『三度目の殺人』―空っぽの器に、 何を入れて読むか
接見室のガラスを挟んで、 二人の男が向かい合っている。 片方は弁護士の重盛朋章 (福山雅治)、 もう片方は被告人の三隅高司 (役所広司) だ。 是枝裕和監督の『三度目の殺人』 (2017) は、 ほぼこの一対の対話の周りで動いていく。
第41回日本アカデミー賞で最優秀作品賞・最優秀監督賞・最優秀脚本賞・最優秀編集賞を獲得し、 役所広司と広瀬すずがそれぞれ最優秀助演男優賞・最優秀助演女優賞を受賞している。 第74回ヴェネチア国際映画祭のコンペティション部門にも正式出品された。 受賞歴だけ並べると重厚な司法ドラマに見えるが、 本作の中心にあるのは「真実は法廷で明らかになるのか」 という問いそのものだ。 是枝が『そして父になる』『海街diary』 を経て初めて挑んだ法廷劇は、 結論を提示しない構造として閉じている。
1. 空っぽの器——三隅高司の輪郭
三隅高司は殺人の前科を持つ男だ。 30 年前、 北海道留萌で 2 名を強盗目的で殺害・放火し、 以来 30 年間を刑務所で過ごしてきた。 出所後に勤めた食品加工工場の社長・山中を、 解雇された後で多摩川の河川敷に呼び出し、 スパナで頭部を殴打しガソリンで火をつけて殺害した、 として逮捕される。 重盛が弁護を引き受けることになる。 殺人は今回が「二度目」 だ。
ところが三隅は、 接見の度に供述を変える。 金目当ての強盗だと言ったかと思えば、 雇い主 (社長) の妻・美津江 (斉藤由貴) に頼まれた保険金殺人だと言い、 さらに咲江を守るためだったように語り出す。 重盛は減刑を勝ち取るために供述を整えようとするが、 三隅の言葉は手の中で形を変え続ける。
映画の中で、 三隅という人物を知る誰かが「あの人は空っぽの器みたいな人だ」 と語る場面がある。 自発的な激情がない。 誰かに何かを入れられて、 その通りに動く。 そういう人間として三隅は描かれている。
この「器」 という比喩が、 本作の構造を支えている。 三隅自身が何かを語っているのではなく、 三隅の言葉は他の誰かに入れられた何かを反射しているだけだ——という読み方が、 映画の中で次第に立ち上がる。 そして、 観客は次の問いに直面する。 では「入れた」 のは誰か。 そして観客自身は、 三隅という器に何を入れて見ているのか。
役所広司の三隅は、 派手な演技をしない。 接見室の椅子に座り、 重盛に対してぽつぽつと言葉を渡す。 どこを見ているのかが分からない目、 声の抑揚の少なさ、 体の動きの薄さ——これらが「器」 の質感を映像として支えている。 怒っているのか、 諦めているのか、 計算しているのか、 観客にはどれも確定できない。 表情の輪郭そのものが、 確定を拒んでいる。 役所広司は、 何かを演じることで「演じない」 という質感を作り上げている。
そして本作には、 もう一つ重要な構造が組み込まれている。 重盛朋章の父・重盛彰久 (橋爪功) は元裁判官で、 30 年前、 北海道留萌で起きた強盗殺人事件で三隅に判決を下した人物である。 父が裁いた男を、 30 年後に息子が弁護する——この親子の構造が、 接見室の対話の奥に静かに敷かれている。 重盛朋章は、 父が一度「裁いた」 男と、 もう一度向き合っている。 司法という制度を父子で挟むようにして、 三隅という存在が置かれている。
2. 二度目の真実、 三度目の真実——接見ごとに変わる供述
重盛は弁護士として、 三隅の動機を「裁判で通る形」 に整理しようとする。 法廷では「事実」 そのものよりも、 「事実をどう構成して見せるか」 が判決を左右する。 重盛は勝つことにこだわるエリートで、 司法の中でその技術を磨いてきた人間だ。
しかし、 接見を重ねるごとに三隅の供述は変わる。 強盗、 怨恨、 教唆——それぞれの動機は法廷での重みが違う。 重盛は「どれが本当か」 を確かめようとするが、 三隅は「先生が信じる方が本当だ」 という意味の言葉を返してくる。
これが本作の最も冷たい構造だ。 三隅は「真実を語る存在」 ではない。 三隅は「弁護士が信じやすい真実を渡してくる存在」 だ。 重盛が勝ちたいと願う限り、 三隅は重盛が望む真実を提供する。 そして法廷は、 その「提供された真実」 を裁定する。
重盛の同僚・川島輝 (満島真之介) や事務員の篠原 (市川実日子) も、 重盛の弁護方針の急な変化に戸惑う。 だが重盛は、 三隅と接見するたびに、 自分が信じている「真実」 の輪郭が一回ずつ削られていることに気付いていく。 削られた後に残るものが、 三度目の真実とでも呼ぶべきものなのか、 それともそもそも「真実」 という形のものが存在しないのか——映画はその問いを観客に渡したまま、 判決の日へ進む。
司法という制度は、 「真実は語られれば確認できる」 という前提に立っている。 証言、 供述、 証拠——これらが整合すれば「事実」 が立ち上がる、 という仕組みだ。 だが本作の三隅は、 その前提そのものを揺らがせる。 三隅が語る言葉は、 ある面では真実かもしれないし、 ある面では虚構かもしれない。 そのどちらでもないかもしれない。 重盛が代弁してきた「弁護人の役割」 は、 真実を主張することではなく、 「依頼人に有利な真実の構成」 を提示することだった。 ところが依頼人自身が、 何が真実かを決めない存在だったとき、 弁護士の仕事は地面ごと崩れる。
3. ガラスに映る二つの顔——裁く者と裁かれる者の重なり
接見室のシーンが、 この映画の文法を支えている。
重盛と三隅は、 透明なアクリル板を挟んで向かい合う。 二人の顔は、 物理的には離れているが、 同じ画面の中に近接して並ぶ。 是枝はある場面で、 二人の顔をガラスの反射で重ねて撮る。 一方の顔の上にもう一方の顔が重なり、 どちらが手前か、 どちらが奥かの判別が一瞬曖昧になる。
このショットが本作の核心にある。 裁く者と裁かれる者は、 法的には明確に分かれている。 だが、 接見室のガラスを介した対話の中で、 二人の輪郭は重なる瞬間がある。 重盛は三隅を裁く側にいるはずだが、 三隅と話しているうちに、 自分が三隅と同じ場所にいるかもしれないという感覚に引き寄せられていく。
それは「同情」 でも「共感」 でもない。 もっと冷たい何かだ。 「自分も、 何かに動かされて動いているだけの器ではないのか」 という疑念が、 重盛の側に少しずつ浸透していく。 弁護士という職業を選び、 勝つことにこだわってきたのも、 自分が選んだ意思だと思っていたが、 本当にそうだったのかが分からなくなる。
ガラス越しに二つの顔が重なる時、 映画はそれを「美しい構図」 として撮らない。 むしろ静かで、 重い。 二人がどちらも、 自分が立っている場所を確かめられなくなっている瞬間の重さが、 画面に宿っている。
是枝の演出は、 このガラス越しのショットを劇的に強調しない。 カメラは固定気味で、 編集も最小限だ。 観客は二人の顔の重なりを「凝視」 することを許される。 通常の法廷ドラマであれば、 弁護士の覚悟や被告人の崩れる表情を、 アップとカット割りで強調する。 是枝はそれをしない。 長回しに近い時間の中で、 観客は重盛と三隅のどちらの顔も、 同時に見続けることになる。 この時間の長さが、 「裁く者と裁かれる者の境界が曖昧になっていく」 という感覚を、 観客の体の中で起こさせる。
4. 咲江の足、 赤いコート——もう一人の主体
被害者の工場社長には、 山中咲江 (広瀬すず) という娘がいる。 咲江は足に障害があり、 それは事故によるものとされている。 だが事件の調査を進めるうちに、 咲江の足の真相が三隅の動機の根に関わっている可能性が浮かんでくる。
ここで映画は、 もう一つの「真実」 を提示する。 三隅が雇い主を殺したのは、 咲江を守るためだった——という読み方が、 重盛の前に置かれる。 もしそれが本当なら、 三隅の動機は強盗でも怨恨でもなく、 「ある少女を、 もう傷つけられないようにするための殺人」 になる。
だがこの「真実」 もまた、 三隅が重盛に渡した一つの動機にすぎない。 咲江自身が、 三隅と父との関係について重盛に語る場面はあるが、 咲江の言葉も「真実」 として確定されるわけではない。 咲江が着る赤いコートが、 映画の中で何度か画面に現れる。 赤は強い色だが、 映画はその赤が何を意味するかを観客に手渡さない。 ただ、 そこに赤があった、 という事実だけが置かれる。
咲江を演じる広瀬すずは、 映画の中で感情を爆発させる場面をほとんど持たない。 重盛との会話、 法廷での証言、 父との沈黙——それぞれの場面で、 咲江は語るより、 黙ることで存在感を持つ。 三隅が「空っぽの器」 だとすれば、 咲江は「語らない口」 として配置されている。 ふたりの沈黙が、 映画のもう一つの軸を作っている。
広瀬すずの咲江は、 「被害者の娘」 という記号的な役割の中で、 個別の人間としての輪郭を立ち上げる。 重盛と話すときの目線の動き、 法廷で証言台に立つときの体の硬さ、 父の前で動かない時間——これらが、 「咲江は何かを知っている」 という観客の感覚を呼び起こす。 だがそれが何かは、 最後まで言葉にされない。 知っているかもしれないが、 語る権利を持たない、 もしくは語ることを選ばない少女として、 咲江は画面の中に立っている。 第41回日本アカデミー賞の最優秀助演女優賞を受賞したのは、 この「語らないことで存在する」 演技に対する評価だろう。
5. 「自分は殺していない」——法廷の最後の翻し
法廷の終盤、 三隅は突如として供述を翻す。 「自分は殺していない」 と無罪を主張する。 これまで接見で語ってきた「殺した、 動機は○○」 という供述の積み重ねを、 三隅は法廷の場で全て否定する。
重盛は混乱する。 自分が三隅から引き出してきた「咲江を守るため」 という動機を軸に、 減刑のための弁護方針を組み立てようとしていたのに、 三隅は法廷で「殺していない」 と言ってしまった。 これは弁護人にとって最悪の手だ。 接見で「殺した」 と認めてきた被告人が、 法廷で突然「殺していない」 と言えば、 裁判官は「往生際の悪い嘘」 と判断する。 三隅の無罪訴えは通らず、 死刑判決へと向かう。
なぜ三隅は最後に「殺していない」 と言ったのか。 ここに本作の核心がある。 一つの解釈は、 三隅が咲江の証言を回避するために、 あえて法廷で「殺していない」 と言ったというものだ。 「咲江を守るため」 という動機を法廷で認めれば、 咲江は証言台に立たねばならず、 父との関係について語らざるを得なくなる。 三隅は咲江が法廷で傷つくことに耐えられず、 動機の話そのものを成立させないために、 「殺していない」 という最悪の手を選んだ——という読み方ができる。
これが本当に三隅の意図だったかは、 映画は確定させない。 だが「同じ娘を持つ父親」 として三隅に重なるものを感じた重盛は、 三隅のこの選択に何かを見て取る。 そして「真実を法廷に出す」 という弁護士本来の使命と、 三隅が選んだ沈黙の論理のあいだで、 重盛自身の立場が揺らぐ。
ここで「三度目の殺人」 というタイトルの意味が、 観客の前に複数の形で立ち上がる。 30 年前の二人の殺人と今回の社長の殺人で「二度」、 そして法廷が真実を確かめないまま三隅に死刑判決を下すことが「三度目の殺人」 ではないか——という解釈がある。 別の読み方では、 「実行犯は誰か」 についての認識が観客の中で三度入れ替わる構造そのものを指している。 三隅自身が法廷で見せた「殺していない」 という最後の翻しもまた、 三度目の言葉として置かれている。
映画はどの解釈が正解かを示さない。 観客が手元に持ち帰れるのは、 三隅の最後の否認と、 重盛の崩れた顔と、 ガラス越しに重なった二つの顔の記憶だけだ。
法廷で「自分は殺していない」 と言ったとき、 三隅は重盛の方を見ない。 視線は法廷の床の方を向いている。 重盛の側はその瞬間、 自分が三隅から「真実を引き出した」 という確信が瓦解する。 引き出したつもりが、 三隅の側から差し出されていただけだった、 という反転が起きる。 接見室で重ねたすべての対話が、 三隅にとっては「器に入れられた言葉を返していた」 だけだったのかもしれない、 という疑念が、 重盛の中に残る。 法廷を出た重盛の表情は、 勝者でも敗者でもない、 何かを失った人間の顔をしている。
おわりに. 真実は明らかにならない、 という観察
接見室のガラスは、 映画の最後にもう一度映る。 重盛は三隅と向かい合っているが、 そこで何が話されたかは、 もはや重要ではなくなっている。 三隅の供述は法廷で覆され、 判決は出る。 重盛は接見室を出る。
是枝裕和の映画は、 「真実は法廷で明らかになる」 という前提に立っていない。 むしろ、 「人は他者を完全には理解できない、 にもかかわらず裁かなければならない」 という、 司法の根本にある矛盾を、 一つの法廷劇の形で見せている。 三隅という「空っぽの器」 は、 観客に「あなたは何を入れて見ましたか」 と問い返す装置として置かれている。 重盛の側にも、 観客の側にも、 入れたものに対する責任が残る。
『そして父になる』 で家族の輪郭を問うた是枝が、 本作で問うたのは「他者を理解したと思った瞬間に生まれる断罪」 だった。 家族の中で起きていることが、 法廷という別の場で再演されている。 そう読むと、 是枝のフィルモグラフィの中で本作が占める位置が見えてくる。
接見室を出た重盛が、 十字に伸びた道路の前で立ち止まる。 顔の表情は読み取れない。 三隅は留置場に戻り、 死刑判決を待っている。
そして観客は劇場を出て、 自分が三隅という器に何を入れて見ていたのか、 しばらく考えることになる。 ある観客は「正義のための殺人」 を入れて見ただろう。 別の観客は「殺人犯の常套手段」 を入れて見たかもしれない。 また別の観客は「咲江を守る父」 を入れて見ただろう。 どれが正しい入れ方だったのかは、 映画の中では決まらない。 観客の側にだけ、 答えが残る。
