G-0C41NE8DJB 『四畳半神話大系』―どの扉を開けても、同じ部屋が待っていた|亀吉の呟き
亀吉の書評

『四畳半神話大系』―どの扉を開けても、同じ部屋が待っていた

『四畳半神話大系』―どの扉を開けても、同じ部屋が待っていた
yoshiomi
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はじめに——選択という問いの、その前

四畳半一間。窓から入る光の角度も、壁の薄さも、隣室の気配も、どれほど選択肢を変えても変わらない。

森見登美彦の『四畳半神話大系』は、2004年に太田出版から刊行された小説だ。舞台は京都大学周辺。語り手の「私」は大学3回生で、腐れた学生生活を呪いながら、入学時の選択を悔やみ続けている。物語は同じ「入学」から始まる四つの並行する物語で構成され、映画サークル「みそぎ」、樋口師匠の弟子になる道、ソフトボールサークル「ほんわか」、秘密組織「福猫飯店」——それぞれ異なる選択をした「私」の数年間が繰り返し語られる。そしてどの選択をした「私」も、ほぼ同じ孤独に辿り着く。

この構造が問いかけてくることは、「どのサークルを選べばよかったか」ではないのかもしれない。もっと根の深いところにある。四つの「もしも」を実行した結果、孤独は変わらなかった——それはいったい何を意味しているのだろうか。選択が悪かったのか。選んだ人間が変わらなかったのか。それとも、どの扉を開けても同じ部屋に繋がっているという、構造そのものに問題があったのか。

この小説は、その問いに答えを返さない。答えの代わりに、四つの物語を並べて置く。読み終えたあと、「あのとき別の選択をしていれば」という自分自身の問いが、少し違う形をして戻ってくるような一冊だ。

1. 繰り返す物語——同じ孤独が、四度訪れる

並行世界を使う物語は、たいてい対比のために設計されている。ある世界では成功し、別の世界では失敗する。その落差が選択の重さを照らし出す。しかし『四畳半神話大系』は、その設計に乗っていない。

四つの世界で、「私」はそれぞれ異なる選択をする。映画サークルを選んだ「私」も、樋口師匠の弟子になった「私」も、ソフトボールサークルに入った「私」も、秘密組織に潜り込んだ「私」も——どの「私」も小津に絡め取られ、碌でもない企みに巻き込まれ、気づけば腐れた時間の中にいる。薔薇色のキャンパスライフを夢想しながら、その夢想の眩しさで現実を呪う日々が繰り返される。明石さんはどの章にも姿を現すが、「私」はどの世界でも彼女との距離を縮められない。選択肢が変わっても、「私」はほとんど同じ「私」でいる。

一度目に読んだとき、「そういう性格なのだ」と思うかもしれない。二度目は「またか」と感じるかもしれない。三度目で、何か別の問いが浮かび上がってくることになる。これはもしかすると、どう選んでも変わらない話なのではないか、という問いが。

「私」の自意識は、ここで一度触れておく必要がある。「私は入学当初より薔薇色のキャンパスライフを夢想してきた」——と「私」は繰り返す。その語りはいつも饒舌で、自己弁護と自己批判が奇妙に混在しており、自分の腐れた現状を徹底的に呪いながら、しかし呪う自分のことも密かに愛でているような、暑苦しい自意識で満ちている。小津の所為にしながら、どこか小津を手放したくない。明石さんのことを語りながら、近づく一歩を何度でも先送りする。「私」は自分の孤独の設計者でありながら、その建築に気づかないふりをし続けているのだろう。そのふりが非常に精緻にできていて、読んでいるこちらは「お前が悪い」と思いながら、それを言い切れない何かを感じるのだ。

選択肢の違いが結果を変えないとき、「もっといい選択があった」という問いの立て方は、少し違う場所に向かい始める。問うべきは選択の内容ではなく、なぜどの選択をしても同じ場所に辿り着くのかという、別のことなのかもしれない。物語が繰り返されるたびに、その重さは静かに積み重なっていくのだろう。

「薔薇色のキャンパスライフ」という定型句は、全章で繰り返される。最初はただの自嘲に見えるが、四つの世界を通過したあとに同じ言葉を見ると、もはや単純な自嘲には読めなくなっている。「私」がこの定型句を手放せないこと、それ自体が問いの一部になっているのかもしれない。夢想の形式が変わらないことと、孤独の形式が変わらないことのあいだには、何らかの関係があるような気がしてならない。

2. 自業自得の孤独——裁く手を止めたとき

「私」を読んでいると、裁きたくなる瞬間がある。なぜ動かないのか。なぜ言わないのか。なぜその判断をするのか。自意識だけが肥大して、行動が追いつかない。小津に振り回されながら、縁を断ち切ることもしない。明石さんへの気持ちを持ちながら、言葉にする場面を何度も手放していく。読んでいる側の目には、「私」の孤独は明らかに「私」が選んでいるように見えてくるのだ。

ただ、裁く手を一度止めてみたい。「私」が自業自得の孤独にいるとして、だからといって何が変わるのか、という問いがある。「お前が悪い」と言えたとして、それはこの小説が問うていることと、どこかでずれているのではないだろうか。

「私」は自分が悪いと、おそらく分かっているのだろう。分かっていながら抜け出せない——この感触は、「分かる」が解決の道具にならない状況を指している。「変わらなければ」と思いながら変われない状態は、意志の弱さだけで説明しきれないのかもしれない。人間の行動には、「分かる」と「できる」のあいだに、かなり広い領域があるように思える。それを「甘え」と呼ぶこともできるのだろうが、そう呼んだあとに何かが解決するわけでもないだろう。

さらに言えば、「私」は四つの世界で毎回異なる選択をしている。それでも辿り着く場所は似たようなものだ。これは「選択を変えても変わらないもの」が「私」の中にある、ということなのか。あるいは「選択を変えても変わらない構造」が「私」の外側にある、ということなのか。どちらで読むかによって、孤独の重力の向きが変わってくる。前者なら「私」の問題であり、後者なら「私」を包む何かの問題だ。

この小説の巧みさは、その問いをどちらかに決着させないことにあるのかもしれない。「私」を哀れむ理由も、裁く理由も、どちらも半分ずつ正当だ。ただ、同じ場所に座って、なぜここにいるのかを静かに考える——小説はそういう時間を読者に要求しているように感じられる。

「私」の孤独を個人の性格に帰責する読みと、構造に帰責する読みのあいだに、この小説は立っているのだろう。どちらかに決めることよりも、その問いをそのまま持ち続けることの方が、この小説との正直な付き合い方に近いのかもしれない。自業自得か、構造の問題か——その問いは、読み終えたあとも、自分自身のある場所を指し続けることになる。

3. 四畳半という空間——閉じた部屋と、閉じた街

「私」の下宿は、四畳半一間だ。狭い。壁が近い。荷物を置けば身動きが取れなくなる。この部屋が物語全体の象徴として機能しているのだが、興味深いのは四畳半と街の関係だろう。

外には街がある。大学がある。人がいる。「私」はそこに出ていく。出ていって、何かが起き、小津と碌でもない夜を過ごし、明石さんのことを考え、やがて四畳半に戻ってくる。外に出ても、「私」の孤独はほとんど変わらない。出町柳を歩いても、下鴨神社の境内を通り抜けても、鴨川の河原に座っても、百万遍の交差点を渡っても——街の中にいても、四畳半の中にいるのと似たような状態が続く。

この街の描かれ方は、観光の京都ではない。美しい場所として登場するのではなく、「私」が動き回る回廊の部品として配置されている。どれほど歩き回っても、同じ巡回に戻ってくる。逃げ場のない構造として、街がある。四畳半は一部屋だが、この街も「私」にとっては四畳半なのかもしれない。壁が四枚あるか、路地が無数にあるかの違いで、「私」の動ける範囲は変わっていないのかもしれない。

物語の終盤近く、四畳半が無限に増殖するシークエンスがある。「私」は部屋から部屋へと彷徨い、どこへ行っても同じ四畳半が続く。外に出ても四畳半。街を歩いても四畳半。別のサークルを選んでも四畳半。扉を開けるたびに、同じ部屋が待っている——この小説が最初から問い続けてきたことが、ここで最も直截な形をとるのだろう。

この増殖するシークエンスは、悪夢のようでもあり、同時に何か奇妙な解放感を伴っているように読めるかもしれない。どこへ行っても同じなら、どこへ行くかにこだわる必要がなくなるともいえるからだ。増殖する四畳半の中で、「私」はあるものに気づく。どこにでも存在した出口というものが、あったのだということに。四畳半は牢だったのか。それとも「私」がそこから出ようとしなかっただけなのか。あるいは出口はあったが、その探し方を「私」は知らなかったのか。このシークエンスが見せているのは、閉鎖空間の恐怖だけではないような気がする。

4. 小津という存在——悪友か、「私」の引力か

どの並行世界にも、小津は現れる。妖怪のような風貌と描かれているこの人物は、「私」をさまざまな企みに巻き込み、碌でもない方向へと引っ張る。「私」は小津のことを腐れ縁と思いながら、どの世界でも小津から離れることができない。

小津の機能はひとつではないだろう。物語を動かす推進力として機能している。「私」は自分から動かないが、小津が引っ張るので事態が動く。狂言回しとして、複数の章をまたいで物語に一貫性を与えてもいる。樋口師匠や羽貫さんとの繋がりも、多くの場合小津を経由している。こういう「接着剤」的な人物がいることで、並行世界の四つの物語は別々の話ではなく、同じ構造の反復として機能するのだろう。

ただ、小津の存在には別の読み方もできるのかもしれない。「私」が腐れた状況を呪うとき、その呪いの矛先はしばしば小津に向かう。小津のせいで、という思考の動きがある。その動きの中で、「私」は自分の選択の責任を小津という形に押し付けているのではないか、という観察が、どこかで浮かんでくる。

異なる選択をしたはずの「私」が、どの世界でも小津と出会い、小津と腐れ縁になっていく。「私」が小津を引き寄せているのか。あるいは小津という存在が「私」という人間の引力に引き寄せられてくるのか。小津が「私」の外にいる人間なのか、それとも「私」の内側にある何かが外側に投影された形なのか。

森見登美彦が小津を「樋口師匠の弟子」でもあるという形で書いたことは、面白いと思う。小津は「私」の悪友であると同時に、師弟関係の中にいる人物でもある。その二重性が、単純な「悪役」として処理できない複雑さを小津に与えているのだろう。どの並行世界でも同じ場所に現れ続ける小津は、「私」という人間の地図に最初から書き込まれていたのではないか、という読みが、章を重ねるごとに強くなっていく。

5. 並行する「私」——構造が問うていること

四つの物語が並行する、という形式自体が、この小説の問いになっているのだろう。読者は四つすべてを読む。どの「私」の体験も知りながら、最終的にどの「私」も似たような場所に辿り着くことを知る。「もし別の選択をしていれば」という想像を四通り実行した結果として、「別の扉を開けても、結果は似たようなものだった」という景色が広がることになる。

これを「どれを選んでも同じだから、選択に意味はない」と読むのは、おそらく正確ではないだろう。選択そのものは確かに起きている。それぞれの「私」はそれぞれの経験をしており、経験の細部は異なる。だが輪郭が最終的に似た形に収まるとき、「選択が問題だった」という分析は、少し違う場所に着地し始めるのかもしれない。

選択の外にある何か、あるいは選択よりも根の深い何かが、孤独の形を決めているとしたら。その「何か」が「私」の性格なのか、「私」を取り巻く構造なのか、あるいはその両方が絡み合ったものなのか——小説はそこへの答えを用意していない。ただ、四つの並行する物語を置くことで、問いをそのまま読者の前に立たせているのだろう。

ラストで、物語の構造そのものが反転する。「どこにでも存在した出口」が明かされる。これを単純な救済として読むのは難しいかもしれない。出口は最初からあったが、「私」はそれに気づかなかった。これは希望の話でもあるかもしれないし、別の問いの入り口でもあるかもしれない。出口に気づかなかったのはなぜか、という問いが、今度は「私」の方向に向く。

この構造を読んでいると、「あのとき」という記憶の扱い方について考えることになる。過去のある選択を「あれが悪かった」と特定できれば、物語は単純になる。だが四つの並行世界を経由したあとでは、その特定の根拠が揺らぎ始める。選択の内容ではなく、「私」がどんな選択肢の中でも同じように動く存在だったとしたら、問うべきことは別の場所にあるのかもしれない。

孤独の原因を「私」の性格に帰責することも、外側の構造に帰責することも、どちらも一部は正しく、どちらも全体を説明しきれない。その宙吊りの状態のまま、四つの物語は並んでいる。読み終えたあと、「あのとき別の選択をしていれば」という問いが、少し違う形をして戻ってくるとしたら、それはこの構造が機能しているということなのだろう。「もしも」の想像が別の問いに変わるまでの時間が、この小説の読後にあるのだろう。

おわりに——薔薇色の不在と、それでも続いた時間

どの選択肢を選んでも同じ孤独に辿り着く「私」は、実在しない特定の誰かではないのかもしれない。自分が悪いと分かっていても抜け出せない、理想と現実の落差を自分の手で埋めることができない、変わらなければと思いながら変わらない——こういう状態は、「私」に固有のものではないのかもしれない。

「あのとき別の選択をしていれば」という問いを、一度も持ったことがない人間は少ないだろう。進路の選択、人間関係の分岐、言えなかった言葉、踏み出せなかった一歩。過去のある地点に戻り、別の扉を開ける想像は、多かれ少なかれ誰もが持っているものではないかと思う。

この小説が問い返してくるのは、その想像の根拠だろう。別の扉を開けたとして、本当に別の場所に辿り着けたのか。もしどの扉を開けても同じ部屋に繋がっているとしたら、問うべきことは「どの扉を選ぶか」ではなく、別の何かになるのかもしれない。

薔薇色のキャンパスライフは、最後まで手に入らなかった。四畳半は四畳半のままだった。それでも「私」は、どの並行世界でも、それぞれの時間をそれぞれの重さで生きていた。小津と腐れた夜を重ね、明石さんのことを考え、樋口師匠に振り回され、その時間が蓄積されていった。どの選択肢の「私」も、等しくそこにいた。

読み終えてしばらくしてから、ある感覚が残ることになる。選択をやり直したい、という欲望の形が、読む前とわずかに変わっているような感覚が。別の選択肢がどこへ繋がっていたかを知りたい、という問いが、どの選択肢を選んでも「私」は「私」だったかもしれない、という問いの隣に、静かに並んでいる。

「私」は今日も四畳半で、薔薇色のキャンパスライフを夢想している。

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こんにちは。亀吉です。 仕事の合間にブログを書いています。 このブログは、どこまでも個人的で恣意的な思想の表明です。思うままに・・・ 映画と本が好きです。その他音楽や登山など。
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