G-0C41NE8DJB 『桐島、 部活やめるってよ』——不在の中心が動かす、 五日間の屋上|亀吉の呟き

『桐島、 部活やめるってよ』——不在の中心が動かす、 五日間の屋上

『桐島、 部活やめるってよ』——不在の中心が動かす、 五日間の屋上
yoshiomi

ある金曜日の午後、 桐島がバレー部を辞めた。 映画はそこから始まる。 ただし、 桐島は最後まで画面に出ない。 観客が見るのは、 桐島がいないことを話す生徒たちの口元と、 桐島がいないことで動き始める他人の小さな焦りである。

吉田大八監督の『桐島、 部活やめるってよ』 (2012) は、 朝井リョウの同名小説 (2010、 第22回小説すばる新人賞) を原作にしている。 原作は連作短編形式の群像劇だったが、 映画は同じ五日間を視点を変えて反復するという独自の構造に作り変えられている。 金曜の桐島退部から、 翌週火曜の屋上まで——同じ時間が、 別の生徒の角度で何度も描き直される。

第36回日本アカデミー賞で最優秀作品賞・最優秀監督賞・最優秀編集賞。 公開から十年以上経って、 何度も再上映されている。 何度も観返したくなる映画にはタイプがいくつかあるが、 この映画は「最初に観たときに見えなかったものを、 二度目に発見する」 タイプの映画で、 一度では終わらない構造として作られている。

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1. 不在の中心——画面に出ない者が、 全員を動かす

桐島は登場しない。 学業優秀、 バレー部キャプテン、 学校のカースト最上位——そういう情報だけが、 他の生徒の会話の中で組み上がっていく。 観客は桐島の顔を一度も見ないまま、 桐島の輪郭だけを聞き取ることになる。

不在の人物が物語を動かす構造それ自体は、 文学にも演劇にも前例がある。 ベケットの『ゴドーを待ちながら』 のゴドーがそうだ。 主要人物が現れないまま、 周囲が現れない誰かを待ち続ける構造。 しかし『桐島、 部活やめるってよ』 が独特なのは、 桐島の不在が「謎」 として扱われていないことだ。 観客は「桐島はどこに行ったのか」「桐島は何を考えているのか」 を追わない。 追わないように構造が設計されている。

映画が見せるのは、 桐島がいなくなった後の周辺の動きだけである。 桐島の代理でレギュラーに上がった風助 (バレー部リベロ、 太賀) は、 実力差に苛立ちながら自分を追い込む。 桐島の親友だった菊池宏樹 (野球部の幽霊部員、 東出昌大) は、 桐島がいなくなったことで、 自分が「桐島の隣にいた誰か」 でしかなかったことに気付いていく。 映画部の前田涼也 (神木隆之介) は、 桐島とほぼ接点のないまま、 自分のゾンビ映画を撮り続ける。

それぞれの動きは独立しているように見えて、 桐島の不在によって生まれた小さな空白の周りで起きている。 中心は空白のまま、 周辺だけが動く。 この構造を、 映画は説明しない。 ただそう見せる。

桐島の彼女らしき女子生徒も、 桐島と連絡が取れない。 桐島の親友たちは、 桐島が抜けたことを電話やメールで知る。 観客は桐島を介した断片的な情報を、 他の生徒の表情から拾うことになる。 桐島が誰かを失望させたのか、 怒らせたのか、 単に去ったのか——それも明らかにならない。 観客の手元に残るのは、 桐島の不在が引き起こした波紋の形だけだ。

2. 視点の反復——同じ金曜日を、 何度も歩き直す

映画は時間軸を解体している。 同じ金曜の放課後が、 違う生徒の視点で何度も描き直される。 バレー部の練習風景、 教室の窓越しの会話、 廊下のすれ違い——観客はすでに見た場面に、 別の角度から再び立ち会うことになる。

一度目に見えなかったものが、 二度目に見える。 一度目に主役に見えた人物が、 二度目には背景になる。 そして三度目には、 一度目と二度目で気づかなかった誰かが、 同じ場面の隅にいたことが分かる。

この反復は、 観客に「全体像」 を与えるためではない。 むしろ逆だ。 何度繰り返しても、 観客は「桐島が何を考えていたのか」 を知ることはない。 反復が示すのは、 全員が他人の物語の脇役だったということ、 そして自分自身の物語ですら、 別の誰かから見ると脇役にしか見えていないということだ。

たとえば、 ある場面で野球部の宏樹が廊下を歩く。 一度目はそれが「主役の宏樹の場面」 として観客に届く。 だが別の章で同じ廊下を別の生徒が歩いていて、 そのとき宏樹は窓の外の背景に小さく映っているだけだったことが、 後から分かる。 観客は二度目の場面で、 「あ、 ここに宏樹がいた」 と気付く。 一度目の場面では中心だった人物が、 二度目には脇に追いやられている。

吉田大八監督の編集の力は、 この反復構造を観客が「窮屈」 と感じる手前で支えている。 同じ場面を見返すことが、 退屈の側でなく、 発見の側に倒れている。 第36回日本アカデミー賞で最優秀編集賞を獲った。

反復構造はもう一つの効果を持っている。 観客は同じ場面を別の角度から見ながら、 「自分も誰かの物語の脇役だったかもしれない」 という感覚を、 構造を通じて受け取っていく。 高校生活を思い出すとき、 自分が主役だった場面と、 自分が誰かの主役の脇にいた場面が混ざっている。 この映画の反復構造は、 その混ざり方を映像のレベルで再現している。

3. 屋上のサックス——下を見下ろす者の位置

ブラスバンド部の沢島亜矢 (大後寿々花) は、 一人で屋上に行ってサックスを練習する。 吹奏楽部の練習場は校舎内にあって、 他の部員はみなそこで練習している。 沢島だけが、 別の理由で屋上を選んでいる。 屋上から見下ろせるのは、 グラウンドにいる宏樹の位置だ。 沢島は、 宏樹を見るために屋上にいる。

この「自分で選んだ屋上」 が、 沢島という人物の物語の核を支えている。 沢島は宏樹を遠くから見ている。 宏樹は沢島の存在をほとんど認識していない。 一方的な視線の構造が、 沢島が屋上を選ぶという行為によって毎日反復されている。

沢島がサックスを吹く場面で、 観客は音楽の上手さを評価するわけではない。 むしろ、 音が上手いとか下手とかの判断とは別の場所で、 サックスの音は屋上から下のグラウンドまで届く——あるいは届かない——その距離の方を見ている。

下を見下ろす者の場所は、 全体を見渡せる場所だ。 だが同時に、 下にいる誰かに自分の存在を届けることが、 何より難しい場所でもある。 沢島の屋上は、 観察者の場所と、 届かなさの場所が、 一致している。

沢島がサックスを構えるとき、 楽器のリードを湿らせる仕草、 譜面を見ずに目を閉じて吹く瞬間、 一曲が終わったあとに楽器を膝に置いて校庭を見下ろす長い沈黙——その身体の動きの一つひとつに、 「届かない」 という感覚が宿っている。 サックスの音は遠くまで届くが、 沢島の存在は宏樹に届かない。 楽器の音域と、 人と人の距離は、 別の次元にある。

沢島の屋上は、 「桐島・宏樹のカースト上位」 と「前田の映画部」 のどちらにも属さない第三の位置だ。 ただしそれは部活の設定として用意された位置ではなく、 沢島が宏樹を見るために自分で選び取った位置だ。 中心と周縁の構造の外側で、 一人の生徒が一人の生徒を見ている。 そこから見えるものが、 この映画にもう一つの視線を与える。

4. 8mm カメラ——前田の手の中で動くもの

前田涼也は映画部に所属している。 8mm カメラを使ってゾンビ映画を撮っている。 学校のカースト構造の中では、 前田と映画部は最下位に位置している。

しかし、 前田には他の誰も持っていないものがある。 カメラだ。

カメラを持つ者の視線は、 持たない者の視線とは違う。 ファインダー越しに見える世界は、 肉眼で見える世界とは別の構造を持っている。 前田は学校の中で空気のような存在だが、 ファインダーを覗いているとき、 前田は「撮る側」 に立っている。

前田がカメラを構える仕草——肩に当てるための小さなクッション、 ファインダーに目を寄せる角度、 右手の人差し指でシャッターのレバーを軽く触れる動き——これらは、 学校生活の中で誰も見ていない前田の身体の動きだ。 カースト上位の生徒たちは自分が「見られている」 ことを意識して動く。 前田はカメラを構えながら、 自分は見られないまま「見る側」 に回っている。

桐島・宏樹のカースト上位の生徒たちは、 学校内では「見られる側」 だ。 自分たちの存在感を周囲が見ている、 その視線を背中に感じながら生きている。 前田たちは「見えない側」 だ。 誰の視線にも入らない場所で、 自分のゾンビ映画を撮っている。

この「撮る側」 と「見られる側」 の構造は、 学校のカースト構造とは別の軸を作っている。 カースト上位の宏樹は見られる側だが、 撮ることはしない。 前田は撮るが、 見られない。 この非対称が、 映画のラストで一瞬入れ替わる。

ところで、 前田には密かに気になっている相手がいる。 バドミントン部の東原かすみ (橋本愛) だ。 かすみはカースト上位の女子グループ——実果・梨紗・沙奈——の中にいながら、 グループの中心に同化しきらない。 ゴシップにも噂話にも、 一歩引いた距離を保っている。 グループの一員として教室に座りながら、 自分はそこに完全には属さない、 という静かな表情をしている。

ある日曜日、 前田はシネコンで塚本晋也の『鉄男』 を観るために、 かすみと偶然同じ上映に居合わせる。 シネコンという一見「コア」 とは無縁の場所で、 前衛映画を観ようとする二人だけが同じ列に座っている。 学校の中ではカースト構造の上と下に分かれている二人が、 学校の外の何でもない映画館で、 同じ映画を観るために同じ場所にいる。 上映後、 二人はぎこちなく映画の話をする。 この邂逅は劇的に描かれない。 だが映画の中で前田の場所を補強する小さな光のように置かれている。 学校のカーストを越えて、 映画好き同士が偶然出会う場所が、 学校の外側にはある。 前田はそれを知っている。

5. 視線の交わし——ゾンビと、 何者でもなくなった者

火曜日、 屋上で全てが鉢合わせる。 映画部はゾンビ映画のクライマックスを撮影している。 そこに、 野球部の宏樹と、 バレー部・カースト上位の生徒たちが上がってくる。 桐島を探して、 だ。

部活を辞めた桐島とは金曜以来連絡が取れない。 グラウンドにも教室にも、 桐島はいなかった。 ならば屋上に来ているかもしれない——そういう微かな期待を抱えて、 宏樹たちは階段を上がってきた。 桐島の不在を埋めるために動いていた者たちが、 桐島がいるかもしれない最後の場所を確かめに来た。 そして、 屋上にも桐島はいなかった。

代わりに屋上にいたのは、 ゾンビの扮装をした前田たちだった。

衝突が起きる。 映画部の小道具——巨大な発泡スチロールのメテオ——を、 バレー部の副キャプテン・久保孝介 (鈴木伸之) が「邪魔だ」 とばかりに蹴り出す。 前田たちはゾンビの扮装のまま、 必死で撮影を続けようとする。 そして、 前田は怒る。

「俺たちはここで戦うしかないんだ」——前田の覚悟は、 言葉になる前から、 ゾンビの顔の中ですでに動いている。 屋上のメテオが転がる音、 ゾンビとして演じる前田の白塗りの顔、 ファインダーを覗き続ける武文 (前野朋哉) の手——これらが、 言葉ではなく動作として、 観客に届く。

前田のゾンビの扮装は、 学校のカースト構造から見ると完全な「下」 の表現だ。 顔を白く塗り、 血のりを垂らし、 不格好に歩く。 学校のヒエラルキーから見れば、 笑われる側の姿だ。 だがそのゾンビが、 ファインダー越しに切り取られた瞬間、 別の質感を持ち始める。 カメラの中ではゾンビは作品の主役で、 屋上で必死に戦う者の顔をしている。

乱闘が一段落して、 カースト上位の生徒たちが屋上から去ったあと、 映画部は片付けを始める。 帰ろうとした宏樹は、 床に転がっていた前田のカメラのフードを拾い上げ、 前田に渡す。 そこで宏樹は前田に問いかける——「映画監督になりたいのか」 と。 前田はその問いに、 静かにこう答える。 「監督になんかなれるわけがない」。 そしてその答えの後で、 前田は自分が映画を撮る理由を、 嬉しそうに話し始める。

宏樹はそれを聞きながら、 なぜか涙を流す。

この瞬間が、 この映画の核心にある。 ゾンビの扮装をした前田と、 何者でもなくなった宏樹が、 屋上で視線を交わす。 カースト上位と最下位という構造が、 一瞬、 別の構造に置き換わる——「カメラを持っている者」 と「カメラを持たない者」 という、 別の軸の構造に。

宏樹は、 自分が桐島の隣にいた何者かでしかなかったことを、 屋上で気付く。 桐島を探して屋上まで上がってきた行為そのものが、 自分が桐島抜きでは存在できないことを示していた。 桐島がいる場所を確かめないと、 自分の場所も確認できない。 そういう自分が、 屋上にいる。 一方、 前田は桐島を探していない。 桐島を必要としていない。 自分のゾンビ映画の中に、 桐島とは無関係に「戦う場所」 を持っている。

宏樹の側に必要なのは「桐島」 という参照点であり、 前田の側に必要なのは「ゾンビ映画を撮るという行為」 そのものだ。 前者は何者かに支えられて成立する自分であり、 後者は何かをしているという行為で成立する自分だ。 桐島がいなくなった瞬間に、 宏樹の自分は揺らぐ。 桐島がいなくても、 前田の自分は揺らがない。 屋上で交わされた視線は、 この差を一瞬で互いに伝えてしまう。

視線が交わったあと、 宏樹は何も言わずに屋上を下りていく。

カースト上位の生徒たちは、 屋上から去る。 メテオは転がったままだ。 前田は白塗りの顔のまま、 ファインダーを覗く武文に「もう一回撮ろう」 と言う。 撮影は続く。 ゾンビ映画の中の戦いは、 屋上で起きた現実の小さな衝突を吸収して、 再開する。 観客はそのとき、 何が「現実」 で何が「フィクション」 なのか、 一瞬境界を見失う。 ゾンビとして演じる前田の戦いは、 ゾンビ映画の中でも戦いだが、 同時に屋上で起きた本当の戦いでもあった。

おわりに. 桐島はいない

火曜の夕方、 屋上のシーンは終わる。 沢島はサックスを片付ける。 前田たちは撮影機材を担いで校舎を出る。 宏樹はグラウンドに戻り、 野球部の練習音を背景に、 つながらない桐島に電話をかける。 桐島は、 最後まで現れない。

『桐島、 部活やめるってよ』 が宙吊りにしているのは、 桐島が誰だったかという問いではない。 「自分は何者か」 という問いの方だ。 宏樹は屋上で「自分は何者でもない」 ことを知った。 だがそれが解決された場面はない。 翌日も野球部の幽霊部員として、 グラウンドの隅にいる。

前田は屋上で「俺たちはここで戦うしかない」 と覚悟した。 だがそれが「成功」 として描かれることもない。 ゾンビ映画は撮影が続く。 完成するかどうかは、 映画の中では確認できない。

吉田大八監督の映画は、 桐島は何者か、 自分は何者か、 という二つの問いを、 屋上に置いたまま終わる。 観客はその両方を、 映画館を出てからもしばらく抱えることになる。

公開から十年以上が経った。 観返すと、 自分が高校生だったときの「桐島」 が誰だったか、 思い出すことになる。 それは特定の友人かもしれないし、 部活の先輩かもしれないし、 自分自身の中の「何者かになろうとしていた自分」 かもしれない。

校庭ではブラスバンド部が練習している。 体育館ではバレー部がボールを打つ音がする。 そこに桐島はいない。

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