』だった。なぜ生きるのか分からなくなった、というありのままの記録だ。そして、その底からもう一度立ち上がるようにして書かれたのが、本書『人生論』にあたる。『懺悔』が「なぜ生きるか分からなくなった」という問いの書なら、『人生論』は「では、どう生きるのか」という答えの書だといっていい。
ここには物語がない。筋を追う登場人物もいない。トルストイが、読者ひとりに向かって、幸福とは何かを正面から説いていく。小説家トルストイではなく、思想家トルストイの書。それが本書だ。世界最高の小説家が、物語では埋められなかった問いに、素手で立ち向かった記録でもある。
幸福を追うほど渇いていく
トルストイは、まず私たちの取り違えを指さす。
人は幸福を求めて生きている。それ自体は正しい。だが、その幸福を「自分ひとりの幸福」だと思っているところに、落とし穴がある、とトルストイは言う。もっと多くを、もっと良いものを、もっと快いものを。自分の取り分をふくらませることを幸福だと信じて、人は走りつづける。
けれど、自分ひとりの取り分を求める幸福は、けっして満たされない。ひとつ手に入れれば、次の欠けが目につく。隣の誰かが持っているものが、まぶしく見える。手にした瞬間はうれしくても、その喜びはすぐに褪せて、また次の欠けをさがしはじめる。おまけに、自分の幸福を守ろうとすれば、他人の幸福とぶつかる。奪い合いのなかでは、心の休まる場所はどこにもない。求めれば求めるほど、渇きが深くなる。
この、自分の得ばかりを追う自分を、トルストイは動物的な自我と呼んだ。腹が減れば食べ、危うくなれば逃げ、快いものへ手を伸ばす。生き物としてあたりまえの、自分の生存と満足だけを中心にすえた自分のことだ。それが悪だというのではない。生き物である以上、その自我をなくすことはできない。ただ、その動物的な自我のままで幸福を追うかぎり、人はいつまでも満たされない、とトルストイは見抜いた。
私たちが「幸福になりたい」と口にするとき、たいていは、自分の分け前を増やすことを思い描いている。もっと稼ぎたい、もっと認められたい、もっと快適に暮らしたい。その願いのどこにも、やましさはない。ごく自然な望みだ。トルストイの筆は、そのいちばん自然な願いの根もとへ、まっすぐ手を入れる。私たちの渇きは、足りないから来るのではない。求める方向そのものが、はじめから渇きを生んでいるのだ。
「自分を大切に」の逆側から
ここでトルストイが差し出す言葉は、いまの時代にはひどく過激に響く。
いっさいの自己愛を捨てよ、と彼は書く。自分をいちばんにすえる心、自分の取り分を守ろうとする心。それを手放したときにこそ、はじめて本当の生がひらける。トルストイはそう書きつける。
私たちは「自分を大切に」「もっと自分を愛して」という言葉に囲まれて暮らしている。だから、自己愛を捨てよという一文は、まるで逆向きの風のように感じられる。けれど、これを古くさい禁欲の勧めと読むと、本書の芯を取りそこねる。トルストイは、我慢を積み重ねろと言っているのではない。快いものを断って身を削れと命じているのでもない。そこにしか本当の幸福はない、という発見を告げているのだ。
考えてみれば、自分ひとりを背負って生きるのは、重い。自分の得失をいつも計算し、損をしないか見張り、他人と比べては一喜一憂する。その見張りに、私たちはどれだけの力を使っているだろう。トルストイの言う自己愛の放棄は、その見張りの手を、いちど下ろしてみることに近い。守りに固めていた心がほどけると、これまで奪い合いに使っていた力が、まるごと別の方へ流れはじめる。他人の幸福を思う余地が、そこにやっと生まれる。
だから、禁欲が何かを失うことだとすれば、自己愛を手放すことは、むしろ重たい荷を下ろすことに近い。自分ひとりを守り抜く苦しさから、人が軽くなっていく方向の話だ。本書は、快楽を敵にして眉をひそめる書ではない。「自分を大切に」の対極にありながら、その言葉ではどうしても届かなかった渇きの正体を、逆の側から言い当ててみせる。もっと自分を、と念じてもなお満たされなかった人にこそ、この声は届く。
死の位置が変わるとき
トルストイは、死についても私たちの取り違えを指さす。
なぜ死がこれほど怖いのか。それは、人生を「この肉体が続くこと」だと思い込んでいるからだ、とトルストイは言う。生きるとは、この体が明日も動き、あさっても動くこと。そう信じているかぎり、体の終わりである死は、すべての意味を飲み込む黒い影になる。どれだけ積み上げても、最後にすべてが消えるのなら、いったい何になるのか——若き日のトルストイを苦しめたのも、まさにこの問いだった。
けれど、と本書は続ける。本当の生は、体の誕生や終わりとは別の次元にある。自分の取り分を追う動物的な自我ではなく、他人の幸福を思う心、理性のはたらきのなかにこそ、消えない生がある。その心に立って生きるとき、肉体の死は、もう人生のすべてを飲み込む影ではなくなる。愛のはたらきは、体が終わったあとも、受け取った誰かのなかで生きつづけるからだ。
これは、死を恐れるなという傲慢な励ましではない。死をごまかす気休めでもない。生きることの重心を、体の存続から、愛のはたらきへ移す。その移し替えができたとき、死の位置がひとりでに変わる、という筋道だ。重心が変われば、恐れの大きさも変わる。同じ死が、まったく違う顔をして見えるようになる。トルストイは、そう説く。
死が怖いのは、私たちが自分の体をいちばん大事なものだと握りしめているからだ。その握った手を、少しずつ、他人の方へひらいていく。すると、握りしめていた力がゆるむほど、死への恐れも、少しずつやわらいでいく。本書のいちばん深いところで、生と死の話は、そのまま愛の話へとつながっていく。
愛はどこへ向かうか
本書の芯には、愛がある。
人生とは、他人を幸福にしようとする愛にほかならない。神への愛と、隣人への愛。トルストイはそう言い切る。神という言葉が出てくると、宗教の教えの解説かと身構える人もいるだろう。けれど本書は、特定の教義を説きあかす書ではない。どの信仰を持つ人にも、どの信仰も持たない人にも、いかに生きるかを問いかける、生き方の書として書かれている。
トルストイの言う愛は、胸のうちが温かくなる、あの感情のことではない。誰かを思って心が動くだけなら、それはまだ動物的な自我の延長にすぎない。好きな相手をかわいがるのは、生き物ならみなすることだ。本当の愛は、自分の取り分をうしろに回し、他人の幸福を先に立てる行いのことだ。感じることではなく、向きを変えること。自分へ向いていた心を、隣にいる誰かへ向け直すこと。それをトルストイは愛と呼ぶ。
だから、本書における神と隣人は、遠い天上の話ではない。いま目の前にいる、名前も知らない誰かへ、自分の重心を移せるかどうか。疲れて帰ってきた家族に、先にひと言かけられるかどうか。困っている人の前を、素通りせずにいられるかどうか。その日々のふるまいのなかに、愛はある。うやうやしい言葉づかいの奥で、トルストイが指しているのは、驚くほど手近な、生活のただなかの話なのだ。
自分ひとりの幸福を追う心を捨て、その空いた場所に、他人の幸福を思う心を入れる。本書の教えを、いちばん短く言い直すなら、そうなるだろう。宗教の衣をまとってはいても、その芯は、誰の暮らしにも地続きだ。難しい教理を覚える必要はない。今日、隣の誰かへ心を向け直せるか。問われているのは、それだけだ。
いま手のなかにある生
トルストイの言う幸福には、もうひとつ大事な性質がある。それは、先送りできない、ということだ。
自分の得分を追う生き方は、いつも幸福を未来に置く。あれを手に入れたら幸福になれる。ここまで登りつめたら満たされる。そうやって、幸福はいつも「これから」のどこかにある。けれど、その「これから」は、たどり着いたそばから、また先へ逃げていく。未来の報酬として幸福を待つかぎり、いまこの一日は、ただの通過点になっていく。
理性のはたらき、愛の生き方は、そうではない。他人の幸福へ向きを変えたその瞬間に、幸福はもう始まっている。見返りを待つ必要がない。向きを変えること自体が、そのまま満ちることだからだ。トルストイにとって、愛とは、未来にとっておく報酬ではなく、いま、その場で始まる行いだった。だから本書の幸福は、遠い目標ではなく、今日の午後にでも試せる、ごく身近なものになる。
言われてみれば、私たちの多くは、幸福を未来へ未来へと積み送りにして暮らしている。あの仕事が片づいたら。あの目標に届いたら。子どもが育ったら。そうやって条件をつけているあいだ、目の前の一日は、いつも仮のものになる。トルストイが崩そうとしたのは、その先送りの癖そのものだった。幸福を未来の報酬にしているかぎり、報酬が届く日は永遠に来ない。届いたと思ったそばから、条件がひとつ増えるだけだからだ。
これは、大きな犠牲を払えという話ではない。世界を救えとも、聖人になれとも、トルストイは言っていない。今日会う誰かへ、自分の重心をほんの少し移してみる。その小さな方向転換のなかに、待たなくてよい幸福がある。手のなかにある一日を、未来のための踏み台にしないこと。本書がくり返し戻ってくるのは、その一点だ。
説教ではなく、答え
本書を、上から降りてくる道徳の説教として読むと、大事なものを取りこぼす。
これは、人の上に立った賢者が、迷える者を見下ろして書いた教訓ではない。生きる理由を見失い、いちどは自ら命を絶つことまで考えた人間が、その底から這い上がるようにして掘り当てた答えだ。トルストイ自身が、「なぜ生きるのか」の問いに殺されかけた。だからこの書には、きれいごとの匂いがない。かわりに、切実さの熱がある。上からの声ではなく、同じ底をのぞいた者の、低い声で書かれている。
世界的な名声を得た小説家が、なぜ小説をいったん脇に置いてまで、こんな書を書いたのか。答えは単純だ。物語をどれだけ巧みに紡いでも、自分自身の「どう生きるか」には答えが出なかったからだ。作り物の人生を何百と描けても、自分のたった一度の生をどう生きるかは、作り物では埋まらない。トルストイは、小説家の技のすべてを持ちながら、その技では届かない場所へ、素手で降りていった。本書は、その降りていった先で書かれている。
告白の書『懺悔』で問いを吐き出し、本書でその答えを立てる。この二冊は、危機とその出口として、ひとつづきに読める。名声の絶頂で足もとを失った人間が、もう一度、自分の足で立つための土を、言葉でこねてつくっていった記録だ。だからこそ本書は、時代を越えて残った。読む者が変わっても、「どう生きるか」という問いだけは、いつの時代にも古びないからだ。
自己啓発の明るい声とも、宗教の荘厳な声とも違う。危機を通り抜けた人間の、低く、しかし確かな声で、本書は語りかけてくる。その声は、うまくいっている日にはうるさく響くかもしれない。けれど、足もとが抜けたと感じた日には、その低い声が、いちばん近くで聞こえてくる。
おわりに
トルストイが最後まで手放さなかったのは、たったひとつの向きだ。
自分の幸福を数える手を、いちど止めてみること。もっと欲しい、もっと良いものを、と自分の取り分を勘定していた手を下ろして、その手を、隣にいる誰かの方へ向け直すこと。幸福は、自分の内側にため込むものではなく、自分の外にいる誰かへ向かうことのなかにある。トルストイが生涯の危機の底から掘り当てたのは、外へ向かうこと——ただそれだけだった。
すぐに暮らしが変わるわけではない。自己愛を捨てよという言葉は、明日の朝には重すぎるかもしれない。それでも、自分ひとりを満たそうと走りつづけて、なお渇いていたのなら、いちど向きを変えてみる価値はある。自分の取り分の勘定をやめて、目の前の誰かの幸福を、ほんの少しだけ先に立ててみる。
満たされなさは、足りないから来るのではなかった。向きが、自分の内へ内へと閉じていたから来ていた。もっと手に入れれば埋まると信じて、私たちは内側へ内側へと手を伸ばしつづける。けれど、その手を外へ返すまで、渇きは消えない。その閉じた向きを、そっと外へひらいてみる。自分の幸福を手放したさきに、はじめて満ちてくるものがある。内へ閉じた向きを、外の誰かへそっとひらくこと。世界最高の物語を書いた男が、物語を脇に置いてまで伝えたかったのは、たったそれだけのことで、それが、すべてだった。
