G-0C41NE8DJB 『愛するということ』フロム — 愛は落ちるものではなく、与える側で育つ能力だった|亀吉の呟き
亀吉の書評

『愛するということ』フロム — 愛は落ちるものではなく、与える側で育つ能力だった

『愛するということ』フロム — 愛は落ちるものではなく、与える側で育つ能力だった
yoshiomi

エーリッヒ・フロムの『愛するということ』は、愛の本でありながら、恋愛の指南書のような顔をしていない。原題は Die Kunst des Liebens——「愛する技術」。開いてすぐ、フロムは冷たいほど静かに書きつける。ほとんどの人は、愛を「愛されること」の問題だと思っている。あるいは、正しい相手を見つけることの問題だと。どちらも、方向が違う、と。

エーリッヒ・フロム(1900-1980、ドイツ系ユダヤ人の社会心理学者・精神分析家)が一九五六年に出したこの本は、問いの立て方そのものを取り違えだと言う。問うべきは「どうすれば愛されるか」ではない。「自分は愛せる者であるか」。この一行の転回に、本の全部が畳み込まれている。恋愛のテクニックを説く本だと思って開くと、途中で置いていかれる。フロムが書こうとしたのは、もっと手前の、私たちが愛について抱いている前提そのものの組み替えだった。

この本は薄い。日本語では紀伊國屋書店の鈴木晶訳が定番で、二百ページほどしかない。けれど、その薄さの中に、愛をめぐる私たちの思い込みが一つずつ解かれていく。順を追って見ていきたい。

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1. 愛は技術か——受け身で「落ちる」のではなく、自ら「愛する」

私たちは「恋に落ちる」と言う。落ちる、という言葉には、自分では止められない受け身の響きがある。ある日、正しい相手が現れれば、幸福は向こうからやってくる。だから探す。品定めをする。フロムはここに、現代人の思い違いの根を見た。多くの人は、愛の問題を「愛する能力」の問題ではなく「愛される対象を見つける」問題に、すり替えてしまっている。

彼は問いを、絵を描くことや、楽器を弾くことと並べてみせる。誰も「絵に落ちる」とは言わない。絵を描けるようになりたければ、素描を学び、色を学び、何枚も失敗しながら手を動かす。技術には、知ることと、努力することが要る。愛もそれと同じだと彼は言う。愛は、正しい相手に出会えば自然に生まれる感情ではなく、知と努力で少しずつ育てる能力(faculty)のほうにある。

なぜ人はこの当たり前を見落とすのか。フロムは三つの理由を挙げる。第一に、人々は愛を「愛されること」の問題として考える。だから、どうすれば愛されるかにばかり心を砕く。第二に、愛を対象の問題だと考える。愛する能力が難しいのではなく、愛するに値する相手を見つけるのが難しいだけだ、と思い込む。第三に、恋に落ちるという最初の体験と、愛しつづけるという持続の状態を、取り違える。出会った瞬間の高まりを愛そのものだと思うから、高まりが引くと「愛が終わった」と感じてしまう。

だとすれば、問題は対象の側ではなく、自分の側にある。「愛せる相手がいない」のではなく、「愛する力がまだ育っていない」。厳しい言い方に聞こえるかもしれない。けれどこの転回には、静かな希望も含まれている。対象は自分では選べないが、能力は自分の側で育てられる。向こうから落ちてくるのを待つのをやめ、自分から愛せる者になっていく。フロムが最初に差し出すのは、この受け身から能動への転換だ。

2. 愛は与えること——空っぽの手からは何も渡せない

では、愛する能力とは具体的に何をする力なのか。フロムの答えははっきりしている。愛はまず、与えることだ。受け取ることではない。

ここでつまずく人がいる。与えるとは、自分がすり減ること、損をすることではないか、と。フロムはその読み方を退ける。与えることは犠牲ではなく、自分の生命力の、いちばん高い表れなのだと彼は書く。与える瞬間、人は自分が生きていること、豊かであることを感じる。奪われるのではなく、満ちる。ものを溜め込む豊かさではなく、差し出せることの豊かさ。だから、与えられる度合いは、その人がどれだけ成熟しているかの目盛りになる。

物質を惜しむ人が貧しいのではない。フロムに言わせれば、与えることを損失としか感じられない人こそ、どれだけ蓄えを持っていても貧しい。逆に、乏しくても差し出せる人は豊かだ。人が他者に与えられるのは、金品だけではない。自分の喜び、関心、理解、悲しみ——自分の中に生きているものを分け合うとき、人は相手の中にも何かを生かす。裏を返せば、空っぽの人は与えられない。自分の内側に何も蓄えていない人ほど、与えることを怖れ、受け取ることばかりを数える。愛せないのは相手が悪いからではなく、自分の手がまだ空っぽだからかもしれない。

与えることの中身を、フロムは四つの要素で描く。配慮・責任・尊重・知。相手の生命と成長を気にかける配慮。外から課された義務ではなく、相手の求めに自分から応えていく責任。相手を思いどおりに変えようとせず、あるがままに見て、その人自身の成長を願う尊重。そして、うわべではなく相手の内側まで知ろうとする知。この四つは切り離せない。知らないものを本当に尊重することはできないし、気にかけないものに責任を負うこともできない。四つがそろって初めて、与えることは形を持つ。母親が子を思う気持ちがただの心配に終わらず、子の育ちを支える働きになるのは、この四つが結びついているときだ。

3. 愛は恋愛だけではない——一つの人格から伸びる五つの顔

『愛するということ』を恋愛の本だと思って手に取ると、途中で置いていかれる。フロムが愛と呼ぶものは、恋愛よりずっと広い。兄弟愛、母性愛、恋愛、自己愛、そして神への愛。彼はこの五つを並べて論じる。

その手前で、フロムは愛をもっと大きな枠に置く。人間は、自分が一人きりで世界から切り離された存在だということに、どこかで気づいている。この分離の感覚こそ、人間の不安の源だ。人はそれを、集団に紛れることや、快楽に沈むことや、仕事に没頭することで、一時しのぎに埋めようとする。けれど本当に分離を越えられるのは、他者との合一を——相手を保ったまま、自分も保ったまま、深く結ばれることを——通してだけだ。愛とは、この分離を越えようとする、人間のいちばん成熟した答えだとフロムは言う。

だから、これらは五種類の別々の感情ではない。愛は一つの能力で、その能力がどの相手に向かうかで顔が変わる。恋人だけを特別に愛して他の誰にも冷たい人を、フロムは愛の達人とは呼ばない。それは愛ではなく、二人だけに閉じた執着かもしれない。一人を本当に愛せる人は、その同じ力で他者にも、世界にも開かれている。

五つの顔は、それぞれ性質が違う。母性愛は、子を無条件に肯定する愛だ。子はそこにいるだけで愛される。何かができるからでも、期待に応えたからでもなく、ただ生まれてきたこと自体が肯定される。一方、恋愛は特定の一人を選び取る愛であり、母性愛のような全面的な包容とは性質が違う。選ぶということは、他を選ばないということでもある。フロムは、この選び取る愛だけを愛の代表のように扱う風潮を戒める。神への愛も、彼にとっては人格の成熟のあらわれで、うわべの信心ではなく、自分の内にある最も善いものへ向かう姿勢として論じられる。どの顔も、同じ一つの能力から伸びている。だから、家族には優しいのに他人には冷たい、という愛し方を、フロムは本当の愛とは見なさない。愛は、向ける相手を選り好みしないところまで育って、はじめて能力と呼べる。

五つの中で誤解されやすいのが自己愛だ。自分を愛するのは利己ではないか、という疑いが、すぐに湧く。フロムは、自己愛と利己(ナルシシズム)をきっぱり分ける。利己的な人は、実は自分を愛せていない。自分で自分を満たせないから、外から埋めようと貪欲になる。他人を思いやる余裕がないのは、自分への配慮が足りているからではなく、足りていないからだ。逆に、自分を一人の人間として引き受け、大切にできる人は、その配慮を他者にも差し向けられる。自分を愛せない者は、他者も愛せない。ここには、冒頭の「なぜ自分は愛されないのか」という問いへの、もう一つの角度からの応答がある。他人からの愛を数える前に、自分は自分を、あの四つの要素で扱えているだろうか。

4. なぜ現代は愛が難しいか——商品棚に並ぶ人

愛が能力だとして、なぜ現代の私たちはこんなに愛することが下手なのか。フロムはこの本の第三章で、時代そのものを疑う。

彼が見たのは、資本主義の下で、愛までが商品交換の形になっていく光景だった。人は労働市場で自分を売るように、恋愛の市場でも自分を値踏みする。容姿、収入、地位、人当たり——手持ちの条件を並べ、それに見合う「割のいい相手」を探す。二人が惹かれ合うのは、たがいの商品価値が釣り合ったと感じたときだ。フロムはこれを、愛ではなく等価交換だと見た。人は相手を、一個の人格としてではなく、いくつもの性質を束ねたパッケージとして眺める。そして自分自身も、市場に出す商品として磨こうとする。

そうして結ばれた二人は、しばしば世界に背を向け、自分たちだけの小さな砦に閉じこもる。フロムはそれを、二人だけの利己(égoïsme à deux)と呼んだ。孤独な二人が身を寄せて孤独をしのぐ。それは愛のように見えて、愛の反対のほうへ滑っているのかもしれない。愛は本来、一人の相手を通して世界全体へ開いていく力なのに、ここでは世界を締め出す口実になっている。二人でいることの安心が、外へ向かうはずの力を内側に閉じてしまう。

成功や地位や金が第一に置かれ、愛はそのあとに回される。この順番の中では、愛する能力を育てる時間も、その気も、細っていく。私たちが愛を下手にしているのは、私たち個人の欠陥だけではなく、私たちが生きている社会の形でもある——フロムはそう診断する。だからこの本は、心の持ち方を説くだけの本ではない。愛が難しいのは、一人ひとりの努力が足りないからだ、という話にはならない。むしろ、その努力の向け先を、社会ごと問い直そうとする。

5. 愛を習練する——規律・集中・忍耐・関心

最終章で、フロムはようやく「どうすればいいか」に近づく。ただし、彼の答えは処方箋ではない。こうすれば愛が手に入る、という保証はどこにもない。愛は技術だと言った以上、彼が説くのは、どんな技術の習得にも要るのと同じ、地味な条件だ。

規律。気分が乗ったときだけ手を動かすのではなく、日々の営みとして続けること。集中。一つのことに、一つの相手に、今ここで全部を向けること。忍耐。すぐに上達しなくても投げ出さないこと。そして、その技術そのものへの深い関心。これらは絵にも音楽にも要る。愛にも、同じだけ要る。技を磨くのに近道がないのと同じで、愛にも近道はない、というのがフロムの一貫した姿勢だ。現代人はこの四つが、とりわけ苦手だとフロムは見る。効率を急ぎ、気を散らし、結果をすぐに求める暮らしの中で、集中して一人といること、待つこと、続けることが、いつのまにか難しくなっている。

加えてフロムが挙げるのは、ナルシシズムを越えること、理性で相手をあるがままに見る客観性、そして信じる力だ。ナルシシズムを越えるとは、世界を「自分にとって役に立つか」だけで測るのをやめ、相手を相手の側から見ようとすることだ。信じる、というのは、根拠なく夢を見ることではない。相手の中にある可能性を、まだ形になっていないうちから信じ、育つのを待てること。そして何より、自分自身の愛する力を信じられること。それは受け身の待機ではなく、能動的な姿勢だ。愛は落ちてくるのを待つものではなく、自ら育てるものだ——冒頭のその見方に、ここでもう一度戻ってくる。

こう並べると、愛はずいぶん遠い頂のように見えるかもしれない。フロム自身、それが簡単だとは一言も書いていない。むしろ、真剣に取り組む人はほとんどいない、とすら言う。けれど、頂までの道は、いつも足元の一歩から始まる。素描の最初の一本の線を引くように。

おわりに

「なぜ自分は愛されないのか」と問う人へ、フロムはやさしい慰めを差し出さない。彼が差し出すのは、問いの向きを一つ変えることだ。「どう愛されるか」から、「愛せる自分であるか」へ。その能力は、受け取ることではなく、与えることに、いちばんはっきり現れる。

与えることは、遠い頂ではない。今日、相手を思いどおりに動かそうとする手を止めて、その人をあるがままに見ること。相手が本当に何を必要としているかを、うわべでなく知ろうとすること。四つの要素のどれか一つを、目の前の誰かに向けてみること。それは小さな一手で、一度では何も変わらないかもしれない。技術と同じで、続けるうちに少しずつ身についていく。うまくいかない日もあるだろうし、与えたつもりが空回りすることもあるだろう。それでも、正しい相手が現れるのを待つのと、自分から愛する力を鍛えていくのとでは、時間の過ごし方がまるで違ってくる。

相手を探す前に、自分の手が空っぽでないかを見てみる。空っぽなら、まず何かを蓄えるところから始める。フロムが一九五六年に書いたこの本は、愛されるための本ではなく、愛せる者になるための本だった。その違いに気づいたとき、人はもう、愛される相手を探すのではなく、愛せる自分を育てるほうへ、歩きはじめている。

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