G-0C41NE8DJB 『シン・ゴジラ』―ゴジラと政府、 並走する二つの進化|亀吉の呟き
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『シン・ゴジラ』―ゴジラと政府、 並走する二つの進化

『シン・ゴジラ』——ゴジラと政府、 並走する二つの進化
yoshiomi

東京湾アクアトンネル内で原因不明の浸水と爆発が起きる。 漂流していた小型ヨットの所有者は、 のちに本作の物語全体の出発点として浮かび上がる元東京大学農学部教授・牧悟郎 (まき・ごろう) だが、 この最初の場面では、 観客はまだ何も知らない。 庵野秀明総監督・脚本、 樋口真嗣監督による『シン・ゴジラ』 (2016) は、 こうして「何が起きているか分からない」 一点から始まる。

公開は 2016 年 7 月 29 日。 第 40 回日本アカデミー賞で作品賞・監督賞・脚本賞・撮影賞・照明賞・録音賞・編集賞の 7 部門最優秀を獲得し、 興行収入は 82.5 億円に達した。 怪獣映画としての興行的成功と、 政治・震災のメタファーとしての批評的評価が同時に成立した、 珍しい位置にある作品だ。 本作について書くとき、 中心に置きたいのは「ゴジラ」 と「政府」 という二つの観察対象が並走する構造だ。 ゴジラが第 1 形態から第 5 形態まで変質していくのと同じテンポで、 政府もまた「機能不全の会議体」 から「巨災対」 という異色の組織へと変質していく。 二つの進化が並走する映画として、 『シン・ゴジラ』 は組まれている。

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1. 機能不全の会議室——意思決定が「進化前」 で止まっていた時間

冒頭から映画の前半まで、 観客が長く見続けるのは官邸の会議室だ。 アクアトンネル爆発の報を受けて、 大河内清次総理 (大杉漣) を中心に閣僚たちが集まる。 内閣官房副長官の矢口蘭堂 (長谷川博己) が SNS の動画を見せながら、 「巨大生物の上陸の可能性」 を口にする。 その瞬間、 会議室の空気が一段冷える。 周囲の閣僚たちは「あり得ない」 と一蹴し、 議題は災害対応の話に戻っていく。

この前半の会議シーンの長さは、 本作の核となる観察対象を見せている。 視野狭窄、 思い込み、 責任の不在、 専門家の意見を遮る政治的判断——日本的組織の意思決定が抱える問題が、 静かなテンポで積み重ねられていく。 ゴジラが画面に現れる前から、 もう一つの「進化前の状態」 が画面に映っている。 政府という組織が、 まだ未知の脅威に対応できる形になっていない。

そして第 2 形態 (通称・蒲田くん) が品川・大田区方面に上陸する。 海洋生物の幼生のような姿で、 街を這うように進みながら、 ビルや車を蹂躙していく。 映画はこの瞬間に、 「ゴジラの最初の姿」 という驚きを観客に渡す。 と同時に、 会議室では「あり得ない」 と否定されていたはずの存在が、 実際に街を破壊している。 政府の認知と現実のあいだに横たわる溝が、 ここで一気に可視化される。

2. 不在の中心——牧悟郎という出発点

物語の地下水脈には、 一人の人物がいる。 元東京大学農学部教授の牧悟郎だ。 本作に彼の姿は映らない。 写真と、 彼が残した研究資料と、 海面に漂う小型ヨットの痕跡だけが、 観客に届く。 だが彼の存在がなければ、 ゴジラは東京湾に現れない。

牧は妻を放射能事故で失い、 助けの手を差し伸べなかった日本政府に対して、 静かに復讐を企てた人物として描かれる。 アメリカの研究施設からゴジラ (第 1 形態以前の生物) を持ち出し、 東京湾に放った張本人だ。 彼の私怨と行為が、 映画の始まる前にすでに完了している。 観客が見るのは、 そこから始まった後の世界だ。

牧悟郎は「不在の中心」 として、 物語の重力源になっている。 彼の私怨と行為は映画の始まる前に完了しているが、 その完了した行為が、 政府と街と巨災対を動かす重力として持続する。 牧は「過去から物語を仕掛けた人物」 として残り続け、 政府は彼の行為の結果を引き受けることになる。

牧の存在を映画が消さずに残したことが、 ゴジラを「自然災害」 でも「未知の脅威」 でもなく「人間が始めたもの」 として位置付ける。 ここに本作の倫理的な重心がある。

3. 巨災対の発足——進化する組織

会議室の機能不全を見続けてきた観客の前で、 ある転換が起きる。 矢口は「巨大不明生物特設災害対策本部」、 通称・巨災対の設置を提案し、 そのトップに就く。 集められるのは、 環境省自然環境局野生生物課課長補佐の尾頭ヒロミ (市川実日子) を始め、 厚労省・防衛省・経産省などから抜擢された「変人、 はみ出し者、 無能と呼ばれてきた者」 たちだ。

巨災対の会議室は、 前半の官邸の会議室とは違うテンポで動く。 専門用語が早口で飛び交い、 序列を意識しない発言が連続し、 意思決定が速い。 尾頭ヒロミがゴジラの生態を冷静に解析していく姿、 専門家たちが資料を広げて互いに口論しながら結論に向かう姿——カメラはこの組織の動きを、 ゴジラの破壊シーンと同等のテンポで切り取る。

ここで本作の構造が明確になる。 ゴジラの形態進化と、 政府の組織進化が、 並走している。 ゴジラが第 2 形態から第 4 形態へと進化していくのと、 政府が「機能不全の会議体」 から「巨災対」 へと進化していくのが、 同じ時間軸の中で起きている。 観客は二つの進化を同時に観察することになる。

赤坂秀樹 (竹野内豊) は、 矢口の旧友であり、 内閣総理大臣補佐官として政府の中枢に残る。 巨災対の外側から矢口を支える役割。 矢口が現場で動き、 赤坂が政府の制度の中で動く——二人の連携が、 もう一つの「進化」 を支える構造として描かれる。

統合幕僚長の財前正夫 (國村隼) も、 巨災対の動きに歩調を合わせる軍の側の人物として配置されている。 自衛隊の通常兵器ではゴジラを止められないことを早い段階で認識し、 政治の側にその事実を冷静に伝える。 タバ作戦の失敗の責任を引き受けつつ、 ヤシオリ作戦への協力を即決する財前の姿は、 進化する組織の一部として描かれる。 派手な台詞は無いが、 國村隼の演技の重さがこの脇役を画面の中に確かに立たせている。

4. ゴジラ第 4 形態——破壊の密度と、 もう一つの会議室

第 4 形態として鎌倉に再上陸したゴジラは、 東京を北上していく。 おなじみのゴジラの姿、 巨大化した体、 そして放射熱線——映画の後半は、 ゴジラの破壊シーンが連続する。 ビルが崩れ、 街が燃え、 ヘリが墜落する。 大河内総理 (大杉漣) ら閣僚多数が、 ヘリで避難中に放射熱線で命を落とす。

ここで観察したいのは、 破壊シーンの「迫力」 と、 巨災対の会議室の「緊張感」 が、 同じ映画の中で並走していることだ。 観客の感覚としては、 別々のものとして経験される——派手な視覚的衝撃と、 静かな思考の密度。 だが映画は、 この二つを同じ時間軸の中で交互に切り替えながら見せていく。 ゴジラが街を焼いている瞬間、 巨災対では牧悟郎の研究資料を解析している。 政府の中枢では、 里見祐介 (平泉成) 副総理が総理臨時代理となり、 政府機能を立て直そうとしている。

アメリカからは、 大統領特使としてカヨコ・アン・パタースン (石原さとみ) が日本政府と接触する。 カヨコは日系アメリカ人で、 政治家を目指す野心を持つ若い女性として描かれる。 彼女は牧悟郎の研究資料を矢口に渡す。 日本政府が単独では辿り着けなかった情報が、 米国経由で日本に戻ってくる。 国際関係の力学の中で、 ゴジラ対応もまた一つの政治的な駆け引きとして進行する。

国連はアメリカの提案を受けて、 ゴジラへの核攻撃を承認する。 都内住民の疎開が始まる。 ゴジラの脅威を止めるために、 もう一度核を東京に落とすという選択肢が、 国際社会から提示される——3.11 を経験した日本にとって、 これは映画の中でも最も重い場面の一つになる。

5. ヤシオリ作戦——血液凝固剤と無人列車

矢口と巨災対は、 牧悟郎の研究を解析する。 ゴジラの細胞構造、 血液の特殊性、 そして「凍結による動きの停止」 という可能性が浮かび上がる。 ヤシオリ作戦——古事記のヤマタノオロチ退治で使われた「八塩折之酒」 を名前の由来に持つ作戦——が立案される。

作戦の中身は、 段階的だ。 まず無人運転の在来線・新幹線をゴジラに向けて爆破させ、 ゴジラの体力を削ぐ。 続いて無人の戦闘ヘリ・爆撃機による攻撃でエネルギー消費を促す。 周囲のビルを爆破してゴジラを転倒させる。 そして最後に、 ポンプ車隊が口から血液凝固剤を注入し、 体内から動きを止める。

東京駅前で、 作戦が実行される。 無人新幹線が突進し、 ビルが崩れ落ち、 ゴジラが倒れる。 ポンプ車から凝固剤が注ぎ込まれる。 ゴジラ第 4 形態は、 東京駅前で動きを止める。 凍結に成功する。

この作戦の場面で映画が見せるのは、 ヒロイズムではない。 派手な英雄譚ではなく、 計画通りに段階を踏んでいく組織の動きだ。 矢口は現場で指揮を執るが、 ゴジラを倒すのは個人の力ではない。 在来線の運転士、 自衛隊員、 ポンプ車のオペレーター——多数の名もない人々の連動した動きが、 ゴジラを止める。 巨災対という組織と、 現場の専門家たちが、 連動した瞬間だ。

3.11 のとき、 福島第一原発のメルトダウンを止めようとした消防隊・自衛隊・東電作業員たちの放水車の光景が、 ヤシオリ作戦のポンプ車の場面に重なる。 映画は明示しないが、 観客の身体の中でこの重なりが起きるように、 場面は作られている。

そして、 ヤシオリ作戦の成功の場面に、 庵野秀明は 1954 年の初代ゴジラの音楽——伊福部昭が作曲したあのテーマ——を継承的に重ねる。 60 年以上前のゴジラ映画から続いてきた音楽が、 凍結の瞬間に静かに鳴る。 映画は新しいゴジラを描きながら、 同時に「ゴジラ」 という存在の歴史を引き受けている。 庵野秀明の作家論的な敬意が、 音楽の選択の中に込められている。

おわりに. 凍結した尻尾の異形——第 5 形態の予兆

ヤシオリ作戦は成功した。 ゴジラ第 4 形態は、 東京駅前で凍結したまま静止している。 政府は機能を取り戻しつつあり、 巨災対は次のフェーズへの対応を始めようとしている。 観客はそろそろ「終わったのだ」 と感じる準備をする。

そこで、 映画は最後のカットを置く。

凍結したゴジラの尻尾。 その先端に、 人の骨格を思わせる無数の異形が、 群がるように貼り付いている。 動いているとも止まっているとも見える、 人型サイズの異形たち。 株式会社カラーの公式記録集『ジ・アート・オブ シン・ゴジラ』 では、 この異形が「第 5 形態の雛形」 と説明されている。 飛翔能力を持つ、 人間大のゴジラとも呼ぶべき存在。

この最後のカットによって、 映画の意味は静かに反転する。 ゴジラの形態進化は、 第 4 形態の凍結で止まっていない。 まだ進化は続いている。 凍結によって動きを止めたのは、 ゴジラの一つの段階だけだ。 次の段階は、 別の姿で、 人型のサイズで、 飛んでくる。 ヤシオリ作戦は成功したのではなく、 「一時的に止めた」 だけだったのではないか——という疑念が、 観客の中に静かに残る。

ここに本作のもう一つの観察対象が浮かび上がる。 「次に起きうる国難への警鐘」 として。 3.11 という一つの出来事を経験した日本に対して、 庵野秀明は「次の国難はもう始まっている」 という静かな問いを投げかけている。 ゴジラの第 4 形態を止めたとしても、 第 5 形態は別の場所から、 別の姿で来る。 政府も、 組織も、 個人も、 進化し続ける必要がある——そういう問いが、 凍結した尻尾の異形のカットに込められている。

観終わった観客は、 ゴジラの破壊の迫力よりも、 凍結した尻尾の異形の残像を持ち帰ることになる。 「終わった」 のではない。 ただ、 一つの段階が止まっただけだ。 次が来る前に、 何をどう準備するか——その問いだけが、 観客のもとに残されている。

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こんにちは。亀吉です。 仕事の合間にブログを書いています。 このブログは、どこまでも個人的で恣意的な思想の表明です。思うままに・・・ 映画と本が好きです。その他音楽や登山など。
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