G-0C41NE8DJB 『荘子』荘子 — はかるのをやめた人は、どこまでも自由だった|亀吉の呟き
亀吉の書評

『荘子』荘子 — はかるのをやめた人は、どこまでも自由だった

『荘子』荘子 — はかるのをやめた人は、どこまでも自由だった
yoshiomi

役に立っているか。正しいか。勝っているか。そういう物差しをいくつも握りしめて、人は毎日を渡っていく。物差しがあるから、世界はきれいに区切れる。大きいものと小さいもの、有るものと無いもの、生きているものと死んでいるもの。切り分けられるから、どこに立てばいいのかも分かる。物差しは、生きていくうえでの便利な道具だ。ただ、その道具は、いつのまにか自分の背にもあてがわれている。今日の自分は役に立ったか。あの人より前にいるか。ちゃんとした側にいるか。そんな問いで自分をはかるたびに、身体のどこかが、すこしずつ固くなっていく。うまく使えば、それは道具でいてくれる。けれど、いつのまにか使うほうと使われるほうが入れかわって、人のほうが道具に使われはじめる。荘子が見ていたのは、その入れかわりだ。はかること自体が悪いのではない。はかった値を、そのまま自分の重さだと思いこむところで、人はつまずく。

荘子が書いた『荘子』は、その物差しを一本ずつ外していく本だ。捨ててしまえとは言わない。そんなものは幻だと言い切るのでもない。ただ、握った指を、そっとゆるめてみせる。天地の側から眺めれば、お前がそれで自分を測っているその目盛りは、ほんとうに絶対なのか。荘子は声を荒らげない。理屈で追いつめはしない。むしろ笑いながら、蝶や、木や、牛をさばく料理人の姿を借りて、そのことをたずねてくる。寓話でふっと肩の重みをずらす。読み進めるうちに、握っていたはずの目盛りが、指のあいだからこぼれていく。

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夢のなかの蝶

昔、荘周が夢のなかで胡蝶になった。ひらひらと飛びまわり、心のままに舞って、自分が荘周だということもすっかり忘れていた。ふと目が覚めると、横になっているのはまぎれもなく荘周である。けれど、そこで分からなくなる。荘周が夢で胡蝶になっていたのか、それとも胡蝶がいま夢のなかで荘周になっているのか。

この話を「人生は夢のようにはかない」でまとめてしまうと、荘子のいちばんおもしろいところがこぼれ落ちる。ここで揺すぶられているのは、はかなさではなく、境目のほうだ。荘周と胡蝶のあいだに引いた線は、じつはどちら側からでも引ける。目が覚めた側を本物と決めているのは、目が覚めた側の理屈にすぎない。夢の側から見れば、起きているこちらのほうが、長い夢のひとこまだということになる。どちらが本物かは、立っている場所で入れかわる。夢と現、そのどちらにも重みをかけずにいられたら、目覚めるたびに世界がまるごと差し出される。

是と非、善と悪、美と醜、生と死。人はそうやって世界を切り分けて、片側に立ち、反対側を眺める。荘子はそれを万物斉同と呼んだ。人の側から見れば大きく違って見えるものも、天地の側から見れば等しくならぶ。違いが消えてなくなるわけではない。違いに貼りつけた重みのほうが、するりと外れる。その重みが、人を縛る綱の正体だ。綱がほどければ、同じ景色が違って息づく。生きているものと死んでいるものも、人が引いた大きな線のひとつだ。その線を絶対だと思うから、人は死をこわがり、老いをきらう。けれど天地の側から見れば、生と死は、昼と夜が移りかわるようにひとつづきの流れになる。線をこわがるのをやめたとき、いま生きているこの時間の色が、かえって濃くなる。上でもなく下でもなくなった足が、ふっと軽くなって、世界が広く息をしはじめる。

北の海の魚が鳥になる

『荘子』は、とほうもなく大きな話から幕を開ける。北のうす暗い海に、鯤という名の魚がいる。その大きさが幾千里あるのか、誰にも分からない。あるとき鯤は身を変えて、鵬という鳥になる。鵬が翼を広げて舞い上がると、空そのものがまるごと動いているように見える。海面すれすれを行き来する小さな鳥は、その姿を見あげて笑う。あんなに高くまで昇って、いったい何になるというのか。地面の近くを飛んでいれば、餌にも困らないのに。

小さな鳥が愚かなわけではない。ただ、小さな鳥の物差しでは、鵬が昇っていく高さは測りきれない。役に立つかどうか、どこかへ届くかどうか、そういう目盛りの外側へ、鵬はただ昇っていく。荘子はこの、何ものにもとらわれずに遊ぶ境地を逍遥遊と呼んだ。目的地があるから飛ぶのではない。飛んでいることが、そのまま生きていることになっている。大きいものと小さいもの。速いものと遅いもの。長い命と短い命。人はそれらを縦にならべて、上と下をつける。けれど、鵬から見た小さな鳥のせわしなさも、小さな鳥から見た鵬の悠々も、それぞれの世界のなかで満ち足りている。ならべて比べた瞬間にだけ、上下が生まれる。

その境地を生きる人を、荘子は真人と呼んだ。真人は、勝ち負けをきそう盤の上から、そっと降りている。降りているから、負けることもない。もっと役に立たなければ、もっと前に出なければと急かす声から、いつのまにか遠くなっている。それは競争にやぶれて降りたのではない。盤そのものが小さく見えるところまで、昇ってしまったのだ。

役に立たない木の下で

恵子という論客の友がいて、荘子によくからんだ。あるとき恵子が言う。うちに大きな木があるが、幹はごつごつ曲がって墨縄も当てられず、枝はねじれて定規も使えない。道ばたに立っていても、大工はふり向きもしない。お前の話も、大きいばかりで、ちっとも役に立たないな。

荘子は笑ってこう返す。そんなに大きな木があるのなら、何もない広い野に植えて、その木陰でごろりと昼寝でもすればいい。役に立たないから、誰も斧を入れようとしない。役に立たないから、途中で切り倒されることなく、天寿をまっとうする。人が「無用」だと切り捨てたところが、まさにこの木を生かしている。役に立つ木は、まっすぐで堅く、使いやすい。だからこそ人に見つけられ、早くに伐られて木材になる。役に立たない木は、誰の目もひかないまま、雨と風を浴びて、ただ大きくなる。どちらが幸せか、という問いさえ、ほんとうは物差しのひとつだ。荘子は幸不幸も決めない。ただ、切られない木の下にできる、涼しい木陰の広さだけを見せる。斧を手にした人にとってだけ、木は用と無用に割れる。斧を忘れた人には、木はただ木のまま、青々と枝を広げている。

これを世渡りの知恵に縮めてしまうと、また物差しがすり替わる。無用でいるほうが得だ、という新しい目盛りをあてはめてしまうからだ。荘子が疑っているのは、得か損かのもっと手前にある、有用と無用という物差しそのものだ。役に立つ側に置くか、立たない側に置くか。その線を引くことごと、ひとまずゆるめてみる。すると、木はただ大きく、空の下でそよいでいる。使えるとも使えないとも書かれていない、一本の生きた木があるだけだ。

牛をさばく料理人の道

ある料理人が、牛をさばいている。肩を入れ、膝を落とし、刃を進めていくその身ごなしが、まるで舞のようで、包丁の鳴る音までが、どこか音楽の調子に乗っている。見ていた君主が、みごとだ、腕はどうしてそこまで至るのかとたずねる。料理人は手を止めて答える。求めているのは腕ではなく、道なのだ。音楽のようだと言われたその両手は、力を抜いているのに、どこよりもたしかだ。

はじめて牛に向かったころは、目の前にある牛のかたちしか見えなかった。ところが年を経るうちに、目でなく心で牛に向かうようになった。骨と関節のあいだには、かならず隙間がある。刃をその隙間に沿わせていけば、硬いところを無理に断ち割ることがない。だから刃はいつまでも欠けず、研ぎたてのまま保たれる。力でこじ開けるのではなく、もともと通っている筋目に、ただ従っていく。

荘子は、この料理人の身ごなしを、生きることそのものと結びつけた。自然の理に逆らわない運びが、そのまま生き方の型になる。逆らわない、というのは、あきらめて流されることとは違う。世界にはじめから通っている筋目をよく見て、その筋目に刃を沿わせる。それだけのことが、いちばん難しく、そして、いちばん自由なのだ。無理に断ち割ろうとするとき、人は物差しを握っている。こうあるべきだ、こう切るべきだ、という力みが入る。その手をゆるめて筋目に添うとき、物差しは要らなくなる。

橋の上の魚の楽しみ

荘子が、恵子と川にかかった橋の上を歩いていた。水面に魚が出てきて、ゆらゆらと泳いでいる。荘子が言う。魚がのびのびと泳いでいる。これが魚の楽しみというものだ。恵子がすぐに返す。君は魚ではないのに、どうして魚の楽しみが分かるのか。荘子はこう受ける。君は自分ではないのに、どうして自分に魚の楽しみが分からないと決められるのか。

問答は、どこまでも続いて、きれいな決着はつかない。けれど、決着がつかないことこそが、この話の芯だ。楽しいか、楽しくないか。分かるか、分からないか。そこにも物差しがあって、荘子はその根もとを、するりと外してみせる。他人の楽しみを確かに測れるという確信も、けっして測れないという確信も、どちらも同じ地面には立っていない。橋の上で魚を見て、いいなと感じる。その素直なひとことのほうが、測る測らないの言いあいよりも、ずっと遠くまで届いている。分からないことを分からないまま、いいなと言えること。荘子の自由は、いつもそのあたりに転がっている。

老子とならぶ別の道

荘子は、老子の流れをくんで道家を大成した人だ。二人はあわせて老荘と呼ばれる。ただ、同じ流れといっても、水の向きは少しだけちがう。老子には、国をどう治めるか、人の上にどう立つかという、世を動かす色あいが濃くにじむ。荘子のほうは、そこから一歩、後ろへ退く。世の役に立とう、人の上に立とうとする場所そのものから身を引いて、無為のうちに遊ぶ姿勢をたもった。退くことは、負けることとは違う。退いた分だけ、荘子の目には空が広がった。

治めるための思想ではなく、ほどけるための思想。ならべてみると、荘子がどこに賭けた人なのかが、くっきりしてくる。人を動かすための目盛りを磨いたのではなく、自分の背にあてがわれた物差しを、そっと外す側に立った。老子と荘子を分けるのは、まなざしの向きだ。上から人の世を見おろすのか、地べたから空をあおぐのか。荘子がえらんだのは、あおぐほうだった。だからこの本には、上に立つ者へのおごそかな忠告がない。あるのは、地べたに寝ころんで空を見あげている、ひとりの目の高さだけだ。その低さが、かえってどこまでも遠くを映す。

これは処世術の本ではない

だから、これは処世術の本ではない。肩の力を抜けば楽になる、というたぐいの助言に縮めてしまうと、荘子はいちばん大事なところで裏返る。無用の用は、世渡りをうまくやるための裏技ではない。役に立つ・立たないという物差しごと疑う話であって、無用の側に立ちさえすれば得をする、という別の目盛りの話ではないからだ。得のために無用をえらんだ瞬間、その人はもう、いちばん重い物差しを握り直している。荘子が差し出すのは、勝てる手ではない。盤から降りてもいいのだという、ゆるやかな許しのほうだ。許しは、うまくやれと迫らない。むしろ、うまくやれない日の自分に、そっと席をゆずる。

これは虚無の本ではない

同じように、これは虚無の本ではない。どうせ全部おなじなら、何をしても無駄だ。万物斉同をそう読むと、荘子はたちまち投げやりの肯定になってしまう。けれど、区別の重みが外れることと、何もかもどうでもよくなることは、まるでちがう。物差しを手放した先にひらけるのは、無気力ではなく、どこへでも動いていける身の軽さのほうだ。荘子が示したのは、あきらめて平らになることというより、思うぞんぶんに遊べる広さのほうだった。灰色の虚無は、何も選べない。荘子の軽さは、何でも選べる。似て見えて、正反対だ。遊べる広さは、明るさに似ている。何をしてもいい、どこへ行ってもいいという明るさだ。

これは難解な神秘思想ではない

そして、これは難解な神秘思想ではない。悟りとか、雲の上の境地とか、そういうまぶしい言葉で祭り上げてしまうと、荘子はかえって遠ざかる。荘子が語るのは、夢のなかの蝶と、役に立たない一本の木と、牛をさばく料理人と、橋の上でかわされる問答だ。どれも地べたの、手の届く具体から始まっている。神秘のふりをした思想は、人を仰ぎ見させる。荘子の寓話は、人をしゃがませて、足もとの草や虫と同じ目の高さに連れていく。しゃがんだ人の目に映るのは、遠い真理ではない。すぐそこの草の、露のひかりだ。高いところから授かる教えではない。足のうらの高さから始まる思索だ。むずかしいのは言葉ではない。握った指をゆるめること、ただそのひとつだけが、むずかしい。

おわりに

物差しをぜんぶ捨てられる人は、そうはいない。役に立ちたい気持ちも、正しくありたい気持ちも、そう簡単には消えてくれない。荘子も、それを消してしまえとは言わなかった。ただ、握りしめた指を一本ずつほどいて、これはほんとうに絶対の目盛りなのか、と問い返す隙間をつくった。その隙間のぶんだけ、背にあてがった物差しがずれて、身が、すこし軽くなる。きっと明日も、役に立ったかと自分に問う日が来る。それでいい。ただ、問うすぐそばに、荘子の笑い声がひとつ残っている。ほんとうに、それは絶対の物差しか。そう笑われた気がした瞬間、こわばっていた肩が、ほんの少しだけ下りる。何かをはかりたくなったら、蝶を思い出せばいい。あの軽さには、目盛りがひとつも要らなかった。

蝶が、境目を気にせずひらひらと越えていくように。鵬が、目盛りの外へ悠々と昇っていくように。役に立たない木が、切られることなく大きくそだっていくように。はかるのをやめた人は、どこまでも遠くまで、自由だった。

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映画・本が好きな極めて一般的な20代
こんにちは。亀吉です。 仕事の合間にブログを書いています。 このブログは、どこまでも個人的で恣意的な思想の表明です。思うままに・・・ 映画と本が好きです。その他音楽や登山など。
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