『幸福について』ショーペンハウアー — 幸福は、つかむより、減らすもの
アルトゥル・ショーペンハウアーという十九世紀ドイツの哲学者は、人生の大半を、誰にも読まれないまま過ごした。二十代の終わりに主著『意志と表象としての世界』(1819年)を書き上げても、その本はほとんど売れず、大学で開いた講義には数人しか集まらなかった。同じ時間に講義していた当代きっての人気哲学者に、聴衆をそっくり奪われたという話も残っている。世界の本質は、目的もなくただ生き延びようとする盲目の衝動である。彼はそれを「意志」と呼んだ。意志は満たされないあいだ人を渇かせ、満たされればすぐ次を求める。だから生きることの底には、いつも苦しみがある。彼は、そう見ていた。
その彼にようやく光が当たったのは、晩年になってからだった。1851年、長年の随想を集めた『余録と補遺』が思いがけず評判を呼び、六十を過ぎたショーペンハウアーは、急に世に知られる人になった。その一冊に収められた一篇が、のちに『幸福について』として広く読まれていく。原題は「処世術のための箴言」といった意味あいの言葉で、世界を苦と見た厭世の哲学者が、それでも「では、どう生きれば少しはましなのか」を書きつけた文章だ。長く認められなかった人が、ようやく手にした聴衆に向けて書いた、遅い実感のこもった一冊とも言える。
だからこの本を、書店の棚にある「幸福になる方法」の一冊のつもりで開くと、出だしで少し勝手が違う。ショーペンハウアーは、幸福を前向きにつかみにいけるものだとは、はじめから考えていない。むしろ、そこにこそ人が不幸になるもとがある、と言うのだ。幸福を大きくしようとする努力そのものが、しばしば人を疲れさせる。彼の話は、その逆説から始まる。だからこの本は、読む人を励ますというより、むしろそっと目を覚まさせる。
つかめない幸福
ショーペンハウアーによれば、幸福とは消極的なものにすぎない。積極的に、確かなものとして存在するのは、苦痛や欠乏のほうだ。空腹や痛みや不安は、それ自体としてはっきり感じられる。けれど幸福は、その苦痛がいっとき引いたあとの、「痛くない」という状態としてしか訪れない。満腹は、空腹が消えたときにだけ感じられる。健康のありがたさは、たいてい病気になってから、初めてわかる。手に入れた喜びは、手に入れた瞬間から薄れはじめる。
私たちがふだん幸福と呼んでいるものを思い返してみると、たしかに多くは、何かの欠乏が埋まった瞬間の安堵でできている。喉が渇いていたから、水がうまい。締め切りに追われていたから、終わったあとの夜は、ほっと軽くなる。痛みや不足が先にあって、それが消えることを、私たちは幸福と呼んでいる。裏を返せば、欠乏がなければ、その安堵も訪れない。幸福は、それ自体で立っているのではなく、苦痛の影のようにして、あとからついてくる。
だから、いくら幸福をこちらから積極的につかみにいっても、つかんだと思った先から、それはただの「あたりまえ」に変わっていく。持続する満足というものは、そもそも成り立たない。あらゆる幸福は消極的な性質のものにすぎず、積極的な性質のものではない、と彼は書く。
こう言い切られると、少し突き放されたように感じる。けれど、思いあたるところがある。欲しかったものを手に入れた日の高ぶりが、驚くほど早く沈んでいくこと。念願がかなったはずなのに、しばらくすると、次に足りないもののほうばかり見えてくること。私たちはそれを自分の心の弱さのように感じてしまうけれど、ショーペンハウアーはそうは言わない。満足が長続きしないのは、心が卑しいからではない。幸福とは、もともとそういう作りのものなのだ、というのが彼の見立てだった。
苦痛と退屈の振り子
では、苦痛から抜け出せば、その先に幸福が待っているのか。ショーペンハウアーは、そうは見ない。人間の幸福には、二つの大きな敵がいるという。苦痛と、退屈だ。
足りないものがあるあいだ、人は苦痛に責められる。お金が、健康が、愛されることが足りない。その欠乏を埋めようと必死になる。ところが、うまく埋まってしまうと、今度は退屈がやってくる。することがない。張りあいがない。満たされた人間は、しばしば満たされたがゆえに、時間をもてあまして苦しむ。貧しい者は欠乏に、豊かな者は退屈に苦しむ、と彼は書く。人生は、この苦痛と退屈のあいだを行ったり来たりする振り子のようなものだ。
一方の端では痛みに追われ、反対の端では退屈にさいなまれる。ちょうど真ん中で気持ちよく止まってくれることは、めったにない。この振り子の比喩は、なかなか身につまされる。休みの前は待ち遠しかったのに、いざ何もしなくていい時間が続くと、かえって落ち着かなくなる。そんな覚えのある人には、彼の言うことが、どこか他人事に思えなくなる。
退屈は、ただの暇つぶしの問題ではない、とショーペンハウアーは見ていた。人は退屈を恐れるあまり、わざわざ刺激を、ときには災いに近いものまでを、みずから招き寄せる。騒ぎを求め、賭けごとに走り、いさかいを起こす。何もない時間に耐えられないことが、人を落ち着かないほうへと駆り立てる。だとすれば、退屈にそのまま耐えられる力は、それ自体が一つの財産なのかもしれない。彼はのちに、その力が結局はその人の内側から来るのだと説いていく。
減らすほうへ
ここまで読むと、ずいぶん救いのない本に思える。ところが、この暗い前提から、ショーペンハウアーは、ひどく現実的な結論を引き出す。幸福が「苦痛の不在」でしかないのなら、私たちがめざすべきなのは、快楽を増やすことではなく、苦痛を減らすことのほうだ。
思慮分別のある人は、快楽ではなく、苦痛のないことをめざす。彼はそう書く。楽しみをどれだけ積み増せるかで人生を測るのをやめて、痛い目にどれだけ遭わずにすむかで測りなおす。派手な幸福を追いかけて大きく賭けるより、大きな不幸を避けるほうへ、地味に舵を切る。得られるかどうかわからない大当たりを狙うのではなく、確実に減らせる痛みから減らしていく。
これは、期待をあらかじめ下げておくことでもある。幸福を最大にしようと望むほど、目標は高くなり、届かなかったときの落差は深くなる。反対に、はじめから多くを望まなければ、何ごともなく過ぎた一日が、それだけで悪くないものに見えてくる。何も起こらなかった一日は、失敗ではない。むしろ、大過なく過ぎたという意味で、上出来なのかもしれない。
もちろん、これは夢を持つなという話ではない。ただ、幸福の重心を、手に入れる側から、失わない側へずらすということだ。何を得れば満たされるかを数えるより、何を避ければ大きく崩れずにすむかを考える。健康を損なわない。度を越した見栄を張らない。取り返しのつかない賭けをしない。そういう引き算のほうが、じつは日々を確かに支えてくれる。
彼は、快楽と苦痛を同じ天秤に載せて差し引きできるものとは考えなかった。快楽はすぐに色あせ、あとに残らない。けれど苦痛は、去ったあともしこりのように尾を引く。両者は、そもそも重さが釣り合っていない。だから、同じ一つ分でも、快楽を一つ増やすより、苦痛を一つ減らすほうが、暮らしを楽にする度合いはずっと大きい。割に合うのはどちらか、と彼は冷静に勘定している。快楽の最大化ではなく、苦痛の最小化。これが、彼の考える賢い生き方の基本の姿勢だった。
幸福を足し算で考えるのをやめて、引き算で考える。増やせないものを増やそうとして苦しむより、減らせる苦痛を一つずつ減らしていく。冷たく聞こえるこの方針は、実のところ、大きく肩の力を抜いてくれる。もっと幸福にならなければ、という前のめりの構えから、一歩下がっていいと言ってくれるからだ。
奪われないもの
では、その苦痛を減らし、日々を悪くないものにするために、何を頼りにすればいいのか。ショーペンハウアーは、幸福を左右するものを三つに分けて考える。骨格にしたのは、古代ギリシアの哲学者アリストテレスが挙げた、人生の三つの財産だ。
一つ目は、その人が何者であるか。人柄や気質、健康や知性といった、その人自身のあり方。二つ目は、その人が何を持っているか。財産や所有物。三つ目は、その人が他人にどう思われているか。地位や名誉や評判。この三つのうち、幸福をいちばん深く左右するのは、一つ目の「何者であるか」だ——ショーペンハウアーは、そう断言する。
理由は単純で、あとの二つは自分の外にあるからだ。財産は失われることがあるし、評判は他人の気分しだいで移ろう。外にあるものは、いつでも奪われうる。けれど「その人が何者であるか」、つまりものの感じ方や、退屈に耐える力や、一人でいられる豊かさは、その人の内側にあって、そう簡単には奪えない。
同じ出来事に出あっても、それをどう受け取るかは人によってまるで違う。同じ空白の午後を、退屈として持てあます人もいれば、静けさとして味わう人もいる。同じ知らせを聞いても、そこに希望を見る人と、不安ばかりを数える人がいる。その違いをつくるのは、外から足したものではなく、もともとその人が持っている感受性や気質のほうだ。世界の色合いは、多くの場合、外側の出来事よりも、それを映す内側のレンズで決まる。だからショーペンハウアーは、幸福になりたければ、外を飾ることより、内を耕すことに時間をかけよ、と説く。
とりわけ彼が重んじたのは、精神の豊かさだった。自分のなかに興味や思考の泉を持っている人は、一人でいる時間を、退屈ではなく休らぎとして過ごせる。逆に、内側にそれを欠く人ほど、退屈を逃れようとして外の刺激や社交を追い求め、そのぶん他人に振り回される。読書や思索や、一つのことにじっくり打ち込める性分は、財産のように盗まれることも、評判のように移ろうこともない。年を重ねても、むしろ深まっていく数少ない持ちものだ。奪われにくい幸福の元手は、外の華やかさではなく、内の落ち着きのほうにある。
他人の評価に幸福を預けない
三つのうち、彼がとりわけ手きびしく戒めるのが、三つ目、他人にどう思われているか、への囚われだ。
私たちは、実際の自分の暮らしそのものよりも、それが他人の目にどう映るかを気にしすぎる。もっと立派に見られたい、軽んじられたくない。その思いに、多くの時間と労力を吸い取られる。けれどよく考えてみれば、名誉も評判も、自分の中にあるのではなく、他人の頭の中にある像にすぎない。その像のために一喜一憂するのは、自分の幸福を、他人の頭の中に預けてしまうようなものだ。しかも、その像は自分では動かせない。
ここには、時代を先取りしたような鋭さがある。私たちは今、かつてないほど「他人にどう見られるか」を数字で突きつけられる暮らしのなかにいる。何人が見たか、何人が良いと言ったか。その数字に胸を上下させるとき、幸福の手綱は、たしかに他人の頭の中へと移っている。ショーペンハウアーが百五十年以上前に書いた戒めは、そのまま今の私たちの落ち着かなさを言い当てているように読める。
見栄や虚栄のために身をすり減らすのは、だから割に合わない。他人がどう思うかは、自分にはどうにもできないところで勝手に決まっていく。そこに幸福の根を下ろせば、根は他人の気分のたびに揺さぶられる。誰かの一言で舞い上がり、別の誰かの視線でしぼむ。そんなふうに、自分の機嫌の手綱を他人に握らせてしまうことになる。ショーペンハウアーは、その根を、もっと奪われにくいところ、つまり自分自身のあり方と、なにより健康に移せと言う。
彼は、私たちの幸福の九割ほどは健康にもとづいている、という意味のことを書いている。どれほど財産や地位があっても、体を損なえば世界は灰色になる。逆に、たいしたものを持っていなくても、健やかで機嫌よくいられれば、一日はそれなりに耐えうるものになる。地位や名声のために健康をすり減らすのは、いちばん確かな土台を、いちばん頼りない見返りのために手放すことにほかならない。当たり前すぎて忘れがちなこの一点を、彼はいちばん確かな土台に据える。派手さはない。けれど、奪われにくいものから先に力をかけていくという意味で、これは徹底して現実的な助言だ。
おわりに
ここまで読んで、ショーペンハウアーをただの気むずかしい厭世家だと切り捨てるのは、簡単かもしれない。幸福なんてつかめない、満足は続かない、人生は苦痛と退屈の振り子だ。並べてみれば、たしかに救いがないように見える。
けれど、彼が歩いた道のりを思い返すと、その冷たさは少し違って見えてくる。人生の大半を認められず、世界を苦しみと見ながら、それでも彼は「どう生きれば少しはましか」を投げ出さなかった。幸福をつかめると請けあう甘い言葉ではなく、つかめないという前提から出発して、では何を減らせるかを、地味に、律儀に数えあげた。その律儀さの底には、幸福になれと急かされ続けて疲れた人への、不器用なやさしさのようなものがある。うわべの励ましよりも、こうした飾らない言葉のほうが、より深く我々の胸に届く。
私たちはいつも、もっと幸福にならなければ、と急かされている。他人と自分を見比べ、足りないものを数え、手に入れた先からまた次の欲しいものへ移っていく。ショーペンハウアーの引き算は、その急かしそのものを降ろしてくれる。幸福を増やせなくてもいい。大きな不幸を一つ避けられた日、どこも痛くない一日を穏やかに過ごせた日を、それで充分だと思っていい。暗く見えたこの厭世家が最後にそっと差し出しているのは、もう、これ以上むりに幸福にならなくていい、という許しのほうなのかもしれない。
