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G-0C41NE8DJB 『自分の中に毒を持て』岡本太郎 — 「危険な道を選べ」は精神論ではない|亀吉の呟き
亀吉の書評

『自分の中に毒を持て』岡本太郎 — 「危険な道を選べ」は精神論ではない

『自分の中に毒を持て』岡本太郎 — 「危険な道を選べ」は精神論ではない
yoshiomi

書店の自己啓発の棚に、何十年も置かれ続けている一冊がある。岡本太郎『自分の中に毒を持て』。1988年に青春出版社から出て、いまも文庫で版を重ねている。第1章の見出しには「迷ったら、危険な道に賭けるんだ」とある。

この言葉だけを抜き出すと、よくある根性論に見える。迷ったら難しいほうを選べ、安全な道に逃げるな。そういう檄文として読まれ、実際に名言集の素材として何度も引用されてきた。岡本太郎といえば「芸術は爆発だ」のひと、太陽の塔を作ったひと、という像だけが先にあって、強い言葉だけが切り取られて回っている。

ただ、岡本太郎がどういう人間だったかをたどってから本文に戻ると、この「危険な道」という言葉の重さが変わってくる。これは思いつきの励ましではなく、岡本太郎自身がパリの10年と、縄文土器との出会いと、大阪万博の太陽の塔で、実際に通り抜けてきた方法だった。前半で人物像を、後半で本そのものを見ていきたい。

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§1 パリの10年 — 抽象でも具象でもなく、両方をぶつける

岡本太郎は1911年、漫画家の岡本一平と、小説家で歌人の岡本かの子のあいだに生まれた。父・一平は朝日新聞に「漫画漫文」を描き、母・かの子は仏教にのめり込みながら歌と小説を書いた。整った家庭というより、表現する人間が二人、別々の方向を向いて暮らす家だった。

18歳のとき、岡本太郎は一家とともにヨーロッパへ渡り、一人パリに残る。1930年から1940年、20代のほとんどを異国の一人暮らしの中で過ごした。

パリで岡本が身を置いたのは、絵の一つの流派ではなかった。当時のパリは抽象絵画の運動の中心で、岡本も「アプストラクシオン・クレアシオン」という抽象芸術家のグループに加わっている。モンドリアンやカンディンスキーといった、形を究極まで削っていく画家たちのそばに、二十代の日本人が一人いた。だが岡本は、そこにとどまらなかった。形だけを純粋に整えていく抽象は、どこかで装飾に近づいていく。その手前で、岡本は反対の方向へ引かれていく。

すぐ隣には、アンドレ・ブルトンを中心とするシュルレアリスムの磁場があった。無意識を掘り起こし、理屈の通らないものをそのまま画面に出す方向である。さらに岡本は、ジョルジュ・バタイユたちの社会学の研究会に出入りし、パリ大学ソルボンヌではマルセル・モースの民族学を学んだ。供犠や聖なるもの、未開とされた社会が持つ生のままの力。整った美の外側にあるものへ、岡本は手を伸ばしていった。形を消していく抽象と、無意識や根源を掘り起こす方向。本来は相容れない二つに、岡本は同時に片足ずつ置いた。1936年に描いた「傷ましき腕」は、1938年にブルトンが編んだシュルレアリスムの事典に載るほど評価された。

ここで岡本が掴んだのが、のちに「対極主義」と呼ぶ考え方だった。対立するものを調和させて一つにまとめるのではなく、対立したままぶつける。きれいにまとめないこと自体を、作品の力にする。「危険な道」という後年の言葉の中身は、すでにこのパリの10年で形になっていた。

§2 縄文土器との出会い — 「四次元との対話」

1940年、戦火の迫るパリを離れて岡本太郎は帰国する。まもなく召集され、陸軍の二等兵として中国の戦線へ送られた。31歳だった。30代のはじめの数年を兵士として過ごし、敗戦後は長安での半年ほどの俘虜生活を経て、1946年に復員する。画家としては、ほぼ振り出しに戻っている。

それでも岡本は、すぐに動き出す。1947年、「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」と言い切った。翌1948年には花田清輝たちと「夜の会」を作り、パリで掴んだ考えに「対極主義」という名前を与える。合理と非合理、調和と不調和を、どちらかに片づけず、対立したまま激しくぶつける。焼け跡から、岡本はこの一点で再出発した。

その対極主義が、足元の土の中から思いがけない裏づけを得る。戦後の岡本が日本で見つけ直したものの一つが、縄文土器だった。1951年、東京国立博物館で火焔土器の前に立った岡本は、その荒々しい造形に強く揺さぶられる。翌1952年、美術雑誌『みづゑ』に「四次元との対話——縄文土器論」を発表した。

それまで縄文土器は、考古学の資料か、せいぜい工芸品として扱われていた。岡本はそこに、左右の均整も整理も無視して、外へはみ出していく造形の力を見た。弥生以降の日本がよしとしてきた、すっきりと静かに整った美。その反対側に、非対称で過剰で、調和を拒んだ縄文の美がある。岡本の論はそう主張した。整えないこと、まとめないこと。パリで掴んだ対極の考え方が、今度は日本の足元の土から出てきた。

この縄文論は、のちに日本美術史の見方そのものを動かしていく。それまで資料でしかなかったものが、美の対象として裏返った。岡本にとって縄文は、過去の遺物ではなく、自分が選んできた「整えない」方向の、いちばん古い証人だった。

§3 太陽の塔 — 「進歩と調和」に「黒い太陽」をぶつける

岡本太郎の名前を全国に広げたのは、1970年の大阪万博だった。テーマは「人類の進歩と調和」。岡本はそのテーマ館のプロデューサーを引き受け、お祭り広場に太陽の塔を建てた。岡本がほしがったのは、立派なものでも美しいものでもなく、本人の言葉でいえば「ベラボーなもの」だった。理屈で受け入れられる範囲をはみ出して、見た人がたじろぐような造形。整った会場の真ん中に、その一本を立てようとした。

ここで岡本がやったことは、与えられたテーマへの素直な応答ではなかった。それどころか岡本は、「人類は進歩なんかしていない」「表面的な調和に意味はない」と、テーマそのものを正面から否定してみせた。会場には丹下健三が設計した巨大な大屋根が水平に広がっていた。岡本の塔は、その屋根を真下から突き破って、上へ抜けて立っている。整然と広がる近代建築の象徴を、内側から破って出てくる形である。

塔には三つの顔がある。頂部で未来を指す「黄金の顔」、正面の胴に開いた「太陽の顔」、そして背面に回ると、まっ黒い「黒い太陽」がある。過去をあらわす顔だ。「進歩と調和」という明るいテーマの裏側に、岡本は黒い顔を貼りつけた。進歩を素直に祝うのではなく、その裏に過去や根源や、整理しきれないものを並べて置く。国家をあげたお祝いの中心に、岡本は調和しないものをぶつけた。

太陽の塔は、パリの対極主義と、縄文の荒れた美が、そのまま巨大な立体になったものだった。だから後年の岡本が「危険な道」と書いたとき、その言葉はこの塔まで地続きでつながっている。

§4 76歳が書いた「危険な道を選べ」

ここまでの岡本太郎を踏まえて、『自分の中に毒を持て』に戻る。

この本が出たのは1988年、岡本が76歳のときである。亡くなる8年前にあたる。10年のパリも、縄文論も、太陽の塔も、すべて通り過ぎたあとの岡本が、若い読者に向けて語りかける形をとっている。本は四つの章でできている。第1章「意外な発想を持たないとあなたの価値は出ない」、第2章「個性は出し方 薬になるか毒になるか」、第3章「相手の中から引き出す自分 それが愛」、第4章「あなたは常識人間を捨てられるか」。副題はずばり「あなたは“常識人間”を捨てられるか」だ。章のタイトルからして、すでに対極がある。「薬になるか毒になるか」——個性をどちらか一方に片づけず、薬にも毒にもなりうるものとして並べて置く。パリでも縄文でも万博でも岡本がしてきたことが、本の目次の組み方にそのまま出ている。

人に直接ものを言う本を、岡本はこれが初めて書いたわけではない。1954年の『今日の芸術』は、芸術を専門家の手から引きはがして広く読まれたベストセラーだった。続く1956年の『日本の伝統』でも、岡本は、ありがたがって眺めるものになっていた「伝統」を、もう一度生きている人間の手に引き戻そうとした。それから三十年あまり、最晩年に出たこの本も、同じように専門の用語を使わない。難しい言葉で武装せず、面と向かって話しかけてくる。

語り口は、芸術論ではない。むしろ拍子抜けするほど直接的に、生き方の話をする。安全な道と危険な道があったら危険なほうを選べ。やりたいことがあるならいますぐやれ。うまくいくかどうかで決めるな。そういう言葉が、飾りなしで並ぶ。

ここで効いてくるのが、前半で見た岡本の人生だ。「危険な道を選べ」を、何もしてこなかった人が言えば、ただの威勢のいいかけ声になる。だが岡本は、安定した抽象の流派にも無意識を掘るシュルレアリスムにも片足ずつ置き、兵隊に取られ、戦後にゼロから縄文を掘り起こし、万博のテーマを正面から裏切る塔を建てた。本に書かれた言葉は、その都度ほんとうに危険なほうへ踏み込んできた人間の、最晩年の要約として読める。

§5 何を「毒」と呼んだか — 「成功」への懐疑

タイトルの「毒」とは何か。岡本太郎の言う毒は、他人を害するものではない。自分の中にある、世間とぶつかってでも出さずにいられないもの。常識やうまく立ち回る計算を裏切ってしまう、その人固有の何かを指している。この毒は、岡本の人生のあちこちに顔を出している。抽象の流派にとどまれなかったのも、弥生の静けさより縄文の荒々しさを選んだのも、万博のテーマに調和できなかったのも、同じ毒の仕業だ。出さずにいられないものを抱えた人間は、安全な場所に長くはとどまれない。

岡本のもう一つの有名な言葉、「芸術は爆発だ」も、ここにつながっている。1981年のテレビCMをきっかけに流行語になったこの一言は、しばしば破壊や暴発のイメージで受け取られた。だが岡本にとって爆発とは、壊すことではなく、生命が全身で一気に開ききることだった。抑えていたものを、こわごわ出すのではなく、ためらいなく出しきる。毒を持てというのは、その爆発の素を自分の中に飼っておけ、ということでもある。

この本がいまも読まれる理由の一つは、岡本が「成功」を一度も目的に置かないことにある。多くの自己啓発書は、最後はうまくいく方法、稼ぐ方法、認められる方法に着地する。岡本はそこを蹴る。むしろ、うまくいくかどうかで道を選んだ時点で負けだ、という言い方をする。結果が出るから挑むのではなく、結果がどうなろうと自分を賭けることそのものに重きを置く。うまくいかなくてもいい、無一物になってもかまわない、と岡本は繰り返す。失敗を避けることを生き方の真ん中に置いた時点で、いちばん大事なものが抜け落ちる。岡本の疑いは、そこに向いている。

これは、岡本が太陽の塔でやったことと同じ形をしている。万博のテーマに調和すれば、無難に評価されただろう。岡本はそれを選ばず、屋根を突き破る塔を建てた。「毒を持て」という言葉は、評価や成功という安全な着地点を、自分から手放せるかという問いかけになっている。

ただし、この本を名言だけ抜いて読むと、岡本の人生から切り離された「強く生きろ」の号令になってしまう。実際にそうやって消費されてきた面もある。前半の岡本をくぐってから読むと、同じ言葉が、号令ではなく一人の方法論の告白として見えてくる。

§6 2026年に、この本をどう読むか

2026年のいま、この本の言葉はそのまま使えるだろうか。

「危険な道を選べ」は、強い言葉だ。生活や家族や健康を抱えた人に、文字どおり危険なほうへ飛び込めと迫るのは、無責任にもなりうる。岡本太郎自身、芸術家という、もともと安全とは縁の薄い場所に立っていた。同じ言葉を、別の場所に立つ人がそのまま実行できるとは限らない。

それでも、この本が古びていない部分がある。岡本が繰り返し疑ったのは、「うまく立ち回ること」を最初の物差しにする生き方だった。損か得か、評価されるかされないか、その基準だけで日々の選択を決めていないか。岡本が突きつけたのは、危険なほうへ飛び込めという命令ではなく、自分はいつも安全で得なほうを反射的に選んでいないか、という問いのほうだ。命令は立つ場所を選ぶが、この問いは場所を選ばない。

太陽の塔は、いまも万博記念公園に立っている。半世紀以上たっても、背面の黒い顔は周りの景色に溶けない。岡本が本に残した言葉も、整った生き方のなかで溶けずに残るものを自分の中に持てるか、と聞いてくる。

おわりに

『自分の中に毒を持て』を、名言集として読むこともできる。実際そう読まれてきた。だが、岡本太郎という人間のパリの10年、縄文との出会い、太陽の塔をくぐってから本文に戻ると、「危険な道を選べ」は精神論ではなく、岡本が実際に歩いた道の名前だったとわかる。

岡本がいちばん強く刻んだのは、お祭り広場の屋根を突き破って立っていた塔の、背中の黒い顔のほうだ。明るいテーマの裏側に、整理しきれないものをわざわざ貼りつけたあの感覚を、自分の毎日のどこかに一つ残せるか。

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